コンテンツにスキップ

近衛天皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。ジャムリン (会話 | 投稿記録) による 2012年3月11日 (日) 12:37個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎略歴: 准母加筆)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

近衞天皇

元号 永治
康治
天養
久安
仁平
久寿
時代 平安時代
先代 崇徳天皇
次代 後白河天皇

誕生 1139年6月16日
崩御 1155年8月22日
近衛殿
陵所 安楽寿院南陵
体仁
父親 鳥羽天皇
母親 藤原得子
皇后 藤原多子
中宮 藤原呈子
皇居 近衛殿
テンプレートを表示

近衛天皇(このえてんのう、保延5年5月18日1139年6月16日) - 久寿2年7月23日1155年8月22日))は、日本の第76代天皇(在位:永治元年12月7日1142年1月5日) - 久寿2年7月23日1155年8月22日))。諱を体仁(なりひと)という。

系譜

鳥羽天皇の第九皇子。母は藤原得子(美福門院)。

系図

 
 
 
71 後三条天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
72 白河天皇
 
実仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
輔仁親王
 
篤子内親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
73 堀河天皇
 
覚行法親王
 
覚法法親王
 
媞子内親王
(郁芳門院)
 
源有仁
(有仁王)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
74 鳥羽天皇
 
最雲法親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
75 崇徳天皇
 
77 後白河天皇
 
76 近衛天皇
 
 
 
 
 
 
 

略歴

生母の得子が鳥羽上皇の寵愛を受けていたため、崇徳天皇の中宮・藤原聖子准母とし、わずか2歳で崇徳天皇に代わって即位した。治世中は鳥羽上皇が院政を敷いた。だが、病気がちで15歳の時には一時失明の危機に陥り、退位の意思を藤原忠通に告げたという(『台記』仁平3年9月23日条)。17歳で若死したため子は無く、鳥羽法皇が崩御すると皇位を巡って朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し、保元の乱が起こる。ちなみに、彼の死は藤原頼長の呪詛によるものという噂が流れたという[1]

后妃

在位中の元号

諡号・追号

兵範記』久寿2年7月27日条によると、葬礼の準備が進められる中で院号定があり、まず右大弁・藤原朝隆が「近衛院」を提案した。院号は邸宅に因むという原則があり、近衛殿は天皇の里内裏だった。しかし、藤原忠雅は近衛の字は追号に憚りがあるので「後陽明門院」ではどうかと発言した。忠雅はその理由を述べていないが、「近衛は天皇の護衛兵であり院号にふさわしくない」、「それならば近衛大路に通じ、別称でもある陽明門が良い」、「陽明門院は禎子内親王の院号としてすでに使用されているので、後の字を付けて区別する」という発想があったと推測される。これに対して藤原宗能は「天皇と天皇ならば前後の字があるべきだが、天皇と国母、男女の間では前後の字を付けた例はない」と反論し、当初の「近衛院」に決定した。

陵墓・霊廟

安楽寿院南陵

京都市伏見区竹田内畑町の安楽寿院南陵(あんらくじゅいんのみなみのみささぎ)に葬られた。

脚注

  1. ^ 口寄せによって現れた近衛天皇の霊は「何者かが自分を呪うために愛宕山の天公像の目に釘を打った。このため、自分は眼病を患い、ついに亡くなるに及んだ」と述べ、調べてみると確かに釘が打ちつけられていた。住僧に尋ねてみると「5、6年前の夜中に誰かが打ち付けた」と答えたという(『台記』久寿2年8月27日条)。