山一證券

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山一證券株式会社
Yamaichi Securities Co., Ltd.
ファイル:Yamaichi Securities logo.svg
かつて山一證券本社だった茅場町タワー
(東京都中央区新川
種類 株式会社(解散)
市場情報 東証1部: 8602
略称 山一
本社所在地 東京都中央区日本橋兜町12番1号
設立 1897年明治30年)(創業)
2005年平成17年)(解散)
業種 証券、商品先物取引業
金融機関コード 9522
事業内容 証券業
代表者 野澤正平(代表取締役社長)
主要子会社 山一信託銀行
山一情報システム
山一證券投資信託委託
山一投資顧問
特記事項:1997年11月時点
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山一證券株式会社(やまいちしょうけん、: Yamaichi Securities Co., Ltd.)は、かつて存在した日本証券会社である。

野村證券大和證券日興證券とともに日本の「四大証券会社」の一角にあったが、不正会計(損失隠し)事件後の経営破綻によって1997年平成9年)に廃業した。

概要

法人関連業務に強く「法人の山一」と言われ、多くの日本の大企業の幹事証券会社であった。企業グループとしては芙蓉グループと緊密な関係にあった。

また、戦後の一時期まで、日本最大の業績を持つ証券会社であり、1950年代から野村など他社に抜かれ、1965年昭和40年)の日銀特融以降は、廃業時まで「四大証券」の第4位となっていた。

1997年平成9年)に自主廃業して業務を停止したが、法人としての山一證券株式会社(旧社)は2005年(平成17年)に解散するまで存続していた。

なお、現在の山一證券株式会社(新社)は法人としての連続性はないが、商標権を取得した元社員により再興されたものである(後述)。

歴史

以下、歴代社長の業績を中心に記述する。

小池国三

小池国三

山一證券は、1897年(明治30年)4月15日山梨県出身の創業者小池国三東京株式取引所仲買人の免許を受け、1週間後兜町に小池国三商店を開店したことをもって創業としていた[1]。社章には小池が師事していた若尾逸平の家紋である「山に一」を選び、これが「山一」の由来となる。1907年(明治40年)には小池合資会社に改組した。小池合資は、1909年(明治42年)の国債下引受、1910年(明治43年)の江之島電気鉄道社債元引受など、債券引受業務に証券会社として初めて進出した。[2]

国三は、開業20周年にあたる1917年(大正6年)4月15日をもって小池合資を解散することを発表した。

杉野喜精

1930年代の山一證券の広告

小池合資の解散を受けて、その跡を引き継ぐ形で1917年(大正6年)杉野喜精を社長に山一合資会社が設立された。

1926年(大正15年)には山一證券株式会社への改組を行った。

太田収

1935年(昭和10年)12月、杉野が東京株式取引所理事長に就任するため山一證券社長を辞任し、後任社長には太田収が選ばれた。

太田は1938年(昭和13年)5月4日、自らが指揮した鐘淵紡績新株投機戦の失敗の責任を取って[3]山一證券社長を辞任した。

太田の後任として副社長だった平岡伝章が暫定的に社長に就任、さらに12月には専務だった木下茂が社長を引き継いだ。

小池厚之助

1943年(昭和18年)9月、山一證券と、小池国三の小池銀行が改組した小池証券とが合併して新しい山一證券株式会社が発足した。社長には小池国三の次男で、小池証券の社長であった小池厚之助が就任した。

大神一

大神一1921年(大正10年)に山一合資に入社し、1947年(昭和22年)には副社長に就任していた。1954年(昭和29年)、大神が社長に就任し、小池厚之助は会長となった。

1957年(昭和32年)頃には野村證券が業界トップの座を占めるようになり[4]、山一は業界2位となって、その差は年々開いていった。

1961年(昭和36年)には岩戸景気が終焉を告げ、株式相場が7月をピークに下げに転じた。この証券不況で投信解約や手数料収入の低下により山一の経営も悪化を続け、経常損失1963年(昭和38年)9月期で30億円、1964年(昭和39年)9月期で54億円に上った。1964年(昭和39年)11月に大神は会長となり、日本興業銀行出身の日高輝が社長に就任した。

