磐手 (装甲巡洋艦)
表示
磐手 | |
---|---|
基本情報 | |
建造所 | アームストロング・ホイットワース社[1]エルスウィック造船所[2] |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 |
装甲巡洋艦[1](一等巡洋艦) → 一等海防艦 → 一等巡洋艦 |
艦歴 | |
計画 | 第二期拡張計画[3] |
起工 | 1898年11月11日[1] |
進水 | 1900年3月29日[1] |
竣工 | 1901年3月18日[1] |
最期 | 1945年7月26日戦没 |
除籍 | 1945年11月20日 |
要目 | |
排水量 | 9,750英トン |
水線長 | 132.28m |
最大幅 | 20.94m |
吃水 | 7.37m |
ボイラー | ベルヴィール式石炭専焼水管缶 24基 |
主機 | 直立三段膨張式四気筒レシプロ機関 2基 |
推進 | 2軸 |
速力 | 20.75ノット |
乗員 | 648名 |
兵装 |
20.3cm連装砲塔 2基 15.2cm単装速射砲 14門 12ポンド単装速射砲 12門 2.5ポンド単装速射砲 8門 45.7cm水中魚雷発射管 4門 |
磐手(いわて/いはて)は、大日本帝国海軍の装甲巡洋艦。出雲型装甲巡洋艦の2番艦。
艦歴
[編集]1901年(明治34年)3月18日、アームストロング社にて竣工し領収。翌日19日に日本へ回航[4]。同年5月17日、横須賀に到着した[5]。
日露戦争時には最新鋭の装甲巡洋艦として第二艦隊の第2戦隊に所属し、殿(しんがり)艦を「磐手」、旗艦を姉妹艦の「出雲」が務めた。後方を任される殿艦は敵の攻撃が集中しやすく蔚山沖海戦や日本海海戦に参加した際には大きな被害を出している。
蔚山沖海戦の際には、撃沈した装甲巡洋艦リューリクの生存者の救助に当たった。この行動は国内外で賞賛され、後にこの救助活動を元にした「上村将軍」という歌が作られている。スラバヤ沖海戦で敵兵を救助した工藤俊作もこの歌を祖母から子守唄のように聞かされていたとされている[6]。
上村将軍(一部) 作詞:佐々木信香 作曲:佐藤茂助
蔚山沖の雲晴れて 勝ち誇りたる追撃に 艦隊勇み帰る時 身を沈め行くリューリック恨みは深き敵なれど 捨てなば死せん彼等なり 英雄の腸ちぎれけん
救助と君は叫びけり 折しも起る軍楽の 響きと共に永久に
高きは君の功なり 匂うは君の誉れなり
1921年(大正10年)9月1日、1等海防艦に変更(1931年(昭和6年)に等級廃止)。船体の大きいこと、居住性の良さなどから主に練習艦隊参加艦(1916年(大正5年)より)として遠洋航海に従事し、多くの士官候補生を育てた。遠洋航海参加は香取型練習巡洋艦の竣工する前年の1939年(昭和14年)まで続いた。
海防艦の定義見直しにともない1942年(昭和17年)7月1日に一等巡洋艦に復帰。
1945年(昭和20年)7月26日、呉軍港空襲で沈没するまで練習艦として使用された。戦後引き上げ解体される。
歴代艦長
[編集]※脚注無き限り『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
- 回航委員長
- 山田彦八 大佐:1899年6月17日 - 1900年9月1日
- 艦長
- 山田彦八 大佐:1900年9月1日 - 1901年7月6日
- 武富邦鼎 大佐:1901年7月6日 - 1905年1月12日
- 川島令次郎 大佐:1905年1月12日 - 1906年2月2日
- 山下源太郎 大佐:1906年2月2日 - 1906年11月22日
- 有馬良橘 大佐:1906年11月22日 - 1907年12月17日
- 石田一郎 大佐:1907年12月27日 - 1908年9月15日
- 眞野巌次郎 大佐:1908年9月15日 - 1909年3月4日
- 北野勝也 大佐:1909年3月4日 - 1910年12月1日
- 松岡修蔵 大佐:1910年12月1日 - 1911年5月23日
- 橋本又吉郎 大佐:1911年5月23日 - 1911年12月1日
- 舟越楫四郎 大佐:1911年12月1日 - 1912年7月13日
- 原静吾 大佐:1912年7月13日 - 1913年3月7日
- (兼)山口九十郎 大佐/少将:1913年3月7日 - 1913年5月24日 (本職:薩摩艦長)
- (兼)上村経吉 大佐:1913年5月24日 - 1913年8月31日 (本職:薩摩艦長)
- 井出謙治 大佐:1913年8月31日 - 1913年12月1日
- 廣瀬弘毅 大佐:1913年12月1日 - 1914年10月27日
- 山口鋭 大佐:1914年10月27日 - 1915年4月1日
- 百武三郎 大佐:1915年7月19日 - 1916年9月1日
- 中里重次 大佐:1916年12月1日 - 1918年8月15日
- 筑土次郎 大佐:1918年8月15日 - 1919年11月20日
- 鳥崎保三 大佐:1919年11月20日 - 1921年6月15日
- 有田秀通 大佐:1921年6月15日[7] - 1921年11月20日[8]
- 大寺量吉 大佐:1921年11月20日 - 1923年3月5日
- 米内光政 大佐:1923年3月5日 - 1924年7月18日
- 八角三郎 大佐:1924年7月18日 - 1924年11月1日
- 石川清 大佐:1924年11月1日 - 1925年5月1日
- 枝原百合一 大佐:1925年5月1日[9] - 1926年9月15日
- 亥角喜蔵 大佐:1926年9月15日 - 1927年12月28日
- 公家種次 大佐:1927年12月28日[10] - 1928年12月10日[11]
- 鈴木義一 大佐:1928年12月10日 - 1929年12月24日
- 井上勝純 大佐:1929年12月24日[12] - 1930年12月1日
- 白石邦夫 大佐:1930年12月1日[13] - 1931年4月1日[14]
- 岡田偆一 大佐:1931年4月1日 - 1932年9月26日
- 鈴木嘉助 大佐:1932年9月26日 - 1933年8月25日
- 原清 大佐:1933年8月25日 - 1934年9月1日
- 藤森清一朗 大佐:1934年9月1日 - 1934年11月15日
- 山田省三 大佐:1934年11月15日 - 1935年11月15日
- 角田覚治 大佐:1935年11月15日 - 1936年12月1日
