駿府城

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駿府城
静岡県
巽櫓(復元)
巽櫓(復元)
別名 府中城、静岡城
城郭構造 輪郭式平城
天守構造 不明(1589年築)
慶長1期(1607年再)
慶長2期(7階・1610年再)
(いずれも非現存)
築城主 徳川家康
築城年 1585年(天正13年)
主な改修者 徳川家康
主な城主

徳川氏中村氏

内藤氏(松平氏)
廃城年 1869年(明治2年)
遺構 石垣、堀
指定文化財 なし
再建造物 櫓、門
位置 北緯34度58分45.96秒 東経138度23分0.9秒 / 北緯34.9794333度 東経138.383583度 / 34.9794333; 138.383583
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駿府城の航空写真(1988年撮影)
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成

駿府城(すんぷじょう)は、静岡県静岡市葵区駿河国安倍郡)にあったである。別名は府中城静岡城など。

江戸時代には駿府藩駿府城代が、明治維新期には再び駿府藩(間もなく静岡藩に改称)が置かれた。

概要

14世紀に室町幕府駿河守護に任じられた今川氏によって、この地には今川館が築かれ今川領国支配の中心地となっていた。今川氏は隣接する甲斐国武田氏相模国後北条氏と同盟を結び領国支配を行ったが、16世紀には甲斐を中心に領国拡大を行っていた武田氏との同盟関係が解消され、武田氏の駿河侵攻により今川氏は駆逐され、城館は失われた。

今川領国が武田領国化されると支配拠点のひとつとなるが、武田氏は1582年(天正10年)に織田・徳川勢力により滅亡し、甲斐・駿河の武田遺領は三河の徳川家康が領有した。徳川氏時代に駿府城は近世城郭として築城し直され、この時に初めて天守が築造されたという。その後1590年(天正18年)には、豊臣政権による後北条氏滅亡に伴う家康の関東移封が行われ、徳川領国と接する駿府城には豊臣系大名の中村一氏が入城する(甲斐の甲府城にも、同様に豊臣系大名が配置されている)。

江戸時代初期、家康は徳川秀忠将軍職を譲り、大御所となって江戸から駿府に隠居した。このとき駿府城は天下普請によって大修築され、ほぼ現在の形である3重の堀を持つ輪郭式平城が成立した。天守台は、石垣天端で約55m×48mという城郭史上最大の天守台であった。しかし1607年(慶長12年)に、完成直後の天守や本丸御殿などが城内からの失火により焼失した。その後直ちに再建されたが、1610年(慶長15年)再建時の天守曲輪は、7階の天守が中央に建つ大型天守台の外周を隅櫓・多聞櫓などが囲む特異な構造となった。

1616年(元和2年)に駿府城で家康が没するまでの大御所政治時代、駿府は江戸と並ぶ政治経済の中心地として大いに繁栄した。

現在では、外堀と中堀の間にある旧三の丸には官庁や学校などの公共施設が立地し、中堀の内側にある旧本丸・二の丸は「駿府城公園」として整備されている。天守・櫓・門などの建造物は現存していないが、石垣と中堀・外堀が往時の姿を留めている。また近年、二の丸巽櫓・東御門(櫓門)と続多聞櫓が、更には明治時代に陸軍歩兵第34連隊を置くために埋められた内堀(本丸堀)が部分的に復元されている。なお2007年平成19年)現在、坤(ひつじさる)櫓の復元工事を行っている(石垣の発掘補強中)。

歴史・沿革

東御門高麗門(復元)
東御門櫓門(復元)
中堀
外堀

安土桃山時代

江戸時代

大御所政治時代

  • 1601年(慶長6年) 家康の異母弟・内藤信成が駿府城主に任ぜられる。
  • 1606年(慶長11年) 内藤信成が長浜城主に移封される。
  • 1607年(慶長12年)12月 失火により御殿・天守など本丸の全てを焼失。直ちに再建にかかる。
  • 1608年(慶長13年) 本丸御殿・天守等完成。
  • 1609年(慶長14年) 家康の第十子・徳川頼宣が駿府城主となる。
  • 1616年(元和2年) 家康死去(75歳)。

家康没後の江戸時代

  • 1619年(元和5年) 頼宣が和歌山城主に移封。
  • 1624年(寛永元年) 徳川秀忠の第二子・徳川忠長が駿府城主となる。
  • 1631年(寛永8年) 忠長が乱心、兄である徳川家光に改易と蟄居を命じられる。
  • 1632年(寛永9年) 忠長が高崎城で自刃。以後、駿府は江戸幕府直轄(天領)となり、駿府城代・駿府定番(副城代に相当)が置かれる。
  • 1635年(寛永12年) 城下の火災が城に延焼し、大半を焼失。
  • 1638年(寛永15年) 御殿・櫓・城門等が再建されるが、城主がいないため天守は再建されず。

