無罪推定の原則
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無罪推定の原則(むざいすいていのげんそく)とは、「何人(なんびと)も有罪と宣告されるまでは無罪と推定される」という、近代法の基本原則である。
定義
狭義では刑事裁判における立証責任の所在を示す原則であり、「検察官が被告人の有罪を証明しない限り、被告人に無罪判決が下される(=被告人は自らの無実を証明する責任を負担しない)」ということを意味する(刑事訴訟法336条など)。
広義では(建前としては)、有罪判決が確定するまでは、何人も犯罪者として取り扱われない(権利を有する)ことを意味する(国際人権規約B規約14条2項など、「仮定無罪の原則」という別用語が用いられることもある)。
「無罪の推定」という表現が本来の趣旨に忠実であり(presumption of innocence)、刑事訴訟法学ではこちらの表現が使われる。
この原則は刑事訴訟における当事者の面から表現されている。これを裁判官側から表現した言葉が「疑わしきは罰せず」であり「疑わしきは被告人の利益に」の表現から利益原則と言われることもあるが、上述の通り、「疑わしきは罰せず」より無罪の推定の方が広い。
根拠
日本では「被告事件について犯罪の証明がないときは、判決で無罪の言渡をしなければならない」と定める刑事訴訟法第336条は、「疑わしきは被告人の利益に」の原則を表明したものだと理解されている。
また、法律の適正手続(デュー・プロセス・オブ・ロー)一般を保障する条文と解釈される日本国憲法第31条の
に無罪推定の原則(狭義)が含まれると解釈されている[1]。
もっとも、「無罪の推定」(英: presumption of innocence)は、「疑わしきは被告人の利益に」(ラテン語: in dubio pro reo)の原則より広く、被疑者・被告人は、有罪の犯人と区別し、むしろ無辜の市民として扱われるべきだという意味として捉えられており(広義の推定無罪の原則、別名「仮定無罪の原則」)、国際的にも定着している。
これは、国際人権規約にも明文化されており、日本も批准している。そのB規約第14条2項は「刑事上の罪に問われているすべての者は、法律に基づいて有罪とされるまでは、無罪と推定される権利を有する。」と、権利の形で明確に保障している。
歴史
制度化の歴史
近代法制以前、無罪推定の原則を定めたのは、バビロニア(現イラク南部)のハンムラビ王が公布した世界最古の法典『ハンムラビ法典』であり、これが他の文明社会にも伝播していった[2]。したがって、西アジアに始まる法原則であり、ヨーロッパ発祥ではない。
と規定されたのに始まり、現在では、市民的及び政治的権利に関する国際規約第14の2や、人権と基本的自由の保護のための条約第6条など各種の国際人権条約で明文化され、近代刑事訴訟の大原則となっている。
報道・一般国民の感覚と無罪推定
推定無罪は、元来、国家と国民との関係を規律する原則であり、報道機関を直接拘束しないとも考えられている。しかし、推定無罪は、裁判所・検察官を規律する、証明責任の分配ルールである「疑わしきは被告人の利益に」の原則に留まらず、「有罪判決が確定する」までは容疑者・被告人は無辜の市民に近づけて扱われるべきだという人権保障の原理であるとの理解が一般的で、かつ国際的にも定着していることから、私人である報道機関による報道被害も推定無罪との関係で語られるようになってきている。
無罪推定報道の有名無実化の原因
日本で無罪推定の原則が有名無実化していることについては、いくつかの原因が挙げられる。
- 罪名や動機にかかわらず、警察が逮捕した被疑者の実名や年齢、職業をほぼ例外なく報道すること(少年や精神異常者などの例外はあるが、実名報道に対する罰則は全くない)。
- 時には、不起訴処分または「無罪が確定」してもなお、犯人視して実名を報じてしまうケースもある。
- 捜査機関の逮捕・起訴に対する慎重な姿勢があるとされること(いわゆる「精密司法」) 。証拠が不十分な容疑者の逮捕・起訴が行われないこと自体は悪いことではないが、その結果「逮捕・起訴される人物は証拠がある人物」という理解が生じた。
- 地方裁判所に起訴された刑事事件の99%以上に及ぶ有罪率の高さ(執行猶予付きの有罪判決も含む)。
- 一審で無罪判決が言い渡されたとしても、検察側にも控訴する権利があるため、控訴に持ち込まれると二審以降で「逆転有罪」になる可能性も排除できない。
- マスメディアによる犯人視報道
- 大衆意識のレベルでの、捜査機関と裁判官の役割分担についての認識の不十分さ
- 犯罪を取り上げた警察ドラマの影響(あらかじめ犯人が設定されていないと物語が成り立たず、また被疑者を逮捕した時点でテレビドラマが終結してしまう)
- 被疑者や被告が有罪であると決めつける、または立証するのは容易だが、逆に無罪を立証するのは極めて困難であること(客観的な物的証拠が存在し、また、本人が犯行を自白した場合を除く)。