- 醍醐忠重 大佐:1936年12月1日 - 1937年12月1日
- 一瀬信一 大佐:1937年12月1日 - 1938年7月15日
- 小柳冨次 大佐:1938年7月15日 - 1939年1月28日
- (兼)岩越寒季 大佐:1939年1月28日 - 1939年5月1日 (本職:那智艦長)
- 緒方眞記 大佐:1939年5月1日 - 1939年12月27日
- 清水他喜雄 大佐:1939年12月27日[15] - 1940年11月10日[16]
- 大和田昇 大佐:1940年11月10日 - 1941年1月6日
- 平塚四郎 大佐:1941年1月6日[17] - 1941年10月15日[18]
- 石畑四郎 大佐:1941年10月15日[18] - 1942年1月15日[19]
- 岡恒夫 大佐:1942年1月15日[19] - 1942年5月25日[20]
- 松本毅 大佐:1942年5月25日 - 1942年9月5日
- 佐々木喜代治 大佐:1942年9月5日[21] - 1943年2月18日[22]
- 猪瀬正盛 大佐:1943年2月18日[22] - 1943年10月10日[23]
- 大石堅志郎 大佐:1943年10月10日[23] - 1944年7月25日[24]
- 田村保郎 大佐:1944年7月25日[24] - 1944年10月20日[25]
- 岡田有作 大佐:1944年10月20日[25] - 1945年1月6日[26]
- 清水他喜雄 大佐:1945年1月6日[26] - 1945年8月8日[27]
同型艦
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e #日本の戦艦(上)2001p.36
- ^ #日本の戦艦(上)2001p.21
- ^ #海軍制度沿革8(1971)p.9、明治二十九年
- ^ 『官報』第5311号、明治34年3月20日。
- ^ 『写真日本海軍全艦艇史』資料篇、4頁。
- ^ 【消えた偉人・物語】 工藤俊作と上村彦之丞 再現された少年時代の“手本” 産経新聞 2011.3.19(現在はリンク切れ)
- ^ 『官報』第2662号、大正10年6月16日。
- ^ 『官報』第2793号、大正10年11月22日。
- ^ 『官報』第3807号、大正14年5月4日。
- ^ 『官報』第302号、昭和2年12月29日。
- ^ 『官報』第587号、昭和3年12月11日。
- ^ 『官報』第898号、昭和4年12月26日。
- ^ 『官報』第1179号、昭和5年12月2日。
- ^ 『官報』第1275号、昭和6年4月2日。
- ^ 「昭和14年12月27日付 海軍辞令公報 (部内限) 第425号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072077300
- ^ 「昭和15年11月13日付 海軍辞令公報 (部内限) 第553号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072079400
- ^ 「昭和16年1月6日付 海軍辞令公報 (部内限) 第578号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072080200
- ^ a b 「昭和16年10月15日付 海軍辞令公報 (部内限) 第728号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072082700 。
- ^ a b 「昭和17年1月15日付 海軍辞令公報 (部内限) 第794号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072083800
- ^ 「昭和17年5月25日付 海軍辞令公報 (部内限) 第866号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072085500
- ^ 「昭和17年9月5日付 海軍辞令公報 (部内限) 第937号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072086800
- ^ a b 「昭和18年2月18日付 海軍辞令公報 (部内限) 第1056号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072089700
- ^ a b 「昭和18年10月13日付 海軍辞令公報 (部内限) 第1237号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072093800
- ^ a b 「昭和19年7月29日付 海軍辞令公報 甲 (部内限) 第1549号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072100100
- ^ a b 「昭和19年10月25日付 秘海軍辞令公報 甲 第1627号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072101700
- ^ a b 「昭和20年1月11日付 秘海軍辞令公報 甲 第1690号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072102800
- ^ 「昭和20年8月16日付 秘海軍辞令公報 甲 第1887号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072106900
参考文献
[編集]- 泉江三『軍艦メカニズム図鑑 日本の戦艦 上』グランプリ出版、2001年4月。ISBN 4-87687-221-X。
- 海軍省/編『海軍制度沿革 巻八』 明治百年史叢書 第180巻、原書房、1971年10月(原著1941年)。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、海軍歴史保存会、1995年。
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝 全八六〇余隻の栄光と悲劇』普及版、光人社、2003年。
- 福井静夫『写真日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1
- 『官報』