大鳳 (空母)

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航空母艦 大鳳
艦歴
起工 1941年7月10日川崎重工神戸
進水 1943年4月7日
就役 1944年3月7日
喪失 1944年6月19日
沈没地点 北緯12度05分 東経138度12分 / 北緯12.083度 東経138.200度 / 12.083; 138.200
除籍 1945年8月26日
性能諸元
排水量 基準:29,300t
公試:32.400t
満載:37,270t
全長 260.6m
全幅 水線幅:27.7m
吃水 9.59m
飛行甲板 257.5m x 30m
(装甲部)150m x 20m
機関 タービン4基4軸、160,000 shp
最大速 33.3 ノット
航続距離 18kt‐10,000浬
乗員 士官、兵員2,038名[1]
兵装 10cm連装高角砲6基12門
25mm3連装機銃22基66挺
装甲 飛行甲板:95mm
舷側55mm~165mm
甲板48mm
搭載機 常用52機、補用1機

大鳳(たいほう)は、日本海軍航空母艦空母機動部隊として艦載機を載せて実戦に参加した日本海軍の正規空母の中では最後に竣工した。初陣となったマリアナ沖海戦で米潜水艦の雷撃により航空機燃料が漏洩、引火して爆発・沈没した。

概要

1939年(昭和14年)に策定された第4次充実計画(通称マル4計画)において計画された航空母艦で「W14」という秘匿名称が与えられ検討が進められた[2]が、完成するまでは紆余曲折があった。昭和13年の大蔵省説明資料での初期案は、15.5cm砲6門を搭載する、かつて計画された「蒼龍原案」のような仕様であった[2]。時代に逆行したようなこの初期案は、当初大鳳型が単独で前方に進出し味方攻撃隊の中継基地になるという運用構想による[2]。遭遇した敵艦を振り切る高速力と強力は砲撃力が必要と考えられたからである[2]。しかし航空機の高性能化に伴い、中継基地として使用する案は早々に破棄され、通常の艦隊型空母として開発されることになった[2]。この時点で船体は翔鶴型航空母艦を基にしつつ、それに装甲を張り巡らせた重防御を持つと構想された。「大鳳」以前の日本空母の飛行甲板は、同時期のアメリカ海軍空母と同様にほとんど無防御だった。急降下爆撃機の発達により、爆撃によって空母の発着能力が容易に奪われてしまうことを憂慮した日本海軍は航空母艦の飛行甲板には装甲防御が必須であると考えられたが、航空機の大型化と高威力化する爆弾に対する限界も指摘され、その防御方法の検討には混乱を伴った[3]。この考えに基づき建造された「大鳳」は、日本海軍が待望久しかった飛行甲板に装甲を施した空母であった。なお「大鳳」には同形艦は存在しないが、小改良を施した改大鳳型航空母艦が設計され、戦況の悪化に伴い建造中止となっている。

構造

船体

船体は翔鶴型航空母艦に準じているが、飛行甲板の装甲化によって低重心化が必要なので艦内甲板は1層減らされており[2]、艦内の容積は翔鶴型より狭くなっている。全長は翔鶴型に類似した長さになっているが、海面から飛行甲板までの高さは12m程度で飛龍型に近いものであった[2]。格納庫は上下の二層式で、前後の昇降機の間に設置された[2]。格納庫は舷側への開口部を持たない密閉式で、爆弾の突入の際の衝撃波は意図的に脆弱に作られた昇降機の開口部から逃す設計となっていた[2]

防御力

機関室は、高度3000mからの800kg爆弾と距離1200m~20000mでの6インチ砲弾に耐えることが求められた[4]。また弾薬庫は高度3000mからの1000kg爆弾と距離1200m~20000mでの8インチ砲弾に耐えることが求められた[4]。このため主要部には16mm高張鋼と32mmCNC鋼鈑による水平防御と、160mm~55mmのCNC鋼鈑による垂直防御が施された[2]。水平鋼鈑が薄いのは飛行甲板の装甲も加味されているためである。水中防御としては主要部を3重底とするとともに、液体層と空気層を組み合わせた合理的な防御構造が導入され、TNT換算で300kgの炸薬をもつ魚雷を防御することが想定された[2]。ただし米海軍が使用していたMK13航空魚雷トーペックス系炸薬を使用した場合TNT換算で400kgを超える威力となっており、必ずしも万全とは言い難い。