- 逮捕や起訴されただけで、(有罪が確定する前であっても)懲戒解雇などの懲戒処分がしばしば行われ、逮捕・起訴された者の社会的地位が不可逆的に奪われる。
- 仮に「無罪が確定」しても、再就職が容易に進まない(これには、「無罪の推定に対する認識の不十分な国民が、逮捕・起訴された社員を解雇しない組織を非難するからという堂々巡り的要素もある」)
- インターネットによる私刑の大衆化。
などがある。
日本の刑事司法手続では、警察が逮捕するまでに捜査を綿密に行い、十分な嫌疑があるまでは逮捕しないことが多いとされてきた。その結果、犯罪の嫌疑がないとして不起訴処分がなされる率は諸外国に比して少ない。また、検察官に送検されても、検察は有罪判決をほぼ確実に得られる程度の証拠が揃わない限り起訴を控えるとされる(起訴便宜主義)。
さらに、裁判官は検察・警察に有利な心証を抱いており、「疑わしきは罰せず」を適用すれば無罪になるケースでも、有罪判決が出やすい。つまり、一度起訴されれば、検察側によほど大きな矛盾があるか、真犯人が別に発見されない限り検察・警察を信用する。その結果、起訴された場合には、99%以上(ほぼ全て)の被告人が有罪判決を受ける傾向がある。
これらを事態推移的に見ると、「○○△△容疑者を逮捕」の報道がなされた被疑者には、ほぼ確実に「○○△△を有罪にする」のと同様な報道がなされることになる。すると、警察や国民はすぐさま「逮捕=犯罪者」と思い込むことになる。
また、マスコミはこのような事情を考慮せず、むしろ捜査機関の発表に迎合して報道を行う(特に成人の被疑者のほぼ全員を実名で報道している)。「メディア・パニッシュメント」と揶揄される警察・マスメディアの犯人視報道であり、無罪判決が確定してから匿名に切り替えたとしても、名誉回復が困難となるのが現状である。また日本では、無罪判決が出た際に、「過去の犯人視報道は間違っていた」とマスコミが公式に謝罪や表明することもない。
山本七平は「『派閥』の研究」(文春文庫、1985年初出)において、「日本は法治国家ではなく納得治国家で、違法であっても罰しなくとも国民が納得する場合は大目に見て何もしないが、罰しないと国民が納得しない場合は罰する為の法律探しが始まり別件逮捕同然のことをしてでも処罰する」と述べ、「無罪の推定など日本では空念仏同然で罰するという前提の上に法探しが始まる」としている。
報道における推定無罪の有名無実化
マスコミにおいては、一般名詞の「容疑者」(被疑者)の呼称を積極的に「犯人」の意味で使用する場合がある。
例えば、「容疑者は銃を持ったまま逃走中」(銃刀法で拳銃の単純所持自体が厳罰にされている以上、「銃を持った」時点で既に犯罪者である)「容疑者の疑いがある男性」(そもそも容疑者とは疑いがあることを言う)といった記事がなされることもある。このような用法は明らかに誤用である。
被疑者が連行される場面を放送することも犯人の印象を植え付けやすい。
一部の新聞では、被害者の写真は丸、被疑者の写真は四角という区別がされることがある。昭和30年代までは顔写真の形状と人物の善悪はあまり関連性がなかったが、昭和40年代に入り、新聞社は経済成長に合わせて読者の獲得を狙い社会面を中心とする増ページを行なった[3]。社会面は顔写真を相当必要としたが、当時は鉛活字を1本1本拾って版を組む大組み処理で新聞が作られていた時代で、製版した親指の先ほどの顔の見分けは中々つきにくいので、形状で顔写真を間違えないよう区別するようになり、それが今日まで存続していると言われている[3]。
マスコミによる容疑者・被告の使用例
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「容疑者」の呼称は原則として逮捕された被疑者にしか用いられていないが、時折、一部もしくは大半のマスメディア(特にキー局)やNHKでは「容疑者(被疑者) = 有罪(犯罪者)」と決めつけられることによるイメージダウンを避けるべく、一部の有名人または職業に限り「○○容疑者」の呼称を用いない場合がある[4]。
例としてSMAPの稲垣吾郎が、2001年8月に駐車違反を巡る道路交通法違反と公務執行妨害罪で逮捕された事案に関して、新聞は「稲垣容疑者」と呼称したが、特に、フジテレビは「稲垣メンバー」とした[5][注釈 1]。
また、島田紳助が2004年11月に、当時自身が所属していた吉本興業の女性マネージャーの首を殴って頸椎に捻挫を負わせたとして傷害罪で書類送検された事案に関して、「島田紳助容疑者」との呼称を用いられたり、「島田紳助氏」、「島田紳助さん」に加え「島田紳助司会者」、「島田紳助(所属)タレント」などの呼称が用いられ、メディアによって呼称が分かれた[4]。
これらの事例について、読売テレビアナウンサーの道浦俊彦は、自身のコラムで「『メンバー』などの不自然な呼称を付けるのは、実名に肩書きを付けて報道するのが原則の在宅捜査に切り替わるにあたり、適当な呼称が存在しないからであり、芸能プロの圧力ではない」と述べている[5][注釈 2]。
