エジプト中王国

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エジプト中王国(エジプトちゅうおうこく 紀元前2040年頃 - 紀元前1782年頃)は、古代エジプト史の時代区分。第11王朝メンチュヘテプ2世(前2060年 - 前2010年)によるエジプト統一から、第12王朝の終了までの時代を指す場合が多い。ただし、第13王朝第14王朝を中王国時代に分類する考え方も支持を受けている。第1中間期の長い混乱を脱して様々な文化芸術が花開いた時代であり、エジプト文学の古典といわれる作品群もこの時代に形成された。

概略[編集]

第6王朝末期の混乱でメンフィスを拠点とした古王国が崩壊した後、第1中間期と呼ばれる長い混乱を経て、ナイル三角州に接したメンフィスではなく、ずっと上流のテーベ(古代エジプト語:ネウト、現在のルクソール[1])に成立した第11王朝の王メンチュヘテプ2世が、ヘラクレオポリス(古代エジプト語:ネンネス[2])を拠点にしていた第10王朝を倒し、紀元前2040年頃にエジプトを再統一した。これ以後を中王国と呼ぶ。テーベの政権によってエジプトが統一されたことで、テーベのエジプトにおける重要性は著しく高まった。

メンチュヘテプ2世墓

第11王朝は中央集権化を急ぎ、メンチュヘテプ2世の強力な指導力の下で敵対的な州侯や地方有力者の地位を退け、王に忠実な州侯を任じるとともに、中央政府にはテーベ出身の役人を多用した。しかし、このような急速な中央集権化は各地の有力者の反発を買い、メンチュヘテプ2世の死後20年余り後、地位を失った有力者らの支持を背景とした宰相アメンエムハト1世(前1991年 - 前1962年)によるクーデターによって第11王朝の政権は崩壊し、新たに第12王朝が成立した(紀元前1991年頃)。アメンエムハト1世は首都を古王国時代の首都メンフィスに近い場所に築いたイチ・タウィへと遷し、第11王朝時代に退けられた有力者達の地位を回復させる一方、息子のセンウセルト1世(前1971年 - 前1926年)を自分の生きてるうちに共同王につけるなど王権の安定化策を図った。

しかし、有力者達の支持によって政権を奪った第12王朝の王達も第11王朝の王達と同じく中央集権化と地方有力者の勢力削減を目指した。彼らは急激な改革のためにクーデターに倒れた第11王朝の轍を避けるべく、中央集権化をゆっくりと長期間かけて推し進めた。こうした努力は遂にセンウセルト3世(前1878年 - 前1841年)の時代に結実した。彼はそれまでの王達によって養成されていた官僚達を活用し「行政改革」を断行、地方有力者達の勢力を弱体化させて中央集権化を完了した。これによって強力な官僚機構が成立したが、特定の部局や官僚に勢力が集中するのを避けるため、1つの事項の決定に必ず複数部局が関与する方式が採用された。全国土は北、南、最南の三つに分割され、州の自治権も大幅に削減された。

センウセルト3世の跡を継いだアメンエムハト3世(前1842年 - 前1797年)も安定した統治を続けたが、彼の死後間もなく、第12王朝では女王セベクネフェルが即位した。女王の即位は男系王統の断絶を示すものである可能性が高い。セベクネフェル女王の治世を以って第12王朝の統治は終わり、後継政権として第13王朝が成立した。第13王朝時代には王権は著しく弱体化したが、第12王朝時代に形成された官僚機構がそのまま引き継がれ、その最高位である宰相が事実上の統治者として支配を継続した。しかし第13王朝時代の終盤には、下エジプトナイル川デルタ地帯)東部にクソイスを拠点とした第14王朝が成立してエジプトの統一は再び崩壊した。中央政権が崩壊したエジプトではヒクソスと呼ばれる異民族によって第15第16王朝が打ち立てられて行くことになる。

なお、通常第12王朝の崩壊を以って第2中間期が始まったとされるが、第13王朝を中王国に含める考え方も有力である。また第14王朝の歴史も中王国時代に含める学者もいる。

エジプト古典文学の隆盛[編集]

中王国時代にはエジプト文学を代表する古典が次々と生み出された。これらの作品は当時の政治や社会、宗教を色濃く映し出しており、文学作品を通じて中王国の社会や政策を知ることができる。

中王国以前の文学[編集]

古代エジプト語はその変化に基づいて古エジプト語、中エジプト語、新エジプト語、デモティックコプト語の5つに分類されている。古エジプト語とよばれるのは初期王朝時代から第1中間期前半(第8王朝)時代頃までのエジプト語である。中エジプト語[3]は、第1中間期から新王国時代までのエジプト語である。中エジプト語は古エジプト語に比べ細かいニュアンスなどの表現が可能になっており、文章語としてほぼ完成された物であった。そして第1中間期の後半から中王国時代にかけて、この中エジプト語を用いてエジプト文学の古典が次々と生み出されていくのである。