日高輝

1964年(昭和39年)8月に大蔵省は検査の結果山一の危機を知ることとなった。メインバンクの1つであった日本興業銀行頭取の中山素平は、興銀同期入社で日産化学工業の社長をしていた日高輝を再建のため山一證券社長に送り込んだ。

山一の経営状態はマスコミの知るところとなったが、大蔵省が在京大手新聞社に報道自粛を要請したため、報道されなかった。ところが、自粛協定外であった西日本新聞1965年(昭和40年)5月21日朝刊で1面トップ記事を載せた[5]。他の新聞社も同日付夕刊トップで一斉に追随した。翌22日は土曜日で半日営業であったが、山一各支店には朝から投信、株式、債券の払い戻しを求める客が殺到した[6]

28日午後11時30分、大蔵大臣の田中角栄と日銀総裁の宇佐美洵が記者会見し、「1. 証券業界が必要とする資金は日本銀行が無制限・無担保で融資する。2. 山一證券については興銀、富士、三菱の3行を通じて融資を実施する。3. 今後、証券金融について抜本的見直しを行う。」ことを発表した[7][8]。その後、大規模なリストラを経て、また市況の回復が追い風となり、早くも1969年9月30日に特融を完済した[9]

1972年(昭和47年)、日高は社長を辞任して会長となり、後任として植谷久三が就任した。

植谷久三

植谷の社長在任中に山一の預かり資産は10倍に増えている。しかし、他社も活発な市場で山一以上に業績を上げる中で、営業収入シェアは社長就任時の21%から辞任(会長就任)時には18.8%にまで落ち込んでいた。[10]

植谷は1980年(昭和55年)12月に横田良男に社長を譲り、自らは会長におさまった。1987年(昭和62年)に相談役に退いた。

横田良男

1984年(昭和59年)頃から、後に営業特金と呼ばれるものが存在していた。法人の資金を一任勘定という自由に売買して良いという了承の下に預かり、運用するもので、考案者であった永田元雄常務の名前を取って社内では「永田ファンド」と呼ばれていた。

横田は1985年(昭和60年)9月に営業の軸足を法人へ移し、一任勘定・営業特金(「永田ファンド」)の獲得を最優先する決定を下した。

1986年(昭和61年)に三菱重工転換社債事件が発生した。三菱重工業の依頼により、値上がり確実な転換社債総会屋にバラまいたというものである。このバラまき先のリストを投資情報誌『暮らしと利殖』のオーナー生田盛が手に入れ、それを元に山一に揺さぶりを掛けた。困った山一は総会屋の大御所上森子鉄に仲裁を依頼する。上森が示した調停案は、行平次雄を辞めさせるか、成田芳穂を社長にしろというものであった。植谷は悩んだ末、行平を取締役から外し、ロンドンにある現地法人・山一インターナショナルの会長とすることで手打ちとした。

さらに、事件が明るみに出た。植谷自身が酒に酔って経済誌『財界』のインタビューに応えてすべての経緯を話してしまい、それが1986年12月号の記事となったものが、特捜検事であった田中森一の目に止まったのである。田中は成田を呼び出し、政官界を含めた転換社債とカネの流れについて取り調べをしようとしたが、成田はその数時間前に首つり自殺した。その後、田中は嫌気がさして検察を辞め、闇人脈とのつながりを強めた。[11]

1988年(昭和63年)9月、行平は社長の座についた。行平の社長就任と同時に横田が会長に就任した。横田は1991年(平成3年)には健康問題から会長も退任し、2005年(平成17年)3月に亡くなっている。

