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同年[[8月7日]]未明に発生した[[四宮車庫]]火災で当時の[[京阪京津線|京津線]]の主力であった[[京阪50型電車|50]]・[[京阪70型電車|70型]]を中心に22両が被災したことから、低床ホーム区間で使用可能な車両が不足する状況となったため、20・30型が京津線に転出、石山坂本線の運行は本形式や100型を中心に廃車予定の単車と5形によってまかなわれることとなった。それでも車両が不足することから阪急で余剰となった34・35と[[箕面有馬電気軌道1形電車|阪急1形]]14・15が同年秋に応援入線して<ref>34・35は5型の続番である6・7に改番。</ref>急場をしのぎ、京阪の分離再独立後の翌[[1950年]]には阪急1形のうち11 - 13と16 - 18の6両が転入して同形は合計8両となった<ref>京阪での形式名は10型。</ref>。この時点で車両不足解消に一定のめどをつけるとともに、老朽単車の全廃を実施、石山坂本線のボギー車化を完了した。また、塗色も転入当初の茶色系から、[[1951年]]までに当時の京阪の標準色であったクリームとライトブルーのツートンカラーに変更されている。
同年[[8月7日]]未明に発生した[[四宮車庫]]火災で当時の[[京阪京津線|京津線]]の主力であった[[京阪50型電車|50]]・[[京阪70型電車|70型]]を中心に22両が被災したことから、低床ホーム区間で使用可能な車両が不足する状況となったため、20・30型が京津線に転出、石山坂本線の運行は本形式や100型を中心に廃車予定の単車と5形によってまかなわれることとなった。それでも車両が不足することから阪急で余剰となった34・35と[[箕面有馬電気軌道1形電車|阪急1形]]14・15が同年秋に応援入線して<ref>34・35は5型の続番である6・7に改番。</ref>急場をしのぎ、京阪の分離再独立後の翌[[1950年]]には阪急1形のうち11 - 13と16 - 18の6両が転入して同形は合計8両となった<ref>京阪での形式名は10型。</ref>。この時点で車両不足解消に一定のめどをつけるとともに、老朽単車の全廃を実施、石山坂本線のボギー車化を完了した。また、塗色も転入当初の茶色系から、[[1951年]]までに当時の京阪の標準色であったクリームとライトブルーのツートンカラーに変更されている。


その後の本形式は、坂本駅の低床ホーム高床化工事完成後に石山坂本線の車両を14m級の3扉車で揃えることになったことから、5型全廃前後の[[1953年]]8月に全車京津線に転出し、小型であるがゆえに朝ラッシュ時の急行や夏季水泳客や冬季スキー客輸送用の特急<ref>1953年当時の停車駅は[[京阪山科駅|京阪山科]]のみ。ただし1960年頃臨時特急は同駅も通過するようになった。</ref>に充当された<ref>逆説的な使用法ではあるが、停車駅が限られ、乗降客数の把握が容易な優等列車に小型車を使用して、大型車を輸送力を必要とされる列車に転用している。</ref>。しかし、京津線の施設改良工事が行われ、急行用に[[京阪本線]]から200型が転入した[[1954年]]以降は運用機会が減少し、[[1957年]]の[[京阪260電車|260型]]登場後は再び石山坂本線に復帰して予備車となり、翌[[1958年]]には救援車となった1以外は休車となって、[[1959年]]12月に全車廃車された。
その後の本形式は、坂本駅の低床ホーム高床化工事完成後に石山坂本線の車両を14m級の3扉車で揃えることになったことから、5型全廃前後の[[1953年]]8月に全車京津線に転出し、小型であるがゆえに朝ラッシュ時の急行や夏季水泳客や冬季スキー客輸送用の特急<ref>1953年当時の停車駅は[[京阪山科駅|京阪山科]]のみ。ただし1960年頃臨時特急は同駅も通過するようになった。</ref>に充当された<ref>逆説的な使用法ではあるが、停車駅が限られ、乗降客数の把握が容易な優等列車に小型車を使用して、大型車を輸送力を必要とされる列車に転用している。</ref>。しかし、京津線の施設改良工事が行われ、急行用に[[京阪本線]]から200型が転入した[[1954年]]以降は運用機会が減少し、[[1957年]]の[[京阪260電車|260型]]登場後は再び石山坂本線に復帰して予備車となり、翌[[1958年]]には救援車となった1以外は休車となって、[[1959年]]12月に全車廃車された。


=== 京福電気鉄道福井支社ホサハ51形 ===
=== 京福電気鉄道福井支社ホサハ51形 ===

2015年11月1日 (日) 15:57時点における版

北大阪電気鉄道1形電車(きたおおさかでんきてつどう1がたでんしゃ) は、阪急電鉄の前身のひとつである北大阪電気鉄道が開業時の1921年に8両製造した、小型木造車体の電車である。