機関

機関は翔鶴型航空母艦に準じたものが搭載された。艦本式ロ号缶は1基づつ分離された防水区画に搭載されに2列に並び8基搭載され、その後方に同じく左右に2例に4基のタービン室が配置され、16万馬力を発揮した[2]。蒸気圧30キロ平方センチ、蒸気温度350度も翔鶴型と同様であるが、スクリューは翔鶴型航空母艦より若干サイズの大きい4.3mのマンガン鋼製3枚羽ものが使用され最高毎分300回転で駆動した[2]。舵は大和型戦艦と同様に副舵と主舵の2枚を前後に分離設置した[2]

飛行甲板

軍令部は800kg爆弾の急降下爆撃に耐えれる装甲を求めていた。しかし艦政本部は翔鶴型航空母艦と大差ない排水量では実現不能と判断した[2]。仮に要求どおりの重防御を施すと艦が4万トンを超える大型艦となり他艦種の建造を圧迫するという予算上の問題が生じ、昭和13年9月7日の丸四計画正式商議にて、前述の艦主要部分重防御に加え、高度700mからの500kg急降下爆撃に耐える装甲で飛行甲板の50%(エレベーターとエレベーター間)を覆うという防御案で「大鳳」建造計画は承認された[4]。排水量を3万トン級に抑え、その範囲内で防御を施すという妥協策がとられた[5]

初期の素案では60mmの装甲で前後の昇降機の間の飛行甲板(全長の1/2にあたる)を覆うものであった[2]。これだけの飛行甲板長があればギリギリ戦闘機の発艦が可能とされた[2]。しかし各種爆弾実験を実施したところ装甲60mmでは防御力不足と判断され[2]、最終的に20mmのDS鋼板上に75mmのCNC甲板を装着した構造に落ち着いた[5]。しかし素案より装甲の厚みが増したので、装甲範囲の全長は飛行甲板の1/2のままであるものの全幅が短縮され[2]、、素案ではほぼ全幅を装甲する計画が、艦中央部でも格納庫の天井部分を覆う幅20mのみの装甲とされた[2]

装甲板=飛行甲板(強度甲板)でなく、従来の空母同様に木製飛行甲板であったとされるが[2]、ラテックス仕上げであるという異論もある。改大鳳型(G15 改マル5計画)の図面でも木の甲板の使用を裏付ける記述があり、最近発見された「大鳳」艦上で撮影されたと思われる写真には木甲板が映っている[6][7]。 また現存する複数の中央切断図面でも飛行甲板は45mmの木板を張る仕様になっている。逆に、ラテックスを飛行甲板に施工したという公式文書・図面・証言資料が全く存在しない。製造所である川崎神戸で、戦後福井静夫らの監修のもとに製作された模型がラテックス張りの状態で作られていたという説の根拠である。

飛行甲板への着艦艤装は、最新式の三式制動装置が設置された[8]。三式制動装置は油圧式で流星などの大型機に対応した制動装置で、「大鳳」が初の装着であった[2]。遮風柵は工期短縮された際に、外注であった部品の納入が間に合わなくなったため遮風柵自体の装備が省略されて竣工したが[2]、竣工後の写真では遮風柵の存在が確認できるので無稼動状態で装備され、後日の工事で稼動状態とされる予定であったと推測される[2]

昇降機・カタパルト

昇降機には25mmのDS鋼板を二枚重ねて合計50mmの装甲を形成した。これにより昇降機の重量は100トンに達したが作動スピードは他艦と遜色ないものとされた[2]カタパルト(射出装置)を2基装備する予定であったが[2]、開発が間に合わず後日装備とされた。

ハリケーン・バウ

重心上昇を防ぐため、大鳳の甲板は他の空母より一段少なくなっており、結果、乾舷(海面から飛行甲板までの距離)が艦の大きさに対し低くなっている(満載時で、「飛龍」とほぼ同じ12メートル)。そのため艦首が波を被っても浸水しないよう、同時期のイギリス空母や現代のアメリカ空母のように艦首外板を飛行甲板まで延長するハリケーン・バウ(エンクローズド・バウ)という形式をとり、艦首部と甲板が一体化していた。日本海軍では初の試みであり、現存する線図からは細かな修正を加えた複数の案が検討されていたことが確認できる[2]

アイランド(傾斜煙突)

