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古代エジプト

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紀元前3150年から紀元前30年までの王朝時代における主要都市及び場所を示した古代エジプトの地図
『エジプトのイスラエル人』(エドワード・ポインター・1867年画)

古代エジプト(こだいエジプト)は、古代エジプトに対する呼称。具体的には紀元前3000年頃に始まった第1王朝から紀元前332年アレクサンドロス大王によって滅ぼされるまでの時代を指す。

古い時代から砂漠が広がっていたため、ナイル川流域分の面積だけが居住に適しており、主な活動はその中で行われた。ナイル川の上流は谷合でありナイル川1本だけが流れ、下流はデルタ地帯(ナイル川デルタ)が広がっている。最初に上流地域(上エジプト)と下流地域(下エジプト[1]でそれぞれ違った文化が発展した後に統一されたため、ファラオ)の称号の中に「上下エジプト王」という部分が残り、古代エジプト人も自国のことを「二つの国」と呼んでいた。

ナイル川は毎年氾濫を起こし、肥えた土を下流に広げたことがエジプトの繁栄のもとだといわれる。ナイル川の氾濫を正確に予測する必要から天文観測が行われ、太陽暦が作られた。太陽とシリウス星が同時に昇る頃、ナイル川は氾濫したという。また、氾濫が収まった後に農地を元通り配分するため、測量術幾何学天文学が発達した。

エジプト文明と並ぶ最初期における農耕文明の一つであるメソポタミア文明が、民族移動の交差点にあたり終始異民族の侵入を被り支配民族が代わったのと比べ、地理的に孤立した位置にあったエジプトは比較的安定しており、部族社会が城壁を廻らせて成立する都市国家の痕跡は今の所発見されていない。

古代エジプトの歴史

古代エジプト前史

古代エジプト人は、元号のように「『王の名前』の統治何年目」のように歴史を記録していた。そのため、絶対的な年代表記法に置き換えた時に、幾分かの誤差があるだろうと言われる。初期王朝の始まりも、5年から20年ほどの誤差がある可能性が指摘されている。

古代エジプトは、次の時代に区分されている。

エジプト原始王朝時代(黎明期、上エジプト、下エジプト)

ロゼッタ・ストーン。上から順に、古代エジプトのヒエログリフデモティック(草書体)、ギリシア語を用いて同じ内容の文章が記されている。

国家の統一前。

上エジプト 都市:ヒエロコンポリス、ナカダ、アビュドス、クストゥール、エレファンティネ
下エジプト
上下エジプトの中心地:メンフィス

エジプト初期王朝時代(第1 - 2王朝)

国家の統一

首都:メン・ネフェル
  • 紀元前3150年頃、上エジプトのナルメル王(メニ王、ホル・アハ王とも)上下エジプトの統一
    • 上エジプトの王であり、下エジプトを軍事的に征服して上下エジプトを統一した。
    • 上下エジプトの王として確認される最古の王である。ナルメル王よりも古い上下エジプトの王がいた可能性もある。

エジプト古王国時代(第3 - 6王朝)

ギーザ三大ピラミッド。左手前から、メンカウラー王カフラー王クフ王のピラミッド。

中央政権が安定。

首都:メンフィス

エジプト第1中間期(第7 - 10王朝)

エジプト中王国時代(第11 - 12王朝)

首都:テーベ

エジプト第2中間期(第13 - 17王朝)

エジプト新王国時代(第18 - 20王朝)

紀元前15世紀における古代エジプトの最大版図
ツタンカーメン王の黄金マスク

領土がナイル川流域を越えて最大版図となり、「帝国時代」とも呼ばれる。

首都:テーベ

エジプト第3中間期(大司祭国家、第21 - 26王朝)

残る1000年は、他国に対する軍事的劣勢が続く。

エジプト末期王朝(第27 - 31王朝)

プトレマイオス朝

ギリシャ人による王朝。

社会

ファラオ (新王国時代の墓の壁画に基づく画)