新しい郊外住宅への足

阪急京都千里線の前身のひとつである北大阪電気鉄道は、大阪市内の不動産事業者である北大阪土地が、千里丘陵で開発を進めていた自社の住宅地への交通手段として設立したものである。1916年天神橋筋六丁目 - 千里山間8.6kmの免許を受け、1918年に会社を設立したものの、会社には淀川に架橋するだけの力がなかったことから十三駅箕面有馬電気軌道に連絡することで大阪市内中心部への接続を果たすこととなり、淡路 - 十三間の免許を1919年に交付されて、1921年4月1日に十三 - 豊津間7.6kmを開業させ、残る豊津 - 千里山間も同年10月26日に開業、同社が当初計画した路線が開業した。この第1期線開業に合わせて本形式が製造された。

概要

1921年3月に1 - 8の8両が梅鉢鉄工場において製造された。同時期に同じメーカーで製造された阪急37形と類似した車両であり、本形式も宝塚線の池田車庫で組み立てられた。項目ごとの概要については以下のとおり。

車体

車体は木造で、全長は約11.4mと、阪急37形とほとんど変わりがないが、定員は78名で37形の65名から増加している。側面窓配置はD(1)8(1)D(D:客用扉、(1):戸袋窓)で、前面窓配置は緩やかな曲面を描いた平妻の前面に3枚窓を配したデザインで、これも37形と同じである。屋根は明り取り窓のついた二重屋根で、37形とは異なり戸袋窓の上にトルペード形ベンチレーターを取り付けている。座席はロングシートである。連結器はねじ式で両サイドにバッファーを備えるが、全線専用軌道であることから、37形とは異なりフェンダーを装備していない。

主要機器

主電動機はゼネラル・エレクトリック社製GE-203P[1]を2基搭載した。制御器は直接制御のGE-K-39-Cを搭載したが、37形とは異なり弱め界磁つきではない。台車はJ.G.Brill社製Brill 76-Eを履き、集電装置は当時標準のトロリーポールであるが、37形とは異なりシングルポールであった。

北大阪電気鉄道・新京阪鉄道時代

北大阪電気鉄道の沿線は、十三-淡路間が淀川と神崎川に挟まれた低湿地帯で、千里山の造成地から出た土砂で埋め立てを行って宅地造成を開始した。淡路以北の区間は当初予定していた宅地開発のほか、現在の関大前駅周辺に千里山花壇という遊園地を開業し、果ては千里山駅周辺に火葬場と葬儀場、墓地霊園を設けて集客に務めたが、十三起点で直接大阪市内に連絡していないことから業績はあまりぱっとせず、「葬儀電車」なるあだ名を授けられてしまった。こうしたことから、十三-千里山間の全線開通後も延伸区間が短いこともあって車両の増備は行われず、淀川への架橋を要する天神橋筋六丁目への延伸は宙に浮いた状態となってしまった。

この地味な北大阪電気鉄道に目をつけたのが、京阪間の新路線建設に際して大阪側の起点を探していた京阪電気鉄道であった。京阪は1922年五島慶太らの斡旋によって北大阪電気鉄道の過半数の株式を取得すると同社を子会社化して翌1923年4月1日付で鉄道事業を新会社の新京阪鉄道に譲渡[2]し、本形式は旅客車(Passenger Car)の1形からP-1形と呼ばれることとなった。新京阪では早速天神橋筋六丁目への延伸工事を開始、淀川への架橋も成し遂げて1925年10月15日に淡路-天神橋筋六丁目間を開通させるとともに単線で開業した淡路-千里山間の複線化を実施、同時に新京阪初の新車となるP-4形9 - 13を就役させた。総括制御で連結運転可能な同形車の増備は続き、1926年には改良型のP-5形に変更されて、1929年までに26両が製造された。

P-5形1次車の登場時点で本形式に早くも余剰が発生し、1926年8月15日付で1・2・4の3両が信貴生駒電鉄へ譲渡されて同社のデハ51形51 - 53となった。残る3・5 - 8の5両はP-4・P-5の各形式とともに使用されていたが、1928年1月16日に新京阪線の第1期区間である淡路駅 - 高槻町駅の開業に際して全線の架線電圧が600Vから1500Vへ昇圧されたことから、直接制御車で昇圧工事が施されなかった本形式は使用されなくなり、正雀車庫に留置され、翌1929年には同年開業した愛宕山鉄道へ現物出資の形で貸与されることとなった。同年6月には鉄道省監督局の指導により新京阪所属の各形式に記号が割り振られた際には本形式はデハ1形となり、同時に車番も3・5 - 8から1 - 5に改番された。その後、1935年10月10日付けで愛宕山鉄道に譲渡された。

