マルコム・X

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マルコム・X
Malcolm X
Malcolm X NYWTS 2a.jpg
マルコム・X(1964年3月)
通称: マルコム・リトル(出生名)
エル・ハジ・マリク・エル・シャバーズ(ムスリム名)
生年: 1925年5月19日
生地: アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ネブラスカ州オマハ
没年: 1965年2月21日(満39歳没)
没地: アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク
思想: 黒人民族主義汎アフリカ主義
活動: 公民権運動黒人解放運動
所属: ネーション・オブ・イスラム,
ムスリム・モスク・インク,
アフリカ系アメリカ人統一機構

マルコム・X (Malcolm X, 1925年5月19日 - 1965年2月21日) は、アメリカの黒人公民権運動活動家

ネーション・オブ・イスラム (NOI) のスポークスマン、ムスリム・モスク・インク (Muslim Mosque, Inc.) およびアフリカ系アメリカ人統一機構 (Organization of Afro-American Unity) の創立者でもある。出生名はマルコム・リトル (Malcolm Little) 。非暴力的で融和的な指導者だったキング牧師らとは対照的に、アメリカで最も著名で攻撃的な黒人解放指導者として知られている。

生涯[編集]

生い立ち[編集]

マルコムはネブラスカ州オマハに生まれる。バプテストの反体制的な牧師だった彼の父親アール・リトルは、アメリカに黒人の自由は存在しないと考えている人物だった。自宅敷地内に家庭菜園を作り家畜を育てほぼ自給自足に近い生活を送り、周辺に住む他の黒人のように白人に媚び諂い仕事を分けてもらうことを良しとしない人物だった。そのため、一家は当時大きな勢力を誇っていたKKKの標的にされていた。父は1931年ミシガン州ランシング人種差別主義者によって殺害された。頭が変形するほど殴られ、体が三つに切断されるように線路に放置されて轢死体となって発見された。明らかな殺人にも関わらず警察は自殺と断定した。当時マルコムの父は二つの保険会社の生命保険に入っており、その内の一つは受け取りの金額が僅か数百ドルと小額だったため保険金が支払われたが、もう一つの保険会社は受け取りの金額が大きかったため、警察が自殺と断定したとの理由により保険金は支払われなかった。その後彼の母ルイーズは精神を病み、精神病院に送られた。後にマルコムと兄弟姉妹が精神病院から引き取るが、その時にはマルコムを含めて子供達を全く認識できなかったことから、人間モルモットまがいの扱いを受けていたものと推測されたが、病院側はあらゆる質問を拒否し彼女のカルテも無断で破棄したため事実は不明である。マルコムは自伝で、役所の人間が同じことを何度も母に尋ね子供達を里子に出すことを強要したため精神を病んだのだ、と記述している。

ルイーズは黒人と白人の混血で、母親(マルコムの祖母)が白人に強姦されて生まれた。一見すると褐色の肌の白人と間違えられ、そのお陰で職を得られたこともあったが、白人の血が入った黒人であることが発覚すると即座に解雇された。マルコムは自伝で、「母は自分の体に流れている白人の血を憎み、黒人の中でもとりわけ肌の色が黒く黒人然とした父と結婚したのだ」と語ってはいるものの、実際にはマルコムの父が殺害される数年前から夫婦仲は冷え切り喧嘩が絶えなかった、とマルコムの兄姉は証言している。事実、アールが殺害された晩も、夕食のメニューという些細なことで口論となり、彼が家を飛び出してその帰り道に襲撃され殺害されている。ルイーズは初婚であったが、アールにとっては3度目の結婚であった。彼女は夫の死後9人の子供を一人で育てることになった上に、精神を病んだため、子供たちはそれぞれ別の家に里子に出された。

マルコムは白人の上流階級の家に引き取られたが、自伝ではあくまでも「高価あるいは珍しい動物としてしか扱われなかった」と語っている。事実、この時代のアメリカでは慈善事業と謳い、富裕層の白人が黒人の孤児を引き取ることが流行していた。マルコムは幼い頃から優秀な成績を収め学級委員長に何度も当選したが、引越し先ではやむを得ず白人の学校に一人だけ黒人として通うこともあり、席は常に一番後ろだった。白人教師から将来何になりたいかを聞かれた時、弁護士医者と答えたが、教師からは「黒人はどんなに頑張っても偉くなれない。黒人らしい夢を見た方がいい」と諭され、手先の器用さと人当たりの良さを生かして大工になることを勧められた。

中学卒業後[1]、異母姉エラ(アールと前妻の娘)と一緒に住むためにボストンへ転居、リンディー・ナイトクラブで靴磨きの仕事を行った。自伝でデューク・エリントンや他の有名な音楽家の靴を磨いたと語っている。その後、ニューヨークハーレムギャンブル麻薬取引、売春、ゆすりおよび強盗に手を染めた。さらに第二次世界大戦中、徴兵を回避するために精神異常を装った。ニューヨークでは黒人男性が白人女性を相手する売春組織に入ろうとしたこともあったが、母方から白人の血が入っていたためその肌の色は漆黒ではなく赤みの強い濃い茶色、瞳も髪の色も茶色がかっていたため、肌の色が明るすぎるとして組織への入会を断られている。事実、彼は黒人の仲間達からその肌の色から「レッド」の愛称で親しまれていた。

