「羽柴氏」の版間の差分
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;羽柴秀次家 |
;羽柴秀次家 |
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*当主:[[豊臣秀次|羽柴秀次]](秀吉の養子。三好吉房とともの息子。いったんは秀吉から関白職を譲られたが、その後秀吉の命令で処刑される) |
*当主:[[豊臣秀次|羽柴秀次]](秀吉の養子。三好吉房とともの息子。いったんは秀吉から関白職を譲られたが、その後秀吉の命令で処刑される) |
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**長男:[[豊臣仙千代丸|仙千代丸]] |
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**四男:[[豊臣土丸|土丸]] |
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**娘:[[隆精院]]([[真田信繁]]の側室) |
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**娘:[[お菊]] |
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==系図== |
==系図== |
2009年11月17日 (火) 03:39時点における版
羽柴氏 | |
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五七の桐 | |
本姓 | 豊臣氏 |
家祖 | 羽柴秀吉 |
種別 | 武家/公家 |
出身地 | 尾張国 |
主な根拠地 |
近江国長浜城 山城国伏見城 摂津国大坂城 |
著名な人物 | 羽柴秀吉、羽柴秀長、羽柴秀次、ほか多数 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
羽柴氏(はしばし/はじばうじ)は、日本の戦国大名・天下人の家系及びその名字である。創始者は羽柴秀吉。
概要
本姓ははじめ平氏、秀吉の関白就任時には藤原氏に改め、その後新しい氏を創始して豊臣氏となった。秀吉とその近親者たちの名字でもあるとともに、称号として秀吉に臣従する大名の一部に賜与された。
秀吉はもともと織田信長の家臣で、もともとの名字は「木下」であった。もっともこれも、氏素性も確かではない秀吉の本来の名字ではなく、妻ねねの兄杉原家定が母方の名字「木下」に改称したのを借りたものである。秀吉が歴史に姿を現すのは、信長が美濃の土豪坪内利定に与えた知行安堵状の添状(永禄8年(1565年)11月2日付)に「木下藤吉郎秀吉」と署名しているのが最初である(「坪内文書」[1])。
その後戦功を重ね、信長の有力部将として台頭する。木下から羽柴に改めた最初の例は、元亀4年(1573年)7月20日付で大山崎惣中に縄の供出を求めた書状(「離宮八幡宮文書」[1])であり「羽柴藤吉郎秀吉」と署名している。『信長公記』[2]では、元亀3年7月24日条に近江一向一揆掃討の指揮官として「木下藤吉郎」の名を記し、同年8月条では虎御前山に建設された砦の「定番(じょうばん)」として「羽柴藤吉郎」の名を記す。
「羽柴」の由来は織田家の重臣である丹羽長秀と柴田勝家にあやかり、丹羽の「羽」と柴田の「柴」を1字ずつもらってつけたというのが定説であるが、確たる典拠はない。
信長が本能寺で横死し、秀吉が代わって天下人の座に就くと、秀吉の発給する文書はその地位の向上にともなって必然的に尊大化・薄礼化し、あるいは奉書にとって代わられ、直状も単に「秀吉」とのみ署名したもの、花押のみ署したもの、印判のみ押したものなどで占められ、羽柴の名字の使用例は見られなくなる。天正13年(1585年)10月13日付の遠藤基信宛書状に「羽柴筑前守」と署名したのが「羽柴」の名字の最後の使用例である(山鹿素行『武家事紀巻第31』[1])。
一方で、秀吉は、近親者以外への羽柴の名字の授与を開始する。その最初の例は、天正10年(1582年)10月の堀秀政(「神照寺文書」[3])である。その後、旧主信長の遺族、織田家において秀吉の同僚であった大名、あるいは天下統一の過程で臣従させた国主クラス・公卿クラスの大身大名などを中心に、羽柴の名字の授与が大規模に行われている。血縁・地縁に頼った秩序編成が難しい秀吉が、自らの名字を大名たちに授与し、擬制的な一家を構成することで政権メンバーを秩序づけることをはかったものである。
