滝川具挙

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滝川 具挙
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 不明
死没 明治14年(1881年5月11日
改名 銀蔵(幼名)、具知、具挙、戇哉
別名 通称:三郎四郎
戒名 大機院殿高厳具挙大居士
墓所 東京都練馬区桂徳院
官位 従五位下播磨守
幕府 江戸幕府 小姓組進物番小十人頭目付外国奉行神奈川奉行禁裏付京都町奉行大目付
主君 徳川家慶家定家茂慶喜
氏族 滝川氏
父母 父:滝川具近
兄弟 具挙京極高朗蜷川親敬
井戸覚弘の養女(斎藤氏
具綏具和小林銀三、こと(名和又八郎夫人)
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滝川 具挙(たきがわ ともたか)は、江戸時代後期の旗本。初名は具知(ともさと)。通称は三郎四郎。官位従五位下播磨守

生涯[編集]

前半生[編集]

禄高1200石の旗本・滝川三郎四郎具近の嫡子として生まれた[注釈 1]幼名は銀蔵。

文政11年(1828年)、滝川家は拝領屋敷の相対替により代々木から駿河台(現在の千代田区駿河台1丁目8番)に転居した[1]。隣家は小栗又一忠高の屋敷であり[2]、その息子の剛太郎(小栗忠順)とは慶応4年(1868年)に小栗家が江戸を退去するまで親しく交際した[注釈 2]

天保6年(1835年)3月、小栗邸内で開講する安積艮斎の私塾、見山楼に入門[3]弘化4年(1847年)4月、召し出されて小姓組に番入りした[4][注釈 3]嘉永3年(1850年)頃、進物番出役となる[5]。嘉永7年(1854年)、使番だった父が没し[6]、家督を継承して代々の名乗りである三郎四郎に通称を改めた[7]

安政6年(1859年)10月、小十人頭に任命され[8]万延元年(1860年)閏3月、目付に転任し、外国掛を命ぜられる[9]。同年9月、外国貿易取扱(外国立会貿易筋之儀取扱)を命ぜられ[10]、12月には外国奉行に昇進[11]、従五位下播磨守に叙任された[12]。翌2年(1861年[注釈 4]1月には神奈川奉行に転出し[13]、3月に神奈川に赴任した[14]

幕末京都での活動[編集]

文久元年(1861年)8月、禁裏付に任命されて[15]京都に赴任し[16]文久2年(1862年)7月、京都在勤のまま京都町奉行(西町奉行)に転任した[17]。同年12月、京都守護職として会津藩松平容保が着任すると東町奉行の永井尚志とともに出迎え、その指揮下に入って京都の治安維持に従事した[18]。文久3年(1863年)、孝明天皇が3月に上下賀茂社、4月に石清水八幡宮攘夷祈願のため行幸するとこれに随行した[19][20]

元治元年(1864年)7月、禁門の変が起こり、戦闘が火元になって京都市中が延焼(どんどん焼け)すると、六角獄舎に収監されていた政治犯(平野国臣ら)33人が斬刑に処された[21]。獄舎を管理する西町奉行の滝川具挙が獄舎に火災が及んで志士の逃亡が生じることを恐れ、東町奉行の小栗政寧や京都守護職松平容保の了解を得ずに独断で囚人の処分を指示したとされる[22][注釈 5]

同年9月、京都詰めのまま大目付に昇進[23]。同年12月、天狗党鎮圧のために京都を出陣する禁裏御守衛総督徳川慶喜に随行し、天狗党を率いる武田耕雲斎が慶喜への取りなしを求めて加賀藩を通じて上申書を提出すると、「この書は降伏状ではなく陳情書であるから受理できない」と強圧的に対応し、進退極まった天狗党を降伏に追い込んだ[24]

慶応元年(1865年)閏5月、将軍徳川家茂第二次長州征討のため大坂城に入ると、陸軍奉行溝口勝如、同役の神保長興(のち川勝広運に交代)、勘定奉行小笠原広業らと大坂に詰めて家茂を補佐した[25]

慶応2年(1866年)7月、家茂が死去して長州征討が終結すると江戸に戻され、引き続き大目付に在職した[26]

鳥羽・伏見の戦い[編集]

慶応3年(1867年)10月、将軍徳川慶喜が大政奉還を行うと、目付長井昌言古賀謹一郎らとともに上京を命ぜられた[27]。滝川は大政奉還に反対であったが、徳川慶喜の説諭を受けて、老中松平乗謨らとともに江戸に戻った[28]。しかし、江戸の留守を預かる幕臣たちは、関東における薩摩藩の後ろ盾を得た反幕府勢力の挑発に耐えかね、12月に江戸薩摩藩邸の焼討事件を起こす。

