エジプト第12王朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

古代エジプトの王朝
王朝誕生前のエジプト
エジプト原始王朝
エジプト初期王朝
第1 第2
エジプト古王国
第3 第4 第5 第6
エジプト第1中間期
第7 第8 第9 第10
エジプト中王国
第11 第12
エジプト第2中間期
第13 第14 第15 第16 第17
エジプト新王国
第18 第19 第20
エジプト第3中間期
第21 第22 第23 第24 第25 第26
エジプト末期王朝
第27 第28 第29 第30 第31
グレコ・ローマン時代
アレクサンドロス大王
プトレマイオス朝
エジプト属州

エジプト第12王朝紀元前1991年頃 - 紀元前1782年頃)は、エジプト中王国時代の古代エジプト王朝。第1中間期を終わらせた第11王朝に継続する政権であった。中王国時代には文章語としての中期エジプト語が確立され、この王朝に纏わる数多くの文学作品が今日にまで伝えられている。第12王朝時代は中王国時代の大部分を占め、崩壊を以てエジプト第2中間期の始まりとされる場合が多い[1]

目次

[編集] 歴史

[編集] 成立

ヘリオポリスに残るセンウセルト1世像
ヘリオポリスに残るセンウセルト1世像

第12王朝の初代王はアメンエムハト1世である。第11王朝最後の王メンチュヘテプ4世の治世第2年に王のための石棺の材料を得るために派遣された遠征隊の司令官の名前が宰相のアメンエムハトであることから、このアメンエムハトとアメンエムハト1世が同一人物であり、クーデターによって王位を簒奪したのであろうと言われている。『ネフェルティの予言』と呼ばれる文書によればアメンエムハト1世は上エジプト第1県の出身であったとされる。エレファンティネを首都とするこの州の厳密な境界ははっきりしないが、南はヌビアであるためアメンエムハト1世にヌビア人の血が入っているという説も存在する。

果てしない混乱の続いた第1中間期の終焉は人々の間に「救世主」によって救われたのだという観念を生み出した。こうした風潮を利用した第12王朝の王達は、先行した第11王朝の統一事業を無視し、文学作品を通じて統一者、救済者であるのはアメンエムハト1世であると言う政治宣伝を繰り広げた。

『ネフェルティの予言』は理想化された過去の時代である古王国時代の第4王朝を舞台にして神官ネフェルティがスネフェル王に予言を聞かせるという形式の文書である。この文書によればネフェルティはスネフェル王の求めに応じて、全土が混乱と掠奪に晒されることや下エジプトナイル川デルタ地方)へのアジア人の侵入のあることを語った。そしてその混乱状態を救済する者として、南方からアメニ(アメンエムハト1世の通称)が現れ、彼が国土を統一するであろうと予言したとする。この作品はアメンエムハト1世の在位中か死亡直後に作成されたと考えられている。エジプトの混乱について述べる部分は『イプエルの訓戒[2]など他の文学作品の描写と符合し、明らかに第1中間期の社会を描いたものである。そして混乱を収める者としてアメンエムハト1世が登場するとし、しかもそれを数百年以上前に予言されていたこととすることで信頼性を得ようと試みている。

センウセルト1世が建設した小聖堂。センウセルト1世のの建てた建造物で現存する例は少ない。この建物は解体されて別の建物に転用されていたが、それを回収して再建された。
センウセルト1世が建設した小聖堂。センウセルト1世のの建てた建造物で現存する例は少ない。この建物は解体されて別の建物に転用されていたが、それを回収して再建された。

正統性を確保するため、また戦略的な理由から、首都をテーベ(古代エジプト語:ネウト、現在のルクソール[3])から古王国時代の首都メンフィスのそばに建設したイチ・タウィへと移した。「二つの土地の征服者」と言う意味の名を持つこの新首都は、正確な位置が未だ不明なままである。そして近郊のエル・リシュトピラミッド複合体の建設を行い、旧秩序の復活者としての立場を明確なものとしていった。更にアメンエムハト1世は第11王朝時代に任命されていた州侯を罷免し、王室に敵対的であるとして排除された有力者の地位を復活させた。これはアメンエムハト1世の即位が第11王朝の政策に不満を持つ有力者の支持を背景としたものであったためである。しかし、家臣が強大な権力を持つことは王権の側からは好ましいことであるはずも無く、第12王朝の歴代王は長期的には州侯などの権力を削いでいく方針を持って統治に当たった。そして息子のセンウセルト1世がアメンエムハト1世によって共同王に任命された。これによって王位継承を確かな物にしようとしたのであるが、これは後に大きな効果を発揮した。アメンエムハト1世が国内基盤の整備に力を注ぐ一方で、センウセルト1世は対外遠征を取り仕切り、シナイ半島リビア人への遠征を行った。

