ノート:大鳳 (空母)

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ミッドウェーの戦訓[編集]

大鳳が計画されたのは、開戦前の事なので、ミッドウェーの戦訓から操行化したというのは適切ではないかと。軍縮条約により、量の劣勢を質で補わなければならないという必要から装甲空母として計画されたというのが正しいかと思います。いかがでしょう?—以上の署名の無いコメントは、Marlborolike会話履歴)さんが 2004年4月20日 (火) 07:53 (UTC) に投稿したものです。[返信]

おっしゃるとおり、大鵬は1939年計画の艦です。しかし、起工(41年7月)から進水(43年4月)の間にミッドウェー海戦があり、その戦訓から当然何らかの手当て(つまり飛行甲板の対爆弾防御の強化)があったものと推測いたします。が、確かなデータの持ち合わせがありません。くわしいデータをお持ちの方がいらっしゃったら、ご教示願えれば幸いです。Miya.m 13:35 2004年4月21日 (UTC)

ミッドウェーの戦訓で飛行甲板の装甲を強化したという説は聞いたことがありません。最初にコメントした方の書いているとおりだと思います。また、格納庫は二層です。一層ではありません。--KZY 08:53 2004年6月5日 (UTC)

ブリッジは右か左か[編集]

80年代の脳の研究から、右利きの者には左がよく見え、左利きの者には右側がよく見えるということが指摘されるようになりました。その結果は空母のブリッジの変遷と同じであり、理由付けとなりました。--FUBUKI 2008年1月17日 (木) 15:14 (UTC)[返信]

ブリッジの位置関係と、右利きか左利きかは関係ないと思います。レシプロ機の場合は、プロペラの回転の関係上機体は逆回転すなわち左に回転しようとします。その結果として、機体は左に回転しようとする性質があり、そのため飛行針路が左にそれる性質があり、機体に関してもその回転を押さえようとした設計がされているものもあります。ヘリコプター#飛行の原理で書かれていますが、テールローターはこの回転を防止するためにあります。
また、航空機の操縦桿は普通右手でスロットルは左手で操作しますが。その操作を行う時は体の中心に向かって、つまり右手では左側に、左手では右側に向かって動かすのが自然な行動だと以前テレビでやっていました。
ブリッジが右側にあるのは、機体の性質と人間の身体的構造が理由と思います。--A6M4 2008年1月19日 (土) 13:28 (UTC)[返信]

日本海軍の空母にかんして、赤城、加賀、蒼竜、飛竜、翔翮までは、右左と位置が変更されてきましたが、その変遷と右に決定された理由は、着艦時にパイロットへの圧迫感が少ないという理由で落ち着いたことが多くの書籍に記述されています(軍艦メカー日本の空母、潮書房)。したがって、右にある理由は検証可能です。また、戦後の双発の戦闘機に機体の性質は全く問題にならないことを考えてください。ただ、右脳左脳の記載は(東大の入試にもでましたが)独自研究の色彩がこいので削除した方がいいかもしれません。(右脳革命 ブレークスリー,トーマスら)--FUBUKI 2008年1月20日 (日) 12:45 (UTC)[返信]

上記補足です。右脳左脳というのは「右利きの人は左脳で理論的な思考を行い、右脳で空間的な思考を行い、左利きはその反対で行う」という説です。分離脳の研究から提唱されだしました。一時、世間で流行した学説です。それによると、右利きの人間には左にある物により反応するということです。何か情報が出ていれば、少し立ち止まってみてくだされば幸いです。(追伸、以前テレビでやっていました。ーそれって、私もたぶん見たと思いますが、もしかして、大分前に放映されたテレビじゃないですか?)--FUBUKI 2008年1月20日 (日) 13:53 (UTC)[返信]

格納庫は本当に小さかった???[編集]

大鳳は装甲甲板を装備したため低重心化が必要で、そのため格納庫が狭く搭載機が少ない一因になっている・・・という内容の記載がありますが、大鳳の飛行甲板は翔鶴型と同じく2層構成で、図面を見る限り格納庫の全長も格段短くないようです。格納庫は本当に小さかったのでしょうか?--メルビル 2011年5月3日 (火) 14:08 (UTC)[返信]

・「世界の艦船 日本航空母艦史 1994☆5 増刊 No.481 5月号増刊」に付いている、空母大鳳一般配置図(150頁・折り込み)を見る限りでは、頁表面における艦内側面・飛行甲板図面での、上部格納庫、下部格納庫の図、また裏面における、上甲板図、下甲板図を見る限り、メルビル氏の言われるように格納庫は二層構造であり、その広さも氏の言われるように余り変わらないと判断します。(fr50~fr225・リフト部分を含む)よって、メルビル氏を支持するものであります。

