精神障害の診断と統計の手引き

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精神障害の診断と統計の手引き(せいしんしょうがいのしんだんととうけいのてびき、Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders、DSM)は、アメリカ精神医学会が出版している、精神障害を分類するマニュアルである。精神医学的な障害を診断する際の指針として用いられ、世界保健機関による疾病及び関連保健問題の国際統計分類とともに、世界各国で用いられている[1]

DSMに対する批判も様々に存在する。一部を挙げれば、DSM第4版の作成委員長であるアレン・フランセスの述べるように、製薬会社に大きく利用され、診断の大幅な増加と過剰診断、過剰摂取につながっている[2]アメリカ国立精神衛生研究所(NIMH)所長が述べるように、最良なものであるが科学的な妥当性がないというものまでである[3]

概要[編集]

DSMは、精神医学の方面で革命的なアプローチをもたらしたものとして知られている。普及した理由は、

  • 病因論などに余り踏み込まずに精神症状のみを論理的推察と統計学的要素を取り入れ分類した事で、
  • 診断基準が明確になり、今まで医師の主観的な傾向にあった精神障害の判断に対して、客観的な判断を下せる様になり、
  • 医療スタッフ側の意見や伎倆の差異による診断の違いが最小限となった

事にある。

つまり、ある症状が継続しているといった尺度を、第三者間で共有することができる。

しかし2013年時点でも、身体の病気のように精神障害を客観的に診断できる検査は存在しないため、安易な診断が広がるという懸念は存在する[4]

来歴[編集]

1952年に初版 (DSM-I) が出されて以降、随時改定され、現在は第五版(DSM-5) となっている。アメリカ合衆国を主に、世界で50万部以上が普及している。

DSM-I
1952年発表。「反応」(reaction) の面から精神障害を3群に大別したものであった。診断名106[5]種類。
DSM-II
1968年発表。DSM-Iの基本概念を継承しているが、「反応」の言葉を廃し、「障害」を10群に大別した。診断名182[5]種類。
DSM-III
1980年発表。症候学的記述および量的基準を導入した新しい診断基準を採用、さらに多軸評定という新しい手法を導入した。障害概念も追加され、診断項目はほぼ倍増した。診断名265[5]種類。
DSM-III-R
1987年発表。DSM-IIIを基にした小改正版である。診断名292[5]種類。
DSM-IV
1994年発表。DSM-IIIの基本概念を踏襲しつつ、ICD-10との整合性確保を図るなどした改訂版。精神障害を16群に大別した。診断名374[5]種類。
DSM-IV-TR ('Text Revision' of the DSM-IV)
2000年発表。診断名374[5]種類。
DSM-5
2013年発表。なお、この回から算用数字で表すようになる[6]。あわせて序数詞読みから基数詞読みに変更(従来は、first, second, third, fourthと読んでいたが、5以降はfiveの読みとなる)。

診断[編集]

DSMにおいては、各障害についてA・B・Cの診断基準が示され、「AからCの全てが当てはまる場合」その精神障害であると診断される。

A・Bは具体的な病像が列挙されるが、C基準は「その症状が原因で職業・学業・家庭生活に支障を来している」となっている。

C基準が無ければ、誰もがDSMに挙げられたいずれかの精神障害の基準を満たし得るからである。特にパーソナリティ障害においてはその傾向が強い[要出典]

本書には、「DSM-IVは、臨床的、教育的、研究的状況で使用されるよう作成された精神障害の分類である。診断カテゴリー、基準、解説の記述は、診断に関する適切な臨床研修と経験を持つ人によって使用されることを想定している。重要な事は、研修を受けていない人にDSM-IVが機械的に用いられてはならない事である。DSM-IVに取り入れられた各診断基準は指針として用いられるが、それは臨床的判断によって生かされるものであり、料理の本のように使われるものではない。」と書かれており、非専門家による使用を禁じている。

なお、日本国内には、診断基準にDSMではなく、ICD-10を採用している病院もある。日本の行政においてはICD-10が用いられている[7]

障害定義[編集]

一般的には「Mental Illness(心の病、精神病)」と呼ばれるが、専門的には「Mental Disorder(精神障害)」が使われる。DSMでは、「Mental Disease(精神疾患)」ではなく、「Mental Disorder(精神障害)」という用語を採用している。DSM-IVの「精神障害の定義」では「どのような定義によっても『精神障害』の概念に正確な境界線を引くことができないことを認めなければならない[注 1]」と注意している[10][8][9]。各種精神障害は、臨床的に有意な行動、心理的症候群、様式として概念化されている[8][9]

障害分類[編集]