「大鳳」は飛鷹型航空母艦飛鷹」・「隼鷹」と同様、煙突と艦橋を一体化したアイランドを右舷に有していた。日本海軍は、空母の煙突から出る排煙の処理に悩み、最初の空母「鳳翔三段空母時代の「赤城」など、各空母で試行錯誤を繰り返していた。通常の煙突では飛行甲板の気流を妨げる結果となるため、湾曲煙突のような工夫が必要となる。しかし、重防御によって重量配分上、飛行甲板が低くなることが明らかとなっており、飛行甲板下に従来の湾曲煙突を設けた場合、位置が低すぎて先端が海面に接近・浸水が懸念された[5]。そこで、重量バランスの面から不利であるにもかかわらず、敢えて上方排煙の煙突としてアイランド側に纏めらた。

空母の艦橋を大型化するならば、煙突と艦橋とを反対舷に置く方が、重量バランスの観点から有利である[9]。ところが改装後の空母「赤城」、新造艦の「飛龍」で右舷に煙突、左舷に艦橋という方式を試したところ、煤煙が艦橋に流れ込む、気流が乱れて着艦しずらくなる等のデメリットが生じた[10]。日本海軍は「飛龍」以降、艦橋と煙突を同じ舷に設置するようになる。

「大鳳」の煙突は、飛行甲板から17メートルの高さにあり、当初直立させる予定であったが、風洞実験の結果気流を乱す恐れが指摘され[2]外側に向かって26度傾斜して設置された。商船を改造した飛鷹型航空母艦で実験したのち、「大鳳」と大和型戦艦改造の空母「信濃」に装備された。アイランドトップには二式二号電波探信儀一型を前後に合計2基設置してた[2]。13号電探については装備に否定的な意見が多いとされる[2]

対空火器

日本空母中唯一六五口径九八式一〇糎高角砲(65口径10cm高角砲)を装備した。しかし65口径10cm高角砲は飛行甲板の装甲化(重量増加)の代償として、翔鶴の16門から12門に減じられた[5]。それを補うために高角砲は左右両舷に射撃可能とするはずであったが[2]、アイランドの大型化によってそれも不可能となり中止され、オーソドックスな配置に落ち着いた。65口径10cm高角砲は小型軽量で砲弾も小さく、1発あたりの危害半径は小さいものの毎分19発と発射速度が速く(89式12.7cm高角砲は毎分14発)、これを各舷に3基ずつ設置し左右1基の94式高射装置で管制していた。25mm3連装機銃は当初8基の予定であったが、建造中に増強されて17基となった[2]。加えて単装25mm機銃が移動式として25基搭載された。これは普段は格納庫壁面に収納され、航空機の発艦後に昇降機によって飛行甲板に運び飛行機固定用の金具を利用して固定するものであった[2]

弾薬庫・軽油庫

800kg爆弾72発、500kg爆弾72発、250kg爆弾144発、60kg爆弾144発、91式航空魚雷改48本、他艦載機の補給用に別に250kg爆弾144発が搭載を計画していた[5]。軽油庫は前後の昇降機近くの海面下に配置され、前後で合計990トンの航空機燃料を搭載する計画となっており[5]、標準的な搭載量であった。実際には、計画量は搭載していなかったと思われる[2]

居住区

兵員室はハンモックではなく、天井収納式の複数段ベッドが備えられ(乗艦者記憶では2~3段式)艦内神社には『不沈航空母艦』と記されていた。以上は乗艦者(加筆者の親族)の証言。[要出典]

搭載機について

大鳳。後方に、翔鶴型航空母艦を望む。

「大鳳」の艦載機の搭載数は当初十七式試艦上戦闘機常用24、十六試艦攻24(補用1)、十七試艦上偵察機常用4の52機(補用1)を予定していた[5]。資料によっては61機。これは、翔鶴型や連合国大型空母が70~90機前後なのに比べるとやや控え目であるが、マリアナ沖海戦時には、艦上戦闘機20機(零式艦戦五二型)+艦上爆撃機18機(彗星一一型九九式艦爆)+艦上攻撃機13機(天山一二型)+艦上偵察機3機(彗星一一型(艦偵型))の合計54機を搭載していた。[11]。ただし、これはマリアナ沖海戦当日の機数であり、実際は事故で失った機数を含んでいない。また空地分離によって艦載機と空母の関係が変化しており、その時の搭載機数が最大搭載機数ではない。六〇一航空隊の航空機は、大鳳・瑞鶴翔鶴に分かれて搭載された。

