青山忠俊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

青山 忠俊(あおやま ただとし、天正6年2月10日1578年3月18日) - 寛永20年4月15日1643年6月1日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将譜代大名常陸江戸崎藩第2代藩主、武蔵岩槻藩主、上総大多喜藩主。青山家宗家2代。

経歴[編集]

江戸崎藩初代藩主・青山忠成の次男。母は天方通興の娘。正室は大久保忠佐の娘。子に宗俊(長男)、宗祐(次男)、忠栄(九男)、正俊(十男)、娘(滝川正利正室)、娘(稲葉一通継室)、娘(川口正信室)、娘(中根正次室)。官位・官職は従五位下、伯耆守。通称、伊勢千代、藤蔵、藤五郎。

天正6年(1578年)、遠江国浜松(静岡県浜松市)に生まれる。小田原征伐で初陣を飾り、兄・青山忠次の早世により嫡子となる。父・忠成が徳川家康に仕えていたため、最初は家康に仕え、後に幕府2代将軍・徳川秀忠に仕える。慶長5年(1600年)より伯耆守を称す。慶長8年(1603年)に5,000石を与えられる。慶長12年(1607年)に土井利勝酒井忠世とともに徳川家光傅役をつとめる。慶長15年(1610年)、5,000石を加増され1万石を領する独立した大名となる。慶長18年(1613年)には父・忠成の死により、常陸江戸崎藩第2代藩主となった。元和元年(1615年)には本丸老職となる。元和6年(1620年)5万5,000石をもって岩槻城主となる。

しかし、忠俊はしばしば家光に諫言を繰り返したため、元和9年(1623年)10月19日には、老中を免職の上、上総大多喜藩(2万石)に減転封され、その後寛永2年(1625年)に除封され、下総国網戸・相模国溝郷・遠江国小林を経て、相模国今泉で蟄居する。秀忠の死後に再出仕の要請があったが断っている。

寛永20年(1643年)に死去、享年66。墓所は神奈川県相模原市の天応院。

演じた俳優[編集]