大きな業績をあげたアメンエムハト1世であったが、治世第30年(紀元前1962年頃)に衛兵によって暗殺された。『シヌヘの物語[4]と呼ばれる文学作品の記述を信ずるならば、その時共同王センウセルト1世はリビア人に対する遠征に勝利して帰還する途上であったが、父王暗殺の報を受けると軍隊を残し、少数の従者と共に急ぎ首都に帰還した。そして恐らくアメンエムハト1世暗殺によって王位を得ようとした別の王子を殺害し、混乱を素早く収集して王位を保持することに成功した。共同王を置いたことが王位簒奪の防止に有効であることが実例を持って証明され、以後第12王朝では代々共同王が置かれ続けた。

センウセルト1世は父王の政策を受け継いで国内の基盤整備に尽力した。南方のヌビアへの遠征が行われて重要な金鉱が確保され、騒乱に対応するために少なくても13の要塞を南部に建設した。彼は各地で熱心に建築事業を行い、現在でもエジプトの全域からセンウセルト1世にまつわる遺跡が残されている。中でも治世第30年に建設されたオベリスクは立った状態のまま現存するものとしては最古のものである。センウセルト1世は晩年、息子のアメンエムハト2世を共同王に任命した。これによって大きな混乱も無く紀元前1926年頃のセンウセルト1世の死去に伴いアメンエムハト2世の治世が訪れた。

アメンエムハト2世と続くセンウセルト2世のあわせて50年余りにも及ぶ時代は安定した平和が継続していた。活発な建築活動が継続して行われており、また食糧生産の増加を目指して農地開発が行われた。センウセルト2世の時代に大規模な干拓工事がファイユムで着工された。ファイユムは当時ナイル川の水が流れ込んで作った湿地帯が広がり、農耕の困難な土地であったが、大規模な堤防を築くことでナイル川からの水の流入を防ぐことが試された。この大工事は彼の後継者センウセルト3世の治世を経て、その次のアメンエムハト3世の時代までかけて達成され、ファイユムはエジプト有数の穀倉地帯となった。

[編集] 国家制度の完成と最盛期

センウセルト3世像
センウセルト3世像

センウセルト3世は紀元前1878年頃即位した。彼は第12王朝の王の中でも後世に一際よく知られた存在であった。マネト[5]は彼の堂々たる風貌について記録している。それによれば彼は腕が長く、手や指も大きく、身長2メートルを越す長身であったという。マネトが王の身体的特徴にわざわざ触れるのは珍しく、彼の容貌が周囲に与えた印象を伺わせる。センウセルト3世の時代には、各地の州侯達の力が再び王権を凌駕しかねないほどに強くなっていたが、彼はこれに対抗するために全国土を北、南、最南の三つに分割し、おのおのに高官会議を設置して州侯を統制するという制度を築いて内政の安定を実現した。彼の治世の間に各地の州侯が建設する墓などは目立って縮小、減少しており、弱体化は明らかである。更に特定の役人に権力が集中するのを防ぐために、一つの事項を決定する際に必ず複数部門が関与する方式を取った。そして南方のヌビアに対する支配を更に広げるべく数次にわたるヌビア遠征が行われた。これらの遠征は成功のうちに終わり、センウセルト3世は自らの勝利を碑文で高らかに謳い上げている。

彼の南方に対する関心は建築面でも現れ、かつて古王国時代に第6王朝の重臣ウェニなどによって作られた運河の改修工事を行い、征服地の境界を示すための記念碑を建てた。更に自分の子孫達に対し、征服した領土を守るべく訓告を残した[6]

余が勝ち取ったこの国境を守り抜く全ての子孫よ。汝は余の息子、王者の生まれ、父王の如く覇者になる者。父王の領国を守る者である。さて、国境の守りを緩める者、国境のために戦わぬ者よ。汝は余の息子に非ず。余の産みし者に非ず。

このセンウセルト3世が紀元前1841年に死去すると、前年に共同王に任じられていたアメンエムハト3世が即位した。アメンエムハト3世の治世は第12王朝の反映の絶頂期であった。上述のファイユムにおける干拓事業が完成したのは彼の時代であり、農業生産は飛躍的に増大した。アメンエムハト3世の記念物はシナイ半島方面に多く見つかっており、エジプト本国には少ないがその理由は定かではない。彼が建設した巨大な葬祭殿はクレタ島クノッソス宮殿とよく比較され「本物のラビリントス」などと形容された。このような大規模な建築は当時の経済的繁栄を伝えるものである。

