北条政子

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北条政子(菊池容斎画、江戸時代

北条 政子(ほうじょう まさこ、平政子(たいらの まさこ)、保元2年(1157年) - 嘉禄元年7月11日1225年8月16日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の女性。鎌倉幕府を開いた源頼朝の妻。

名称

本人が「北条政子」を名乗った事実は確認されておらず、あくまで後世の歴史用語に過ぎない[1][2]

「政子」の(成人名、天皇に対する名乗り)は、夫の死から19年後建保6年(1218年)、朝廷が従三位の位を授与するのに際して、位記などの文書に記載するため、3年前に死去した父時政の一字(偏諱)を取って授けた名前であり、それ以前の名前は不明[3]。嘉字(良い字)+子型の人名は官位を受けるときなどに名乗るもので、当時の社会通念上、出生名に政子とつけることはない[3]幼名は鎌倉時代末期成立の『真名本曾我物語』では「万寿」、室町時代の『仮名本曾我物語』では「朝日」となっているが、信憑性は不明[4]。中世の女性は外向けには実名(幼名または諱)を名乗らないのが社会通念だったから(忌み名のタブー)、娘時代の呼称はおそらく「大姫」(在地領主の長女の意)、公文書には「平氏女」(たいらのうじのにょ)と署名していたと推測される[1]

諱を受けた当時の一般的な呼称は「尼御台所」[3]。現代日本でも目上の人を呼び捨てにすることは非礼とされるが、この時代は実名呼称回避の慣習が特に強力な時代であり、二代目将軍源頼家ですら北条一門の実名を呼んだことが確執の一因になった程であった(『吾妻鏡』)[5]。親や夫は既に死去しているうえ、出家の身である彼女が日常的に法名仮名 (通称)ではなく「政子」を名乗り、かつ人々に呼称された可能性はほぼ絶無である[3]

同時代の『愚管抄』では「時ママガムスメ、実朝頼家ガ母」「二位尼」[6]、甥の泰時が編纂した御成敗式目では「二位殿」(第7条)[7]。幕府の正史『吾妻鏡』では基本的に「御台所」[8]、頼朝没後に人称が変化し、尼御台、三位家、二位家、禅定二位家、二品禅尼、二位殿、平政子など。

南北朝時代の『神皇正統記』では「従二位平の政子」[9]、江戸時代の新井白石読史余論』では「二位殿」、頼山陽の『日本外史』では「政子」[10]。『大日本史』では「源頼朝妻北條氏、名は政子」「政子」[11]。大正2年の日本史概説書は「政子」「二位ノ尼」「尼将軍」[12]

文部科学省教科書調査官高橋秀樹の調べによると、明治・大正期にも「政子」「平政子(たいらのまさこ)」の表記はあっても北条政子はなく、ようやく昭和13年(1938年)の人名辞典に平政子との併記を確認できる[13]。なお高橋は言及していないが、昭和7年(1932年)にも「北條政子」[14]表記を採る書籍がある。昭和15年(1940年)の日本史概説書では「頼朝の妻政子」[15]となっている。

その後「北条政子」が一般化した理由は明確でないが、『日本外史』が時政の継室を「牧氏」と記載したように、江戸時代以来、実名が不明な過去の女性を、出自を明らかにするため実家の名字・苗字を付けて記載していた慣行が流用された可能性がある[13]#現代の評価参照)。

生涯

頼朝との婚姻

伊豆国豪族北条時政の長女。兄弟姉妹には宗時義時時房阿波局時子など。母は未詳だが、時子の同母姉妹とみられている[注 1]。子は頼家実朝大姫三幡

周囲の反対を押し切り、伊豆の流人だった頼朝の妻となり、頼朝が鎌倉武家政権を樹立すると御台所と呼ばれる。夫の死後に落飾して尼御台(あまみだい)と呼ばれた。法名を安養院(あんにょういん)といった。頼朝亡きあと征夷大将軍となった嫡男・頼家、次男・実朝が相次いで暗殺された後は、傀儡将軍として京から招いた幼い藤原頼経の後見となって幕政の実権を握り、世に尼将軍と称された。

伊豆の在庁官人であった時政は、平治の乱で敗れ同地に流されていた源頼朝の監視役であったが、時政が大番役のため在京中の間に政子は頼朝と恋仲になってしまう。

頼朝との婚姻は治承元年(1177年)の頃と推定される[注 2]。『吾妻鏡』によると時政はこの婚姻には大反対であったという。同書にはこの時のことについて、後年、源義経の愛妾の静御前が頼朝の怒りを受けたときに、頼朝を宥めるべく政子が語った言葉で「暗夜をさ迷い、雨をしのいで貴方の所にまいりました」と述べたと記されている。 しかし最終的に時政はこの二人の婚姻を認めた。政子は、まもなく長女・大姫を出産する。時政も2人の結婚を認め、北条氏は頼朝の重要な後援者となる。