DSM-IVには、16個の障害 (Disorder) の分類が含まれている。

  1. 通常、幼児期、小児期、または青年期に初めて診断される障害 (Disorders Usually First Diagnosed in Infancy, Childhood, or Adolescence)
  2. せん妄、痴呆、健忘性障害、および他の認知障害 (Delirium, Dementia, and Amnestic and Other Cognitive Disorders)
  3. 一般身体疾患による精神障害 (Mental Disorders Due to General Medical Condition)
  4. 物質関連障害 (Substance-Related Disorders)
  5. 統合失調症および他の精神病性障害 (Schizophrenia and Other Psychotic Disorders)
  6. 気分障害 (Mood Disorders)
  7. 不安障害 (Anxiety Disorders)
  8. 身体表現性障害 (Somatoform Disorders)
  9. 虚偽性障害 (Factitious Disorders)
  10. 解離性障害 (Dissociative Disorders)
  11. 性障害および性同一性障害 (Sexual and Gender Identity Disorders)
  12. 摂食障害 (Eating Disorders)
  13. 睡眠障害 (Sleep Disorders)
  14. 他のどこにも分類されない衝動制御の障害 (Impulse-Control Disorders Not Elsewhere Classified)
  15. 適応障害 (Adjustment Disorders)
  16. パーソナリティ障害 (Personality Disorders)

多軸評定[編集]

DSM-III以来、多軸評定という手法を採用している。これは、下記の5つの軸によって障害を分析することで、障害を多面的に捉えるという狙いに基づいている。

第1軸
臨床的障害、ないしは臨床的関与の対象となりうる他の状態。パーソナリティ障害および精神遅滞を除く障害や状態がここに含まれる[11][12]
第2軸
パーソナリティ障害および精神遅滞
第3軸
一般身体疾患 (General Medical Conditions)。DSM-IIIにおいては身体状態と呼ばれていた。
第4軸
心理社会的および環境上の問題。DSM-IIIにおいてはストレス強度と呼ばれていた。
第5軸
全体的機能評定 (GAF: Global Assessment of Functioning)。DSM-IIIにおいては社会適応水準と呼ばれていた。

統計[編集]

DSMはICD-10における「精神および行動の障害」にほぼ相当する。DSMの「Mental Disorder(精神障害)」は非常に幅広い概念である。DSM-IVでは374種類の障害が含まれる[注 2]。したがって、DSMに記載されたあらゆる精神障害の有病率を合計すると、著しく高い数値となってしまう。そのため、精神障害の有病率を調査する場合、特定の障害に絞り込んで調査することが一般的である[注 3]。2005年、WHO世界精神保健調査は、DSM-IVの4つの診断カテゴリに含まれる19種類の(軽症例を含めた)障害について、米国人の生涯有病率[注 4]を46.4%[注 5]、12ヶ月有病率[注 6]を26.2%[注 7]と報告している[15][13][14]

批判[編集]

アメリカではDSM-IIIが登場した1980年頃から、精神科を志望する医師が減少している。この事象は、DSMのマニュアル化された診断がかえって精神医学の面白みをなくしてしまったからだとする意見もある[16]

2010年、DSM-IVのアレン・フランセス英語版編集委員長は、WIRED英語版で、「精神障害の定義は存在しません。戯言です。つまり、定義などできないということです[注 8]」などと発言している[17]。また、フランセス委員長は2012年、「残念なことに、精神医学における生物学的検査というのは未だにありません。…現在のところ、症状記述に頼るしかありません」と述べている[18]。DSMの改訂後に定義が拡大解釈されたことについても、「米国では数多くの勢力が(DSMの)変更点を丹念に研究しながら、どのようにしたら自分たちが考えている特定の目的に合わせて曲解できるかと待ちかまえているのです」と述べている[19][20]

DSM-IIIRと同じ時期に出た抗うつ薬のフルオキセチン(プロザック)は、うつ病の定義のあいまいさから売り上げが急増し、DSMが製薬会社のマーケティングに使われてしまう危険性が認識された[21]。アレン・フランセスは、慎重に作成したDSM-IVによってADHDの診断が15%増加すると見込んだが、実際には3倍に増加し、小児の双極性障害は40倍に、自閉症は20倍に、成人の双極性障害は2倍となった[22]。このような診断のインフレはとどまるところを知らず、DSM-5の登場によりさらになる過剰診断と不適切な診察が増加されると推察される[23]。なぜなら、DSM-IIIの最高責任者であったボブ・スピッツァーが指摘するようにDSM-5では、議論の透明性をなくしたため安全で質の高いものに仕上げることができなくなり、アレン・フランセスの指摘するように、このDSM-5は正常な人にまで誤って診断を下すという診断のインフレを促し、適切でない薬の使用を助長する危険性をはらんだまま出版に至ったのである[24]

アメリカ国立精神衛生研究所(NIMH)の所長であるトーマス・インセルによれば、DSM-5は現在において最良のものではあるが科学的妥当性を欠いており、精神医学的な診断を作り替えるための研究定義基準(RDoC、Research Domain Criteria)の作成を進めている[3]

2013年、大野裕は、DSM-5で軽度の障害を含めたため、人間が自然に持っている「こころの力」を見落とす危険性が高くなっていると主張する[25]


DSMの日本語名[編集]

「Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders」の訳語として「精神障害の診断と統計の手引き」があるが、定訳と呼べるものは無い。多くの場合、単に DSM と呼ばれる。