服役と改宗[編集]

1946年1月12日、20歳のときに強盗の罪で逮捕され、窃盗罪で懲役8~10年が宣告された。通常の窃盗罪は初犯では懲役2年となることが多いが、白人女性のソフィアと継続的な性的関係を持っていたため、通常よりも長い懲役刑を宣告された。収監されたチャールズタウン州刑務所ではあらゆるものを罵り、特に聖書に対する悪罵から彼は「サタン」と呼ばれた。

1948年に家族がマルコムをイスラム教に改宗させた。彼は獄中でイライジャ・ムハンマド (en:Elijah Muhammad) の教徒と彼の行っていたブラック・ムスリム運動に出会い、その教えを勤勉に研究した。マルコムはイライジャと文通を行い、独学で知識を進歩させ、手紙を毎日書いた。異母姉のエラは、彼をより自由のきくノーフォークのマサチューセッツ州刑務所へ移送する支援をした。そこで彼は熱心な指導者となり、歴史上および哲学上にイライジャ・ムハンマドの教えとNOIの正当性を発見した。彼は刑務所内の毎週の討論会に参加し、知識を広げ、筆跡を改善するために刑務所の図書館の全辞書を筆写したりもした。その際、刑務所内で勉強するためとして割り当てられていた時間を越えて消灯後も独房内で月明かりや通路の照明だけを頼りに本を読み辞書を筆写していたため、収監前は2.0あった視力が0.2まで落ち、後に眼鏡を購入することになった。出所後、一躍名を知られるようになったマルコムはテレビやラジオ、雑誌等マスコミのインタビューで、刑務所内で磨かれた卓抜すぎる言葉遣いや知性の高さが窺える仕草から一流の大学を卒業しているのだろう、と勝手に推測され、出身大学はどこかと訊ねられた時には刑務所内の図書館だ、と答えている。マルコムは自伝で、大学大学院を卒業している黒人を「白人に従順になるように調教されたことに気付かない哀れな家畜だ」と述べている。

マルコムは1952年8月7日に釈放され、スーツケース眼鏡時計を購入した。後に彼はこれらのものが、自分の人生の中で最も役に立ったアイテムだったと語った。

1952年9月、彼はNOIから"X"という姓を授かり、これ以降現在の本名「マルコムX」を名乗ることになる。アメリカ黒人の「姓」は本来の彼らの姓ではなく、奴隷所有者が勝手につけたものにすぎないとネーション・オブ・イスラム教団では考え、未知数を意味する「X」は、失われた本来の姓を象徴するものである。同名の人物が入信した場合、入信した順番に「X」の後ろに番号をつけることになっていた。○○X2、○○X3、といった具合である。

1957年、ネーション・オブ・イスラムの一人が警察官に暴行を受け逮捕された。教団はこれに抗議、マルコムを中心としたFOI(Fruit of Islam, 信者の総称)が留置所前で仲間を病院へ送るよう要求した。これが受け入れられ、NOIとマルコムは一躍名を知られることとなった。

脱退とメッカ巡礼[編集]

キング牧師と対面するマルコムX(1964年3月26日)

1962年、イライジャが少女を強姦し子を産ませていたことが判明し、マルコムはNOIに失望する。彼はイライジャの行為に怒り、このことを告発。NOIにおける立場を危うくすることになる。1963年2月に教団は彼を暗殺しようとしたが失敗に終わる。

1964年3月26日、マルコムはキング牧師と最初で最後の対面をした。これは予定されていたものではなく、その日二人がたまたま公民権法に関する論議を聞くためにアメリカ合衆国議会議事堂を訪れていたために実現したものであり、会話も挨拶のみでわずか1分ほどで終わった[2]

同年、マルコムはメッカに巡礼。そこで彼は現地のイスラム教徒から熱い歓迎を受ける。白人でありながら自分たち黒人を肌で判断しない彼らに感銘を受け、それまでの考えを捨てた(ただし人種概念をもとに大別した時、中東系はコーカソイドとされるが、ヨーロッパ系からは同じ白人としてみなされる場面は少ない)。正統派への転向者としてアメリカに帰国し、NOIを脱退し、アフリカ系アメリカ人統一機構(Organization of Afro-American Unity)を組織するが、マルコムとNOIの緊張は増加した。教団内に侵入したFBIの潜入捜査官は、マルコムが教団によって暗殺の対象になったと報告した。メッカ巡礼後、マルコムはアメリカの黒人に向けてアフリカへ帰れ、と呼びかけた。

暗殺の対象となったマルコムは、護衛なしでは外を出歩かないようになった。ライフ誌は、M1カービン銃を持って窓から外を凝視するためにカーテンを開くマルコムXの有名な写真を掲載した。写真は、彼と家族が毎日受けていた死の脅迫から自己防衛するというマルコムの宣言から公表された。

暗殺とその後[編集]