紀元前3800年頃にビールの生産が始まり、紀元前3500年頃にワインの生産が始まった。ワインブドウは麦と違い外来作物であり、ワインは高貴な酒で一般市民はビールを飲んだが、後に生産量が増えて市民にも広まった。

ファラオは神権により支配した皇帝。わずかな例外を除き男性。継承権は第一皇女にあり、したがって第一皇女の夫がファラオになる。名前の一部には神の名前が含まれた。人口の1%程度の少ない貴族階級が土地を所有し支配していた。残る99%であるほとんどの平民は小作だった。ファラオによって土地を与えられることにより貴族となるが、ファラオが交替したり、王朝が変わると、土地を取り上げられ貴族ではなくなる事も多く、貴族は必ずしも安定した地位にあるわけではなかった。

1日を24時間としたのは、エジプトだと言われている。昼と夜の時間をそれぞれ10時間、計20時間とされていた。しかしその後、昼と夜との境界の時間をそれぞれに加え、24時間と制定されたとされる説が有力である。[要出典]

経済

農業

ナイル川の氾濫により農耕に適した土壌が得られた。大麦と小麦が中心であり、野菜ではタマネギ、ニンニク、ニラ、ラディッシュ、レタスなど。豆類ではソラマメ、ヒヨコ豆。果実ではブドウ、ナツメヤシ、イチジク、ザクロなどがあった。外国から伝わった作物としては、新王国時代にリンゴ、プラム、オリーブ、スイカ、メロン。プトレマイオス朝時代にはモモ、ナシなどが栽培された。

古王国時代から中央集権の管理下におかれており、水利監督官は洪水の水位によって収穫量を予測した。耕地面積や収穫量は記録され、収穫量をもとに徴税が行われて国庫に貯蔵され、食料不足の際には再配分された。農民の大部分は農奴であったが、新王国時代になると報酬によって雇われる農民や、自立農民が増加した[2]

交易

エジプト国内においては木材・鉱物資源が乏しかったため、金、銅、鉄、木材(レバノン杉)、瑠璃などをシリア、パレスチナ、エチオピア、イラク、イラン、アナトリア、アフガニスタン等から輸入していた。

通貨

貨幣には貴金属が使われた。初期は秤量貨幣だったが、後期には鋳造貨幣が用いられた。

興味深い例としては、穀物を倉庫に預けた「預り証」が、通貨として使われたこともある。穀物は古くなると価値が落ちるため、この通貨は時間の経過とともに貨幣価値が落ちていく。結果として、通貨を何かと交換して手にいれたら、出来るだけ早く他の物と交換するという行為が行われたため、流通が早まった。その結果、古代エジプトの経済が発達したという説があり、地域通貨の研究者によって注目されている。 また、ローマの影響下で貨幣が使われるようになった結果、「価値の減っていく通貨」による流通の促進が止まり、貨幣による富の蓄積が行われるようになりエジプトの経済が没落したという説もある[誰によって?]

文化

数学

実用的な数学が用いられ、課税の調査や生産物の貯蔵と配分、現物支給の報酬の計算などに単位分数の計算が非常に多く用いられた。また、幾何学は耕地の測量や、ピラミッドをはじめとする建設などに活用された。

文学

シュメール文学と共に、世界最古の文学と考えられている。古王国時代には、讃歌や詩、自伝的追悼文などの文学的作品が存在していた。中王国時代からは物語文学も現れ、悲嘆文学、知恵文学教訓文学などのジャンルが存在した『シヌヘの物語』などの作品は、現在まで伝わっている。

出典・脚注

  1. ^ 上下というのはナイル川の上流・下流という意味であり、ナイル川は北に向かって流れているため、北にあたる地域が下エジプトである(逆もまた然り)。
  2. ^ 吉村作治『ファラオの食卓』 1章

関連項目

著名な研究者

外部リンク