エジプトの文学作品は古王国時代には余り知られておらず、末期頃になるとピラミッド・テキストや墓に書かれる自伝などが現れるようになる。第1中間期時代なると『イプエルの訓戒』や『生活に疲れた者の魂との対話』、『メリカラー王への教訓』など当時の世相を反映した文学作品が中エジプト語で残されるようになり、次第に文学が隆盛していく様が見て取れる。古王国時代に成立したと思われる文学作品でも現存するものは中エジプト語のバージョンである場合も多い[4]

これらの作品についてはエジプト第1中間期等の記事を参照

政治的文学[編集]

中王国時代に入ると王の利害を強く映し出した政治的文学が隆盛した。エジプトでは第1中間期に統一政府の崩壊に伴って統一的な文字教育が失われた。第1中間期に記述されたヒエラティックと呼ばれる草書体の文字は地域的な変形が見受けられている。しかし統一政権が成立すると、政府は官僚機構の運営にあたる書記を養成するために書記養成学校を築いた。主として中王国時代の文学を担ったのはここで文字を学んだ書記たちであった。

書記達は王と密接に結びついており、彼らを読者として想定した作品群は王の意向を色濃く滲ませたものとなった。フランスのエジプト学者ポズネールは、第12王朝時代に成立した文学は王の利害と密接に結びつき、政治宣伝を目的としたものであると指摘している。こうした文学作品の中でも代表的な物は『シヌヘの物語』、『ネフェルティの予言』、『アメンエムハト1世の教訓』などであり、いずれも政治的傾向を強く持った作品となっている。『ネフェルティの予言』はあからさまなまでにアメンエムハト1世の即位を正当化することを目的として書かれた作品であり、『アメンエムハト1世の教訓』はアメンエムハト1世の暗殺という危機を克服することを主題としている。

『シヌヘの物語』も王讃歌を思わせる表現を用いてシヌヘのエジプト王朝に対する不変の忠誠心が表現されるなど、上記二つの作品と同じ系列にある作品である。しかし『シヌヘの物語』の場合、それ以上にその巧みな構成と文章表現によって、数百年以上にわたってエジプト世界で最も好まれた文学作品であったという点において特筆に価する。このため本作品はエジプト文学における「古典中の古典」とも評されている。

これら三つの作品のあらすじ等についてはエジプト第12王朝の記事を参照

教訓文学[編集]

中王国時代には教訓文学と呼ばれる多数の作品も作られた。第1中間期を通じて各地で勢力を延ばした州侯やその他の有力者達は、中王国の覇権を認めてはいても無視できない力を持っていた。上述したように第11王朝のメンチュヘテプ2世はその指導力を持って彼らの地位を奪い自分の意のままになる人物で固めようとしたし、第12王朝においても中央集権化のために長期的な努力が行われた。中央集権化と地方有力者への対抗上、官僚機構の整備は急務となった。そのため上述のように書記養成学校が政府によって用意され、第1中間期の「社会革命」を通じて生まれていた富裕民の子弟等を対象に教育が施された。彼らは子供を長期間学校に行かせることが可能な経済力を持ち、地方有力者の子弟よりも王への忠誠心を持たせやすいと考えられたのである。

こうした教育政策を背景に生まれたのは『ケミイトの書[5]』や『ドゥアケティの教訓』と呼ばれる作品である。どちらも書記養成学校における教科書として使用するために作られた作品である。『ケミイトの書』は書記になるために必要な知識を初学者に教えるためのもので、書簡を書く際の書式や慣用表現、生活態度などを記したものである。

『ドゥアケティの教訓』は、職人や農夫、洗濯屋など様々な職業の辛さ、惨めさを列挙するとともに、こういった職業についている子弟を対象に家業を継ぐよりは書記になったほうがよほど良い生活を送ることができるという説明をするもので、書記養成学校へ庶民の子弟を勧誘する事を重視している点が特徴である。

他に『忠臣の教訓』や『ある男の教訓』などの作品も残されており、こちらは一般庶民の子弟を対象に王に対する忠誠とそれによって得られる物質的利益を説明する物である。

こうして養成された新しいエリート層が、この時代の数多くの文学作品を作り、そして後世に伝えたのであった。

宗教[編集]

中王国は第11、第12王朝というテーベ政権によって成立したため、テーベで崇拝された神の重要性が高まった。とりわけ上エジプト第4県の主神であったアメン神は飛躍的にその地位を向上させることになった。アメン神が初めて歴史の表舞台に現れるのは第11王朝時代のことであり、第12王朝時代以降は王名にも頻繁に用いられるようになる。この神は後に太陽神ラーと集合したアメン・ラーとしてエジプトの国家神となっていくのである。

いま一つ重要な神がオシリス神である。オシリス神への信仰は古王国末期から第1中間期を経て広く一般庶民にまで広まった。「人間は死ねば誰もがオシリス神となり再生、復活する。」という分かりやすい思想は人々の心を捉えていた。そしてオシリス神の重要な聖地であるアビュドスへの巡礼(アビュドス巡礼)は中王国時代には最も重要な宗教行事の1つとなった[6]

