節分

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『吉田神社追儺』 - 都年中行事画帖(1928年)
葛飾北斎画:『北斎漫画
『節分の鬼』豆撒き

節分(せつぶん、または、せちぶん)は、各季節の始まりの日(立春立夏立秋立冬)の前日のこと。節分とは「季節を分ける」ことをも意味している。江戸時代以降は特に立春(毎年2月4日ごろ)の前日を指す場合が多い。以下、立春の前日の節分、およびその日に行われる各種行事について述べる。

概要

季節の変わり目には邪気(鬼)が生じると考えられており、それを追い払うための悪霊ばらい行事が執り行われる。

節分の行事は宮中での年中行事であり、『延喜式』では、彩色した土で作成した牛と童子の人形を大内裏の各門に飾っていた。

「土牛童子」ともいわれ、大寒の日の前夜の夜半に立てられ、立春の日の前夜の夜半に撤去された。 『延喜式』によれば、土偶(土人形の意)も土牛も、各門での大きさは同じで、土偶は高さ2尺で、方1尺5寸・厚さ2寸の板に立てる。 土牛は高さ2尺・長さ3尺で、長さ3尺5寸・広さ1尺5寸・厚さ2寸の板に立てる。 陽明門および待賢門には、青色のものを、美福門および朱雀門には、赤色のものを、郁芳門、皇嘉門、殷富門および達智門には、黄色のものを、藻壁門および談天門には、白色のものを、安嘉門および偉鑒門には、黒色のものを、立てる。 『公事根源』十二月には、「青色は春の色ひんかしにたつ赤色は夏のいろ南にたつ白色は秋のいろ西にたつ黒色は冬の色北にたつ四方の門にまた黄色の土牛をたてくはふるは中央土のいろなり木火金水は土ははなれぬ理有」とある。

これは、平安時代頃から行われている「追儺」から生まれた[1]

続日本紀』慶雲三年十二月の条によると706年(慶雲3年)にこの追儀が始まり(「是年天下諸国疫疾百姓多死始作土牛大儺」とある)、室町時代に使用されていた「の枝」への信仰にかわって、炒った豆で鬼を追い払う行事となって行った。

臥雲日件録瑞渓周鳳)』によると、1447年(文安4年)に「鬼外福内」を唱えたと記されている。

近代、上記の宮中行事が庶民に採り入れられたころから、節分当日の夕暮れ、の枝にの頭を刺したもの(柊鰯)を戸口に立てておいたり、寺社で豆撒きをしたりするようになった[1]

日付

節分の日付(未来は予測)
4で割った余り
1 2 3 0
1873年1884年 3日 3日 3日 3日
1882年1900年 2日 3日 3日 3日
1901年1917年 3日 4日 4日 4日
1915年1954年 3日 3日 4日 4日
1952年1987年 3日 3日 3日 4日
1985年2024年 3日 3日 3日 3日
2022年2057年 2日 3日 3日 3日
2055年2090年 2日 2日 3日 3日
2088年2100年 2日 2日 2日 3日
2101年–21??年 3日 3日 3日 4日

節分の日付は現在は毎年2月3日であるが、これは1985年から2024年ごろまでに限ったことであり、常にそうではない。

1984年までは、4年に1度の閏年2月4日だった。2025年から(2021年からになる可能性あり)は閏年の翌年に2月2日になる。グレゴリオ暦での最初の節分となった1873年から22世紀初頭までの具体的な日付は表のようになる(重複している年はどちらの欄を使っても正しい日付が出る)。節分の日付は数十年のスケールで徐々に前倒しになってくるが、4で割り切れても閏年とならない1900年2100年2200年……の翌年に1日遅れて帳消しとなる。

節分は立春の前日であり、立春は太陽黄経が315度となる日である。このように、間接的に天体の運行に基づいているので、日付は年によって異なり、また未来の日付は軌道計算に基づく予測しかできない。なお厳密には、基準とする標準時によっても節分の日付は異なるが、日本以外では節分を祝う風習がないので、旧正月のように国による日付の違いが話題となることは少ない。