搭載機数の少なさは、飛行甲板の装甲化による重心の上昇を避けるための格納庫容積の減少によるもので、この点はイギリス海軍イラストリアス級航空母艦と類似している。ただし格納庫自体は翔鶴型航空母艦と同じ2層備え、格納庫全長も同等となっている[12]。別の理由として、艦上戦闘機烈風・艦上攻撃機流星といった大戦後期の大型艦載機を基準に搭載機の定数が計算されているがため、大戦前の艦載機で定数を計算した大戦前建造の空母に比べて定数が少なくなっているという面もあり、一般に言われているほど攻撃力が不足しているわけではない。実際に零戦・彗星・天山合計70機以上を運用可能とする資料もある[2]

またミッドウェー海戦に於いて、弾薬庫大爆発により致命的損傷をこうむった空母「加賀」から生還した天谷孝久中佐/加賀飛行長の意見により、艦爆と爆弾の搭載機数・搭載量を減らし、艦上戦闘機を増やす方向で軍令部や軍務局と調整したという背景もある[5]

この艦載機数の不足については他の空母に補完させるという案もあった。すなわち、防御力の高い大鳳が危険な前方に進出し、より安全な後方に控えた他の空母の艦載機を受け入れ、補給の上で再出撃させるという「洋上の補給基地」的な運用法である。現代の空中給油にも通じる航空機の行動距離の延長策だが、これは基礎研究段階(G12 大鳳原案)での一案に過ぎず、実際にこのような運用がなされたことはない[4]。「大鳳」の搭載する航空燃料は翔鶴型航空母艦飛龍型航空母艦のような過去の空母よりも多いことがこの洋上基地の間接的な証拠であるといわれていた。だが現在では零式艦戦や九九式艦爆等より燃料搭載量の多い烈風・流星・彩雲の運用を前提にしたが故の航空燃料搭載量増大であり、相対的な意味では燃料の搭載量は従来の空母とさして変わらない事が分かっており間接的証拠とは言えなくなっている[13]

例えば翔鶴型航空母艦の搭載航空燃料は496トン、大鳳型は1000トンと確かに倍近いがそれぞれ搭載予定していた艦載機の航空燃料搭載量は翔鶴型竣役時の主力艦上戦闘機だった零式艦上戦闘機21型は機体内で525リットルを搭載するが大鳳が竣役時に主力戦闘機として予定されていた烈風は機体内で912リットルを必要としており逆に倍近い燃料を必要としている。 搭載する航空機用弾薬も翔鶴型と大差のない量しか保有しておらず、間接的証拠とは言いがたい。

元々いわゆる「中継基地として運用する」という案は計画初期に艦政本部が提案した1案であり軍令部や海軍航空本部は反対している。マル4計画が概要が決定する以前の昭和13年始めには捨て去れ、大鳳を従来の航空母艦と同じ構想で計画することを海軍兵器の基本構想を採否する海軍技術会議の席上で航空本部側が「現有空母の防御薄弱なるを強化するが主眼。『飛び石』的用法を主目的にするものにあらず。従って将来空母は皆、このような重防御のものとする考えなり」と発言し採択されてる。

上記の艦政本部案はその後の信濃型航空母艦で再び提起され、一度は本命視されたので初期には同じ構想をもっていた「大鳳」も誤解されて広まったと言われている[14]


予定搭載機

  • 一七試艦戦(烈風):18機(補用1機)
  • 一七試艦偵(彩雲):6機
  • 一六試艦攻(流星):36機
  • 合計:常用60機、補用1機、計61機

注)艦偵6機、艦攻7機は露天繋止

あ号作戦時搭載機

  • 零式艦戦五二型:19機(6/13に2機事故喪失)
  • 彗星一一型:17機
  • 天山一二型:14機(6/13に1機事故喪失)
  • 彗星一一型(艦偵型): 3機
  • 九九式艦爆: 1機(6/13に2機事故喪失)
  • 合計:54機

補足)1944年(昭和19年)3月7日出航時に搭載されていた艦載機は主翼折り曲げ式だった(機種については乗艦者記憶あいまい)。

第六〇一航空隊(大鳳 翔鶴 瑞鶴 に搭載)

  • 零式艦戦五二型:78機(6/13に2機事故喪失)
  • 零式艦戦二一型(戦爆型):11機
  • 彗星一一型:53機
  • 天山一二型:37機(6/13に1機事故喪失)
  • 彗星一一型(艦偵型):17機
  • 天山一二型(電探装備型): 5機
  • 九九式艦爆: 7機(6/13に2機事故喪失)
  • 合計:208機(大鳳:54機 翔鶴:77機[15] 瑞鶴:77機)[16]

