リングス

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株式会社リングス
RINGS Co.,Ltd.
種類 株式会社
市場情報 非上場
本社所在地 日本の旗 日本
150-0043
東京都渋谷区道玄坂1-22-7
道玄坂ピア5階
業種 サービス業
法人番号 5020001040154 ウィキデータを編集
事業内容 総合格闘技興行
関連企画の運営
代表者 最高経営責任者 前田日明
関係する人物 前田日明(創業者)
外部リンク リングス公式サイト
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リングスRINGS)は、日本総合格闘技団体。正式名称はファイティング・ネットワーク・リングス。キャッチコピーは「世界最強はリングスが決める」。

旗揚げ当初は、前身である第2次UWFの延長線上なスタイルからスタートしたが時代の変化とともに徐々に総合格闘技色を強めていった。審議委員制度やランキング制を導入するなど、スポーツ性も重視している。

歴史

背景

1988年から活動再開した第2次UWFは、当時のプロレスとしては画期的な格闘技路線を打ち出し、高い評価と支持を得ていた。しかし、1990年頃から団体の経営方式を巡って、前田日明や選手側とフロント側が対立するようになり、前田は造反のペナルティで出場停止処分を受けたのを契機に、新団体設立を模索し始めた。最終的に会社は全選手の解雇を決定し、興行活動は停止した。

前田は、1991年初頭に主力選手を集め、新団体を設立しての再始動を呼びかけたが、一部の選手達から賛同を得られなかった。全員の結束を条件としていた前田の思惑は崩れ、UWFの解散が決定した。その後、選手達は前田1人を残して早々に別団体設立に動き、『プロフェッショナルレスリング藤原組』、『UWFインターナショナル』の2派に分裂した。

第1次リングス

当時、開局間近だった衛星放送局『WOWOW』は、コンテンツの目玉としてUWFと契約する予定でいたが、解散により契約は宙に浮いていた。そこでネームバリューのある前田をバックアップすることになり、意気消沈していた前田は、本来の受け皿となる筈だった新団体を『リングス』と名付け、所属選手は自身1人のみという異常事態で立ち上げる事になる。WOWOWは、リングスと放映契約を締結。そのおかげで他派と比べ、潤沢な資金での運用が可能となった。次いで新日本プロレスと契約寸前だったUWF時代の盟友クリス・ドールマンを説き伏せ、外国人選手参加の陣容を整えた。

1991年3月14日赤坂プリンスホテルにて『リングス』の設立を正式発表。前田は最高経営責任者に就任。同年5月旗揚げ興行の挨拶で、前田は「これが最後の船出になるだろう」と述べている。

ファイティング・ネットワーク

旗揚げにあたり前田は「格闘技ネットワーク構想」を打ち立てた。格闘技の盛んな主要各国に道場を設立し選手を育成、日本で戦わせてノウハウを吸収させ、加盟各国で自主興行を展開させる独立採算方式を確立させた。1991年設立のリングス・オランダを皮切りに、活動停止まで加盟は10ヶ国に上った。当初の加盟国はオランダのみで、日本マット界に馴染みの深い北米の選手を招聘しようにも、コストや契約面のハードルが高いため、他の方法を模索していた。以前、新日本がペレストロイカ後のソビエト連邦から、格闘技選手(ショータ・チョチョシビリ)を招聘していた事がヒントになり、前田も「その手があったのか」と構想していて、東欧各国との提携に繋がったと述べている。

ネットワーク構築により、外国人選手の招聘に困ることはなかったが、エースであった当団体の前田以外の日本人選手は、慢性的に不足していた[注 1]。この窮地を救ったのが、空手団体の正道会館との提携である。提携していた1991年から1993年まで人気空手家の佐竹雅昭を筆頭に、正道会館勢がリングスマットで活躍した。この提携は、第2次UWFからリングスまでの間に築き上げた興行ノウハウを、正道会館が吸収する結果となり、後に正道会館が母体となって立ち上げたK-1が誕生する一因ともなっている。

リングスの元社員で、格闘技関係のブッカーや他団体、競技の運営者として活躍している人物としては、川崎浩市若林太郎上原譲内田統子などがいる。

前田日明の引退、活動停止

当初は人気団体として定着していたリングスだったが、K-1、PRIDEの出現により注目度も下がり、1999年2月21日にエースの前田が現役を引退したことで興行で苦戦が続き、リングス無差別級王者で、専属契約中であったギルバート・アイブルはじめ、国内外の選手、スタッフが、相次いで当時話題を集めていたPRIDEへ引き抜かれ、または移籍するなど離脱する[注 2]。危機が続く中、2002年にWOWOWがアメリカの元祖総合格闘技とも言えるUFCと新規に契約し、リングス中継を終了。リングスも活動停止となった。