なお、軍記物にはこの婚姻についての逸話がいくつか書かれている。

曽我物語』によると二人の馴れ初めとして、政子の妹(後に頼朝の弟・阿野全成の妻となる阿波局)が日月を掌につかむ奇妙なを見た。妹がその夢について政子に話すと、政子はそれは禍をもたらす夢であるので、自分に売るように勧めた。当時、不吉な夢を売ると禍が転嫁するという考え方があった。妹は政子に夢を売り、政子は代わりに小袖を与えた。政子は吉夢と知って妹の夢を買ったのである。吉夢の通りに政子は後に天下を治める頼朝と結ばれたとする「夢買い」をした。

また『源平盛衰記』には次の内容の記載がある。

頼朝と政子の関係を知った時政は平家一門への聞こえを恐れ、政子を伊豆目代山木兼隆と結婚させようとした。山木兼隆は元は流人だったが、平家の一族であり、平家政権の成立とともに目代となり伊豆での平家の代官となっていた。政子は山木の邸へ輿入れさせられようとするが、屋敷を抜け出した政子は山を一つ越え、頼朝の元へ走ったという。二人は伊豆山権現(伊豆山神社)に匿われた。政子が21歳のときである。伊豆山は僧兵の力が強く目代の山木も手を出せなかったという。しかしながら山木兼隆の伊豆配流は治承3年(1179年)の事であり、政子との婚姻話は物語上の創作とみるのが妥当と思われる。

治承4年(1180年)、以仁王源頼政と平家打倒の挙兵を計画し、諸国の源氏に挙兵を呼びかけた。伊豆の頼朝にも以仁王の令旨が届けられたが、慎重な頼朝は即座には応じなかった。しかし、計画が露見して以仁王が敗死したことにより、頼朝にも危機が迫り挙兵せざるを得なくなった。頼朝は目代・山木兼隆の邸を襲撃してこれを討ち取るが、続く石橋山の戦いで惨敗する。この戦いで政子の長兄・北条宗時が討死している。政子は伊豆山に留まり、頼朝の安否を心配して不安の日々を送ることになった。

頼朝は北条時政、義時とともに安房国に逃れて再挙し、東国の武士たちは続々と頼朝の元に参じ、数万騎の大軍に膨れ上がり、源氏ゆかりの地である鎌倉に入り居を定めた。政子も鎌倉に移り住んだ。頼朝は富士川の戦いで勝利し、各地の反対勢力を滅ぼして関東を制圧した。頼朝は東国の主となり鎌倉殿と呼ばれ、政子は御台所と呼ばれるようになった。

御台所

養和2年(1182年)初めに政子は二人目の子を懐妊した。頼朝は三浦義澄の願いにより政子の安産祈願として、平家方の豪族で鎌倉方に捕らえられていた伊東祐親の恩赦を命じた。頼朝は政子と結ばれる以前に祐親の娘の八重姫と恋仲になり男子までなしたが平氏の怒りを恐れた祐親はこの子を殺し、頼朝と八重姫の仲を裂き他の武士と強引に結婚させてしまったことがあった。祐親はこの赦免を恥として自害してしまう。同年8月に政子は男子(万寿)を出産。後の2代将軍・源頼家である。

政子の妊娠中に頼朝は亀の前を寵愛するようになり、近くに呼び寄せて通うようになった。これを時政の後妻の牧の方から知らされた政子は嫉妬にかられて激怒する。11月、牧の方の父の牧宗親に命じて亀の前が住んでいた伏見広綱の邸を打ち壊す後妻打ち(うわなりうち)を行い、亀の前はほうほうの体で逃げ出した。頼朝は激怒して牧宗親を詰問し、自らの手で宗親の髻(もとどり)を切り落とす恥辱を与えた。頼朝のこの仕打ちに時政が怒り、一族を連れて伊豆へ引き揚げる騒ぎになっている。政子の怒りは収まらず、伏見広綱を遠江国流罪にさせた。

政子の嫉妬深さは一夫多妻が当然だった当時の女性としては異例であった。頼朝は生涯に多くの女性と通じたが、政子を恐れて半ば隠れるように通っている。当時の貴族は複数の妻妾の家に通うのが一般的だが、有力武家も本妻の他に多くのを持ち子を産ませて一族を増やすのが当然だった。政子の父・時政も複数の妻妾がおり、政子と腹違いの弟妹を多く産ませている。頼朝の父・源義朝も多くの妾がおり、祖父・源為義は子福者で20人以上もの子を産ませている。京都で生まれ育ち、源氏の棟梁であった頼朝にとって、多くの女の家に通うのは常識・義務の範疇であり、社会的にも当然の行為であったが、政子はそんな夫の行動を容認できなかった。

