「ヨーゼフ・クリップス」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
11行目: 11行目:
| School_background =
| School_background =
| Born = [[1902年]][[4月8日]]
| Born = [[1902年]][[4月8日]]
| Died = {{死亡年月日と没年齢|1902|4|8|1974|10|13}}<br />{{SWI}} [[ジュネーヴ]]
| Died = {{死亡年月日と没年齢|1902|4|8|1974|10|13}}<br />{{SWI}}[[ジュネーヴ]]
| Origin = {{AUT1867}} [[ウィーン]]
| Origin = {{AUT1867}}[[ウィーン]]
| Instrument = <!-- 個人のみ -->
| Instrument = <!-- 個人のみ -->
| Genre = [[クラシック音楽]]
| Genre = [[クラシック音楽]]
29行目: 29行目:
== 略歴==
== 略歴==
[[File:VanBeinumKrips1951.jpg|thumb|right|210px|[[エドゥアルト・ファン・ベイヌム]]とクリップス(1951年2月19日、[[アムステルダム]]にて)]]
[[File:VanBeinumKrips1951.jpg|thumb|right|210px|[[エドゥアルト・ファン・ベイヌム]]とクリップス(1951年2月19日、[[アムステルダム]]にて)]]
[[ウィーン]]の生まれ。父親はユダヤ人<ref name=Ewen>{{cite book |last=Ewen |first=David |title=Musicians Since 1900 |publisher=Wilson |page=426 |year=1978 |url=http://books.google.ca/books?id=VV0YAAAAIAAJ&q=%22My+mother+was+Catholic,+so+were+her+parents%22&dq=%22My+mother+was+Catholic,+so+were+her+parents%22&hl=en&redir_esc=y |accessdate=15 August 2017}}</ref>。[[オイゼビウス・マンディチェフスキ]]、[[フェリックス・ワインガルトナー]]に師事し、1921年、ワインガルトナーの助手、合唱指揮者として[[ウィーン・フォルクスオーパー]]に入った。 その後、[[ドルトムント市立劇場]]、[[カールスルーエ歌劇場]]などを経て、1933年[[ウィーン国立歌劇場]]の常任指揮者に就任、1935年[[ウィーン国立音楽大学]]の教授に就任した。1938年3月の[[アンシュルス|オーストリア併合]]の後、オーストリアを去ることを強いられ、[[ベオグラード]]に移り、[[ユーゴスラビア]]が[[第二次世界大戦]]に一時期巻き込まれるまで、地元のオーケストラで働いた。大戦終期には食品工場で働いていたが、「こっそりオペラの稽古をつけたり、[[プロンプター]]席に入って指示を出していた」という伝説もある。
[[ウィーン]]の生まれ。父親は[[ユダヤ人]]<ref name=Ewen>{{cite book |last=Ewen |first=David |title=Musicians Since 1900 |publisher=Wilson |page=426 |year=1978 |url=http://books.google.ca/books?id=VV0YAAAAIAAJ&q=%22My+mother+was+Catholic,+so+were+her+parents%22&dq=%22My+mother+was+Catholic,+so+were+her+parents%22&hl=en&redir_esc=y |accessdate=15 August 2017}}</ref>。[[オイゼビウス・マンディチェフスキ]]、[[フェリックス・ワインガルトナー]]に師事し、1921年、ワインガルトナーの助手、[[合唱指揮者]]として[[ウィーン・フォルクスオーパー]]に入った。 その後、[[ドルトムント市立劇場]]、[[カールスルーエ歌劇場]]などを経て、1933年[[ウィーン国立歌劇場]]の常任指揮者に就任、また1935年[[ウィーン国立音楽大学]]の教授に就任した。1938年3月の[[アンシュルス|オーストリア併合]]の後、オーストリアを去ることを強いられ、[[ベオグラード]]に移り、[[ユーゴスラビア王国|ユーゴスラビア]]が[[第二次世界大戦]]に一時期巻き込まれるまで、地元のオーケストラで働いた。大戦終期には食品工場で働いていたが、「こっそりオペラの稽古をつけたり、[[プロンプター]]席に入って指示を出していた」という伝説もある。


1950年から1954年[[ロンドン交響楽団]]の首席指揮者を務め、その後[[バッファロー・フィルハーモニー管弦楽団]]、[[サンフランシスコ交響楽団]]の音楽監督となった。
1950年から1954年まで[[ロンドン交響楽団]]の首席指揮者を務め、その後[[バッファロー・フィルハーモニー管弦楽団]]、[[サンフランシスコ交響楽団]]の音楽監督となった。


1963年に[[ロイヤル・オペラ・ハウス|コヴェント・ガーデン王立歌劇場]]、1966年に[[メトロポリタン歌劇場]]にそれぞれデビュー。
1963年に[[ロイヤル・オペラ・ハウス|コヴェント・ガーデン王立歌劇場]]、1966年に[[メトロポリタン歌劇場]]にそれぞれデビューした


