グラム・パーソンズ
グラム・パーソンズ | |
---|---|
![]() グラム・パーソンズ(1972年) | |
基本情報 | |
出生名 | イングラム・セシル・コナー3世[1] |
生誕 | |
出身地 |
![]() |
死没 | |
ジャンル | |
職業 | |
担当楽器 | |
活動期間 | 1963年 - 1973年 |
レーベル | |
共同作業者 | |
公式サイト | Gram Parsons | Official website |

イングラム・セシル・コナー3世(英語: Ingram Cecil Connor III、1946年11月5日 - 1973年9月19日)は、グラム・パーソンズ(英語: Gram Parsons)の名で知られるアメリカ合衆国フロリダ州出身のシンガーソングライター。バーズのアルバム『ロデオの恋人』に参加し、カントリーロックという新たな流れを生み出したことで知られる[2]。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第87位にランクインしている[4]。
略歴[編集]
フロリダ州生まれ、ジョージア州育ち。ハーバード大学在学時にカントリーミュージックに入れ込んだ。
1966年にインターナショナル・サブマリン・バンドを結成、1968年にはアルバムを発表。その後バーズに加入し、『ロデオの恋人』に全面参加。グラムのカントリーの影響がバーズに新風を与え、カントリーロックというジャンルの確立に貢献した。また、ローリング・ストーンズのキース・リチャーズとは大変親交が深かった。
グラムは『ロデオの恋人』が発売される1か月前に突然バーズを脱退し、フライング・ブリトー・ブラザーズを結成。1969年に『黄金の城』、1970年に『ブリトー・デラックス』を発表した。キース・リチャーズとはこの頃から親交を深めた。フライング・ブリトー・ブラザーズのクリス・ヒルマンは「グラムは僕らとではなく、キースと一緒にいたかったんだよ」と語っている。グラムはバンドの南アフリカツアーを出発当日にキャンセルし、キースやストーンズのメンバーのスタジオを訪れていた。グラムはフライング・ブリトー・ブラザーズのストーンズの楽曲「ワイルド・ホース」を、ミックとキースの許可を得て、ストーンズのスティッキー・フィンガーズよりも1年前のセカンドアルバムの最終曲として発表している。
1970年には、ジャニス・ジョプリン、ザ・バンド、グレイトフル・デッド、バディ・ガイと共にカナダを鉄道で回るツアーを行う。その模様は、後に映画『フェスティバル・エクスプレス』として公開された。
その後、グラムはソロに転じ、1973年に初のソロ・アルバム『GP』を発表。ジェームズ・バートン(エルヴィス・プレスリーのバック・ギタリスト)、リック・グレッチ(元ブラインド・フェイス)、エミルー・ハリス等の豪華ゲストを起用した作品である。しかし、商業的に成功を収めることはできなかった。
ソロ第2弾『グリーヴァス・エンジェル』を制作するが、発売前の1973年9月19日、カリフォルニア州のジョシュア・ツリー国立公園そばのモーテルJoshua Tree Innの8号室で、麻薬の過剰摂取により死去。26歳没[5]。1974年になって、『グリーヴァス・エンジェル』は彼の遺作として発表された。
ディスコグラフィー[編集]
バーズ[編集]
THE FLYING BURRITO BROTHERS[編集]
ソロ[編集]
脚注[編集]
出典[編集]
- ^ “グラム・パーソンズ(Gram Parsons)の生涯――アメリカーナを確立させた立役者”. Mikiki. タワーレコード (2020年12月25日). 2021年4月3日閲覧。
- ^ a b Erlewine, Stephen Thomas. “Gram Parsons | Biography & History”. AllMusic. All Media Group. 2021年4月3日閲覧。
- ^ Chilton, Martin (2019年5月29日). “史上最高のオルタナ・カントリー・アーティスト10人”. uDicovermusic.jp. UNIVERSAL MUSIC JAPAN. 2022年1月2日閲覧。
- ^ “87. Gram Parsons”. 100 Greatest Artists. Rolling Stone (2010年12月3日). 2021年4月3日閲覧。
- ^ L.A. Weekly - The Cult of Gram Parsons Lives on in Joshua Tree