12月28日、滝川具挙は勘定奉行小野広胖とともに慶喜のいる大坂城に入城し、薩摩藩邸焼討ちに至る江戸の情勢を伝えた。主戦論者として知られた滝川らがもたらした情報は、京都における薩摩藩の動向に対して緊張を高めていた大坂城中の幕臣や諸藩を挙兵へと傾けた[29]

慶応4年[注釈 6]1868年1月2日、大坂城の幕府軍は京都への進軍を開始し、大目付滝川具挙は薩摩藩を弾劾する「討薩表」を京都に届ける使者とされた[30]1月3日、滝川は京都見廻組とともに幕府軍本営の置かれていた淀本宮を出て幕府軍の行軍する鳥羽街道を進み、街道起点の四塚関門を封鎖する薩摩藩の椎原小弥太と直談判に及んだ。椎原は滝川の通過を拒み、日没が近づいたため、滝川は入京の強行を通告。滝川を先頭とする幕府軍が前進の構えを見せると、薩摩藩兵は大砲と小銃を発砲し、鳥羽・伏見の戦いが始まった。このとき、兵数に勝る幕府軍は洛外で寡勢の薩摩側から攻撃をしかけてくることを予期しておらず、しかも鳥羽街道を進む諸部隊の総指揮官である陸軍奉行竹中重固京街道伏見に向かっていて、戦闘準備をしていない行軍体制の諸部隊を、本来は使者役であって指揮権のない滝川が越権で指図している状況であった。その上、先頭を進んでいた滝川の乗馬が発砲に驚いて狂奔し、後方に向かって走り去ってしまった。滝川はそのまま前線に戻らず、幕府軍総督松平正質のいる本営に引っ込んで鳥羽方面の諸部隊を総括する役割を果たさなかったため、指揮官を欠いた鳥羽方面の幕府軍の混乱を招いた[31]。鳥羽と伏見で敗れた幕府軍は、1月4日夕刻、淀城を守る淀藩兵に入城を拒否されて八幡橋本へと敗走、松平・竹中・滝川らの本営は枚方を経て守口まで後退し、1月6日、慶喜の命令で大坂城に帰還した[32]

1月12日、慶喜に従って江戸に帰着[33]。慶喜が勘定奉行小栗忠順らの抗戦論を抑えて勝海舟の恭順論を採用すると、2月9日若年寄永井尚志、同役の戸川安愛などとともに免職され、寄合とされた[34]。翌10日、官位召上げ、江戸城への登城禁止処分を受け[35]、さらに同月19日に逼塞に処された[36]4月7日には新政府の指示で鳥羽・伏見の戦いの責任者として改めて処罰され、永蟄居とされた[37]

明治維新後[編集]

江戸開城後、伝習隊歩兵指図役として鳥羽・伏見の戦いにも参戦した長男の充太郎(滝川具綏)は江戸を脱走して抗戦を続けたが、滝川具挙は駿河台の屋敷で蟄居しており、徳川亀之助駿府藩(静岡藩)入封に伴って駿府(静岡)に移置されることになった[38]。8月、東京府判事の土方久元が、滝川家の隣家である小栗忠順の屋敷を接収し、馬場の拡張をするため滝川家に屋敷からの立ち退きを命じたので、退去して静岡に移った[39]

明治2年(1869年)、家督を次男の規矩次郎(滝川具和)に譲って隠居し[40]、名を戇哉(とうさい)[注釈 7]と改めた[42]

晩年には東京に戻り、飯田町に居住していた[43]明治14年(1881年)、死去した[42]

系譜[編集]

滝川氏織田信雄豊臣秀吉に仕えた戦国武将滝川雄利の子孫で、宗家は近江国内4000石を知行する大身旗本。具挙の滝川三郎四郎家は、滝川雄利の曾孫・滝川具章が第4代将軍徳川家綱小姓になって別家した家で、近江国内に1200石を領した[44]

具挙の父・滝川三郎四郎具近は天保15年(1844年)に小姓組から使番に任命され、弘化4年(1847年)から1年間大坂目付出役を務めたが、嘉永7年(1854年)に在職のまま没した[6]。具近の子には、具挙のほか、文久遣欧使節の目付を務めた京極能登守高朗[45]幕府陸軍将校だった蜷川邦之助親敬[46]がいる。

妻は大目付・井戸覚弘の養女で、大身旗本・斎藤播磨守(斎藤利三の子斎藤利宗春日局の兄)の子孫)の娘[40]。戒名は「貞心院殿祥岳妙寿大姉」[42]