行平次雄

山一證券はバブル期にあたる1987年(昭和62年)から1990年(平成2年)にかけて、毎年1,000億円以上の経常利益を上げていた。

しかし、1989年(平成元年)5月からの数回にわたる公定歩合引き上げにより、高騰していた株価は同年12月の最高値を最後に暴落を重ねるようになった。また、同年11月には大和證券を皮切りに損失補填問題が発覚した。バブル崩壊により、「永田ファンド」=営業特金は多額の損失を抱えることとなったが、行平は根本的な処理をすることなく先送りを続けた。

1992年(平成4年)6月、行平は健康問題を理由に三木淳夫に社長を譲った。

三木淳夫

1992年平成4年)に三木が社長に就任した後も、事実上の決裁権限はすべて会長の行平が握っており[12]、山一證券が簿外債務を処理することはなかった。簿外債務は国内で1583億円、国外で1065億円あった。国内の分を飛ばすために、クレディ・スイス信託銀行で特定金銭信託口座を開設し2000億円分の日本国債を購入させている。山一はこれを子会社のペーパーカンパニーへ貸し出しつつ買い戻して、これらの子会社へ損失補填用資金を流した。また、国外の分は外債を損失補填した含み損であり、その外債を山一オーストラリアへ、買い戻す約束で売却したものである[13]

1997年(平成9年)3月25日、野村證券に対して東京地検と証券取引等監視委員会の家宅捜索が入った。容疑は総会屋・小池隆一への利益供与であった。

4月28日に発表された山一の1997年3月期決算は、1,647億6,300万円という過去最大の当期損失となった。

総会屋利益供与問題の責任を取って8月11日には行平・三木をはじめとする取締役11人が退任した。後任として社長に野澤正平、会長に五月女正治の両専務が昇格することが発表された。

野澤正平

1997年平成9年)9月24日には、前社長の三木が総会屋利益供与事件で逮捕された。

10月6日、常務の渡辺と、前副社長の沓澤龍彦が富士銀行を訪れて、「飛ばし」と呼ばれる簿外債務の存在を明らかにすると共に、再建計画を説明し、支援を求めた。

10月23日は山一の中間決算発表日だった。しかし、当日、東京地検特捜部が昭和リースに対する損失補填容疑で家宅捜索に入った。記者会見は、27億円の経常赤字の発表と利益供与事件拡大の謝罪で終わった。

11月11日、富士銀行から最終回答があった。

  1. 劣後ローンは富士からは250億円程度が限度で、あとは他行から借り入れて欲しい
  2. 過去に無担保で融資した分について早急に担保を差し入れて欲しい

という内容であった。

11月14日金曜日。野澤は、大蔵省証券局長の長野厖士に対して簿外損失の存在を初めて説明した。

11月15日土曜日、大蔵省証券業務課長の小手川大助は長野の指示を受けて山一の藤橋企画室長から説明を受けた。なおこの日、山一が主幹事を務め最後まで資金供給を行っていた北海道拓殖銀行が経営破綻している。

11月19日、野澤は再度大蔵省に証券局長の長野を訪ねた。長野は「感情を交えずに淡々と言います。自主廃業を選択してもらいたい」と通告した。

11月22日土曜日午前3時頃、日本経済新聞が「山一証券、自主廃業へ」というインターネットニュース速報を流した。急遽、役員たちが集められ、午前8時から臨時取締役会が開催された。

11月24日月曜日だったが、勤労感謝の日振替休日で休業日だった。午前6時から臨時取締役会が開かれ、自主廃業に向けた営業停止が正式に決議された。会社創立から100年目という節目の年に、山一證券は廃業という社史で幕を閉じた。午前11時30分には社長の野澤、会長の五月女、顧問弁護士相澤光江東京証券取引所記者会見に臨んだ。記者会見で野澤は『社員は悪くありませんから』と号泣しながら発言し、その様子は当時の報道機関によって大々的に報じられた[14]