[編集] 第12王朝の終焉

アメンエムハト3世の死後、第12王朝の王権は急速に不安定になった。次の王とされるアメンエムハト4世についての記録はほとんどなく、彼は単に共同王であったのであって単独で統治したことはなかったのかもしれない。アメンエムハト4世が短期間で死去すると、王妃セベクネフェルが政権を握り、後に正式に王として即位して女王となった。しかし彼女についての記録も乏しく、間もなく第13王朝へと政権は移行した。女性が王となるという事態は当時としてはやはり特異なことであり、王位継承に関して何らかの問題があったことが伺われるが、史料が少ないため詳細はよくわかっていない。しかし、第13王朝への交代はそれほど大きな混乱は伴わなかったらしく、第12王朝によって確立された国家制度は第13王朝に引き継がれた。その年代は紀元前1782年頃であった。

[編集] 文化

中王国時代全体の傾向についてはエジプト中王国の項目を参照

第12王朝の時代は中王国の文化が花開いた時代である。取り分け標準語としての中期エジプト語が確立し、文学作品は劇的に増加した。また、第1中間期の長い沈黙を経て、大規模建築もなされるようになり数多くの遺構が残されている。

[編集] 文学

第12王朝時代に形成されたと考えられる数多くの文学作品が残されている。これらの文学には国家に仕える上級官吏が深く関与したため、当時の政権の公的な立場が色濃く反映されている。上述の『ネフェルティの予言』を初め、この時代に確立された文学作品『アメンエムハト1世の教訓』や、『シヌヘの物語』などは「政治的文学」とも呼ばれ、第12王朝の正統性を主張することが強く意識された作品郡である。これらはエジプト古典文学の代表作と言われる[7]

ネフェルティの予言』は上述のように、遥か昔の古王国時代にアメンエムハト1世が救済者として現れることが予言されていたと記す文書である。全体は三部で構成され、第1部では物語の舞台としてのスネフェル王の宮廷が描かれ、ネフェルティが予言を語るに至った経緯を語る。第2部では将来(古王国から見て)に訪れる混乱と無秩序の時代が描写され、その悲惨さが述べられる。第3部で、南方よりきたアメニ(アメンエムハト1世)が秩序を確立し、国土を救済される様が予言されるというものである。

アメンエムハト1世の教訓』は、アメンエムハト1世の死後、センウセルト1世の治世に成立したと考えられる文書である。暗殺されたアメンエムハト1世がセンウセルト1世に王者として注意すべきことを語るという体裁をとっており、文書の形式は墓などに刻まれる自伝に近いと言われる。ここでアメンエムハト1世が語る内容は、ある程度実例に沿っているともいわれ、非常に厳しい内容である。冒頭の呼びかけの後「臣下の前では注意せよ。彼らは無に等しい者であり、その尊敬など気にかける必要は無い。一人で彼らに近づいてはならない。兄弟を信頼するな。友人を知るな。腹心を作るな。何にもならぬからだ。」と始まり、いかに他人が信頼できないかが述べられる。その根拠としてアメンエムハト1世は、自分が引き立てた者達が自分に対して反乱を起こしたことを述べている。また、アメンエムハト1世の暗殺が行われた状況も生々しく記録されており、それによればアメンエムハト1世は夕方に一時間余りの休養をとって寝台に横になっていた所、衛兵によって襲われた。彼は激しく抵抗したものの武器が無く、遂に殺害されたのである。

シヌヘの物語』は、エジプト古典文学の中でも後世まで好んで読み継がれた作品であり、エジプトにおける「古典の中の古典」と呼ばれる。墓銘の自伝の形式をとり、主人公シヌヘの一人称で物語が進む。彼は実在の人物と考えられている。この物語ではアメンエムハト1世が暗殺されたのを知った遠征中のセンウセルト1世が首都に急ぎ戻る際、この遠征に同行していた別の王子がこの事態を利用して王位を獲得しようと目論んだ。この陰謀のために高官シヌヘは身の危険を感じ、アジア人の下へと逃走し、亡命先でベドウィンの族長の娘を娶ってその地で高い地位に着く。しかし望郷の念に駆られたシヌヘは、地位を捨ててエジプトに帰り、既に王座を確保したセンウセルト1世の許しを得てエジプトの地で死去するという物語であり、彼の冒険や立身出世の物語は多くのエジプト人の心を引き付けたのであった。

これらの文学作品は歴史的記録としても文学作品としても極めて貴重なものばかりである。

また墓の内部に記された呪文であるコフィン・テキストも数多く発見されている。このコフィン・テキストは、かつてのピラミッド・テキストなどに系譜を持つものであるが、この時代には広く臣下の墓にも記述された。多くはインクを用いた筆記体の象形文字で木棺の内部に欠かれた。古いピラミッド・テキストなどと比較してこれらのコフィン・テキストにおいては再生と復活を司るオシリス神の存在が極めて重要になっていることがわかる[8]。死後誰もがオシリス神となり再生、復活するという分かりやすい考えは人々の心を掴んでいた。