長男の充太郎具綏は江戸を脱走し、箱館戦争まで戦い抜いたため静岡藩士となった滝川家を廃嫡された。赦免後、陸軍に入り西南戦争で戦死[41]。次男の規矩次郎具和は静岡藩廃藩後、海軍兵学寮を卒業して海軍少将まで昇進した[47]。三男の銀三東京職工学校を卒業して繊維工業技術者となり、京都綿ネル株式会社の支配人を務めた[48]。長女ことは名和又八郎海軍大将の夫人[49]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 生年は不明であるが、文政10年(1827年)生まれの小栗忠順が安積艮斎への入門、将軍への御目見、学問試の受験、番入りのいずれも具挙と同年で、同世代である。
  2. ^ 現存する幕末の小栗忠順の日記には、滝川播磨守(具挙)との交流や滝川充太郎(具挙の嫡男具綏)、蜷川邦之助(具挙の実弟蜷川親敬)の頻繁な小栗邸来訪が記録されている(『群馬県史料集』第7巻、群馬県文化事業振興会、1972年。)
  3. ^ 滝川銀蔵は天保14年(1843年)4月と弘化3年(1846年)9月の2度、布衣以上の役人の嫡子から部屋住みのまま番入りさせる者を選抜するための昌平坂学問所儒者による学問試を受験して落第しており(文部省 編『日本教育史資料』7、文部省、1890年、143、153頁。)、「学問出精」(学問成績優秀)ではなく「芸技出精」(武術鍛錬優秀)を理由とする採用であった。なお、同門の小栗剛太郎(忠順)も弘化3年の学問試に落第し、弘化4年4月に「芸技出精」で入番している。
  4. ^ 2月に文久と改元。
  5. ^ 会津藩士柴太一郎が、禁門の変の後に滝川具挙に面会した際に「かねて幕府には非常の時には非常の処分をするという内規があるので、伺いを立てずに自分の職権で囚人の処分を致した」と言われたと証言し、六角獄舎の処刑に対する松平容保の関与を否定している(岩崎英重 編『会津藩庁記録 文久3年 第1』日本史籍協会、1926年、506頁。)。なお、事後に処刑のことを知った松平容保は町奉行を戒告したとされるが[22]、禁門の変から間もなく滝川具挙は大目付、小栗政寧は勘定奉行に問題なく昇進している。
  6. ^ 9月に明治と改元。
  7. ^ 「戇哉」の2字で「トウなるかな」と訓読でき、「なんと愚かなことであろうか」という意味になる。なお、「戇」と同音の「陶」を用いて「滝川陶哉」と表記している資料もある[41]

出典[編集]