破綻の原因とされるもの

ここでは主に、破綻へ至った原因とされているものについて触れる。

法人営業への注力
もともとは、個人顧客を相手にした証券会社だったが、戦後から法人営業に注力し、大口の物件を取る方針をとっていた。不況時には、企業の投資枠縮小に遭って業績不振に繋がった。また、相手が法人であることから、運用利回り保証や損失補償を迫られ、運用上の足枷が大きかった。
また、一任勘定で発生した損失を引き取らせる事が困難で、それを山一側で引き受けざるを得ない状況に陥った。これが簿外債務となり、破綻の直接の原因となった。つまり不況による法人の弱体化、それによる株の損失が引き金となって自主廃業に追い込まれたのであり、このような経緯から山一の破綻はいわゆる「平成不況」の象徴的事例としてさまざまな場面で引用されることとなる。
日銀特融の経験
1964年(昭和39年)から1965年(昭和40年)の証券不況に際して、銀行出身者の日高を社長に迎え、リストラを行っていた。これが報道機関や顧客には山一の危機と映り、取り付け騒ぎを起こした。不安を解消するために日銀特融を受けて会社組織の再編を行ったが、その直後にいざなぎ景気が到来し、特融を早期に返済することが出来た。
この経験が、あと少し頑張れば自力で再生できたという記憶を残した。バブル崩壊に際しても、しばらく持ちこたえれば日本景気が上向いて業績も回復し、簿外債務、含み損も消せるという期待に繋がり、損失を適正に処理することを躊躇させた。
銀行出身者の排除
銀行出身者の経営陣がリストラを行った事が取り付け騒ぎ、そして特融を受けざるを得ない状況へ追い込まれた原因と見る向きから、社内には銀行出身者を快く思わない風潮が蔓延し、排除する動きに繋がった。これは、山一が破綻に瀕した際に、銀行の積極的な支援を得られない要因ともなった。
法令違反
運用利回りの保証、損失補填、一任勘定については、1980年代末より批判が高まり、1991年(平成3年)に法律で禁じられた。しかし、表向きはこれらの行為が無くなっても、裏では一任勘定が継続され、含み損を抱え込んだ。後にこれらは簿外債務として山一の子会社に移された。これらの債務は決算の度に飛ばしで隠蔽されており、粉飾決算を行っていたことにもなる。
また、総会屋を中心とする相手に対する不正な利益供与についての捜査も行われ、証券業界がダーティーな印象を持たれた。粉飾決算の件も含めて違法行為を行ったとみなされたため、特融を受けての再生は認められず、自主廃業を選択せざるを得なかった。
一部社員・企画室・MOF担による専断
東京大学出身者を中心(滅びの遺伝子 山一證券興亡百年史: 鈴木 隆)とする一部の社員が、会社としての指揮命令系統やコーポレート・ガバナンスを無視して重大事項を専断していた。そのため、一般社員や取締役の一部の者ですら知らないところで膨大な簿外債務が生み出されていった。

その後

自主廃業発表後、顧客保護を理由にあわただしく無担保の日銀特融が実施された。日銀特融はピーク時で1兆2千億円にのぼった。

12月13日、常務業務監理本部長の嘉本隆正が委員長となって、社内調査委員会が発足した。3月26日にレポート『社内調査報告書-いわゆる簿外債務を中心として-』は完成し、4月16日に一般に公表された。

1998年(平成10年)3月4日、行平と三木の元社長2人、ならびに元財務本部長の3人が、最大2,720億円の損失を隠して虚偽の有価証券報告書を作成したという証券取引法違反の容疑で東京地検に逮捕された。行平と三木にはさらに、粉飾決算の容疑がついていた。2000年(平成12年)3月に、行平と三木に有罪の判決が下された。初審で執行猶予が付いた行平は判決を受け入れたが、実刑判決だった三木は控訴し、控訴審では執行猶予となっている。

自主廃業発表以降事務処理を進めたが、1998年(平成10年)6月の株主総会で解散決議に必要な株主数を確保できなかったことから自主廃業を断念せざるを得なくなった。そのため破産申立てをすることに方針を転換し、1999年(平成11年)6月2日に東京地方裁判所より破産宣告を受けた。

