エジプト第11王朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

エジプト第11王朝紀元前2133年、又は2134年頃 - 紀元前1991年頃)は、古代エジプトの王朝。第1中間期と呼ばれる分裂の時代に、上エジプトナイル川上流)南部の都市テーベ(古代エジプト語:ネウト[1]、現在のルクソール)の州侯が自立して建てた政権を指す。この王朝によってエジプト古王国時代の終焉以来分裂していたエジプトが再び統一されることになった。第11王朝による統一以後の時代はエジプト中王国時代と呼ばれる。

歴史[編集]

ヘラクレオポリス政権との戦い[編集]

上エジプト第4県[2]にあるテーベは古王国時代には取るに足らない一村落に過ぎなかったが、従来の首都ヘルモンティス(古代エジプト語:イウニ)からテーベに上エジプト第4県の首都が移されたことから大発展を遂げていた。テーベ侯としてはメンチュヘテプ1世英語版の存在が知られており、彼の時代に独立勢力となったとする場合もあるが、完全な自立勢力として登場するのは彼の息子アンテフ1世の時代である。メンチュヘテプ1世の跡を継いでテーベ侯となったアンテフ1世は、第9王朝の末期か、第10王朝の初め頃に王を名乗り第11王朝が始まった。マネト[3]の記録では第11王朝は第10王朝の後に連続的に成立した政権であるかのようにリスト化されている[4]が、実際には第11王朝と第10王朝は同時代に並立して存在した政権であった。第10王朝は上エジプト第20県の首都ヘウト・ネンネス英語版古代エジプト語Hwt-nen-nesu[5])に成立した政権である。

第11王朝は成立以来このネンネス(ヘラクレオポリス)の政権と国境を巡って激しく争った。その領域はテーベ周辺のごく狭い領域に過ぎなかったが、やがて第8県の都市アビュドスの北方、上エジプト第8県と第9県の間が北の国境線となった。続くアンテフ2世の時代には一時上エジプト第10県にまで侵攻したが、第10王朝の王ケティ3世の反撃にあいアビュドスも失陥してしまったために停戦し、両国の国境を元のアビュドス北方に置くことで合意した。第10王朝はこの後下エジプトナイルデルタ地方)の平定に力を注ぐようになったため、両国の間には一時的に安定した関係が築かれた。

エジプト統一[編集]

メンチュヘテプ2世図

アンテフ3世の比較的短い治世を挟み、紀元前2060年頃にメンチュヘテプ2世英語版が即位した。メンチュヘテプ2世はエジプトを再統一することになる王である。彼の軍事的成功は次々と変更された彼のホルス名[6]からうかがい知ることができる。彼は即位した後、スアンクイブタウィ(両国の心を生かす者[7])、というホルス名を用いていた。そして治世14年目までにホルス名をネチェルヘジェド(白色王冠の主[8])に改めた。更に治世39年にスマタウィ(両国の統一者)とホルス名を改めたのである。

メンチュヘテプ2世の治世14年目には上エジプト第8県で反乱が発生した。この反乱に第10王朝の王メリカラーが介入したために、両国の間に再び戦端が開かれた。メンチュヘテプ2世は、反乱を鎮圧することに成功し第8県を回復した。そしてその後長期にわたって北進を繰り返し、概ね戦況は優勢のまま推移した。そして第10王朝の下にあった第15県のヘルモポリス(古代エジプト語:ウヌー)侯等がこの戦況を見て第11王朝の側に寝返ったために大幅に国境を前進させることに成功した。そして治世21年目(紀元前2040)頃にヘラクレオポリスを陥落させてエジプトを再び統一することに成功した。この時点でメリカラー王は死去しており、第10王朝最後の王の名は知られていない。これをもってエジプト第1中間期の終焉、中王国時代の始まりとされる[9]。これにより首都テーベのエジプト政治における重要性は著しく高まった。

メンチュヘテプ2世は統一後も精力的に統治にあたった。宰相を頂点とし、上エジプト長官など古王国以来の官職を復活させるとともに、新たに下エジプト長官を置くなどして行政機構を整備していった。敵対的な州侯は廃され、メンチュヘテプ2世の息のかかった人物がそれに変わった。ただし、第10王朝との戦いで重要な役割を果たしたヘルモポリス侯など、旧第10王朝と第11王朝の国境地帯の州侯に対してはこのような強硬策に出ることはできなかったようである。軍事的にはエジプトの外へと活動の範囲を広げた。南方への遠征では第二瀑布までの下ヌビア地方にまで到達してこれを支配下におさめ、更に南方やプント国(現在のソマリア地方)へ隊商を送った。西方の砂漠地帯にも軍事遠征が行われ、オアシスに勢力を持ったリビア人を支配下に収めた。

メンチュヘテプ2世の神殿王墓跡。

こうした成功によって各地の採石場から良質な建材が手に入るようになったために、再び大規模建築が可能となった。テーベに昔から仕えていた職人に加えてヘラクレオポリスの宮廷に仕えていた職人達もテーベに移され、メンチュヘテプ2世の下で優れた芸術作品を生み出した。メンチュヘテプ2世時代の建造物として最も有名なものはテーベの西に建造された神殿王墓である。現在デイル・アル=ハバリとよばれる断崖に囲まれた窪地にそれは建設され、メンチュヘテプ2世に仕えた寵臣達もその周囲に葬られた[10]