艦歴

建造

1941年(昭和16年)7月10日川崎重工業神戸造船所にて起工。1943年(昭和18年)秋頃に進水予定であった[2]が、起工から半年後に太平洋会戦が起こり工期繰上げが要求され1943年(昭和18年)4月7日進水となる。1944年(昭和19年)神戸港から備讃瀬戸来島海峡を通過して呉軍港に移動し最終的な艤装が施された。同3月7日竣工。

回航と訓練

1944年(昭和19年)3月7日、兵員輸送を兼ねて秋月型駆逐艦初月」と「若月」と共にを出航した。航空機は601空の零戦・彗星・天山のほか、司偵・月光・零観・零式水偵、計64機を搭載した[2]。4月4日シンガポールセレター軍港に入港するが、入港直前に舵取装置が故障し、さらに配電盤火災となり一時操舵不能となるが[2][17]大事には至らなかった。月光や水偵、兵員を陸揚げした後に4月9日リンガ泊地に回航された。リンガ泊地では「翔鶴」、「瑞鶴」とともに着陸訓練を主に行った。5月6日に航空機をすべて収容し、5月11日(12日とも)リンガ泊地を離れ、内地からの第二航戦戦隊、第三航空戦隊と合流するためにタウイタウイに向い14日に到着した[18]。タウイタウイ泊地では、周囲に大きな陸上飛行場がなく、また米軍潜水艦が出没するために十分な訓練ができなかった。出現した米軍潜水艦を迎撃した駆逐艦「谷風」や「風雲」など5隻が逆に撃沈されたほどである[18]。6月13日、陸上基地を利用して搭乗員の訓練をおこなうべく、フィリピン中部のギマラスに向かった[19][20]。同海域では、対潜哨戒をしていた天山が着艦に失敗。着艦のやり直しをしようとしたが失速し、飛行甲板の九九艦爆に追突し炎上。零戦2、九九艦爆2、天山1を喪失、天山1大破、九九艦爆1小破した。同日、米軍のサイパン攻略公算大としてあ号作戦決戦用意が発令される[19]。6月14日ギマラスに入泊し燃料を補給した[19]。6月15日ギマラスを出航しマリアナ沖に向かった[19]

参戦

1944年(昭和19年)6月18日マリアナ沖海戦に参加。「大鳳」から発艦した彗星が米軍機動部隊を発見し前衛艦隊は攻撃隊発進を開始したが、攻撃隊の帰還は夜間となるため夜間着艦の危険性を考慮され、この日の攻撃は見送られた[21]。6月19日、午前6時30分「能代」の水偵が米軍機動部隊を発見。午前7時45分より「大鳳」は攻撃隊を発艦した。7時58分には予定どおり発艦作業が終了。艦の殆どの者が甲板に上がって攻撃隊を見送っており、対潜警戒がおろそかになっていた可能性も指摘される[22]。そのころガトー級潜水艦アルバコア」(USS Albacore, SS-218) が小沢艦隊を追跡していた。「アルバコア」は望ましい発射点に付く事を諦め、やや遠距離から6本の魚雷を発射した。「大鳳」の上空では発艦した第一次攻撃隊が編隊を組みつつあったが[2]、小松咲男兵曹長の彗星が編隊に加わろうとせず、右に旋回して海に突入した[23]。「大鳳」から右5000mくらいの海面だったという[2]。これは同機が雷跡を発見し、自爆突入して魚雷を阻止しようと試みたものである[24]。見張員は直ちに報告、「大鳳」は28ノットで直進中であり取舵一杯が下令されたが、午前8時10分に1本が右舷前部に命中した[25]

この時点で「大鳳」は傾斜も起きず、前部がやや沈下したのみで[2]、戦闘続行可能だった。だが前部昇降機が下部の戦闘機格納庫から1mほどのところで、零戦を乗せたまま傾いて停止した。また損傷によりガソリンが漏出して気化し、艦内に充満しつつあった。小沢長官の命令により、工作兵が総動員で作業は艦内にあった応急処置用の丸太をかき集め、停止した昇降機の上に食堂の椅子や机を櫓状にくみ上げて昇降機の穴(14m四方)を塞いだ[26]。攻撃隊指揮官の小野大尉がその強度を確認し、搭載していた魚雷や燃料を降ろして軽くした零戦1、彗星1、天山4-5機が発艦し瑞鶴に移動した[2]。午前10時30分、第一航空艦隊(小沢部隊)から第二次攻撃隊が発進している[27]