なお以上の経緯で日本国内では活動を停止したリングスだが、海外ではリトアニアなどリングス・ネットワークの手により大会は継続され、日本国内でもリングス出身スタッフが運営する「リングスKOKルール」を採用した格闘技イベント「ZST」が開催されるなど、リングスの系譜は受け継がれている。

なおプロの総合格闘技団体として、世界的なリングス・ネットワークを越える構想と組織化は、未だどこの団体、興行も実現していない。

復活へ、THE OUTSIDER旗揚げ

リングス活動停止後、前田は総合格闘技興行「HERO'S」のスーパーバイザーを務めたが、HERO'S終了後、リングス復活へ向けて動き出した。

2008年よりリングス主催のアマチュア大会「THE OUTSIDER」を旗揚げ。以降定期的に大会を開いている。

2010年4月3日の「THE OUTSIDER第11戦」において、前田は10月11日横浜文化体育館にてリングス復活第1弾大会を開催すると宣言した[1]。THE OUTSIDERとZST 在日米軍の対抗戦として行なわれたこの大会は正式な復活大会とはならなかったが、リングス復活への足がかりとなった。また、大会前にTHE OUTSIDERの常連である吉永啓之輔とプロ契約を交わした。

その後もリングスはTHE OUTSIDERトップ選手と順次プロ契約を結んでいる[2]

2011年6月20日の記者会見で、2012年3月に後楽園ホールでリングスとしてのプロ興行を開催して再始動すると発表した[3]。新生リングスにはTHE OUTSIDER出身プロおよびZSTの選手を中心に他団体やフリーにも参戦を呼びかける一方THE OUTSIDERはリングスのアマチュア部門として継続する。

リングス再始動に先立ち、2012年1月22日に選抜大会「バトルジェネシス」も復活させることも発表[4]。さらに2011年11月23日のZSTにて新リングスルールが採用される。再始動を目前に控え、リングスと同時期に活動を停止した日本コマンドサンボ連盟の復活も発表。

第2次リングス

2012年3月9日、旗揚げ戦が行なわれ、メインイベントにはキックボクサーとしてK-1などで活躍した小比類巻貴之が出場した[5]

2012年12月の横浜文化体育館大会ではヴォルク・ハンの引退試合が行なわれた。

2015年5月現在、リングスとしての興行は2012年12月の興行以降行われていない。

第1次リングスルール

初期から前田日明が引退するまでリングスでは、前身である第2次UWFルールを主に踏襲していた。グローブなし、ロープエスケープあり、顔面パンチ禁止(掌底はOK)、グラウンドでの打撃は禁止。1エスケープで1ロストポイント、3ロストポイントで1ダウン。5ダウン、15ロストポイント、タップアウト、ダウン後10カウントで敗北。そして時代の変遷にともない、以下のポイントルールに厳格化していった。

  • 3ロストポイント→2ロストポイント→1ロストポイントで1ダウン。
  • 15ロストポイント→10ロストポイント→5ロストポイント→3ロストポイントで敗北。
  • 5ダウン→3ダウンで敗北。

その後UFCの登場により、バーリトゥードが話題を集めていった。前田はバーリトゥードには否定的であったが、修斗パンクラスPRIDEなどが追随する中で、リングスも対応を迫られ、リングス後期にはオープンフィンガーグローブを使用しつつもバーリトゥードから危険な要素を省いた「KOKルール」と呼ばれる1990年代初期の修斗(シューティング)ルールに酷似したルールが採用された。

第2次リングスルール

2012年の再旗揚げでは新リングスルールが採用され、パウンドが可となった。

かつてはグラウンドでの顔面パンチ(パウンド)を禁じた「KOKルール」を採用していたリングスだが、再開に際し採用される新リングスルールはパウンドを認めたものとなる。これにより日本を含め世界中で使用されているMMAの標準的なルールをリングスもようやく採用することになった。

しかし前田日明は「総合を見ていて選手たちのダメージが大きかったり、壊れ方が早いのが気に掛かる。総合のルールはまだまだ問題があるし、大会主催者は選手の引退後の生活を奪わないよう配慮しないといけない」と話し、踏みつけやサッカーボールキックは禁止。「総合を時代のあだ花にしたくない。スポーツの一つのジャンルとして定着させたい。バイオレンスではなく選手のスピリットや技能を見せるものとしてやっていく」と、危険な攻撃を禁止にしている[6]

第2次リングス参戦選手

バンタム級
フェザー級
ライト級
ウェルター級
ミドル級
ライトヘビー級

第2次リングス大会一覧

大会名 開催年月日 会場 開催地
RINGS/THE OUTSIDER 合同大会 〜ヴォルク・ハン引退記念興行〜 2012年12月16日 横浜文化体育館 日本の旗 神奈川県横浜市
RINGS vol.2 〜CONQUISITO 探索〜 2012年9月23日 後楽園ホール 日本の旗 東京都文京区
RINGS 〜reincarnation 再臨〜 2012年3月9日 後楽園ホール 日本の旗 東京都文京区