その背景としては、政子の嫉妬深さだけではなく、伊豆の小土豪に過ぎない北条氏の出である政子は貴種である頼朝の正室としてはあまりに出自が低く、その地位は必ずしも安定したものではなかったためと考えられる。頼朝は寿永元年(1182年)7月に兄・源義平の未亡人で源氏一族である新田義重の娘・祥寿姫を妻に迎えようとしたが、政子の怒りを恐れた義重が娘を他に嫁がせたため実現しなかった。政子が亀の前の邸を襲撃させて実力行使に出るのは、この4ヶ月後である。このため政子は嫉妬深く気性の激しい奸婦のイメージを持たれる様になった。

寿永2年(1183年)、頼朝は対立していた源義仲と和睦し、その条件として義仲の嫡子・義高と頼朝と政子の長女・大姫の婚約が成立した。義高は大姫の婿という名目の人質として鎌倉へ下る。義高は11歳、大姫は6歳前後である。幼いながらも大姫は義高を慕うようになる。

義仲は平家を破り、頼朝より早く入京した。だが、義仲は京の統治に失敗し、平家と戦って敗北し、後白河法皇とも対立した。元暦元年(1184年)、頼朝は弟の源範頼義経を派遣して義仲を滅ぼした。頼朝は禍根を断つべく鎌倉にいた義高の殺害を決めるが、これを侍女達から漏れ聞いた大姫が義高を鎌倉から脱出させる。激怒した頼朝の命により堀親家がこれを追い、義高は親家の郎党である藤内光澄の手によって斬られた。大姫は悲嘆の余り病の床につく。政子は義高を討った為に大姫が病になったと憤り、親家の郎党の不始末のせいだと頼朝に強く迫り、頼朝はやむなく藤内光澄を晒し首にしている。その後大姫は心の病となり、長く憂愁に沈む身となった。政子は大姫の快癒を願ってしばしば寺社に参詣するが、大姫が立ち直ることはなかった。

範頼と義経は一ノ谷の戦いで平家に大勝し、捕虜になった平重衡が鎌倉に送られてきた。頼朝は重衡を厚遇し、政子もこの貴人を慰めるため侍女の千手の前を差し出している。重衡は後に彼が焼き討ちした東大寺へ送られて斬られるが、千手の前は重衡の死を悲しみ、ほどなく死去している。

範頼と義経が平家と戦っている間、頼朝は東国の経営を進め、政子も参詣祈願や、寺社の造営式など諸行事に頼朝と同席している。元暦2年(1185年)、義経は壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした。

平家滅亡後、頼朝と義経は対立し、挙兵に失敗した義経は郎党や妻妾を連れて都を落ちる。文治2年(1186年)、義経の愛妾の静御前が捕らえられ、鎌倉へ送られた。政子は白拍子の名手である静に舞を所望し、渋る静を説得している。度重なる要請に折れた静は鶴岡八幡宮で白拍子の舞いを披露し、頼朝の目の前で「吉野山峯の白雪ふみ分て 入りにし人の跡ぞ恋しき 」「しづやしづしずのをたまきをくり返し 昔を今になすよしもがな 」と義経を慕う歌を詠った。これに頼朝は激怒するが、政子は流人であった頼朝との辛い馴れ初めと挙兵のときの不安の日々を語り「私のあの時の愁いは今の静の心と同じです。義経の多年の愛を忘れて、恋慕しなければ貞女ではありません」ととりなした。政子のこの言葉に頼朝は怒りを鎮めて静に褒美を与えた。

政子は大姫を慰めるために南御堂に参詣し、静は政子と大姫のために南御堂に舞を納めている。静は義経の子を身ごもっており、頼朝は女子なら生かすが男子ならば禍根を断つために殺すよう命じる。静は男子を生み、政子は子の助命を頼朝に願うが許されず、子は由比ヶ浜に遺棄された。政子と大姫は静を憐れみ、京へ帰る静と母の磯禅師に多くの重宝を与えた。

同年、政子は次女三幡を産んだ。政子の妊娠中に頼朝はまたも大進局という妾のもとへ通い、大進局は頼朝の男子(貞暁)を産むが、政子を憚って出産の儀式は省略されている。大進局は政子の嫉妬を恐れて身を隠し、子は政子を恐れて乳母のなり手がないなど、人目を憚るようにして育てられた。

奥州へ逃れた義経は文治5年(1189年)4月、藤原泰衡に攻められ自害した。頼朝は奥州征伐のため出陣する。政子は鶴岡八幡宮にお百度参りして戦勝を祈願した。頼朝は奥州藤原氏を滅ぼして、鎌倉に凱旋する。建久元年(1190年)に頼朝は大軍を率いて入京。後白河法皇に拝謁して右近衛大将に任じられた。

