国鉄EC40形電気機関車

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国鉄EC40形電気機関車
10000形(後のEC40形)電気機関車 (10001→EC40 2号機 1927年)
10000形(後のEC40形)電気機関車
(10001→EC40 2号機 1927年)
基本情報
運用者 鉄道院
製造所 AEG・エスリンゲン (Esslingen)
製造年 1911年
製造数 12両
運用開始 1912年
引退 1936年
主要諸元
軸配置 Cb
軌間 1,067 mm (狭軌
電気方式 直流600V
第三軌条方式架空電車線方式併用)
全長 9,550 mm
全幅 2,905 mm
全高 4,200 mm
運転整備重量 46.00 t
動力伝達方式 歯車1段減速、連結棒式
主電動機 直流直巻電動機 MT3 × 2基
主電動機出力 210 kW (1時間定格)
歯車比 動輪:6.50 (14:91)
歯輪:5.86 (15:88)
制御方式 抵抗制御
制御装置 電磁単位スイッチ式制御器
制動装置 EL-14B自動空気ブレーキ
発電ブレーキ・手用動輪用ブレーキ・手用ラック歯車用帯ブレーキ
最高運転速度 25.0 km/h (18.0 km/h)
定格速度 14.21 km/h
定格出力 420 kW
定格引張力 5,500 kgf (11,000 kgf)
備考 カッコ内数値はラックレール区間運用時のデータ。全幅は集電靴を含めた数値を示す。
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国鉄EC40形電気機関車(こくてつEC40がたでんききかんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道院1912年(明治45年)に輸入したラックレールを使用するアプト式直流電気機関車である。日本の国有鉄道が初めて導入した電気機関車である。また日本で唯一、動軸数が奇数の電気機関車である[注釈 1][注釈 2]

概要[編集]

信越本線横川 - 軽井沢間(碓氷峠)では、1893年(明治26年)の開業時からアプト式(当時は「アブト式」と呼称[2])の蒸気機関車が使用されていたが、26か所ものトンネルが存在するうえ、運転速度が低く同区間の運転に1時間15分を要したため、乗務員乗客は機関車から出る煤煙に苦しめられていた。酸欠による乗務員の窒息事故も多発しており、機関車に特殊な形状の煙突を取付け、煤煙を機関車の後方に導く等の対策も行なわれたが、思ったような結果が得られずにいた。そのため、同区間を電化し、乗務員の労働環境改善と輸送力の増加を図ることとした。

本形式は同区間の電化に際して新製された電気機関車で、1912年5月11日の同区間の電化の際に使用される電気機関車として、12両が輸入された。ドイツAEGおよびエスリンゲン社(Esslingen)の合作により1911年(明治44年)に製造された。落成当初の形式番号は10000形10000 - 10011と称したが、1928年(昭和3年)10月の車両形式称号規程改正により、EC40形EC40 1 - EC40 12に改められた。

電化による本形式の導入以降、横川 - 軽井沢(通称「横軽(ヨコカル)」)間の運転時分は49分と大幅に短縮されるとともに、1列車あたりの輸送力も若干ではあるが増加している。

仕様[編集]

車体は、前後に短いボンネット(機器室)を有する凸型である。当初、運転台は両側に設けられていたが、しばらくして坂上の軽井沢側の運転台が撤去されて蓄電池が搭載され、横川側のみの片運転台式となった。

集電装置は当初、構内区間用はポールであったが、後にパンタグラフに変更された。本線上ではトンネルの建築限界が小さく、第三軌条方式による電化を行なったため、第三軌条から集電を行なうための集電靴を片側2か所に設備していた。集電靴は、や落ち葉による集電不良を避けるため第三軌条の下側に接触する方式で、日本では唯一のものであった。

主電動機はMT3(一時間定格出力210kW)を1両当たり2基搭載し、1基は車輪駆動用に、もう1基はラック歯車駆動用に用いられた。

3対の動輪をもつ台車は固定式で、動輪は連結棒で中間軸と主電動機の大歯車につながっており、ラックレールに噛み合うラック歯車は、同じ方式で専用の主電動機と結ばれている。

運用[編集]

本形式は一貫して横川機関庫に配置され、信越本線の横川 - 軽井沢間で限定運用された。1918年(大正7年)3月7日に発生した信越本線熊ノ平駅列車脱線事故においては10004・10009の2両が被災大破したものの修復され、1928年(昭和3年)10月には前述の通り本形式全車を対象にEC40形への改称・改番が実施された。しかし同時期には老朽化による故障発生件数が増加したことから、後継機として設計・製造されたED42形に代替されることとなり、1936年(昭和11年)4月に全車が廃車された。

廃車後は大宮工場(現在の大宮総合車両センター)に保管されていたが、1941年(昭和16年)に4両が京福電気鉄道に払い下げられ、そのうちの2両が、同社のテキ511形511・512(元EC40 1・EC40 2)となって福井支社の越前本線三国芦原線で使用された。払い下げの際、ラック式の機器類はすべて撤去されており、ボンネットの片側も撤去されてデッキが設置された。これは、ラック用機器の撤去により室内空間に余裕が生じたのと、入換作業での誘導員の添乗スペース確保を図ったためとされる。

後にテキ511は国鉄での復元保存のため返還されることとなり、1964年(昭和39年)2月17日付で除籍され、大宮工場で明治時代の状態に復元のうえ、鉄道記念物に指定された。現在は、「10000」として旧軽井沢駅舎記念館に静態保存されている。なおこの際、テキ511の代替機として国鉄からED28 11東芝製35t機)が払い下げられ、同社テキ531形531として導入されている。残るテキ512は1970年(昭和45年)7月15日付で廃車となった。

熊ノ平駅列車脱線事故により脱線大破した10000形10004 (1918年3月撮影)
静態保存される10000形10000
(軽井沢駅舎記念館 2007年7月)

脚注[編集]

注釈[編集]

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  1. ^ 直流電気車両の速度制御は抵抗器制御に加えて直並列組合せ制御を使用するので通常の動輪1軸にモーター1つの方式では偶数軸になる(モーター数が奇数では並列時に1つ余ってしまう)が、本形式で通常の動輪とラック歯車用とで1つづつモーターを搭載し、ロッド駆動で3軸車輪を動かすので奇数軸でも直並列組合せ制御が可能だった。
  2. ^ 朝倉によると当初の設計では2軸だったが重量の超過のため設計変更したという[1]

出典[編集]

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  1. ^ 朝倉希一「思い出話」『レイル』No4、1978年7月号 『雑誌機関車』より再録 復刻アテネ書房
  2. ^ アブトは英語式の発音(『鉄道ピクトリアル』377号、P.49。)、機械標準用語委員会の決定にならって1953年車両称号規程改正の際に「アプト」に変更された(星晃「車両称号規程こぼれ話」『鉄道』2号(日本鉄道協会・1953年)、P.16)。)

関連項目[編集]