破産宣告後の手続は、債権者の多さや、海外資産の整理に手間取ったために長引いたが、最終的に2005年(平成17年)1月26日の債権者集会をもって終了した。同年2月に破産手続終結登記が行われ、名実共に「山一證券株式会社」はこの世から消えた。小池国三による創業から107年あまりが経過しての終焉であった。

山一の元株主が中央青山監査法人(当時中央監査法人)に損害賠償を求めた訴訟の判決で、大阪地裁(本多俊雄裁判長)は、「監査法人は通常実施すべき手続きで監査しており過失はなかった」として請求を棄却した[15]

社員・子会社

山一本社所属の従業員や店舗の大多数は米国の大手金融業メリルリンチが設立した「メリルリンチ日本証券」に移籍・譲渡された。その後同社のリテール部門が三菱UFJフィナンシャル・グループとの合弁企業である三菱UFJメリルリンチPB証券に移管された後、三菱UFJとメリルリンチの合弁解消に伴い2014年現在は三菱UFJモルガン・スタンレーPB証券となっている。

最後の社長野澤正平はIT業界に身を投じた後、再び証券業界へ復帰しセンチュリー証券(現・日産証券)の代表取締役社長となっていた(2009年退任)。

子会社のその後については以下の通りである。

太平洋証券
ユニバーサル証券などに合併され「つばさ証券」(現・三菱UFJ証券ホールディングス)に改称。
山一證券投資信託委託
三和銀行に譲渡され「パートナーズ投信」(現・三菱UFJ投信)に改称。
山一信託銀行
オリックスに譲渡され「オリックス信託銀行」(現:オリックス銀行)に改称。
山一投資顧問
フランスの大手金融業・ソシエテ・ジェネラル傘下に入り「SG山一アセットマネジメント」に改称。2004年、りそなアセットマネジメント(旧東京投信→あさひ東京投信。元は東京証券傘下)を合併し「ソシエテジェネラルアセットマネジメント」に再改称。元子会社の中では「山一」の名前を最後まで残した。
山一情報システム
社員は「日本フィッツ(現SCSK)」に移籍。
香港山一証券(香港法人)
台湾コアパシフィック財閥(威京総部集団)傘下に入り「コアパシフィック山一インターナショナル(京華山一国際)」に改称。同社の日本法人は2003年にエース交易の子会社となり「アルバース証券」に改称。
山一証券経済研究所
収集・管理していた資料の一部は、大阪学院大学図書館へ移された。
丸万証券
数少ない証券子会社の内の一社。旧東海証券(東海銀主導により東海財界の出資で設立)と合併、東海丸万証券(東海東京証券の事実上の前身、現東海東京FHD)となる。
内外証券
数少ない証券子会社の内の一社。旧丸万証券を被合併させた東海丸万証券(※前述)へ救済合併。
丸宏証券
のちに興銀主導により大華証券(旧日本生命系)と合併、丸宏大華証券(のちに日本アジア証券へ救済合併)となる。
中央証券
第二位株主であった千葉銀行の傘下に入り、2011年にちばぎん証券と改称。
協立証券
H.I.S.の創業メンバーである澤田秀雄に買収されエイチ・アイ・エス協立証券に改称、2007年に会社分割で澤田ホールディングスとなり事業はエイチ・エス証券へ移管。

企業同窓会である「山友会」は現在も、日本橋茅場町に事務所を置いて存続している。

山一證券の商標権は、2007年(平成19年)に元社員が取得した。その元社員は6年後(2013年)を目標に山一證券を復活させたいとしていた(日経スペシャル ガイアの夜明けテレビ東京系)2007年12月18日放送より)。2011年(平成23年)4月、その元社員を中心に2004年に設立された「IBS証券」が「IBS山一証券株式会社」に社名を変更して山一の名称が復活した[16]。さらに、2014年7月には「山一證券株式会社」(2代目)に社名を変更している。2014年11月現在、「山一證券」の商標は、2014年7月に山一證券(現法人)社長の名義で出願がされた状態になっている[17]