建久3年(1192年)、政子は男子(千幡)を産んだ。後の三代将軍・源実朝である。その数日前に頼朝は征夷大将軍に任じられている。同年、大進局が産んだ貞暁は7歳になった時、政子を憚って出家させるため京の仁和寺へ送られた。出発の日に頼朝は大進局と貞暁のもとへ密かに会いに訪れている。

建久4年(1193年)、頼朝は富士の峯で大規模な巻狩りを催した。頼家が鹿を射ると喜んだ頼朝は使者を立てて政子へ知らせるが、政子は「武家の跡取が鹿を獲ったぐらい騒ぐことではない」と使者を追い返している。政子の気の強さを表す逸話であるが、これについては、頼家の鹿狩りは神によって彼が頼朝の後継者とみなされた事を人々に認めさせる効果を持ち、そのために頼朝はことのほか喜んだのだが、政子にはそれが理解できなかったとする解釈もなされている[22]。一方で、政子の発言は頼家を貶めるための『吾妻鏡』の曲筆で、実際にはそのような発言はなかったとする説もある[23]。この富士の巻狩りの最後の夜に曾我兄弟が父の仇の工藤祐経を討つ事件が起きた(曾我兄弟の仇討ち)。その後、頼朝が鎌倉に帰還すると、範頼が頼朝の不興を買い伊豆に流される事件が起きている。『保暦間記』によると、鎌倉では頼朝が殺されたとの流言があり、政子は大層心配したが鎌倉に残っていた範頼が「源氏にはわたしがおりますから御安心ください」と政子を慰めたため、鎌倉に帰った頼朝が政子から範頼の言葉を聞いて猜疑にかられたためとしている。

大姫は相変わらず病が癒えず、しばしば床に伏していた。建久5年(1194年)、政子は大姫と頼朝の甥にあたる公家一条高能との縁談を勧めるが、大姫は義高を慕い頑なに拒んだ。政子は大姫を慰めるために義高の追善供養を盛大に催した。

建久6年(1195年)、政子は東大寺再建供養に出席する頼朝と共に上洛し、宣陽門院の生母の丹後局源通親と会って大姫の後鳥羽天皇への入内を協議した。頼朝は政治的に大きな意味のあるこの入内を強く望み、政子も相手が帝なら大姫も喜ぶだろうと考えたが、大姫は重い病の床につく。政子と頼朝は快癒を願って加持祈祷をさせるが、建久8年(1197年)に大姫は20歳で死去した。『承久記』によれば政子は自分も死のうと思うほどに悲しみ、頼朝が母まで死んでしまっては大姫の後生に悪いからと諌めている。

次いで頼朝は次女の三幡を入内させようと図り、三幡は女御宣旨を受けるが、頼朝は建久10年(1199年)1月に急死した。『承久記』によれば政子は「大姫と頼朝が死んで自分も最期だと思ったが、自分まで死んでしまっては年端も行かぬ頼家が二人の親を失ってしまう。子供たちを見捨てることはできなかった」と述懐している。

尼御台

長子の頼家が家督を継ぎ、政子は出家してになり尼御台と呼ばれる。三幡の入内工作は続けられたが、頼朝の死から2ヶ月ほどして三幡が重病に陥った。政子は鎌倉中の寺社に命じて加持祈祷をさせ、後鳥羽上皇に院宣まで出させて京の名医を鎌倉に呼び寄せる。三幡は医師の処方した薬で一時保ち直したように見えたが、容態が急変して6月に僅か14歳で死去した。

若い頼家による独裁に御家人たちの反発が起き、正治2年(1200年)に頼家の専制を抑制すべく大江広元梶原景時比企能員北条時政北条義時ら老臣による十三人の合議制が定められた。だがこれについては13人全員で合議された例がなく、数名の評議の結果を参考に頼家が最終的判断を下す政治制度であり、頼家の権力を補完する機能を果たしていたとする見解もある。

その後、頼家が安達景盛の愛妾を奪う不祥事が起きた。景盛が怨んでいると知らされた頼家は兵を発して討とうとする。政子は調停のため景盛の邸に入り、使者を送って頼家を強く諌めて「景盛を討つならば、まずわたしに矢を射ろ」と申し送った。政子は景盛を宥めて謀叛の意思のない起請文を書かせ、一方で頼家を重ねて訓戒して騒ぎを収めさせた。