一方、気化したガソリンは格納庫を始めとした艦内に充満しつつあり、換気作業も急がれた。また缶室との距離も短いためにガソリンそのものの流出抑制作業を平行して行われたが[2]、気化したガソリンを吸入して失神する乗員が続出[2]。火花を恐れて工具の使用が憚れたなどの理由により[2]、作業は捗らなかった。12時頃には「気化ガス充満、タバコ禁止、火花が出るような作業も禁止」との伝達が艦内各部署になされた[2]。格納庫の側面の扉はすべて開かれたがそれでも換気が追いつかず、格納庫の側壁の鋼鈑を故意に破壊して穴を開けている[2]。後部昇降機も下げられ、発電室などの扉も開放するなど[2]、必死の換気作業が行われた。午後12時20分以降に小沢艦隊第一次攻撃隊が大鳳に帰還してきたが、米軍の反撃により膨大な未帰還機が発生しており、「大鳳」から発艦し戻ってきた機は4機(零戦3、偵察彗星1)だった。

沈没

午後2時を過ぎると、小沢艦隊第二次攻撃隊が米艦隊を発見できず、損害もないまま艦隊上空に戻ってきた。この隊を収容中の午後2時32分(被雷から約4時間後)、気化したガソリンに引火し、「大鳳」は大爆発を起こす[25]。「大鳳」艦橋勤務の近藤敏直少尉によれば、最初の着艦機が胴体着陸した直後に爆発が発生したという[28]。空母「瑞鶴」から目撃していた整備下士官は、駐機していた機に着艦失敗機が突入した直後、大火災が発生したと述べている[29]。また上記の5機を収容して次の零戦が着艦しようとしたところ、急にその零戦が着艦をやめて飛び去ってしまい、その直後に大爆発したという証言もある[2]。第二次攻撃隊は「大鳳」への着艦が不可能となり、「瑞鶴」に着艦した[30]

「大鳳」の損傷は重大だった。飛行甲板は盛り上がり、やがて艦全体が火災に覆われる。機関部は爆発時の火炎によって全滅したと思われ、艦は急速に速度を落とし停止した[31]。機関部との連絡がつかないため消防管のバルブが開けられず、消火活動は全くはかどらなかった[26]。昇降機周辺や甲板上にいた乗員も爆発の衝撃で吹き飛ばされて多数の死傷者を出した[2]小沢長官や古村参謀長は艦橋が盾になったため爆風を免れた唯一のカッターに乗り駆逐艦若月」に移動する[32]。その後、16時6分に重巡洋艦羽黒」に移った[33]。「大鳳」では小爆発が連続し、駆逐艦「磯風」と「初月」が脱出者の救助にあたった[34]。最終的に「磯風」が「大鳳」艦尾に接艦して乗組員を救助している[35]。「大鳳」は左舷に大きく傾斜し、午後4時28分、艦尾から沈没した[25]。爆発時に搭載していた零戦5機、九九艦爆1機、彗星4機、天山3機も「大鳳」と共に失われている[36]

喪失原因

「大鳳」の沈没は、魚雷被弾後に胴体着艦をした戦闘機の衝撃で格納庫内に充満した気化燃料(ガソリン)に引火、爆発したことが原因だった。これは閉鎖式格納庫が持つ弱点が最悪の形で現れたものだったが、たった1発の魚雷で沈没に至るまでにはいくつかの不幸な積み重ねが存在した。

  • タンクからのガソリン漏れは被雷の衝撃で継ぎ目がはずれたために生じたが、この継ぎ目の溶接に不具合があったと言われている[誰によって?]。「大鳳」には電気溶接も取り入れられていたが、当時の日本はこれらの新技術を十分吸収・体得できていなかった。この教訓として、空母「信濃」のガソリンタンクの周囲にはコンクリートが注入されて強化された。
  • これも被雷の衝撃で、艦載機用エレベーターが途中で故障・停止してしまったので、急遽エレベーター上に机などを積み上げて応急処置をし、飛行甲板の開口部を塞いでしまった。艦内には気化したガソリンが充満し、目を開けるのも辛い状態にあったが、戦闘中のため充分な換気が出来なかった。もしエレベーターを降ろすことができれば、気化燃料を、あるいは万一引火したとしても爆風を、開口部から逃がすことができたかもしれなかった。
  • 艦内の工作兵がエレベーター開口部を塞ぐことに総動員されたため、揮発油タンクの修理があとまわしにされた[26]
  • 外部からの攻撃には強みを発揮する装甲甲板が、内部からの爆発では仇となった。爆風が上に抜けず、ダメージが艦全体に及ぶことになってしまった。装甲化はされていないが、やはり飛行甲板に強度を持つアメリカ空母「レキシントン」が、同様の経過で最期を迎えている。

