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パウロ・エミリオ・フロッサルド・ジョルジ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
パウロ・エミリオ
名前
本名 パウロ・エミリオ・フロッサルド・ジョルジ
Paulo Emílio Frossard Jorge
ラテン文字 PAULO EMÍLIO
基本情報
国籍 ブラジルの旗 ブラジル
生年月日 (1936-01-03) 1936年1月3日
出身地 エスペラ・フェリース
没年月日 (2016-05-16) 2016年5月16日(80歳没)
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
ブラジルの旗 ボンスセッソ
監督歴
1962 ブラジルの旗 ポルトゥゲーザ
1963-1965 ブラジルの旗 イピランガ-BA
1965-1967 ブラジルの旗 ヴィトーリア
1967 ブラジルの旗 デスポルチーヴァ-ES
1968 ブラジルの旗 デスポルチーヴァ-ES
1969-1971 ブラジルの旗 アメリカ-RJ
1972 ブラジルの旗 ナシオナル-AM
1973 ブラジルの旗 サンタクルス
1974 ブラジルの旗 レモ
1974 ブラジルの旗 バイーア
1975 ブラジルの旗 フルミネンセ
1975 ブラジルの旗 サンタクルス
1976 ブラジルの旗 ヴァスコ・ダ・ガマ
1977 ブラジルの旗 グアラニ
1977-1978 ポルトガルの旗 スポルティングCP
1978 ブラジルの旗 ゴイアス
1978 ブラジルの旗 フルミネンセ
1979 ブラジルの旗 パイサンドゥ
1980 ブラジルの旗 サンタクルス
1980 ブラジルの旗 ボタフォゴ
1981 ブラジルの旗 ゴイアス
1981 ブラジルの旗 ナウチコ
1982 ブラジルの旗 サントス
1982-1988 ブラジルの旗 フォルタレーザ
1989 ブラジルの旗 サン・ジョゼ-SP
1990 ブラジルの旗 フルミネンセ
1991 ブラジルの旗 ノロエスチ
1991-1992 サウジアラビアの旗 アル・ヒラル
1993 ブラジルの旗 ボタフォゴ
1993 ブラジルの旗 アトレチコ-PR
1994-1996 日本の旗 セレッソ大阪
ブラジルの旗 ポルトゥゲーザ-RJ
1998 ブラジルの旗 クリシューマ
ブラジルの旗 リオ・ブランコ-ES
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

パウロ・エミリオ・フロッサルド・ジョルジ(Paulo Emílio Frossard Jorge, 1936年1月3日 - 2016年5月16日[1])は、ブラジルミナスジェライス州エスペラ・フェリースポルトガル語版出身のサッカー指導者。通称パウロ・エミリオ (Paulo Emílio) 。

来歴

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ブラジル国内において数々のタイトルを獲得してきた事から「優勝請負人」の異名を持つ。

1994年、当時JFLに所属していたヤンマーディーゼルサッカー部セレッソ大阪となった際に初代監督として就任。堅固な守備から一発のカウンターでゴールを奪う戦い方が威力を発揮し、チーム創設一年でC大阪をJFL優勝(C大阪創設後初タイトルである)、Jリーグ昇格、天皇杯準優勝へと導いた。1995年はJリーグ1年目ながら堅実なサッカーが功を奏しほぼ五分の成績を残す。しかし翌1996年、守備的な戦術に物足りなさを感じていたチーム側からの意向を受け、攻撃型の戦術に転換を図るも成績が振るわず低迷。シーズン半ばの5月21日に引責辞任した。だがチーム創設期に基盤を作りあげた名将として未だにサポーターからの評価は高い。

2016年5月16日、リンパ腫により死亡した[1]

人柄、エピソード

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  • 弁護士の資格も持つインテリジェンスな名伯楽である。
  • 口癖は「チームはファミリー」で、事あるごとに選手にチームワークの重要性を説いていた。これはブラジルで強豪チームを指揮していた時に成績は良かったが選手同士の仲が非常に悪く、苦労した経験からきている。
  • サポーターにもとてもフレンドリーな監督として知られ、勝利の後にスタンドのサポーターの歓声に満面の笑みとVサインで応えるなど、ブラジル人らしく陽気でお茶目な一面もあった。
  • Jリーグ昇格時の特別番組で、ある試合に勝利した際、興奮のあまり持っていた戦術ボードに噛みついてしまい、歯を折ってしまった事を梶野智に裏話として暴露されていた。なお、梶野の話によるとその時の治療代はチームの経費から出されたらしい。

タイトル

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デスポルチーヴァ-ES
ナシオナル-AM
サンタクルス
フルミネンセ
スポルティングCP
フォルタレーザ
セレッソ大阪

[2][3]

脚注

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関連項目

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外部リンク

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