階級、王座

詳しくは「リングス王者一覧」を参照。

階級 重量区分 歴代 王者
ヘビー級 93kg以上 空位
ライトヘビー級 93kg以下 空位
ミドル級 83.9kg以下 空位
ウェルター級 77.1kg以下 空位
ライト級 70.3kg以下 空位
フェザー級 65.8kg以下 空位
バンタム級 61.2kg以下 空位

第1次リングス所属選手

リングス・ジャパン

選手団体としてのリングス・ジャパンに所属したのは当初は前田日明UWFインターナショナルから移籍した長井満也の2人だけであった。その後、1992年に山本宜久成瀬昌由、1994年に坂田亘高阪剛らがデビュー。さらに1996年に田村潔司がUインターから移籍。Uインター解散後の1998年には金原弘光山本健一(現:山本喧一)が移籍し、横浜市に構えられた前田道場で練習に励み、徐々に陣容を整えていった。既に選手としての盛りを過ぎていた前田日明に代わり、後継者として期待された生え抜きの山本は伸び悩み、移籍組の田村が日本人エースとして重責を担った。さらに田村が離脱した末期は、金原が「リングス最後のエース」と呼ばれ孤軍奮闘した。

リングス・オランダ

特別招聘選手

リングス・ロシア

特別招聘選手

リングス・グルジア

特別招聘選手

リングス・ブルガリア

リングス・オーストラリア

リングス・USA

リングス・イギリス

リングス・ブラジル

リングス・リトアニア

その他

USA
フィンランド
ブラジル

スタッフ

レフェリー

リングアナウンサー

メディカルアドバイザー

審議委員

公式記録員

いわゆる「フェイク」の存在と真剣勝負移行に関する当事者証言

ルール面以外に、いわゆる勝敗を事前に決めたり、意図的に勝利を譲るなどのいわゆる「フェイク”出来試合)」と真剣勝負の混在については、外部の論評以外にいくつか内部の証言がある。

クリス・ドールマンは「1976年アントニオ猪木」(柳澤健、文藝春秋)の中で著者のインタビューに答え「ヤマモトは強くは無いけど、いいキャラクターを持っている。闘う心があるんだ。彼はライジングスターで私は50歳に近かった。私が勝ったら悪いだろう?だからレッグロックに敗れることにしたんだ」(P.153)と証言している。

また逆に1999年以降の「KOKトーナメント」にマネージャーとして選手を送り込んだモンテ・コックスはkamipro 105号で「たしかに当時、リングスはアメリカの格闘技関係者の中ではあまり評判が良くなかったし、私自身、「なぜ、プロレス団体に協力するんだ!?」なんて言われたさ。でも、私が選手を送り始めたのは『KING OF KINGS』(KOK)というトーナメントだった。この大会を開くに当たってリングスは、全試合完全リアルファイトを約束してくれた。だから私も協力することにしたんだよ。(略)そして実際、『KING OF KINGS』は間違いなくリアルファイトだったよ」と証言している。

備考

アメリカチーム・クエストに所属するランディ・クートゥアダン・ヘンダーソンブラジルブラジリアン・トップチームに所属するアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラヒカルド・アローナオランダドージョー・チャクリキに在籍したピーター・アーツらの初来日はリングスである。またリングス・ロシアやリングス・オランダなどしっかりとした組織があり海外でも大会を開いている。海外ではすでに活躍していたが日本ではまだ無名であった彼らを招聘して日本での活躍の活路を開いた。「世界最強はRINGSが決める」のキャッチコピー通り、エメリヤーエンコ・ヒョードルは誰もが認める世界最強の男になった。

K-1を主催するFEGが行っていた総合格闘技興行「HERO'S」は、当初ビッグマウスとの協賛で行なわれており、当時ビッグマウス・ラウドのスーパーバイザーであった前田日明もスーパーバイザーとして就任。FEGが複数契約したヒース・ヒーリングがリングス・USA、ラモン・デッカーがリングス・オランダ、キム・ミンスがリングス・コリア、アラン・カラエフがリングス・ロシア、イアン・シャファーがリングス・オーストラリアの所属を名乗っている。

脚注

注釈

  1. ^ 原因として試合の質を高く維持しようと受験生に求めたプロテスト合格とデビュー基準があまりに厳しすぎて合格者無しや下積み中に脱走者が続出した
  2. ^ この点について前田は、桁違いのファイトマネーを提示されればどんな選手でも動くと述懐している。一方PRIDEの榊原信行代表は、引き抜きではないと主張していたが間違いなく引き抜きである

出典

外部リンク