日本海軍では軍艦の搭乗員は、訓練に最低半年~8カ月の期間を必要とするが、竣工後の訓練期間に余裕がなかった事も無関係ではないといわれている。乗員が艦を熟知した「翔鶴」、「瑞鶴」との活躍期間に比べ、「大鳳」の初陣の沈没には様々な不運要素が重なっている。

迷彩

「大鳳」には、戦争後期の日本空母と同じく迷彩が施されていたという。「あ号作戦」(マリアナ沖海戦)直前、2日がかりでゴム系の塗料で迷彩が施されたという証言があるが、写真などの資料は現在まで見つかっておらず、迷彩のデザインや塗装を担当した高塚義雄士官らは「大鳳」とともに戦死[37]。迷彩のデザインは謎となっている。    

歴代艦長

艤装員長

  1. 澄川道男 大佐(1943年8月15日 -)
  2. 菊池朝三 大佐(1943年12月23日 -)

艦長

  1. 菊池朝三 大佐(1944年3月7日 -)
キスカ島撤退作戦でキスカ島から生還後「大鳳」勤務となった近藤敏直少尉によれば、菊池艦長は艦と運命を共にするつもりだったという。近藤からあるだけのタバコを貰い、「沈むまで何日もかかるだろうから、それまで吸う」と笑った[28]。菊池艦長は「磯風」を見送ったのち、後部デッキにハンモックの紐で身体を固定した[38]。だが大鳳沈没の衝撃で縄が切れたようで[38]、意識不明の状態で救助された[2]

参考文献

  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C08030711400「昭和19年6月13日~昭和19年6月22日 あ号作戦戦闘詳報(サイパン島西方海面に於ける戦闘)(1)」
    • Ref.C08030711500「昭和19年6月13日~昭和19年6月22日 あ号作戦戦闘詳報(サイパン島西方海面に於ける戦闘)(2)」
    • Ref.C08030039800「昭和17年6月1日~昭和19年6月30日 あ号作戦戦時日誌戦闘詳報(1)」
    • Ref.C08030039900「昭和17年6月1日~昭和19年6月30日 あ号作戦戦時日誌戦闘詳報(2)」
    • Ref.C08030724100「昭和19年6月1日~昭和19年6月30日 第10戦隊戦時日誌」
  • 古村啓蔵回想録刊行会編『海の武将-古村啓蔵回想録』原書房、1982年2月。ISBN 4-562-01216-1 
  • 雑誌「丸」編集部、写真|日本の軍艦 第3巻 空母Ⅰ、光人社、1989年
  • 雑誌「世界の艦船」日本航空母艦史 1994年5月号増刊 No481 海人社、1994年
  • 小林昌信ほか『証言・昭和の戦争 戦艦「大和」檣頭下に死す』(光人社、1995)
    渡辺義雄『ああ「瑞鶴」飛行隊帰投せず』(瑞鶴戦闘機整備科員)
  • 長谷川藤一、軍艦メカニズム図鑑-日本の航空母艦、グランプリ出版、1997年
  • 学研編集部 『歴史群像太平洋戦史シリーズ 大鳳 信濃』 学習研究社 1999年
  • 学研編集部 編『歴史群像 太平洋戦史シリーズ8 マリアナ沖海戦』(学習研究社、2001年) ISBN 4-05-401264-7
  • 雑誌「歴史群像」編集部『「歴史群像」太平洋戦史シリーズ45・帝国海軍 真実の艦艇史」学習研究社、2005年、ISBN 4-05-603412-5
  • 川崎まなぶ著『マリアナ沖海戦 母艦搭乗員激闘の記録』(A5版ハードカバー)大日本絵画社 2007年
  • 川崎まなぶ『日本海軍の航空母艦 その生い立ちと戦歴』(大日本絵画、2009) ISBN 978-4-499-23003-2