脚注[編集]

  1. ^ 原文: “it must be admitted that no definition adequately specifies precise boundaries for the concept of ‘mental disorder.’” [8][9]
  2. ^ 例えば、日本の障害年金の認定要領(「国民年金・厚生年金保険 障害認定基準」 平成25年6月1日改正 p. 43)にあるような狭義の<精神障害>(「統合失調症、統合失調症型障害及び妄想性障害」、「気分(感情)障害」、「症状性を含む器質性精神障害」、「てんかん」、「知的障害」、「発達障害」)などとは大きく異なる点に注意しなければならない
  3. ^ WHO世界精神保健調査(WMH)など
  4. ^ 調査時点までの生涯に診断基準を満たす症状がある人の割合。
  5. ^ 「不安障害(8種類)」が28.8%、「気分障害(3種類)」が20.8%、「衝動制御の障害(4種類)」が24.8%、「物質関連障害(4種類)」が14.6%である。また、「いずれかの精神障害」が46.4%である。[13]
  6. ^ 過去12ヶ月間に診断基準を満たす症状がある人の割合。
  7. ^ 「不安障害(8種類)」が18.1%、「気分障害(3種類)」が9.5%、「衝動制御の障害(4種類)」が8.9%、「物質関連障害(4種類)」が3.8%である。また、「いずれかの精神障害」が26.2%である。[14]
  8. ^ 原文: “there is no definition of a mental disorder. It’s bullshit. I mean, you just can’t define it.” [17]

出典[編集]

  1. ^ 尾崎紀夫 「精神疾患の診断に関する現状と課題」『今日の診断指針 第6版』 医学書院、2010年3月。ISBN 978-4-260-00795-5
  2. ^ アレン・フランセス 2013.
  3. ^ a b Benedict Carey (Feb 3, 2014-02-03). “Blazing Trails in Brain Science”. New York Times. http://www.nytimes.com/2014/02/04/science/blazing-trails-in-brain-science.html 2014年3月15日閲覧。 
  4. ^ アレン・フランセス 2013, pp. 10-11.
  5. ^ a b c d e f Lloyd L. Lyter; Sharon C. Lyter (2013), DSM 5: A Primer, Pennsylvania: National Association of Social Workers, http://www.nasw-pa.org/resource/resmgr/dsm_5-_a_primer.ppt .
  6. ^ American Psychological Association News Release 2010.03.09
  7. ^ 「国民年金・厚生年金保険 障害認定基準」 平成25年6月1日改正 p. 45
  8. ^ a b c American Psychiatric Association 1994, p. xxi-xxii.
  9. ^ a b c American Psychiatric Association 2000, p. xxx-xxxii.
  10. ^ 引用エラー: 無効な <ref> タグです。 「NM20132」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません
  11. ^ American Psychiatric Association 1994, p. 25.
  12. ^ American Psychiatric Association 2000, p. 27.
  13. ^ a b Ronald C. Kessler; Patricia Berglund; Olga Demler; Robert Jin; Kathleen R. Merikangas; Ellen E. Walters (June 2005). “Lifetime prevalence and age-of-onset distributions of DSM-IV disorders in the National Comorbidity Survey Replication”. Archives of General Psychiatry 62 (6): 593-602. doi:10.1001/archpsyc.62.6.593. PMID 15939837. 
  14. ^ a b Ronald C. Kessler; Wai Tat Chiu; Olga Demler; Ellen E. Walters (June 2005). “Prevalence, severity, and comorbidity of 12-month DSM-IV disorders in the National Comorbidity Survey Replication”. Archives of General Psychiatry 62 (6): 617-627. doi:10.1001/archpsyc.62.6.617. PMID 15939839. 
  15. ^ Harvard Medical School (2005), “2005 WMH Publications”, The World Mental Health Survey Initiative (Harvard Medical School), http://www.hcp.med.harvard.edu/wmh/publications.php#2005 2014年2月6日閲覧。 
  16. ^ 内海健 『うつ病新時代―双極2型障害という病』 〈勉誠出版〉2006年7月
  17. ^ a b Gary Greenberg「Inside the Battle to Define Mental Illness」WIRED英語版2010年12月27日(2011年1月号)
  18. ^ 医学書院 2012, p. 819.
  19. ^ 医学書院 2012, pp. 819-822.
  20. ^ 佐藤光展 「DSMの功罪 小児の障害が20倍!」、『精神医療ルネサンス』 (読売新聞の医療サイトyomiDr.(ヨミドクター))、2012年10月24日http://web.archive.org/web/20121129022325/http://www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=66961 
  21. ^ アレン・フランセス 2013, pp. 124-125.
  22. ^ アレン・フランセス 2013, pp. 66、175-176.
  23. ^ アレン・フランセス 2013, pp. 314-315.
  24. ^ アレン・フランセス & 2013 pp24-26.
  25. ^ 『精神疾患の分類改訂 こころの力見落とす危険性』「こころの健康学」日本経済新聞2013年10月18日夕刊7面

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]