頼家と老臣との対立は続き、頼家が父に引き続いて重用していた梶原景時が失脚して滅ぼされた(梶原景時の変)。『玉葉』(正治2年正月2日条)によると、他の武士たちに嫉まれ、恨まれた景時は、頼家の弟実朝を将軍に立てようとする陰謀があると頼家に報告し、他の武士たちと対決したが言い負かされ、讒言が露見した結果、一族とともに追放されてしまったという。『愚管抄』では景時滅亡と後の頼家殺害の因果関係を強く指摘している。

頼家は遊興にふけり、ことに蹴鞠を好んだ。政子はこの蹴鞠狂いを諌めるが頼家は聞かない。訴訟での失政が続き、御家人の不満が高まっていた。更に頼家は乳母の夫の比企能員を重用し、能員の娘は頼家の長子・一幡を生んで、権勢を誇っていた。比企氏の台頭は北条氏にとって脅威であった。

建仁3年(1203年)、頼家が病の床につき危篤に陥った。政子と時政は一幡と実朝で日本を分割することを決める。これを不満に思う能員は病床の頼家に北条氏の専断を訴えた。頼家もこれを知って怒り、北条氏討伐を命じた。これを障子越し聞いていた政子は、使者を時政に送り、時政は策を講じて能員を謀殺。政子の名で兵を起こして比企氏を滅ぼしてしまった。一幡も比企氏とともに死んだ(比企能員の変)。頼家は危篤から回復し、比企氏の滅亡と一幡の死を知って激怒し、時政討伐を命じるが、既に主導権は北条氏に完全に握られており、頼家は政子の命で出家させられて将軍職を奪われ、伊豆の修善寺に幽閉されてしまう。頼家は翌元久元年(1204年)に死去している。

だが比企氏滅亡や頼家の死に関して鎌倉幕府編纂書である『吾妻鏡』には明らかな曲筆が見られ、頼家の悪評や比企氏の陰謀については北条氏による政治的作為と考えられるため、そのまま鵜呑みには出来ない。『愚管抄』によれば、頼家は大江広元の屋敷に滞在中に病が重くなったので自分から出家し、あとは全て子の一幡に譲ろうとした。これでは比企能員の全盛時代になると恐れた時政が能員を呼び出して謀殺し、同時に一幡を殺そうと軍勢を差し向けた。一幡はようやく母が抱いて逃げ延びたが、残る一族は皆討たれた。やがて回復した頼家はこれを聞いて激怒、太刀を手に立ち上がったが、政子がこれを押さえ付け、修禅寺に押し込めてしまった。逃げ延びた一幡も捕らえられ、北条義時の手勢に殺されたという。また頼家の死についても『愚管抄』によれば、頼家は義時の送った手勢により入浴中を襲撃され、激しく抵抗した所を首に紐を巻き付け陰嚢をとって刺し殺されたという。

頼家に代って将軍宣下を受けたのは実朝で、政子の父の時政が初代執権に就任する。時政とその妻の牧の方は政権を独占しようと図り、政子は時政の邸にいた実朝を急ぎ連れ戻している。元久2年(1205年)時政と牧の方は実朝を廃して女婿の平賀朝雅を将軍に擁立しようと画策。政子と義時はこの陰謀を阻止して、時政を出家させて伊豆へ追放した。代って義時が執権となった(牧氏事件)。

実朝は専横が目立った頼家と違って教養に富んだ文人肌で朝廷を重んじて公家政権との融和を図った。後鳥羽上皇もこれに期待して実朝を優遇して昇進を重ねさせた。しかし、公家政権との過度の融和は御家人たちの利益と対立し、不満が募っていた。

政子は後難を断つために頼家の子たちを仏門に入れた。その中に鶴岡八幡宮別当となった公暁もいる。

建保6年(1218年)、政子は病がちな実朝の平癒を願って熊野を参詣し、京に滞在して後鳥羽上皇の乳母で権勢並びなき藤原兼子と会談を重ねた。この上洛で兼子の斡旋によって政子は従三位に叙されている(4月14日。同年10月13日には従二位に昇叙。)。『愚管抄』によれば、このとき政子は兼子と病弱で子がない実朝の後の将軍として後鳥羽上皇の皇子を東下させることを相談している。

同年12月、実朝の官職は更に昇進して右大臣に登った。義時や大江広元は実朝が朝廷に取り込まれて御家人たちから遊離することを恐れ諫言したが、実朝は従わない。

建保7年(1219年)、右大臣拝賀の式のために鶴岡八幡宮に入った実朝は甥の公暁に暗殺された。『承久記』によると、政子はこの悲報に深く嘆き「子供たちの中でただ一人残った大臣殿(実朝)を失いこれでもう終わりだと思いました。尼一人が憂いの多いこの世に生きねばならないのか。淵瀬に身を投げようとさえ思い立ちました」と述懐している。