ステージに開いた銃弾の跡

教団はマルコムの暗殺指令をメンバーに下した。教団内のFBI工作員は教団からマルコムの自動車に爆弾を仕掛けるように指示された。1965年2月14日に、ニューヨークの彼の自宅は教団メンバーによって爆弾で攻撃されたが、マルコムと彼の家族は無事だった。

一週間後の2月21日マンハッタンワシントンハイツ地区にあるオードゥボン舞踊場でマルコムがスピーチを始めたとき、400人の群衆の中で騒動が発生した。男が「俺のポケットから手を離せ! ポケットにさわるな!」と叫んだ。マルコムのボディーガードが騒動に対処しようとしたとき、男は前に突進し、短い散弾銃をマルコムの胸に向けて発射した。さらに他の二人がステージに素早く近づき、マルコムに短銃を発砲した。マルコムは15発の銃弾を受け、コロンビア長老教会病院に運ばれたが死亡が確認された。

マルコムXはニューヨーク州ハーツデールのファーンクリフ墓地に埋葬された。また、NOIの信者、タルマージ・ヘイヤー(トーマス・ヘーガン)、ノーマン・3X・バトラー(ムハンマド・アブドゥル・アジズ)およびトマス・15X・ジョンソン(カリル・イスラム)の三人が殺人罪で逮捕され、全員が1966年3月に第一級殺人で有罪と判決された。

2010年4月27日、暗殺犯の一人ヘーガンが44年ぶりに仮釈放を認められた。仮釈放の申請はこれが17回目だった。ヘーガンは1966年暗殺の実行犯として20年から無期の禁固刑を言い渡されたが、1992年以降は仕事を続けることを条件に週に5日間自宅に戻ることができ、2日間だけ刑務所で過ごすプログラムが適用されていた。なおほかの二人は1980年代後半に仮釈放が認められている[3]

ヘーガンは犯行動機について、マルコムXが意見の相違を理由にNOIと袂を分かった為と語った。

マルコムは生前、自分の命を狙っているのは教団だけでなく、FBICIAすらも協力しているのではないか、と漏らしていた。彼の死後もそのような噂は途絶えなかった。

1964年と1965年の間に、マルコムの死の直前まで行われたインタビューに基づき、アレックス・ヘイリーによって執筆された『マルコムX自伝』は1965年に出版され、タイム誌によって20世紀の10冊の最も重要なノンフィクションの中の1つに選ばれた。日本語訳は1968年に河出書房(現河出書房新社)より抄訳版が『マルカムX自伝』と題して刊行されたものの、約半分の内容であった。全訳版は1993年に映画『マルコムX』(監督:スパイク・リー、主演:デンゼル・ワシントン)公開に合わせて同出版社より現在の『マルコムX自伝』として刊行された。

マーティン・ルーサー・キング・ジュニアとの関係[編集]

マルコムXは一時期融和的なキング牧師を公然と「弱腰」と批判し双方共に敵対していたとされているが、側近や親族の証言によると、晩年の2人の主張や姿勢は逆転していた、とされている。マルコムXはいついかなる時でもイスラムへの信仰を捨てず、キング牧師への支援を申し出ている。更にキング牧師は亡くなる前の3年間、マルコムXが暗殺された後より急進的になり、スピーチでもマルコムXのようなレトリックを多用した、とされている。

マルコムX とモハメド・アリとの関係[編集]

マルコムX(1964年3月)

マルコムXは生前及び没後もなお、多くの人物に影響を与えた。なかでも著名なのがモハメド・アリのケースであろう。アリはマルコムXと出会いその思想に啓蒙され、イスラム教に改宗する。その時既に自身の旧名、カシアス・クレイでボクサーとして活躍し、世界チャンピオンになっていたが、教団から授かった名前で現在の本名であるムスリム名、モハメド・アリに改名し、周囲を驚かせた。また、マルコムXの影響を受けて、アリはベトナム戦争の徴兵令を拒否する。これは世界タイトルの剥奪及び試合停止などの処分を伴う厳しい選択であったが、アリは自身の理念を貫いた。

語録[編集]

  • 「白人が我々に対して『何故白人を憎むのか』というのは、強姦した者が相手に対して『オレが憎いか』と発言するのと同じだ」
  • 「白人は黒人の背中に30cmのナイフを突き刺した。白人はそれを揺すりながら引き抜いている。15cmくらいは出ただろう。それだけで黒人は有難いと思わなくてはならないのか?白人がナイフを抜いてくれたとしても、まだ背中に傷が残ったままじゃないか(公民権運動は前進している、という主張に対して)」
  • ニーチェカントショーペンハウアー、全て読んだが尊敬できない。彼らは、さして重要でないことを議論するのに多くの時間を使いすぎている」
  • 「私が思うに鶏が鳥小屋に帰って眠るように、すでに言及しているが白人が心の中にもつ無防備の黒人に対する殺意が止まず、さらにその憎悪の拡大が容認され、終には大統領を殺してしまった。起こるべくして起こった事件だ。(ケネディ大統領暗殺事件について)」
  • 「黒は美しい(アメリカ人ではなく、黒人であろうとした彼の思想をよく表している言葉)」

脚注[編集]

文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]