コンテンツにスキップ

墨汁一滴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

墨汁一滴(ぼくじゅういってき)は、石ノ森章太郎(歴史的には1984年までのペンネーム表記は正しくは「石森章太郎」であり、その後にペンネームを変更して石ノ森章太郎とした。本名は小野寺章太郎。)が創刊した漫画同人誌1953年から1960年にかけて10回発行された。命名は正岡子規随筆にちなむ。

宮城県石ノ森萬画館内には同名のグッズショップがあり、復刻版の『墨汁一滴』が販売されている。

概要

[編集]

前史

[編集]

石ノ森章太郎(当時の筆名は石森章太郎、以下同様)は、中学生時代(1950年度 - 1952年度)に近所の子ども達と「東日本漫画研究会」を結成。研究会誌として『墨汁一滴』を計画した。しかし、仲間の原稿が仕上がらない為、完成した『墨汁一滴』は石ノ森の作品が大部分を占めていた(後に、「研究会誌ではなく個人誌」と述べている[1])。これは第2号で廃刊となった[2]

新スタート

[編集]

スカウト

[編集]

石ノ森は方針を転換。「近所の漫画好き(読者)」とではなく、「既に投稿家として活動している人物」と手を組む事を考える。『毎日中学生新聞』、『漫画少年』に投稿していた3名と連絡を取り、会員となる承諾を得た。3名とも青森県に住んでおり、彼ら同士の住所も近かった事に、石ノ森は驚きを感じている(彼らの住居からは、馬場のぼるの生家も近かった)[3]

公募

[編集]

「会員が4名では、まだ少ない」と考えた石ノ森は、『漫画少年』で会員を募集する。100通以上の申し込みがきたが、その大半は東北地方の在住者ではなかった(石ノ森は「東日本漫画研究会」とは明記したが、「会員は東日本在住者のみ」とは告知していなかった)。その結果、全国規模への拡大を決意したものの、「肉筆回覧誌」(「生原稿をそのまま綴じた物」を回覧する形態の同人誌)という性質を考慮し、人数の制限を設定した(理想は20名程度、上限は30名、と考えた)。そこで、「入会希望者には作品を送らせ、その技術水準で会員に相応しいかどうか判断する」という入試を実施する(落とされた中には、後年、漫画家となった人物も複数人いる[4])。

新創刊(1953年)

[編集]

高校1年の夏、石ノ森は『墨汁一滴』を新創刊する為、集まった原稿を手にして青森県の会員宅を訪問。2、3日で編集を済ませる予定だったが、十数日の滞在となる。編集された『墨汁一滴』創刊号は小包として郵送され、北海道の会員を皮切りに順次南下。九州の後で東京都に送られ、『漫画少年』編集部や手塚治虫寺田ヒロオ藤子不二雄(当時は同一ペンネーム)らを巡り、批評を仰いだ[5]。翌年の春、手塚から電報でアシスタントを依頼されている。

一時上京(1955年)

[編集]

高校3年の夏、『墨汁一滴』を編集する為に一旦上京。東京の会員(赤塚不二夫長谷邦夫)と会合し、学童社(『漫画少年』編集部)、手塚宅を訪問する[6]

トキワ荘時代(1956年~)

[編集]

高校卒業後に上京、トキワ荘時代にも『墨汁一滴』は継続していたが、多忙の為、終了する。

派生誌

[編集]
墨汁二滴(東日本漫画研究会女子部)
石ノ森ファンの少女2名の申し出と、『少女クラブ』編集者の仲介により、「東日本漫画研究会女子部」が発足。同部によって、少女漫画専門の『墨汁二滴』が創刊された[7]。同誌の執筆者は、西谷祥子志賀公江神奈幸子[注 1]など。
墨汁三滴(ミュータントプロ)
名誉会長が石ノ森、名誉副会長が松本零士久松文雄。彼らが西武池袋線沿線にまとまって住んでいたため、回覧・批評に便利だった。他に回覧批評を担当した漫画家は斎藤ゆずる江波じょうじ、後に宮谷一彦も加わる。会長はひおあきら、会員は河あきら細井雄二ほしの竜一小森麻実、など。
『墨汁三滴』になる前の名は『ミュータントプロ』で、石ノ森の漫画『ミュータントサブ』から来ている。すがやみつるも参加希望してカットを送ったが、当初は絵が下手として不合格になった。その後下部組織として「ミュータントプロ・ジュニア」が作られ、規定に沿った作品を送れば参加可能とあったので、すがやも作品を描いて送ったが、応募したのがすがや(当時高校一年生)と中学三年の女性計二人しかおらず、ジュニアが発展的解消して二人とも『墨汁三滴』に編入となった[8]
九州漫画展(九州漫画研究会)
高井研一郎が「東日本漫画研究会」九州支部「九州漫画研究会」を結成[9]。松本零士、大野豊井上智内山安二とともに肉筆回覧誌『九州漫画展』を制作した[9]。こちらは『墨汁一滴』(本部の)第8号以前に会誌が出なくなっている(会員が漫画家となり多忙な為、原稿が集まらなくなった)。

奇人クラブ版

[編集]

岡田史子らが所属していた同人会「奇人クラブ」も、1966年頃から『墨汁一滴』という名の肉筆回覧誌を発行していた。石ノ森の『墨汁一滴』との関係は不明。

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 大井夏代のインタビュー集p.39に、高校時代の神奈幸子も『墨汁二滴』参加していたとの記述。また当時西谷祥子がずば抜けて上手だったとも明記されている(大井夏代『あこがれの、少女まんが家に会いにいく。』株式会社けやき出版、2014年4月8日、39頁。ISBN 978-4877515140 )。

出典

[編集]
  1. ^ 石森章太郎 『トキワ荘の青春 ぼくの漫画修行時代』ISBN 978-4-06-183752-2 講談社〈講談社文庫〉、1986年、32頁。
  2. ^ 石森プロ Official Website|石ノ森章太郎|年譜参考。
  3. ^ 『トキワ荘の青春 ぼくの漫画修行時代』、33頁。
  4. ^ 『トキワ荘の青春 ぼくの漫画修行時代』、34-35頁。個々の氏名は明らかにされていない。
  5. ^ 『トキワ荘の青春 ぼくの漫画修行時代』、36-37頁。
  6. ^ 『トキワ荘の青春 ぼくの漫画修行時代』、44-46頁。
  7. ^ 『トキワ荘の青春 ぼくの漫画修行時代』、149頁。
  8. ^ すがやみつるの雑記帳:『仮面ライダー青春譜』第3章 マンガ家めざして東京へ(2)
  9. ^ a b 漫画界の巨人たちが語る石ノ森章太郎像”. イーブックイニシアティブジャパン. 2013年9月3日閲覧。

外部リンク

[編集]