尼将軍

実朝の葬儀が終わると、政子は鎌倉殿としての任務を代行する形で使者を京へ送り、後鳥羽上皇の皇子を将軍に迎えることを願った。上皇は「そのようなことをすれば日本を二分することになる」とこれを拒否した。上皇は使者を鎌倉へ送り、皇子東下の条件として上皇の愛妾の荘園地頭の罷免を提示した。義時はこれを幕府の根幹を揺るがすと拒否。弟の時房に兵を与えて上洛させ、重ねて皇子の東下を交渉させるが、上皇はこれを拒否した。義時は皇族将軍を諦めて摂関家から三寅(藤原頼経)を迎えることにした。時房は三寅を連れて鎌倉へ帰還した。三寅はまだ2歳の幼児であり、三寅を後見した政子が将軍の代行をすることになり、「尼将軍」と呼ばれるようになる。『吾妻鏡』では建保7年(1219年)の実朝死去から嘉禄元年(1225年)の政子死去まで、北条政子を鎌倉殿と扱っている。

承久3年(1221年)、皇権の回復を望む後鳥羽上皇と幕府との対立は深まり、遂に上皇は京都守護伊賀光季を攻め殺して挙兵に踏み切った(承久の乱)。上皇は義時追討の院宣を諸国の守護と地頭に下す。武士たちの朝廷への畏れは依然として大きく、上皇挙兵の報を聞いて鎌倉の御家人たちは動揺した。

政子は御家人たちを前に「最期の詞(ことば)」として「故右大将(頼朝)の恩は山よりも高く、海よりも深い、逆臣の讒言により不義の綸旨が下された。秀康胤義(上皇の近臣)を討って、三代将軍(実朝)の遺跡を全うせよ。ただし、院に参じたい者は直ちに申し出て参じるがよい」との声明を発表。これで御家人の動揺は収まった。『承久記』では政子自身が鎌倉の武士を前に演説を行ったとし、『吾妻鏡』では安達景盛が演説文を代読している。

軍議が開かれ箱根足柄で迎撃しようとする防御策が強かったが、大江広元は出撃して京へ進軍する積極策を強く求め、御家人に動員令が下る。またも消極策が持ち上がるが、三善康信が重ねて出撃を説き、政子がこれを支持して幕府軍は出撃した。幕府軍は19万騎の大軍に膨れ上がる。

後鳥羽上皇は院宣の効果を絶対視して幕府軍の出撃を予想しておらず狼狽する。京方は幕府の大軍の前に各地で敗退して、幕府軍は京を占領。後鳥羽上皇は義時追討の院宣を取り下げて事実上降伏し、隠岐島へ流された。政子は義時とともに戦後処理にあたった。

寿福寺の政子の墓と伝わるやぐら

貞応3年(1224年)、義時が急死する。長男の北条泰時は見識も実績もあり期待されていたが、義時の後室の伊賀の方は実子の北条政村の執権擁立を画策して、有力御家人の三浦義村と結ぼうとした。義村謀叛の噂が広まり騒然とするが、政子は義村の邸を訪ねて泰時が後継者となるべき理を説き、義村が政村擁立の陰謀に加わっているか詰問した。義村は平伏して泰時への忠誠を誓った。鎌倉は依然として騒然とするが政子がこれを鎮めさせた。伊賀の方は伊豆へ追放された(伊賀氏の変)。

だが伊賀氏謀反の風聞については泰時が否定しており、『吾妻鏡』でも伊賀氏が謀反を企てたとは一度も明言しておらず、政子に伊賀氏が処分された事のみが記されている。そのため伊賀氏の変は、鎌倉殿や北条氏の代替わりによる自らの影響力の低下を恐れた政子が、義時の後室・伊賀の方の実家である伊賀氏を強引に潰すためにでっち上げた事件とする説もある[24][要ページ番号]

泰時は義時の遺領配分を政子と相談し、弟たちのために自らの配分が格段に少ない案を提示し、政子を感心させた。

嘉禄元年(1225年)、政子は病の床に付き、死去した。享年69。戒名は安養院殿如実妙観大禅定尼。墓所は神奈川県鎌倉市寿福寺に実朝の胴墓の隣にある。

後世の評価

近世までの評価

吾妻鏡』は「前漢呂后と同じように天下を治めた。または神功皇后が再生して我が国の皇基を擁護させ給わった」と政子を称賛している。慈円は『愚管抄』で政子の権勢をして「女人入眼の日本国」と評した。『承久記』では「女房(女性)の目出度い例である」と評しているが、この評に対して政子に「尼ほど深い悲しみを持った者はこの世にいません」と述懐させている。