1968年、サンフランシスコ交響楽団と最初で最後の来日。クリップスと親交のあった日本人指揮者では、[[小澤征爾]]や[[大町陽一郎]]が挙げられる。
1968年、サンフランシスコ交響楽団と最初で最後の来日。クリップスと親交のあった日本人指揮者では、[[小澤征爾]]や[[大町陽一郎]]が挙げられる。
42行目: 42行目:


== オペラの名指揮者 ==
== オペラの名指揮者 ==
[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]政権に協力しなかったため、1945年の終戦後すぐにオーストリアの楽壇に復帰することができ、戦後[[ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団]]と[[ザルツブルク音楽祭]]を最初に指揮したひとりである([[ハンス・クナッパーツブッシュ|クナッパーツブッシュ]]、[[ヴィルヘルム・フルトヴェングラー|フルトヴェングラー]]、[[カール・ベーム|ベーム]]、[[ヘルベルト・フォン・カラヤン|カラヤン]]はナチ協力の嫌疑で復帰が遅れた)巨匠不在のウィーン・フィルを支えた名匠といえる。[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]、[[リヒャルト・シュトラウス]]の作品を得意とした。
[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]政権に協力しなかったため、1945年の終戦後すぐにオーストリアの楽壇に復帰することができ、戦後[[ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団]]と[[ザルツブルク音楽祭]]を最初に指揮したひとりである([[ハンス・クナッパーツブッシュ|クナッパーツブッシュ]]、[[ヴィルヘルム・フルトヴェングラー|フルトヴェングラー]]、[[カール・ベーム|ベーム]]、[[ヘルベルト・フォン・カラヤン|カラヤン]]はナチ協力の嫌疑で復帰が遅れた)巨匠不在のウィーン・フィルを支えた名匠といえる。[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]、[[リヒャルト・シュトラウス]]の作品を得意とした。


角のとれた優美なクリップスとウィーン・フィル(国立歌劇場管弦楽団)の芸風は、1968年の[[コジ・ファン・トゥッテ]]、1970年の[[エジプトのヘレナ]]などのライブ録音で偲ぶことができる。所謂「叩き上げ」の経歴をもち、歌劇場での稽古に手腕を発揮した。往年の名歌手[[エリーザベト・シュヴァルツコップ]]は、「一番お世話になったのはクリップス!」と述懐したという。
角のとれた優美なクリップスとウィーン・フィル(国立歌劇場管弦楽団)の芸風は、1968年の[[コジ・ファン・トゥッテ]]、1970年の[[エジプトのヘレナ]]などのライブ録音で偲ぶことができる。いわゆる「叩き上げ」の経歴をもち、歌劇場での稽古に手腕を発揮した。往年の名歌手[[エリーザベト・シュヴァルツコップ]]は、「一番お世話になったのはクリップス!」と述懐したという。


レコード・ファンの間ではとかくドイツ・オーストリア音楽だけの専門家と見られがちであるが、実際は特にアメリカ時代には現代作品を含む幅広いレパートリーを誇った。来日公演でも[[イーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラヴィンスキー]]、[[アーロン・コープランド|コープランド]]の作品を指揮している。
レコード・ファンの間ではとかくドイツ・オーストリア音楽だけの専門家と見られがちであるが、実際は特にアメリカ時代には現代作品を含む幅広いレパートリーを誇った。来日公演でも[[イーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラヴィンスキー]]、[[アーロン・コープランド|コープランド]]などの作品を指揮している。


== レコーディング ==
== レコーディング ==
66行目: 66行目:
*1954年9月 メンデルスゾーン:オラトリオ『[[エリヤ (メンデルスゾーン)|エリヤ]]』 ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団 他(デッカ)
*1954年9月 メンデルスゾーン:オラトリオ『[[エリヤ (メンデルスゾーン)|エリヤ]]』 ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団 他(デッカ)
*1955年6月 モーツァルト:オペラ『[[ドン・ジョバンニ]]」全曲 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 ウィーン国立歌劇場合唱団、[[チェーザレ・シエピ]](バリトン) [[クルト・ベーメ]](バス) [[シュザンヌ・ダンコ]](ソプラノ) 他(デッカ)
*1955年6月 モーツァルト:オペラ『[[ドン・ジョバンニ]]」全曲 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 ウィーン国立歌劇場合唱団、[[チェーザレ・シエピ]](バリトン) [[クルト・ベーメ]](バス) [[シュザンヌ・ダンコ]](ソプラノ) 他(デッカ)
**デッカのモーツァルト生誕200年記念・4大オペラ録音のうちのひとつ。『[[フィガロの結婚]]』は[[エーリッヒ・クライバー]]、『[[魔笛]]』と『[[コジ・ファン・トゥッテ]]』は[[カール・ベーム]]
**デッカのモーツァルト生誕200年記念・4大オペラ録音のうちのひとつ。『[[フィガロの結婚]]』は[[エーリッヒ・クライバー]]、『[[魔笛]]』と『[[コジ・ファン・トゥッテ]]』は[[カール・ベーム]]
*1956年10月 ブラームス:[[交響曲第1番 (ブラームス)|交響曲第1番]] ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(デッカ)
*1956年10月 ブラームス:[[交響曲第1番 (ブラームス)|交響曲第1番]] ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(デッカ)
*1956年10月 シューマン:[[交響曲第4番 (シューマン)|交響曲第4番]] ロンドン交響楽団(デッカ)
*1956年10月 シューマン:[[交響曲第4番 (シューマン)|交響曲第4番]] ロンドン交響楽団(デッカ)