愛宕山鉄道時代

愛宕山鉄道は京福嵐山本線嵐山駅から清滝駅を結ぶ平坦線と、清滝駅から愛宕駅を結ぶ鋼索線からなる路線で、愛宕山参詣への輸送手段として建設され、このうち平坦線は1929年4月12日に開業した。前述のとおり、本形式は平坦線開業に合わせて新京阪から貸与され、大きな改造を施されることなく正雀車庫から釈迦堂駅東側に設けられた車庫[3]に搬入されて同社唯一の営業用車両として運用を開始した。また、車体に描かれた社章は、転入当初は新京阪鉄道の社章であったが、同社が1930年9月15日に京阪電気鉄道に合併されると京阪の社章に変更され、1935年の愛宕山鉄道譲渡後はアルファベットのAとTを図案化し、愛宕山をイメージした同社の社章に3度変更されている。車番の変遷については前章のとおりである。

1930年代に入ると京福嵐山本線の沿線に映画スタジオが多く立地し、日本のハリウッドとも呼ばれていた。1936年製作の日独合作映画『新しき土[4]では、スタジオに近く撮影に便利な鳥居本駅がロケ地に選ばれ[5]、ヒロインの光子役を演じる原節子が4号に乗るシーンが映し出されている。

ただ、愛宕山鉄道の沿線は昔ながらの嵯峨野の面影を残す農村地帯であり、釈迦堂駅周辺の旧嵯峨町役場[6]及び嵯峨小学校周辺に街村状の集落があるほかは人家も少なく、当然のことながら休日や毎年7月末の愛宕神社への千日詣などの特定の日以外は乗客が極めて少なく、経営状況も厳しいものがあった。親会社の京阪や京都電燈も資金面でてこ入れを図ったり、愛宕山に遊園地やスキー場を開設して経営努力を行ったが、太平洋戦争の開戦でその努力も空しいものになった。同社の路線は戦時体制下では不急不要の観光路線に分類されて線路はじめ資材の供出対象とされてしまい、戦局が悪化した1944年2月11日には鋼索線の廃止と平坦線の単線化が実施され、同年の12月10日付で平坦線も廃止されてしまい、本形式は再び余剰車両となってしまった。

度重なる流転

愛宕山鉄道の廃止に伴い、同社に譲渡された本形式5両は、戦時統合で阪神急行電鉄と合併していた元京阪の大津線区と京福電気鉄道の福井支社に譲渡されることとなった。両社とも愛宕山鉄道の親会社である。本章では、旧愛宕山鉄道引継車及び先に信貴生駒電鉄に譲渡された車両も含めて、再譲渡後の本形式の動向を紹介する。

京阪1型

石山坂本線の沿線には、南部に軍需工場が立地[7]し、北部は大津連隊や大津海軍航空隊といった軍事施設を連絡する路線であった。従来、石山寺駅 - 坂本駅間の直通運転は、三井寺駅以北の各駅に低床ホームを設けて、路面電車タイプの車両が直通運転を行う形で1931年から実施された[8]。ところが、直通運転に充当された車両が大津電車軌道引継の老朽木造単車であったことから乗客数の伸びに対処できなくなったために1944年4月から低床車の直通運転区間を近江神宮前駅までに短縮し、浜大津駅に仮設の高床ホームを設けて、ラッシュ時には高床車が浜大津駅まで乗り入れることとなった。輸送力増強への取組は継続して行われ、浜大津駅以南の各駅にも仮設の高床ホームの建設を進める一方、高床車の増備として1945年3月に本形式のうち1 - 3の3両を割り当てられ、釈迦堂車庫から錦織車庫に搬出されて入線した。

移籍後の本形式は、ねじ式連結器とバッファーを取り外した以外は大きく手を加えられることはなく、直後の同年5月に入線した元阪急34形の5型5とともに輸送力の増強に貢献、6月からはラッシュ時における高床車の運行区間を粟津駅まで延長した。戦後も高床車の全線運行に向けた工事は継続され、1947年1月には残る石山寺駅までの区間も完成し、本形式も100型とともに坂本駅から石山寺駅までの全線直通運用に充当された。この時点で石山坂本線の運用は高床車の本形式及び100型と、5・2030型のボギー車各形式をはじめとした路面電車スタイルの各形式[9]の運用に二分化されたことになる。