[編集] 建築事業

ファイユムに残るアメンエムハト3世のピラミッド跡
ファイユムに残るアメンエムハト3世のピラミッド跡

第12王朝時代には、古王国時代以来のピラミッド建設が復活した。首都となったイチ・タウィの近郊エル・リシュトを中心にピラミッド建設が行われた。これを建設するための建材としてギザサッカラダハシュールなどの既存建造物の建材が大量に再利用されている。

第12王朝で建設されたピラミッドの中には古王国時代末期のものより大きなものもあったが、建造物としての構造はかつてのピラミッド郡と比較した場合、粗雑そのものであった。ピラミッドは切石で作った隔壁の間を粗石や日干し煉瓦で埋め、外装の石灰岩で覆うという形式で建てられた。皮肉にも彼らがそうしたのと同じように、ピラミッドの外装用石灰岩は後世に別の建造物を作るために盗み取られた。そして内部構造の粗雑さ故に外装を失ったピラミッドは瞬く間に崩壊した。このため第12王朝時代のピラミッドは今ではほとんど原型をとどめておらず、遠目には単なる土山にしか見えないものが大半である。

大型の王墓も造営されたが多くは盗掘を受けている。センウセルト2世やセンウセルト3世は盗掘を回避するために自らの王墓の入り口を隠した。アメンエムハト3世の墓に至っては迷路や落とし戸、スライド式のパネル、隠し部屋などが設けられ、埋葬後には墓が埋められた。しかしその巨大さの故に彼らの墓泥棒対策も無駄な努力であった。ただし王妃などの墓の中には一部の副葬品が残されたままであるものも発見されており、黄金や宝石で飾られた美しいアクセサリーが発見されている。代表的なものはセンウセルト3世の王妃メリレトの墓や、彼の妹サート・ハトホルの墓である。数多く作られた要塞の遺跡はいくつも発見されており、当時の軍事技術などを知ることができる。

[編集] 歴代王

第12王朝では、前王の存命中に共同王として後継者を即位させるのが慣習となっていた。以下に示す王の在位年は、共同王として即位した年から始めているため、年代が重複する。なお年代の復元は資料によって多少の異動があるが、以下の一覧は参考文献『ファラオ歴代誌』の記述に基づく。王名は「即位名(上下エジプト王名)・誕生名(ラーの子名)」で一覧表記している。

なお、マネトの記録では以下のようになっている。

  • アンメネメス
  • セソンコシス
  • アンマネメス
  • セソストリス
  • ラカレス
  • アメレス
  • アンメネメス
  • スケミオフリス(前王の姉妹)

[編集]

  1. ^ どこまでを中王国として扱うかについては別の見解もある。
  2. ^ 『イプエルの訓戒』についてはエジプト第1中間期の記事も参照。
  3. ^ 紀元前3世紀のエジプトの歴史家マネトの記録ではディオスポリスマグナと呼ばれている。これはゼウスの大都市の意であり、この都市がネウト・アメンアメンの都市)と呼ばれたことに対応したものである。この都市は古くはヌエと呼ばれ、旧約聖書ではと呼ばれている。ヌエとは大都市の意である。新王国時代にはワス、ワセト、ウェセ(権杖)とも呼ばれた。
  4. ^ 全文の和訳が参考文献『筑摩世界文学大系1 古代オリエント集』に収録されている他、http://www.geocities.jp/kmt_yoko/index.htmlで、西村洋子氏による全訳と解説が掲載されている。
  5. ^ 紀元前3世紀のエジプトの歴史家。彼はエジプト人であったが、ギリシア系王朝プトレマイオス朝に仕えたためギリシア語で著作を行った。
  6. ^ この他、ナイル川と紅海を結ぶ運河も開発されたかもしれない。アリストテレスストラボンプリニウスらは、ナイル川と紅海を結ぶ運河の建設者をセソストリスとしている。正確にどの王を指すものかわからないが、このような航路が中王国時代に存在していたことを示していると考えられる。ただし、ディオドロスはこのルートの運河をネコ2世が着工し、アケメネス朝ダレイオス1世が完成したものであると述べている。参考文献『考古学から見た古代オリエント史』参照
  7. ^ これら三つの文学作品については、参考文献『筑摩世界文学大系1 古代オリエント集』に全訳と解説が記載されている
  8. ^ オシリス神に対する崇拝は古王国時代末に次第に高まり、第1中間期を経てエジプト全域に急速に広まった。

[編集] 参考文献