室町時代一条兼良は「この日本国は姫氏国という。女が治めるべき国と言えよう」と政子をはじめ奈良時代女帝元正天皇孝謙天皇)の故事をひいている。北畠親房の『神皇正統記』や今川了俊の『難太平記』でも鎌倉幕府を主導した政子の評価は高い。

江戸時代になると儒学の影響で人倫道徳観に重きを置かれるようになり、『大日本史』や新井白石頼山陽などが政子を評しているが、頼朝亡き後に鎌倉幕府を主導したことは評価しつつも、子(頼家、実朝)が変死して婚家(源氏)が滅びて、実家(北条氏)がこれにとって代ったことが婦人としての人倫に欠くと批判を加えている。またこの頃から政子の嫉妬深さも批判の対象となる。政子を日野富子淀殿と並ぶ悪女とする評価も出るようになった。

現代の評価

しばしば中世における夫婦別姓(氏)の例[注 3]として挙げられるが、前述の高橋秀樹調査官は、「政子」「北条政子」という名の女性と頼朝が結婚した事実は無く[25]、思い込みや、近世あるいは近代の家族観を強引に当てはめた、ゆがんだ中世理解の最たるものであり[13]名字を混同した不正確な議論である[26]、と批判している。

人名の構造

すなわち、北条時政、北条義時北条泰時北条時頼北条時宗などの人名表記は全て現実の名乗りと異なる後世の歴史用語である。父の平時政の名乗りは「北条四郎」(氏姓制度#氏姓制の崩壊参照)[27]。同一人物が複数の名を持つことが当然だった中世日本において、諱・実名は例えばいわゆる足利尊氏の場合、「源朝臣尊氏」のように氏姓とのセット、名字・苗字は「足利又太郎」のように仮名 (通称)とのセットで使う[28]。名字と実名をセットにする場合でも「河野四郎通信」のように通称を付記し(吾妻鏡)、名字+実名のみでは表記しないのが普通である[29]。特に~子型の諱を持たない鎌倉時代の一般女性の場合、「藤原氏女」のように記し、童名は名乗らない[30]

北条政子が歴史用語に過ぎないとすれば、本名は何だったかといわれることがある。しかし、「本名」というのは戸籍がある近代日本(および中国など)特有の概念であり、中世の日本には無いとも指摘されている[31]。普段は名乗らないために、本人すらも読み方を知らないことすらあった「実名」(諱)とは異なる概念である(箕作麟祥#名称参照)。

改名禁止および通称・実名の併記の廃止による一人一名主義の採用によって、現代的な苗字(名字)+実名の人名表記が確立したのは明治5年である[32]。北条政子というのは、現代風の人名表記を過去に便宜的にあてはめたものにほかならない。しいて言えば姓(せい)+実名の平政子が正式な名前だと考えられている(2022年大学入学共通テスト日本史B)[33]

名字の性質

また鎌倉時代の名字は、子が当然に継承するものではない。政子の弟の義時が「北条小四郎」を称したのは元服後の短期間に過ぎず、江間に移住して後はもっぱら「江間(小)四郎」と呼ばれ、任官後は「相州」「右京兆」などの官名で呼ばれている(吾妻鏡)。甥の泰時に至っては生涯一度も「北条」と名乗っておらず、以降の一族で実際に北条と名乗った者は少数派である。相模守の長男(嫡男)の意味の「相模太郎」を称した泰時や時宗のように、当時の名字は居住地や父との続柄を示すものに過ぎず、代々当然に継承されるものではなかった[27](これを重視する見地からは「苗字」とは理論上区別される[34])。

本項の人物についても、伊豆の北条名田に住んでいた頃「北条の姫」と呼ばれることはありえても、結婚して鎌倉に移住した後も呼ばれた理由は無い[26]。一方で、政子の妹、時政の五女、「稲毛三郎重成」の妻は居住地を取って「稲毛女房[35]」と呼称されており(吾妻鏡)、名字+仮名 (通称)とみるときは、仮名(けみょう)を使わない現代の感覚とは異なるが、中世は夫婦別姓だが夫婦同名字ということになる[26](その他の例は名字#女性の名字名字#近代以後の名字参照)。

姓と苗字の区別

もっとも、大化元年の「男女之法」の詔により、公民の氏姓(本姓)は父系継承になり原則として一生変わらない[36]鎌倉将軍家を継いだ藤原頼経(三寅)ですら、養子に入っていないため、春日大社の神託により源姓への改姓を阻止された事例がある(明月記[37]。したがって、平政子が源政子を名乗ることはできない。

