滝川正利

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滝川正利
時代 江戸時代前期
生誕 天正18年(1590年
死没 寛永2年11月7日1625年12月6日
改名 羽柴正利→滝川正利
別名 帯刀、羽柴壱岐守、通称:勘右衛門
戒名 周桃
墓所 茨城県石岡市根小屋の秦寧寺
官位 従五位下壱岐
幕府 江戸幕府旗本
主君 徳川秀忠家光
常陸片野藩
氏族 滝川氏
父母 父:滝川雄利
兄弟 龍光院、正利
養兄弟:鳥居忠政正室生駒家長娘)
正室:青山忠俊
滝川利貞正室
養子:利貞

滝川 正利(たきがわ まさとし)は、江戸時代前期の大名旗本常陸国片野藩2代(最後の)藩主。

生涯[編集]

天正18年(1590年)、初代藩主・滝川雄利の長男として父の居城・伊勢国神戸城で生まれる。関ヶ原の戦いで西軍について失領した父が徳川家康に召しだされて片野2万石を与えられると、徳川氏に仕えるようになった。慶長10年(1605年)、16歳のとき2代将軍徳川秀忠の上洛に供奉し、従五位下・壱岐守に叙せられ、羽柴壱岐守を称した[1]

慶長15年(1610年)、父の死去により21歳で跡を継ぐ。慶長20年(1615年)、大阪冬の陣に出陣し、正利の隊は首3級を獲る武功を挙げた[1]。また、この頃、将軍の命により羽柴の名乗りを改め、父が以前名乗っていた滝川氏に復した[2]

しかし生来から病弱で出仕に支障を来たすようになり(『群書系図部集』[3]によれば眼病のため)[2]寛永2年(1625年)、嗣子がなく、幕府の公務に耐えられないという理由から所領の返上を願い出て、所領2万石のうち1万8000石を幕府に収公の上、常陸新治郡片野2000石を安堵されて旗本となった[1]。同年11月7日、死去。享年36。

家督は摂津国高槻藩初代藩主・土岐定義の次男・利貞末期養子として継ぎ、正利の娘を娶って婿となった。利貞と正利の娘との間の子、利錦御側衆に昇進、加増され子孫は4000石の旗本として存続した[1]。なお、幕末に大目付になり、鳥羽・伏見の戦いの戦端を開いた滝川具挙はこの家の別家(利錦の弟具章が分家)1200石の当主で、正利の子孫にあたる[4]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 『寛政重脩諸家譜. 第3輯』國民圖書, 1923, p. 424.
  2. ^ a b 「大猷院殿御実紀」巻21. 寛永2年11月7日条(『徳川実紀. 第貳編』経済雑誌社, 1904, p. 271.
  3. ^ 『群書系図部集』第3巻, 続群書類従完成会, 1985, p. 383.
  4. ^ 小川恭一『寛政譜以降旗本家百科事典』第3巻, 東洋書林, 1997, p. 1611.