京極高朗 (旗本)

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文久遣欧使節の主要メンバー。右から2人目が京極高朗。左端から松平康直(康英)竹内保徳、右端は柴田剛中

京極 高朗(きょうごく たかあき、? - 元治元年10月29日1864年11月28日))は、幕末の幕臣(旗本、2000石、のち2200石)。通称は啓之助、兵庫。官名は能登守、越前守。旗本京極家にはいくつかの系統があるが、高朗の家系は但馬豊岡藩京極高盛の三弟京極高門を祖として但馬糸井(現兵庫県朝来市)を知行した糸井京極家である。

経歴[編集]

万延元年(1860年)、使番から目付に任じられ、勝手掛、外国掛を担当する。文久元年(1861年)3月、遣欧使節の目付に選ばれ、5月に従五位下能登守に叙任される。同年12月に正使竹内保徳、副使松平康直(康英)らと共に品川を出帆し、翌文久2年(1862年)12月に帰国する。

使節は各国で大歓迎を受け、開港延期の目的を達成した。一方、ロシアとの樺太国境交渉について、ロシアのアジア局長イグナチェフとの折衝の結果、竹内らは北緯48度まで譲歩させることに成功した。しかし京極が、老中安藤信正の寸土も譲るべからずとの訓令を盾に反対し、合意には至らなかった。

帰国後、文久3年(1863年)5月に神奈川奉行、同年9月に長崎奉行、同年11月に騎兵奉行に遷任する。元治元年(1864年)6月、目付に再任される。同年8月、第一次長州征討に際して将軍徳川家茂の扈従を命じられ、また大目付に任じられる。しかしほどなく、同年10月29日に没した。

参考文献[編集]