アビュドス巡礼の重要な証拠が、アビュドスのオシリス神殿周辺で発見されている中王国時代のステラ(石碑)である。このステラは、オシリス神に対して個人によって奉納されたもので、奉納者とその家族の名前を記した粗末な物が多い。中には個人用の記念祠堂を立ててその中にステラを収める富裕な人々もいた。貧富を問わず一般の庶民までもがアビュドスに訪れて復活と再生を祈っていたのである。

中王国時代の遺構[編集]

中王国時代の生活風景を写した彫刻

エジプトの再統一によって各地の採石場が使用可能になり、労働力の大量投入も容易になったことから中王国時代には大規模建築が活発に行われている。テーベ近郊のデイル・アル・バハリに作られたメンチュヘテプ2世葬祭殿はその最初を飾る偉大な建造物である。数多くの遺跡が残っているが、ここでは特に重要な物の一部を列挙する。

メンチュヘテプ2世の王墓
テーベ近郊のデイル・アル・バハリに作られた。内部からメンチュヘテプ2世の坐像やアラバスター製の石棺などが発見されているが、石棺の中は見つかった時には空であった。ナイル河畔の耕作地帯から1kmを超える斜道が神殿まで続き、中央のピラミッドを乗せた大基壇、断崖の地下深くに作られた埋葬室などが発見されている。
宰相メケトラーの墓
メケトラーはメンチュヘテプ2世時代の宰相の1人である。彼の墓はメンチュヘテプ2世の墓の周辺に、他の家臣などの墓とともに造営されていた。彼の墓からは大工工房や漁師の帆掛け舟など、当時の日常生活を描写した精緻な木造彫刻が発見されており、日常生活を知る上で一級の史料を提供している。
ヘリオポリスに残るセンウセルト1世のオベリスク
センウセルト1世のオベリスク
センウセルト1世がヘリオポリスに建立したオベリスク。彼のセド祭[7]のために二本建てられたうちの片方が現在でも残っている。これは立ったまま現存するオベリスクとしては最古の物である。
カフン遺跡
カフンの住居跡は、古代エジプト時代の町の遺跡の中でも最も保存状態の良いものの1つである。この町は第12王朝のセンウセルト2世がアル・ラフーンにピラミッドを築いた時に、建設にあたる労働者が住んだ町である。古代エジプト時代にはヘテプ・センウセルトと呼ばれた。全体は東西391m、南北350mの外壁に囲まれており、多種多様な住居跡が発見されている。最も小さいタイプの住居跡は面積10平方m、部屋数2つのタイプのものであり、最も大きいものでは中庭を囲む2400平方mの邸宅などが発見されている。この町は、ある時点で突如放棄されたらしく、多くの遺物がそのまま残されていた。なお、遺跡の南半分は耕作地にされ破壊されてしまっているが、それでも極めて貴重な遺跡であることには変わりない[8]
ブヘン遺跡
ブヘンは第12王朝のセンウセルト3世ヌビア地方の守りのために築いた要塞の遺跡である。全体を分厚い日干し煉瓦の城壁が2重に取り巻く大要塞であった。遺跡の一部はアスワン・ハイ・ダムの建設のために現在ナセル湖の湖底に沈んでいる。
ケンジェル王のピラミッド
ケンジェル王は第13王朝の王である。時代的には中王国とも第2中間期とも分類されることのある時代であるが、ケンジェル王のピラミッドは中王国時代に継続して行われていたピラミッド建設の最後の例として重要である。このピラミッドは古代エジプトのピラミッドのうち現存する最後のもので、サッカラに比較的良好な保存状態で残されている。

脚注[編集]

  1. ^ 紀元前3世紀のエジプトの歴史家マネトの記録ではディオスポリスマグナと呼ばれている。これはゼウスの大都市の意であり、この都市がネウト・アメンアメンの都市)と呼ばれたことに対応したものである。この都市は古くはヌエと呼ばれ、旧約聖書ではと呼ばれている。ヌエとは大都市の意である。新王国時代にはワス、ワセト、ウェセ(権杖)とも呼ばれた。
  2. ^ ヘラクレオポリスという名は、この都市で祭られていた地方神ヘリシェフギリシア人がハルサフェスと呼び、名前の類似等からヘラクレスと同一視したことによって付けられたギリシア語名である。
  3. ^ 中エジプト語についてはhttp://www.geocities.jp/kmt_yoko/index.htmlに、西村洋子による詳細な解説がある。
  4. ^ 例えば第5王朝時代の王権側の立場を色濃く反映していると考えられる『魔法使いジェディの物語[要出典]』も、現存するのはウェストカー・パピルスと呼ばれるパピルスに記された中エジプト語のテキストである。
  5. ^ ケミイトと言う語は「完全なもの」、或いは「総括」などと訳される。参考文献「ドゥアケティの教訓」『筑摩世界文学大系1 古代オリエント集』の解説を参照。
  6. ^ アビュドス巡礼についてはエジプト第1中間期の記事も参照。
  7. ^ 在位中に行われる王の再生の儀式
  8. ^ この遺跡については参考文献『生活の世界歴史1 古代オリエントの生活』に詳しい。

参考文献[編集]