かつての提供番組

※山一投信委託でクレジットされた。

※上記と同様。

山一証券顧客相談室長殺人事件

1997年8月に発生した事件。被疑者逮捕されておらず、現在も未解決事件となっている。

その他

  • 『山一證券史』1958(昭和33)年刊。創業60周年記念刊行。前編「わが国における証券市場の発達」・後編「山一證券史」からなる。約1,400頁。
  • 『山一證券年表』1985(昭和60)年刊。1958(昭和33)年から1984(昭和59)年まで。
  • 『山一證券の百年』1998(平成10)年刊。編集・山一證券株式会社社史編纂委員会、発行・山一證券株式会社。約466頁。「社内調査報告書-いわゆる簿外債務を中心として-」添付資料一部割愛して全文所収。もともと『山一證券百年史 普及版』として編纂されたものを自主廃業決定後に出版したものであるが、非売品扱いでISBNも取られていない。
  • 山一證券株式会社社歌 作詞・西條八十、作曲・古関裕而。創業60周年記念制定。

映像化

参考文献

脚注

  1. ^ 『山一證券の百年』p.3
  2. ^ 『山一證券の百年』p.29
  3. ^ 『山一證券の百年』p.84
  4. ^ 『山一証券失敗の本質』p.48
  5. ^ 再建策を前面に立てた記事ではあったが、消息筋という断りの後で財務状態を書いている。負債総額は約600億円で、銀行借り入れが260億円としている。富士銀行と水野繁大蔵省証券局課長補佐の明らかにした1965年3月末における状態は、資本金80億円に対して赤字が282億円であった。内訳は、疎開株実損69億円、手持株評価損109億円、関係会社格式プレミアム損29億円など。なお、自粛協定に参加したのは、朝日新聞読売新聞毎日新聞日本経済新聞産業経済新聞東京新聞共同通信の7紙と、NHK日刊工業時事通信の3局であり、この中の何者かが西日本新聞へ協定の存在をもらしたという。 草野厚 『山一証券破綻と危機管理』 朝日新聞社 1998年 P 114,132
  6. ^ この取り付け騒ぎで28日までに解約された運用預かり及び投資信託の合計は177億円に達した。 前掲『山一証券破綻と危機管理』 P 154 なお、運用預かりとは、顧客に売った金融債を引き渡さずに有償で借用し担保に用いる行為をいう。
  7. ^ 『山一證券の百年』p.205
  8. ^ 日銀特融が「無制限」との発表は騒動の収拾を狙ったものであり、出席者の間では違った合意がなされていた。特融は3行経由であり、それぞれについて80億円までと決められていた。7月、これは130億円に引き上げられた。 前掲『山一証券破綻と危機管理』 P 164-165
  9. ^ 日経新聞 1969年10月1日
  10. ^ 『滅びの遺伝子』p.189-190
  11. ^ 『会社がなぜ消滅したか』p.76-78
  12. ^ 『会社がなぜ消滅したか』p.147
  13. ^ 山一証券社内調査報告書第Ⅰ部第Ⅲ章 および 日経新聞 『日本が震えた日』 1998年
  14. ^ “あの日見た書いた…4万号から5万号の28年間”. 読売新聞 (読売新聞社). (2015年4月9日). http://www.yomiuri.co.jp/feature/50000gou/20150408-OYT8T50158.html 2015年9月12日閲覧。 
  15. ^ 監査法人の過失認めず 旧山一粉飾決算で請求棄却”. 共同通信 (2006年3月20日). 2011年11月9日閲覧。
  16. ^ 「山一」復活、往年のブランド引き継ぐOBたち - 日本経済新聞2011年6月12日
  17. ^ 特許庁の商標出願・登録情報で「山一證券」を検索した結果による(2014年11月24日閲覧)
  18. ^ 連続ドラマW しんがり~山一證券 最後の聖戦~WOWOW INC.

関連項目

外部リンク