同年8月7日未明に発生した四宮車庫火災で当時の京津線の主力であった5070型を中心に22両が被災したことから、低床ホーム区間で使用可能な車両が不足する状況となったため、20・30型が京津線に転出、石山坂本線の運行は本形式や100型を中心に廃車予定の単車と5形によってまかなわれることとなった。それでも車両が不足することから阪急で余剰となった34・35と阪急1形14・15が同年秋に応援入線して[10]急場をしのぎ、京阪の分離再独立後の翌1950年には阪急1形のうち11 - 13と16 - 18の6両が転入して同形は合計8両となった[11]。この時点で車両不足解消に一定のめどをつけるとともに、老朽単車の全廃を実施、石山坂本線のボギー車化を完了した。また、塗色も転入当初の茶色系から、1951年までに当時の京阪の標準色であったクリームとライトブルーのツートンカラーに変更されている。

その後の本形式は、坂本駅の低床ホーム高床化工事完成後に石山坂本線の車両を14m級の3扉車で揃えることになったことから、5型全廃前後の1953年8月に全車京津線に転出し、小型であるがゆえに朝ラッシュ時の急行や夏季水泳客や冬季スキー客輸送用の特急[12]に充当された[13]。しかし、京津線の施設改良工事が行われ、急行用に京阪本線から200型が転入した1954年以降は運用機会が減少し、1957年260型登場後は再び石山坂本線に復帰して予備車となり、翌1958年には救援車となった1以外は休車となって、1959年12月に全車廃車された。

京福電気鉄道福井支社ホサハ51形

本形式のうち4・5の2両は電装を解除されたうえに台車を1067mm軌間対応にして、京福電気鉄道福井支社に転出した。ただし、連結器は自動連結器に取り替えられている。京福入線後は電動車に牽引されるトレーラーとして永平寺線で運行されていたが、1965年9月に廃車された。

信貴生駒電鉄デハ51形

信貴生駒電鉄に譲渡された3両は、その後集電装置を独特な形のYゲルに取り替えられた以外は大きな改造も実施されずに、同社オリジナルのデハ1形とともに運行されていた。その後、近鉄からモ200形を借り入れるようになると、本形式は1950年代後半以降は予備車的な存在となり、1959年初めには廃車状態で留置されていた。1964年10月の信貴生駒電鉄の近鉄合併以前に姿を消している。

脚注

  1. ^ 端子電圧600V時定格出力37kW
  2. ^ 元の北大阪電気鉄道は不動産事業を主とする京阪土地に改称。
  3. ^ 現在の釈迦堂前交差点北東近辺。
  4. ^ 監督は日本側が伊丹十三の父である伊丹万作ドイツ側がアーノルド・ファンク
  5. ^ この部分の記述は『レイル』 No,49に拠るが、同号の文中ではロケ地は鳥居本駅ではないかと考証しているものの、駅名表示が紙で隠されたりしていることから、断定はしていない。
  6. ^ 現在の右京区役所嵯峨出張所。
  7. ^ もともとは繊維を主体とした民需工場であったが、太平洋戦争末期には東洋レーヨンの工場は海軍向けの魚雷製造工場となり、旭ベンベルグの工場は住友通信工業を経てNECの工場となるなど、多くが軍需工場に転換されてしまった。
  8. ^ 代替として、元琵琶湖鉄道汽船の100形を改番した800型が京阪本線に転出することとなった。ただし、高床車運用はその後も残されて、1940年に800型が全車転出すると、京阪本線から100型が転入している。
  9. ^ この時点では大津電車軌道以来の単車も在籍。
  10. ^ 34・35は5型の続番である6・7に改番。
  11. ^ 京阪での形式名は10型。
  12. ^ 1953年当時の停車駅は京阪山科のみ。ただし1960年頃臨時特急は同駅も通過するようになった。
  13. ^ 逆説的な使用法ではあるが、停車駅が限られ、乗降客数の把握が容易な優等列車に小型車を使用して、大型車を輸送力を必要とされる列車に転用している。

関連項目

参考文献

  • 高橋正雄、諸河久『日本の私鉄3 阪急』(カラーブックスNo.512) 保育社 1980年10月
  • 藤井信夫編『京阪電気鉄道』(車両発達史シリーズ1) 関西鉄道研究会 1991年
  • 藤井信夫『阪急電鉄 京都線』(車両発達史シリーズ4) 関西鉄道研究会 1995年
  • 小林庄三『木造車両と単車』 トンボ出版 1998年12月
  • 鉄道ピクトリアル』各号
    • 特集 阪急電鉄
      • 1978年5月臨時増刊 (No.348)
      • 1989年12月臨時増刊 (No.521)
      • 1998年12月臨時増刊 (No.663)
    • 特集 京阪電気鉄道
      • 1991年12月臨時増刊 (No.553)
      • 2000年12月臨時増刊 (No.695)
  • 『関西の鉄道』各号
    • No.31 特集 近畿日本鉄道PartVI 奈良・京都・橿原・生駒・田原本線 1995年
    • No.32 京都市交通特集 1995年
  • レイル』 No.49 特集 愛宕山電鉄と新京阪デロ 2004年