2001年9月11日に起きたアメリカ同時多発テロ事件の首謀者とされるオサマ・ビンラディンは、同事件の被疑者として国際指名手配されている際に「ビンラディン氏」と敬称付きで報道されてきたが、かねてからジョージ・W・ブッシュ政権を全面的に支持する姿勢を鮮明にしていた『読売新聞』はいち早く「(ウサマ・)ビンラーディン[注釈 3]」と呼び捨てで報道し、2004年10月29日にビンラディンがビデオで同事件への関与を認めると、マスメディアは一斉に「ビンラディン容疑者」に変更した。さらに『読売新聞』は、ビンラディンと同じく反米の急先鋒的存在だった旧イラク共和国最後の大統領サッダーム・フセインも「(サダム・)フセイン」と呼び捨てで報道しており、G.W.ブッシュ政権に対する熱烈な支持およびフセイン政権に対する強い敵意をはっきりと示唆していた。その一方で同新聞は、同じく反米敵対姿勢を明確に打ち出しているISILの指導者アブー・バクル・アル=バグダーディーについては「(アブバクル・)バグダーディ[注釈 4]容疑者」と呼び捨てせずに報道している。
また、容疑者は呼び捨てにされるのが一般的だったロッキード事件の頃に、田中角栄が「田中元首相」と「容疑者」ですらなく他の首相経験者と同様の表記をされていた例がある[注釈 5]。
公共放送のNHKにおいても、会社社長、役員、公務員(警察官、自治体職員など)など明確な役職を持っている(持っていた)被疑者・被告人に関して、最初に「会社社長の○○容疑者」と呼び、その後、辞職(辞任)・懲戒解雇(懲戒免職)された場合は一貫して「○○(元)社長」、「○○(元)巡査」「元○○で無職」のように「役職」(肩書き)をつけて報道することがしばしばみられる。被疑者が無職または専業主婦・自営業・平社員(またはフリーター)など適当な役職名がつけられない場合は従来通り「○○容疑者」の呼称のみを用いている。また居住地を持っていても逮捕時は「○○在住の△△(職業)、××容疑者」と報じられても起訴時は「住所不定無職(あるいは元△△)、××被告」と報じられることもある[6]。
現行犯逮捕における扱い
日本の法制度上、逮捕を執行した者が被疑者の犯罪事実を現認していることが多い現行犯逮捕においてもまた推定無罪が適用される[注釈 6]ため、「○○の疑いで現行犯逮捕」と、一見すると矛盾しているかに見える表現を使用するマスコミが多い。この点について、読者・視聴者に疑問を抱かせないことを重視し、「○○で現行犯逮捕」、「○○の現行犯で逮捕」などと表現する社もあるが一部に留まる。
脚注
注釈
- ^ 逮捕直後の時点では「稲垣容疑者」だったが、不起訴処分で釈放された後に「稲垣メンバー」の呼称が用いられるようになった
- ^ なお「適当な呼称を出して全ての容疑者に適用する」という動きはマスコミには存在しない。
- ^ 『読売新聞』は「ウサマ・ビンラーディン」と表記している。
- ^ 『読売新聞』は「バグダディ」ではなく「バグダーディ」と表記している。
- ^ ただしこの場合、たとえば田中と福田赳夫の会談などを報じる際に「田中容疑者と福田元首相が会談」ではあまりに不自然という事情もある。
- ^ 現行犯逮捕であっても、裁判で有罪になるとは限らない。実際執行者が犯人を誤認したり、犯人に故意がなかったり責任能力に問題があるなどの理由により不起訴になったり、無罪判決を受ける可能性もある。
出典
- ^ 渋谷秀樹 2017, p. 194.
- ^ ロイド, クリストファー 著、野中香方子 訳『137億年の物語 宇宙が始まってから今日までの全歴史』文芸春秋、2012年、158頁。ISBN 9784163742007。
- ^ a b 小林弘忠『新聞報道と顔写真…写真のウソとマコト』中央公論新社〈中公新書〉(原著1998年8月)、162-164頁。ISBN 9784121014313。
- ^ a b ◆ことばの話1960「紳助所属タレント」、道浦俊彦の平成ことば事情、2004年11月8日。
- ^ a b ◆ことばの話426「稲垣メンバー」、道浦俊彦の平成ことば事情、2001年10月2日。
- ^ 死亡女性に薬物譲渡の疑い…押尾学容疑者2度目の逮捕。 2009年12月7日 16:33 Sponichi Annex 2017年7月3日閲覧
参考文献
- 渋谷秀樹『憲法』(第3版)、2017年5月。ISBN 978-4-641-22723-1。
関連項目
- 推定(法律)
- 日本国憲法第31条
- 無罪
- 疑わしきは罰せず
- 裁判を受ける権利
- デュー・プロセス・オブ・ロー
- 精密司法
- 実名報道
- 呼び捨て報道訴訟 - 犯罪被疑者が呼び捨てで報道されることについて無罪推定に反すると訴えた事件
- 岩手17歳女性殺害事件 - 被疑者家族が公開指名手配は無罪推定に反するとして訴訟を提起した
- 報道におけるタブー