行事

邪気を追い払う為に、この節分には古くから行事が執り行われている。

豆撒き

神社における豆撒きの様子
家庭の豆撒きで使用する豆とお面

豆を撒き、撒かれた豆を自分の年齢(数え年)の数だけ食べる。また、自分の年の数の1つ多く食べると、体が丈夫になり、風邪をひかないというならわしがあるところもある。豆は「魔滅」に通じ、鬼に豆をぶつけることにより、邪気を追い払い、一年の無病息災を願うという意味合いがある[1]。寺社が邪気払いに行った豆打ちの儀式を起源とした行事であり[1]室町時代の書物における記載が最も古い記載であることから少なくとも日本では室町時代以降の風習であると考えられる。初期においては豆は後ろの方にまくことが始まりだった。

豆を撒く際には掛け声をかける。掛け声は通常「鬼は外、福は内」であるが、地域や神社によってバリエーションがある。鬼を祭神または神の使いとしている神社、また方避けの寺社では「鬼は外」ではなく「鬼も内(鬼は内)」としている[1]新宗教大本は鬼神を「艮の金神国常立尊)」と解釈しているので、同じく「鬼は内」とする[2]。家庭内での豆まきに於いても、「鬼」の付く(比較的少数だが「鬼塚」、「鬼頭」など)の家庭もしくは鬼が付く地名の地域では「鬼は内」の掛け声が多いという。大名九鬼家の領地でも、藩主に敬意を表して「鬼は内」としている[3]。豆を神棚に供えてから撒く地方もある。

使用する豆は、お祓いを行った炒った大豆 (炒り豆) である。炒り豆を使用するのは、節分は旧年の厄災を負って払い捨てられるものである為、撒いた豆から芽が出ては不都合であったためであるという。 北海道・東北・北陸・南九州の家庭では 落花生を撒く場合もあるが、そうした合理性ではなく歴史を重んじる社寺や家庭では煎り豆を使用する(落花生は大豆より拾い易く地面に落ちても実が汚れない)[4]

かつては、豆のほかに、米、麦、かちぐり、炭なども使用されたという。豆撒きとなったのは、五穀の中でも収穫量も多く、鬼を追い払うときにぶつかって立てる音や粒の大きさが適当だったからとする説もあるが定かではない。

節分の時期になると、多くのスーパーマーケットでは節分にちなんだコーナーが設けられ、その中で福豆(ふくまめ)として売られている。厚紙に印刷された鬼の面が豆のおまけについている事があり、父親などがそれをかぶって鬼の役を演じて豆撒きを盛り上げる。しかし、元来は家長たる父親あるいは年男が豆を撒き鬼を追い払うものであった[1]

小学校では5年生が年男・年女にあたる。そのため、5年生が中心となって豆まきの行事を行っているところも多い。神社仏閣と幼稚園保育園が連携している所では園児が巫女稚児として出る所もある。相撲力士を招いて(醜・しこ・四股を踏む事により、凶悪な鬼を踏みつけ鎮める悪魔祓いをする)豆撒きをする社寺もある。

節分お化け

お化けと呼ばれる事もある。一説では、当初は子供の様な格好をしたことから「お坊髪」と呼ばれ、それが「お化け」になったともされている。

厄払いの為に、節分の日に普段と違う服装で社寺参拝を行う。いつもと違う扮装をすれば、魔を追い払うことが出来る、と信じられたことから始まったもの[1]

東京の浅草、京都の花街、大阪の北新地などでは、芸者舞妓芸妓)やホステスが、節分の前後に通常の芸妓衣装ではない、様々な扮装をする。

恵方巻

日本の節分祭・節分会

節分会は、「せつぶんえ」と読む事がある。

脚注

  1. ^ a b c d e f g 鈴木昶「くすりと民俗2:疫病追い出す節分」『月刊漢方療法』第12巻第11号、2009年2月、p.p.74-76。 
  2. ^ #金光と大本122頁
  3. ^ #金光と大本123頁
  4. ^ [1]

参考文献

  • 丸山照雄『現代人の宗教3 金光と大本 教典その心と読み方御茶の水書房、1986年7月。ISBN 4-275-00686-0 

関連項目