脚注

  1. ^ 乗員1,751名、または1,649名とする資料もある。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay 潮書房『丸』 2011年6月号
  3. ^ 川島まなぶ『日本海軍の航空母艦』46-47頁
  4. ^ a b c d 川島まなぶ『日本海軍の航空母艦』46頁
  5. ^ a b c d e f g h 川島まなぶ『日本海軍の航空母艦』47頁
  6. ^ 川崎まなぶ著『マリアナ沖海戦 母艦搭乗員激闘の記録』226頁、山内常夫大尉と田中次男大尉の大鳳艦上での写真
  7. ^ 川島まなぶ『日本海軍の航空母艦』48頁。同一写真と人物について解説。
  8. ^ 川島まなぶ『日本海軍の航空母艦』48頁
  9. ^ 川島まなぶ『日本海軍の航空母艦』19頁
  10. ^ 川島まなぶ『日本海軍の航空母艦』19-20頁
  11. ^ 川崎まなぶ著『マリアナ沖海戦 母艦搭乗員激闘の記録』300頁 マリアナ沖開戦時の兵力より。
  12. ^ 雑誌「世界の艦船」日本航空母艦史 1994年5月号増刊 No481 海人社(150頁・大鳳一般配置図参照)
  13. ^ 学研歴史群像シリーズ「日本の航空母艦パーフェクトガイド」p98~100 大鳳説明文
  14. ^ 学研歴史群像シリーズ「日本の航空母艦パーフェクトガイド」p98~100、108~109 大鳳及び信濃説明文より
  15. ^ 「あ号作戦戦時日誌戦闘詳報(2)」pp.28「零戦34、天山12(3機は偵察型)、彗星18、二式艦上偵察機10、九九艦爆3」
  16. ^ 戦史叢書、機動部隊、マリアナ沖海戦の各著書でも、機数に相違点多し
  17. ^ 井上理二『駆逐艦磯風と三人の特年兵』154頁
  18. ^ a b #海の武将66頁
  19. ^ a b c d 「第10戦隊戦時日誌」pp.3
  20. ^ 「あ号作戦戦時日誌戦闘詳報(1)」pp.12、#海の武将67頁
  21. ^ #海の武将133頁
  22. ^ 半藤一利・秦都彦『太平洋戦争 日本海軍戦場の教訓』(PHP文庫、2001年)267頁
     秦は大鳳に乗艦していた大前敏一参謀の談話として紹介。
  23. ^ #海の武将69頁
  24. ^ #海の武将135頁
  25. ^ a b c 「あ号作戦戦闘詳報(サイパン島西方海面に於ける戦闘)(1)」pp.27、「あ号作戦戦時日誌戦闘詳報(1)」pp.30
  26. ^ a b c 文藝春秋臨時増刊『目で見る太平洋戦争史』(昭和48年12月増刊号)176-177頁
     塩山策一海軍技術大佐談。艦隊司令部付で「大鳳」に乗艦。
  27. ^ 「あ号作戦戦闘詳報(サイパン島西方海面に於ける戦闘)(1)」pp.25
  28. ^ a b 太平洋奇跡の作戦 キスカDVD収録インタビュー
  29. ^ 小林昌信『戦艦「大和」檣頭下に死す』256頁
  30. ^ 「あ号作戦戦闘詳報(サイパン島西方海面に於ける戦闘)(1)」pp.26、「あ号作戦戦時日誌戦闘詳報(1)」pp.29
  31. ^ #海の武将200頁
  32. ^ #海の武将69.200頁
  33. ^ 「あ号作戦戦闘詳報(サイパン島西方海面に於ける戦闘)(1)」pp.28
  34. ^ 「第10戦隊戦時日誌」pp.8、pp.12
  35. ^ 井上理二『駆逐艦磯風と三人の特年兵』158頁、阿部三郎『特攻大和艦隊』単行本161頁
  36. ^ 「あ号作戦戦闘詳報(サイパン島西方海面に於ける戦闘)(2)」pp.31、「あ号作戦戦時日誌戦闘詳報(1)」pp.64
  37. ^ 愛国顕彰ホームページ 祖国日本
     海軍兵学校第七十三期 英霊譜(艦船)昭和19年 あ号作戦[1]
  38. ^ a b 阿部三郎『特攻大和艦隊』単行本162頁

関連項目

外部リンク