メンチュヘテプ2世死後[編集]

メンチュヘテプ2世の死後、息子のメンチュヘテプ3世英語版が即位した。メンチュヘテプ2世の統治期間が非常に長かったため、メンチュヘテプ3世は即位した時にはかなり高齢であった。メンチュヘテプ3世は父が蓄えた国力を背景に熱心な建築事業を繰り返し、国内の反乱にも迅速に対応して安定した時代を継続したが、老齢には勝てず12年あまりでその統治を終えた。

第11王朝の最後の王とされているのが次のメンチュヘテプ4世英語版であるが、彼についての情報はやや錯綜している。サッカラやアビュドスで発見されている王名表ではメンチュヘテプ3世が第11王朝最後の王であるとされているが、別の記録ではメンチュヘテプ3世の後に7年間の空位期間があったとされている。この空位期間とされる時代に統治したのがメンチュヘテプ4世であった。彼の実際の統治期間は僅かに6年間であり記録はほとんど残されていないが、メンチュヘテプ4世時代に宰相兼上エジプト長官であった「アメンエムハト」という人物が存在したことがわかっている。この「アメンエムハト」が第12王朝の初代王アメンエムハト1世英語版と同一人物である可能性が極めて高いと考えられており、「アメンエムハト」によってメンチュヘテプ4世の王位が簒奪われたと推定されている。その時期は紀元前1991年頃であった。

こうして第11王朝はメンチュヘテプ2世による統一以後20年足らずして終焉を迎えたが、テーベに確立された王権はメンチュヘテプ4世を倒したアメンエムハト1世によるエジプト第12王朝によって引き継がれた。

歴代王[編集]

第11王朝の王名に多用されたメンチュヘテプメンチュ神は満足せり)の構成要素であるメンチュは、テーベで崇拝された軍神であり、当時の政治的な雰囲気を今に伝える。

第11王朝時代の王達はアンテフ1世時代からセヘルタウィ(両国に平和を齎す者)などのホルス名を用いたが、メンチュヘテプ2より前の王にとってこれは願望を映し出した以上のものではなかった。第11王朝の初期の王達はホルス名をセレクの中に記し、カルトゥーシュの中には誕生名(ラーの子名)のみを記していた。メンチュヘテプ2世以後の王達は古王国時代の王と同じく即位名(上下エジプト王名)もカルトゥーシュに囲んで表記させている。この記事内における王名は全て誕生名である。

以下に示す一覧は、まずカルトゥーシュ内に記される誕生名を記し、括弧内にホルス名を記すが、メンチュヘテプ2世以後についてはまず即位名を、次に誕生名を記し括弧内にホルス名を記す。なお、在位期間は参考文献『ファラオ歴代誌』の記述に基づくが、年代決定法の誤差その他から異説が多いことに注意されたい。

[編集]

  1. ^ マネトの記録ではディオスポリスマグナと呼ばれている。これはゼウスの大都市の意であり、この都市がネウト・アメンアメンの都市)と呼ばれたことに対応したものである。この都市は古くはヌエと呼ばれ、旧約聖書ではと呼ばれている。ヌエとは大都市の意である。新王国時代にはワス、ワセト、ウェセ(権杖)とも呼ばれた。
  2. ^ 以下に登場する上エジプトの県についての大まかな位置についてはこちらを参照
  3. ^ 紀元前3世紀のエジプトの歴史家。彼はエジプト人であったが、ギリシア系王朝プトレマイオス朝に仕えたためギリシア語で著作を行った。
  4. ^ ただし、マネトは第11王朝の個々の王名を記録していない。
  5. ^ 後のヘラクレオポリスという名は、この都市で祭られていた地方神ヘリシェフギリシア人ハルサフェスと呼び、名前の類似等からヘラクレスと同一視したことによって付けられたギリシア語名である。
  6. ^ 王がホルス神の化身であることを示す名前。隼の図の下に書かれるセレクという枠の中に表記された。
  7. ^ 「両国」という訳語は参考文献『考古学から見た古代オリエント史』に基づく。『ファラオ歴代誌』等では「両国」ではなく「二つの土地」を当てている。いずれにせよこの「両国」、「二つの土地」とは上エジプトと下エジプトを指す。
  8. ^ 白色王冠は上エジプト王の王冠。下エジプト王の王冠は赤色王冠である。
  9. ^ テーベ西のラメセウムで発見された刻文には、第1王朝メニ(メネス)、第18王朝イアフメス1世。と並んでメンチュヘテプ2世の即位名ネブヘテプラーの名が記されており、彼が古王国、中王国、新王国という三つの統一政権の始祖の1人として認識されていたことが伺われる。
  10. ^ 例えば宰相アクトイ、大臣ダギ、大臣アピ、侍従長ネヌなどの墓がメンチュヘテプ2世の王墓周辺に造営されている。ダギの墓からはコフィン・テキストと呼ばれる呪文が発見されており、古王国時代のピラミッド・テキストとの類似が指摘されている。

参考文献[編集]