豊臣完子

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豊臣 完子(とよとみ の さだこ) / 羽柴 完子(はしば さだこ、文禄元年(1592年) - 万治元年8月18日[1]1658年9月15日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての女性。九条幸家の正室。従二位。院号は天真院。豊臣秀頼の義姉・従姉・従姪、徳川家光の異父姉、明正天皇の伯母にあたる。

生涯[編集]

誕生前に文禄の役で父・豊臣秀勝が病死し、母・は姉・淀殿のもとで完子を産んだ。初名は不明である。

文禄4年(1595年)、江が徳川秀忠と再々婚したことで、伯母の淀殿に引き取られ養われる。淀殿は彼女を実の子として大切に養育したというが、おそらく相続の問題で『慶長日件録』では養子ではなく猶子と記録されている(猶子は相続の権利が発生しないので普通は名前のみの養子と捉えられる)。

慶長9年(1604年)6月3日、九条忠栄(後の幸家)に嫁ぐ。この婚儀の直前に完子の乳母が没していることが記録されている。婚儀に際しては淀殿が万事整え、京の人々を驚かせている。その華やかさは興正寺の夫人や娘たちが「九条家嫁娶見物」するほどであった。また義弟の秀頼名義で豪華な九条新邸を造営している。婚儀の4年後、慶長13年(1608年)に秀頼の左大臣任官の動きが朝廷にあったことが明らかにされている。

慶長13年(1608年)12月26日、忠栄が関白に任官し、完子は北政所となる。なお、「完子」というはこのとき選定されたものと考えられる。

慶長20年(1615年)に豊臣家が滅亡して以降は、母の嫁ぎ先である秀忠の養女となっている。完子の母が徳川家に縁づいていたことから、忠栄は徳川の世になっても公家武家の貴重な仲介役になった。

万治元年(1658年)、67歳で死去した。

一族[編集]

備考[編集]

  • 織田秀信に嫁いだともいわれるが、時期が合わないため否定的な見方をされることが多い。
  • 完子の異父妹である勝姫松平忠直[2]の間の次女鶴姫[3]は、家光の養女として嫡男道房に嫁いでいる。
  • 完子と幸家の間には7人の子がおり、この子たちが女系ながら豊臣家の血を引いたことになる。そのため、幸家の家系が豊臣宗家である大坂羽柴家滅亡後で豊臣嫡流の血筋に近いことになる。娘が嫁いだ東本願寺大谷家、嫡男道房の娘たちが嫁いだ浅野家でもその血筋が現代まで続いている。
  • 下記に示すように、現在の皇室は織田氏浅井氏豊臣氏徳川氏の血を受け継いでいる。(崇源院#系譜参照)。

  豊臣完子─九条道房待姫輔実幸教二条宗基(母は徳川吉通の娘信受院)─治孝九条尚忠道孝貞明皇后昭和天皇今上天皇

  • 秀吉の姉で祖母である日秀尼とも交流があり、完子の末娘は日秀の願いを受けて、日秀の瑞龍寺を継いだ。

脚注[編集]

  1. ^ 『両檀歴代御廟記』
  2. ^ 秀忠の異母兄・結城秀康の嫡男
  3. ^ 長女は高松宮好仁親王亀姫、長男は越後高田藩主松平光長

登場作品[編集]