2017年11月6日 (月) 11:07時点における版

ヨーゼフ・クリップス
基本情報
出生名 ヨーゼフ・アロイス・クリップス
Josef Alois Krips
生誕 1902年4月8日
出身地 オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国ウィーン
死没 (1974-10-13) 1974年10月13日(72歳没)
スイスの旗 スイスジュネーヴ
ジャンル クラシック音楽
職業 指揮者

ヨーゼフ・アロイス・クリップス(Josef Alois Krips、1902年4月8日 - 1974年10月13日)は、オーストリア指揮者ヴァイオリン奏者。弟ハインリヒ・ヨーゼフ(ヘンリー・クリップス)も指揮者として知られる。

略歴

エドゥアルト・ファン・ベイヌムとクリップス(1951年2月19日、アムステルダムにて)

ウィーンの生まれ。父親はユダヤ人[1]オイゼビウス・マンディチェフスキフェリックス・ワインガルトナーに師事し、1921年、ワインガルトナーの助手、合唱指揮者としてウィーン・フォルクスオーパーに入った。 その後、ドルトムント市立劇場カールスルーエ歌劇場などを経て、1933年にウィーン国立歌劇場の常任指揮者に就任、また1935年にウィーン国立音楽大学の教授に就任した。1938年3月のオーストリア併合の後、オーストリアを去ることを強いられ、ベオグラードに移り、ユーゴスラビア第二次世界大戦に一時期巻き込まれるまで、地元のオーケストラで働いた。大戦終期には食品工場で働いていたが、「こっそりオペラの稽古をつけたり、プロンプター席に入って指示を出していた」という伝説もある。

1950年から1954年までロンドン交響楽団の首席指揮者を務め、その後バッファロー・フィルハーモニー管弦楽団サンフランシスコ交響楽団の音楽監督となった。

1963年にコヴェント・ガーデン王立歌劇場、1966年にメトロポリタン歌劇場にそれぞれデビューした。

1968年、サンフランシスコ交響楽団と最初で最後の来日。クリップスと親交のあった日本人指揮者では、小澤征爾大町陽一郎が挙げられる。

1970年、ベルリン・ドイツ・オペラの指揮者に就任、同年から1973年までの間ウィーン交響楽団の首席指揮者を務めた。

ジュネーヴにて病没。

オペラの名指揮者

ナチス政権に協力しなかったため、1945年の終戦後すぐにオーストリアの楽壇に復帰することができ、戦後ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団ザルツブルク音楽祭を最初に指揮したひとりである(クナッパーツブッシュフルトヴェングラーベームカラヤンはナチ協力の嫌疑で復帰が遅れた)。巨匠不在のウィーン・フィルを支えた名匠といえる。モーツァルトリヒャルト・シュトラウスの作品を得意とした。

角のとれた優美なクリップスとウィーン・フィル(国立歌劇場管弦楽団)の芸風は、1968年の『コジ・ファン・トゥッテ』、1970年の『エジプトのヘレナ』などのライブ録音で偲ぶことができる。いわゆる「叩き上げ」の経歴をもち、歌劇場での稽古に手腕を発揮した。往年の名歌手エリーザベト・シュヴァルツコップは、「一番お世話になったのはクリップス!」と述懐したという。

レコード・ファンの間ではとかくドイツ・オーストリア音楽だけの専門家と見られがちであるが、実際は特にアメリカ時代には現代作品を含む幅広いレパートリーを誇った。来日公演でもストラヴィンスキーコープランドなどの作品を指揮している。

レコーディング

その他、コンサートホール・ソサエティに多くの録音を残している。また、ライブ録音にはウィーン交響楽団を振った『ティル』やシューベルト『ザ・グレイト』、マーラー『大地の歌』がある他、フランス国立放送管弦楽団を振ったベートーヴェンなどがCDとしてリリースされている。

脚注

先代
ウィリアム・スタインバーグ
バッファロー・フィルハーモニー管弦楽団
首席指揮者
1954年 - 1963年
次代
ルーカス・フォス