 蛇足ですが、あ号作戦時、二航戦の彗星艦爆9機を大鳳に編成替えの上移載する話が出ており それ自体が、露天繁止を含めて大鳳の艦載機格納数は、別段翔鶴クラスと変わるものではないと言う史実上の傍証ではないかと思います。これとは違うケースでは、南太平洋開戦直前に、二航戦旗艦の飛鷹の旗艦が故障、飛鷹搭載機を隼鷹に移載する機と、陸上基地に避退させる機に分けることになりましたが、これは隼鷹の搭載能力(+整備能力)を示したものと考えております。

さて、タウイタウイの時、もし彗星が移載されていればこうなった訳です(5月中頃・機動部隊より)

  • 零式艦戦五二型:19機(6/13に2機事故喪失)
  • 彗星一一型:17機+9機(隼鷹より移載)
  • 天山一二型:14機(6/13に1機事故喪失)
  • 彗星一一型(艦偵型): 3機
  • 九九式艦爆: 1機(6/13に2機事故喪失)
  • 合計:63機(隼鷹移載分を含む)
  • +5機(タウイタウイ出撃後事故損失分)=68機(喪失無しの場合)

よって私も大鳳の艦載機搭載能力は、翔鶴クラスと変わるものではないと考えています。

Kanakana89 2011年6月7日 (火) 09:17 (UTC)[返信]

飛行甲板の材質について[編集]

現在では木貼りだったという説が有力で、そのように書いてある資料が多いように思います。なお筆者との個人的な話や掲示板での討論の結果は、wikipediaには馴染みません。間違った記載内容、間違った認識であったも、書物に現状書いてあることが優先されます。筆者が例え自分の執筆内容を訂正するようなことを自分のプログなどに記載しても、特記事項に少し書く程度に留めておくべきではないでしょうか?--メルビル 2011年6月7日 (火) 01:31 (UTC)[返信]


・メルビル氏へ、ご質問に関してご返答申し上げます。

 まず、誤解があるように思われますので、そこ事について申し上げますと実際の所、私も「木甲板ではないか」という説を持っている者であります。

 ですので、私は木甲板は絶対にあり得ないという極端な記述をしたことは過去ありません。ただ、疑問が残るという記述はしたことがありますが、それは、wikipediaにおける「中立的な観点・諸説の併記」に準じているものと信じます。だからこそ、貴殿の当該部分に関する御懸念に関しても、コメントアウトするような事はせずに「そう言う議論が尚も存在している」と言う事を付記すべきと考えている次第です。

 もし木甲板という説が立証されれば。大鳳の項目には「木甲板定説に至るまでの経緯」という項目を設置する必要があると考えるからです。それと、そうなった場合は、飛行甲板のどの範囲が木甲板だったかという問題が新たに生ずるでしょう。

 私が懸念としているのは、あの写真の徹底した追試が必要と感じていることです。そして、それがあの写真の信憑性を高める唯一の道と考えているからです。階級章とはそれだけ重要なものなのです。ですから決定打だったかもしれない写真に対する、あの詰めの甘さが実に惜しいのです。

 何れにせよ「有力である」「そのように書いてある資料が多いように思います。」と言う言葉自体が主観ではないでしょうか? 物事にはいろんな視点(説)が存在しており、それを無視することは、wikipediaにおける公平な視点にも欠けると思われます。蛇足ですが、以下の格言を読んでご考慮頂ければ幸いです

ホウ恭が邯鄲に人質に出る時、魏王に問うた。
「もし誰かが"街に虎が出た"といったら信じますか」
「信じない」
「三人が言ったら」「信じる」
「無いと判りきったことでも三人が言っただけで信じてしまう。
私の留守に私のことをとやかく言う者はもっと多い。このことをよくお察しください。」
邯鄲から帰国すると、王は讒言に心を動かされていて、ホウ恭はもう謁見出来なかった。

私は、木甲板、ラテックス、鉄甲板(そのまま)の三説併設が、現状は望ましいと考えます。

Kanakana89 2011年6月7日 (火) 09:17 (UTC)[返信]

まずKanakana89さんが木甲板派というのは存じ上げていましたよ?書き方のことをご指摘しているのです。鋼板のままの甲板であったという記載は書物で拝見したことがありません。ラテックス張りは福井氏が作った模型がそうであったというだけで、他の書物の言及はありません。木甲板であったとする書物は複数存在すると思います。以上よりwiki的には他に明らかな出典がない以上、木甲板と記載すべきではないでしょうか?wikiは議論をする場ではありませんし、真実を追究する場所でもないのです。極端な話、嘘であっても問題ないのです。上記のホウ恭の話でも、「虎が出た」を複数のソースで報道され、第三者にもそれが確認できるなら記載は問題ないです。「無いと判りきったことでも」とはいいますが、そう言うなら「無いと判りきったこと」を証明する必要があります。本当に「虎が出た」というのが嘘なら、嘘である旨が報道されるはずですから、そのことを出典と合わせて併記すればよい事だと思います。物事にはいろんな視点(説)が存在するのは認めますが、それを記載するなら明確な出典が求められます。○○という書物ではラテックス張り、××の回想記には鋼板張りと記載されている・・・という書き方なら問題ありませんが、そのソースとしてプログや掲示板での議論を当てるのは好ましくないということを申し上げているのです。飛行甲板のどの範囲が木甲板だったかいう点については最近発売された丸の特集号に明記されています(内容がホントかどうかは私も知りませんよ?ただ反論するには他の出典を示す必要があります)。また「あの写真の徹底した追試が必要」といわれますが、百科事典(wikipedia)はその検証の場所には相応しくありませんよ?--メルビル 2011年6月7日 (火) 15:39 (UTC)[返信]
追加です。Kanakana89さんにおかれましては良かれと思っての編集かと思います。通常この程度のことでは私も細かいことは言うつもりは無いのですが、編集合戦気味になっていたので、ノートページで議論の場を作った訳です。--メルビル 2011年6月7日 (火) 16:10 (UTC)[返信]