近現代

天守

駿府城の天守は3度建てられた。まず、天正年間(1573年 - 1592年)または1589年(天正17年)に建てられた天正期天守。次が、1607年(慶長12年) の慶長1期天守で、この天守は完成後まもなく焼失した。最後は、その翌年から1610年(慶長15年)に再建された慶長2期天守である。1896年(明治29年) まで現存した天守台は、この慶長2期のものである。

天正期天守に関しては小天守があったという記録のみで、慶長1期天守も資料が少ない。そのため、現在主に研究対象とされているのは、駿府城最後の天守となった慶長2期天守である。大日本報徳社蔵の『駿州府中御城之図』より、淀城の天守と同じく天守台に余裕を持たせて天守をほぼ中央に建て、4隅に二重櫓を建てて多聞櫓を建て廻したという説が最も有力とされている[出典 1]。この説に対して、2階に廻縁高欄があること、家康が富士山の眺望を無視するはずがないことなどから八木清勝は疑問を指摘している[出典 2]

天守の外観は『慶長日記』や『当代記』などより次の事が判明している(なお、両文献も柱間は7尺間としている)。

  • 1階 - 10間×12間、四方に落縁
  • 2階 - 同上、四方に欄干
  • 3階 - 同上(9間×11間)、腰屋根は
  • 4階 - 8間×10間、腰屋根・破風鬼板白鑞製、懸魚・鰭・逆輪・釘隠は
  • 5階 - 6間×8間、腰屋根・懸魚・鰭・唐破風・鬼板は白鑞製、逆輪・釘隠は銀製
  • 6階 - 5間×6間(5間×8間)、屋根・破風・鬼板は白鑞製、懸魚・鰭・逆輪・釘隠は銀製
  • 7階 - (4間×5間)、屋根・破風は製、軒瓦は鍍金、懸魚・鰭・破風の逆輪・釘隠は銀製、筋・鴟吻・熨斗板・逆輪・鬼板は
※括弧内の記述は『武徳編年集成』による。

他に狩野探幽筆の『日光東照社縁起』に天守の最上階から下3重目までの外観が描かれている。また駿府築城の様子を描いたものとされる『築城図屏風』(名古屋市博物館所蔵)に三重櫓を伴う重層な天守が描かれているが、近年では、金沢築城の様子であるという説が有力視されている[出典 3]

遺構

堀・石垣

内堀は、発掘・復元された南東の一部と中堀との間を結ぶ水路を除いて完全に埋められて消滅しているが、中堀と東辺以外の外堀はほぼ江戸期の姿を残している。ただし、歩兵第34連隊が置かれた後に架けられた凱旋橋・城代屋敷跡付近の城代橋・静岡県庁本館前など、江戸期とは異なる箇所に架橋されている箇所がある。

中堀・外堀外縁の石垣・土塁は、安政大地震による崩落や明治以降の改変によって積み直されている箇所が多いが、大手御門の虎口や北御門跡などが往時の姿をよく残している。また、残存する石垣に天下普請を物語る刻印を確認することができる。

移築建築物

駿府城のお万の居間が移築され、静岡県三島市にある妙法華寺の奥書院として現存している。これが駿府城唯一の現存建築物であり、三島市文化財に指定されている。なお、一般には公開されていない。

駿府城代

駿府城代警護の大手門枡形跡
駿府定番警護の四足門跡石垣

駿府城代・定番

1633年(寛永10年) 、江戸幕府は徳川忠長が改易されて直轄領となった駿府に駿府城代を置き、東海道の要衝である当地の押えとした。駿府城代は老中支配で、駿府に駐在して当城警護の総監・大手門の守衛・久能山代拝などを管掌した。譜代大名の職である大坂城代とは異なり大身旗本の職であるが、老中支配の中では最高位の格式を持ち、御役知2000石、伺候席は雁間詰めであった。

また、1649年(慶安2年)に設置された駿府定番は、駿府城代を輔ける副城代に相当し、当城の四足門の守衛を担当した。駿府城代と同様に老中支配で、御役高1000石・御役料1500俵、芙蓉間詰めであった。

駿府在番・勤番

駿府城には、定置の駿府城代・駿府定番を補強する軍事力として駿府在番が置かれた。江戸時代初期には、幕府の直属兵力である大番が駿府城に派遣されていたが、1639年(寛永16年)には大番に代わって将軍直属の書院番がこれに任じられるようになった。その後約150年間、駿府在番は駿府における主要な軍事力として重きをなすとともに、合力米の市中換金などを通じて駿府城下の経済にも大きな影響を与えたとされる。

しかし1790年(寛政2年)に書院番による駿府在番が廃止され、以降は常駐の駿府勤番組頭駿府勤番が置かれて幕末まで続いた。この駿府勤番組頭・駿府勤番は駿府城代支配の役で、それぞれ御役高500石・御役料300俵と御役高300俵であった。

駿府城代支配

駿府城代支配の諸役としては、既述の駿府勤番組頭・駿府勤番の他に、駿府城内の武器・弾薬を管理する駿府御武具奉行交代寄合榊原氏が世襲で務めた久能山総門番などがある。

駿府城代は、こうした支配の諸役と駿府加番などで構成される駿府における番方(軍事・警備)の要として、駿府の庶政を掌る役方駿府町奉行とともに直轄地・駿府を幕末まで治めた。