しかし、ウジカバネ制度の公的使用は明治3・4年に廃止されており、以降姓とか氏というのは(民法・戸籍法上は氏)、源平藤橘のような本姓ではなく苗字である(平民苗字必称義務令[38]。現代日本人が法律上藤原と名乗っていても、それは苗字であって本姓ではない(豊臣秀吉#略歴参照)[39]。理論上、明治民法施行後も大江朝臣毛利氏が新家設立により苗字を乃木に変えたからといって、乃木希典の本姓の源氏に変わるわけではないとも主張されている[40]。要するに、平政子の本姓が一生平氏であることと、現代日本の夫婦同苗字規定は無関係ということである。

なお姓=本姓、苗字=現民法・戸籍法の「氏」、と区分して両者の区別を説きつつ、夫婦別「氏」の例として「北条(平)政子」「日野富子」[41]徳川家光側室「藤原朝臣光子[42]を挙げる学者もいる(日野富子#名称も参照)。

脚注

注釈

  1. ^ 坂井孝一は、真名本『曾我物語』巻五に「鎌倉殿の御台盤所」(政子)の母が曾我兄弟の伯母と書かれていることから、政子の母も宗時・義時を生んだ伊東祐親の娘としている[16]。また、時政の正室とされる牧の方も7人の子女を産んだとされており、彼女よりも前に娶った伊東祐親の娘が時房以前の8人の子女を生んだ可能性があるとしている[17]
  2. ^ 真名本『曾我物語』巻三に「安元弐年丙申三月中半(なかば)のころより、兵衛佐殿は、北条の妃(ひめ)に浅からぬ御志に依て、夜々通はんとせし程に、姫君一人御在(おはしま)す(原文は漢文)」という記述がある[18]。通説では、「安元2年(1176年)3月」より、頼朝が政子の元に通い始めて、やがて姫君(大姫)が生まれたと解釈される[19][20]が、「安元2年(1176年)3月」は頼朝が政子に通い始めた結果、大姫が生まれた時期を指すとする解釈もある[21]。なお、後者の解釈によれば、伊東祐親が頼朝と政子の交際を知ったことが、頼朝と娘・八重姫を引き離して、2人の間の子である千鶴丸を殺害した直接の原因であったとしている[21]
  3. ^ 書籍・論考では井戸田博史 1986, p. 144、福島瑞穂, 福沢恵子 & 榊原富士子 1989, p. 11(福島)、井戸田博史 2004, p. 38、山田昌弘 2013, p. 28、 佐藤一明 2016, p. 100、など。ほかに次のようなものもある。水野紀子 (2001年). “シリーズ暮らしの法律2 民法が家族を規律して一世紀”. 2021年1月22日閲覧。田端泰子・小林智子「歴史に学び、歴史をきりひらく女性を育てたい」『京都の生協』No.47(田端)、2003年1月発行、2021年10月30日閲覧。中村哲治「日本再構築」ブログ 選択的夫婦別氏~別氏だった日本、2010年2月22日、2021年2月22日閲覧。打越さく良 (2018年6月15日). “結婚後も自分の姓を名乗りたい!「第2次夫婦別姓訴訟」にむけて”. 2021年11月26日閲覧。選択的夫婦別姓・全国陳情アクション、47都道府県「選択的夫婦別姓」意識調査 有識者コメント二宮周平)、2018年11月18日初稿、同23日改稿、2022年1月14日閲覧。選択的夫婦別姓・全国陳情アクション、記事から読み解く「夫婦同姓の強制」と「少子化」との関連性、2018年11月22日初稿、同23日改稿、2022年1月14日閲覧。山口一男 (2019年4月5日). “選択的別姓問題と個人の自由の価値”. 独立行政法人経済産業研究所. 2021年2月25日閲覧。選択的夫婦別姓認められず なぜ日本人同士は一つに強制か”. 毎日新聞 (2019年3月31日). 2022年1月14日閲覧。堀江珠喜 (2020年1月19日). “コラム:「夫婦別姓選択制法制化」”. 2021年1月22日閲覧。枝野幸男述 (2020年12月30日). “立憲・枝野氏に聞いた「選択的夫婦別姓」を実現するための3つの方法”. 2021年1月16日閲覧。池田信夫 (2021年9月17日). “夫婦別姓が日本の伝統である(アーカイブ記事)”. 2022年1月17日閲覧。

出典

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参考文献

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  • 本多浅治郎『日本歴史講義』 上巻(改訂増補8版)、金刺芳流堂、1913年。 
  • 山路禰吉訳『訳文大日本史』 第五冊、後楽書院、1912年。 
  • 山田孝雄『神皇正統記述義』民友社、1932年。 
  • 山田昌弘『なぜ日本は若者に冷酷なのか:そして下降移動社会が到来する』東洋経済新報社、2013年。 
  • 雄山閣編集局編『異説日本史:女性篇』 下、雄山閣、1932年。 
  • 渡邊幾治郎『皇國大日本史』朝日新聞社、1940年。 

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