羽柴の名字は一定程度既成事実として定着し、秀吉の死後も島津家久・細川忠興・池田輝政・福島正則など一部の大名がその使用を続けている。しかし、慶長20年(1616年)5月、大坂の陣で秀吉の後継者秀頼が死亡し、羽柴宗家が消滅したことにより、羽柴の名字を用いる家系は姿を消した。正保2年(1645年)に秀頼の遺児天秀が死去して秀吉の血統も絶えた。
主な構成員
- 羽柴宗家
- 秀吉の近親者
- 羽柴秀長家
- 羽柴秀勝家
- 羽柴秀次家
系図
実線は実子 点線は養子 家名の変化(木下家→羽柴家)
木下昌吉 (弥右衛門) | 大政所 | 竹阿弥 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
杉原定利 | 妻 | 七曲 | 浅野長勝 | 浅野長詮女 (浅野長勝姉) | 安井重継 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
三好吉房 (一路) | 日秀 | 秀吉 | 高台院 | 家定 | やや | 浅野長政 | 秀長 | 朝日姫 | 徳川家康 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
秀次 | 秀勝 (日秀次男) | 秀保(秀俊) (妻秀長女) | 木下勝俊 | 木下利房 | 木下延俊 | 木下俊定 | 小早川秀秋 | 大善院 (毛利秀元室) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
仙千代丸 | 百丸 | 於十丸 | 完子 (九条幸家正室) | 木下氏 (足守藩) | 木下利次 | 木下氏 (日出藩) | 小早川氏 (岡山藩) | 毛利氏 (長府藩) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
お菊 (兵内紀朝安室) | 隆精院 (真田信繁側室) | 一ノ姫 | 土丸 | 九条家 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
仙台真田家 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
羽柴の名字を使用した確証のある人々
天正15年(1587年)4月9日現在(九州出陣の際の陣立書(『松下文書』)[4])
天正20年(1592年)2月21日現在(第1次朝鮮出兵の際の陣立書(『毛利家文書』)[5])
文禄4年(1595年)7月20日現在(秀次誅殺後に秀頼への忠誠を誓わせた起請文(『毛利家文書』)[4])
- 小早川隆景(羽柴筑前宰相)
- 毛利輝元(羽柴安芸中納言)
- 徳川家康(羽柴武蔵大納言)
- 前田利家(羽柴加賀中納言)
- 宇喜多秀家(羽柴備前宰相)
- 長谷川秀一(羽柴東郷侍従)
- 京極高知(羽柴伊奈侍従)
- 前田利政(羽柴能登侍従)
- 最上義光(羽柴出羽侍従)
- 長宗我部元親(羽柴土佐侍従)
- 島津家久(羽柴薩摩侍従)
- 立花宗茂(羽柴左近侍従、のち羽柴柳河侍従)
- 森忠政(羽柴金山侍従)
- 筒井定次(羽柴伊賀侍従)
- 稲葉貞通(羽柴郡上侍従)
- 堀秀治(羽柴北庄侍従)
- 池田輝政(羽柴吉田侍従)
- 京極高次(羽柴京極侍従)
- 木下勝俊(羽柴若狭侍従)
- 佐竹義宣(羽柴常陸侍従)
- 里見義康(羽柴安房侍従)
- 結城秀康(羽柴結城少将)
- 前田利長(羽柴越中少将)
- 細川忠興(羽柴丹後少将)
- 毛利秀元(羽柴安芸宰相)
- 織田秀信(羽柴岐阜中納言)
- 上杉景勝(羽柴越後中納言)
- 徳川秀忠(羽柴江戸中納言)
- 織田秀雄(羽柴大野宰相)
上記のほか、脚注の二木論文[4]は下記の人々を挙げる。
脚注の黒田論文[3]はさらに下記の人々を挙げる。
- 堀秀成
- 稲葉典通
- 前田秀以
- 細川忠隆
- 織田信高(羽柴左衛門佐)
- 織田信吉(羽柴武蔵守)
- 織田頼長(羽柴左門)
- 長宗我部盛親(羽柴右衛門太郎)
- 蒲生秀行
- 滝川正利
- 池田利隆(羽柴右衛門督)
- 福島正長(羽柴八助)
- 福島忠勝(羽柴備後守)
主要家臣
秀吉の居城
(時系列順)
脚注
- ^ a b c 三鬼清一郎 『豊臣秀吉文書目録』 名古屋大学文学部国史学研究室、1989年。
- ^ 奥野高広・岩沢愿彦校注 『信長公記』 角川書店〈角川文庫〉、1969年。
- ^ a b 黒田基樹 「慶長期大名の氏姓と官位」 『日本史研究』414号 日本史研究会、1997年。
- ^ a b c 二木謙一 「秀吉政権の儀礼形成」 桑田忠親編『豊臣秀吉のすべて』 新人物往来社、1981年。
- ^ 小和田哲男 「陣立書にみる家臣団の形成」 杉山博・渡辺武・二木謙一・小和田哲男編『豊臣秀吉事典 コンパクト版』 新人物往来社、2007年。