歴代駿府城代

駿府加番

駿府加番は江戸幕府の職制で、大名1名と寄合旗本2名が交代で務める駿府城外の警護役である。駿府城外堀外縁を囲む3箇所に置かれ、詰所・鉄砲場・馬場他を備える広大な役宅を有した。当初は一加番(町口)・ニ加番(鷹乃森)の2箇所であったが、1651年(慶安4年)の慶安の変で首謀者・由井正雪が駿府城下で自害した事件を機に城外警備の強化が図られ、三加番(草深)が増設された。

現在は各屋敷に勧請されていた稲荷社のみが残存している。

大工棟梁

1610年(慶長15年)再建時の大工棟梁(大棟梁)は中井大和守正清であった。また、地元の大棟梁華村長左衛門尉正重とその子孫10代が、幕末まで同城の修復を手掛けている。

天守復元の検討

天守の構造について確定的な資料は発見されていない。このため、復元時に採用する構造については様々な立場から複数の案が出されている。

以下に代表的な例を挙げる(全て慶長2期天守の復元案)。

  • 内藤昌案 - 2階上に土瓦の腰屋根を追加し、3階上の屋根を白鑞瓦としている。3階上に大入母屋を載せ、6階と7階は同一平面規模(6階は破風部屋)の5重7階、後期望楼式。白漆喰壁(ただし柱型は黒色)で最上階に高欄を設けている[2]
  • 八木清勝案 - 2階上に土瓦の腰屋根を追加し、3階上と5階上に大入母屋を載せた6重7階、後期望楼型。白漆喰壁(ただし3階のみ黒色)で最上階に高欄を設けている。1階の玄関に大きな唐破風があるので、2階の高欄の一部が途切れている[3]
  • 宮上茂隆案 - 2階上に土瓦の腰屋根を追加し、3階上の屋根を白鑞瓦としている。5階上に大入母屋を載せ、6階と7階は同一平面規模(6階は破風部屋)の5重7階、後期望楼式。白漆喰壁[4]
  • 三浦正幸案 - 2階上に土瓦の腰屋根を追加している。6重7階の層塔式、壁面は黒色処理をした銅板張り[5]
  • 西ヶ谷恭弘案 - 2階上に土瓦の腰屋根を追加し、3階上の屋根を白鑞瓦としている。6重7階で白漆喰壁で、最初に後期望楼式[6]をその後に層塔式の案[7]を出す。
  • 平井聖案 - 5重7階の層塔式で、壁面は黒色(ただし、6重も考慮している)[8]
静岡市による検討

「静岡市駿府城天守閣建設可能性検討委員会」で有識者による検討会が8回にわたって行われた結果、2010年3月に天守復元をはじめとした城跡の公園整備についての提言がまとめられた。

これによると、公園整備は単なる観光目的ではなく「風格」のあるものとして整備することが望ましいとされている。また、天守など復元建築物については史実に忠実であるべきだが、確定的な資料も発見されておらず最低限必要な資料が揃っていないため現時点での復元は困難としている。一方で天守台については確定的な資料があるため、史実に基づく復元は可能という。

同委員会では、現時点で天守復元についての結論を得ることはできない現状とともに、まずは城跡としての文化財的価値についての理解や国による史跡指定が必要な段階としており、その観点から公園名を「駿府城公園」に変更することを提言している。[9]

現地情報

所在地
  • 静岡県静岡市葵区駿府城公園1番1号
交通

参考文献

  1. ^ 西ヶ谷恭弘監修『復原 名城天守』学習研究社 1996年
  2. ^ 平井聖監修『城 4 東海』毎日新聞社 1996年
  3. ^ 加藤理文ほか執筆『よみがえる名城 白亜の巨郭 徳川の城』学習研究社 2008年

脚注

  1. ^ a b 駿府公園の整備について - 静岡市
  2. ^ 『駿府城』 文化環境計画研究所編(該当部分は内藤昌) 駿府城再建準備委員会 2000 51~63頁、66~72頁
  3. ^ 『城 4 東海』 平井聖監修(該当部分は八木清勝) 毎日新聞社 1996 84~85頁
  4. ^ 『歴史群像 名城シリーズ7 江戸城』 宮上茂隆他 学習研究社 1995 67頁
  5. ^ 『よみがえる日本の城 11 駿府城 甲府城』 三浦正幸監修 学習研究社 2005 6~7頁
  6. ^ 『名城の「天守」総覧』 西ヶ谷恭弘監修(該当部分は大竹正芳) 学習研究社 1994 140~143頁
  7. ^ 『透視&断面イラスト 日本の城』 西ヶ谷恭弘監修 世界文化社 2009 259頁
  8. ^ 『名城物語 第3号 家康の城』 平井聖他 学習研究社 2009 口絵、16~17頁
  9. ^ 駿府城天守閣建設可能性検討委員会報告書 - 静岡市(2010年3月付、同年12月23日閲覧)

関連項目

外部リンク