  1. ^ 東京市 編『東京市史稿 市街篇第三十六』東京市、1940年、726頁
  2. ^ 『駿河台小川町絵図』尾張屋清七、嘉永3年。
  3. ^ 『安積艮齋門人帳』安積艮斎顕彰会、2007年、420頁。
  4. ^ 「慎徳院殿御実紀」巻11、弘化4年4月16日条。(『徳川実紀 續』第3篇、経済雑誌社、1906年、468頁。
  5. ^ 橋本博 編『大武鑑』巻8、大洽社、1936年、嘉永3年5頁。
  6. ^ a b 『柳営補任』3、東京大学出版会、1964年、221頁。
  7. ^ 橋本博 編『大武鑑』巻9、大洽社、1936年、安政2年24頁。
  8. ^ 『柳営補任』3、東京大学出版会、1964年、338頁。
  9. ^ 『柳営補任』3、東京大学出版会、1964年、124頁。
  10. ^ 「昭徳院殿御実紀」万延元年9月20日条。(『徳川実紀 續』第4篇、経済雑誌社、1906年、394頁。
  11. ^ 「昭徳院殿御実紀」万延元年12月1日条。(『徳川実紀 續』第4篇、経済雑誌社、1906年、450頁。
  12. ^ 「昭徳院殿御実紀」万延元年12月4日条。(『徳川実紀 續』第4篇、経済雑誌社、1906年、458頁。
  13. ^ 「昭徳院殿御実紀」文久元年1月23日条。(『徳川実紀 續』第4篇、経済雑誌社、1906年、520頁。
  14. ^ 「昭徳院殿御実紀」文久元年3月15日条。(『徳川実紀 續』第4篇、経済雑誌社、1906年、582頁。
  15. ^ 「昭徳院殿御実紀」文久元年8月15日条。(『徳川実紀 續』第4篇、経済雑誌社、1906年、828頁。
  16. ^ 「昭徳院殿御実紀」文久元年9月15日条。(『徳川実紀 續』第4篇、経済雑誌社、1906年、891頁。
  17. ^ 『柳営補任』5、東京大学出版会、1964年、12頁。
  18. ^ 山川浩『京都守護職始末』沼沢七郎、1911年、26頁。
  19. ^ 「昭徳院殿御上洛日次記」文久3年3月11日条。(『徳川実紀 續』第4篇、経済雑誌社、1906年、1804頁。
  20. ^ 「昭徳院殿御上洛日次記」文久3年4月11日条。(『徳川実紀 續』第4篇、経済雑誌社、1906年、1826頁。
  21. ^ 平野国臣顕彰会 編『平野国臣伝記及遺稿』博文社書店、1916年、299-301頁。
  22. ^ a b 維新史蹟会 編『維新史蹟図説 京都の巻』東山書房、1924年、278-280頁。
  23. ^ 『柳営補任』2、東京大学出版会、1964年、29頁。
  24. ^ 渋沢栄一『徳川慶喜公伝 三』竜門社、1918年、141-150頁。
  25. ^ 「昭徳院殿御在坂日次記」慶応元年7月4日条(『徳川実紀 續 第5篇』経済雑誌社、1907年、267頁。)、同2年7月10日条(同書707頁。)。
  26. ^ 「慶喜公御実紀」慶応3年1月29日条(『徳川実紀 續 第5篇』経済雑誌社、1907年、1144頁。
  27. ^ 「慶喜公御実紀」慶応3年10月22日条(『徳川実紀 續 第5篇』経済雑誌社、1907年、1446-1447頁。
  28. ^ 日本歴史学会 編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年、577頁。
  29. ^ 渋沢栄一『徳川慶喜公伝 四』竜門社、1918年、255-256頁。
  30. ^ 渋沢栄一『徳川慶喜公伝 四』竜門社、1918年、259-263頁。
  31. ^ 大山柏『戊辰役戦史 上』時事通信社、1968年、63-69頁。
  32. ^ 大山柏『戊辰役戦史 上』時事通信社、1968年、100-106頁。
  33. ^ 「慶喜公御実紀」明治元年1月12日条(『徳川実紀 續 第5篇』経済雑誌社、1907年、1596-1597頁。
  34. ^ 「慶喜公御実紀」明治元年2月9日条(『徳川実紀 續 第5篇』経済雑誌社、1907年、1651頁。
  35. ^ 「慶喜公御実紀」明治元年2月10日条(『徳川実紀 續 第5篇』経済雑誌社、1907年、1652-1653頁。
  36. ^ 「慶喜公御実紀」明治元年2月19日条(『徳川実紀 續 第5篇』経済雑誌社、1907年、1676頁。
  37. ^ 「慶喜公御実紀」明治元年4月7日条(『徳川実紀 續 第5篇』経済雑誌社、1907年、1738頁。
  38. ^ 太政官 編『復古記 第10冊』内外書籍、1929年、602-603頁。
  39. ^ 木村知治・菴原鉚次郎『土方伯』菴原鉚次郎、1913年、411-414頁。
  40. ^ a b 野沢日出夫「子孫訪問 江戸幕府最後の大目付瀧川播磨守の裔 瀧川具也氏」『姓氏と家紋』近藤出版社、第61号、1991年3月、38-39頁。
  41. ^ a b 安岡昭男 編『幕末維新大人名事典』下巻、新人物往来社、2010年、42頁。
  42. ^ a b c 『墓蹟』1、墓蹟発行所、1926年5月、24頁。
  43. ^ 『野洲町史』第2巻(通史編 2)、野洲町、1987年、208頁。
  44. ^ 竹内誠ほか 編『徳川幕臣人名辞典』東京堂出版、2010年、393頁。
  45. ^ 林昇撰「越前守京極府君大信之墓碑銘」(『墓碑史蹟研究』23、墓碑史蹟研究発行所、1925年8月、219-221頁。
  46. ^ 熊井保 編『江戸幕臣人名事典』改訂新版、新人物往来社、1997年、791頁。
  47. ^ 『対支回顧録』下巻、対支功労者伝記編纂会、1936年、677-679頁。
  48. ^ 京都スワ捺染工業組合 編『日本機械捺染史』日本捺染史刊行会 、1943年、455-463頁。
  49. ^ 『人事興信録 4版人事興信所、1915年、な1頁。

参考文献[編集]

  • 小川恭一編『寛政譜以降旗本家百科事典』第3巻、東洋書林、1997年、1609頁。
  • 竹内誠ほか 編『徳川幕臣人名辞典』東京堂出版、2010年、393頁。
  • 安岡昭男 編『幕末維新大人名事典』下巻、新人物往来社、2010年、42頁。
  • 日本歴史学会 編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年、577頁。