・メルビル氏へ、ご返答に関して申し上げます。

 書き方についてはその通りであり、私も異論はありませんし、今後は注意する次第であります。

 さて甲板についてですが、ご指摘の通り「そのまま鋼板」であったと具体的に書かれた書物を、この歳に至るも私は寡聞にして知りません。せいぜい「重装な感じを受けた」「装甲板を貼り~」という文章を見かけるのみです(大抵の書物が右に倣えの如く)。また、竣工後三ヶ月余の命であった大鳳とはいえ、その大鳳に発着を繰り返した601航空隊の各搭乗員、または他の航空隊の搭乗員も甲板がどうだったか?と言う点に触れたコメントは殆ど皆無ではないかと思います(一言ぐらい有ってもいいと思いますが、逆説的に言えば今までの日本空母と同じ木甲板だったので気にもしなかったが正解でしょう)。しかし、元乗組員の証言では木甲板であったというコメントは小数ながら有り、その流れの先に、あの写真が出てきたと理解しています。私があの写真を重視する理由はこの辺にある訳です。無論、その様な議論の土台を百科事典であるwikipediaは担保していないことは、ご指摘の通り重々承知の上でありますが、そもそもの根幹だったので、敢えて推した訳であります。

 年寄りの冷や水といわれればそれまでですが、その辺の事情を斟酌して頂けたことは感謝しておりますと同時に、航空母艦大鳳の項目に、混乱を招いたことを深くお詫び申し上げる次第です。

 話しはずれましたが、丸については、その真偽は後の追試に任せるにせよ、その様な流れによって掲載されたものと信じます。故に、メルビル氏の忠告を真摯に受け止めたいと考えます。よって甲板の項目については、私の記述前の状態に戻す事で決着として頂けると幸いであります(過去の履歴を参考に元に戻しました)

・後は蛇足です。

>良かれと思っての編集かと思います~

 いえいえ、要するに時代が変わりつつあると言うことです。私も頭の固い世代に入り込みつつあるという訳です。

>ノートページで議論の場を作った訳です。

 ご配慮感謝いたします。最後に、あえない最期を遂げながらも、大鳳とは本当に魅惑的な航空母艦であると考えるものであります。

Kanakana89 2011年6月7日 (火) 17:48 (UTC)[返信]

魚雷に対して特攻した小松の誤植に関して[編集]

平素からウィキペディアの編集に携わっていない為、 書き方が間違っておりましたら申し訳御座いません。

私は、本項に登場する小松の子孫に当たる者です。 文中では「小松咲男(サキオ)」と表記がありますが、 正しくは「小松幸男(サチオ)」です。

現段階ではウィキペディア様をはじめ、 多くの書籍で誤植の字が採用されている為、 物証に乏しいですが、 「”小松幸男” 魚雷」と検索して頂ければ、 少なからず、正しい字での掲載ページもヒット致します。

また、お墓や戸籍にも「幸男」とありますが、 離島に存在する為、直ぐに証明する事が困難であります。

どの様な方法を持って証明すれば宜しいでしょうか。 宜しくお願いします。

また署名なのですが、 本名を名乗りたいところなのですが、 私の同姓同名は日本に現時点で1人しか、 ネット上に存在せず、簡単に個人情報が 引き出せる為苗字のみ名乗らせて頂きます。 非礼をお許し下さい。

--Kksyokora会話2012年10月23日 (火) 11:16 (UTC)小松[返信]

アジア歴史資料センターにて検索したところ、該戦闘に参加した六〇一空の行動調書中に、艦爆隊各機の搭乗員名、並びに各機の状況が記載されておりました。確かに「小松咲男」氏ではなく「小松幸男」氏であり、かつ最終状況が自爆と記載されているところから、該当箇所に出典を追記し修正いたしました。では--114.148.60.38 2012年10月23日 (火) 11:58 (UTC)[返信]

艦内の神社に「不沈空母」[編集]

2015年4月24日の現行版で、要出典タグが付いたままの状態になっていますが、どなたか出典をご存じないですか?。私が記載した文章ではないのですが、私もどこかの書物で読んだ記憶があります。たしか「丸」関係の書物だったような・・・、忘れてしまいました~--メルビル会話2015年4月24日 (金) 04:46 (UTC)[返信]