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オーテモン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
オーテモン
現役期間 1957年 - 1961年
欧字表記 OHTEMON
品種 サラブレッド
性別
毛色 黒鹿毛
生誕 1955年3月11日
死没 1967年4月
ライジングフレーム
カネユキ
母の父 プリメロ
生国 日本の旗 日本北海道浦河郡浦河町
生産牧場 冨岡牧場
馬主 永田雅一
調教師 尾形藤吉田中和夫
競走成績
生涯成績 54戦9勝
獲得賞金 14,616,650円
勝ち鞍 天皇賞(秋)(1960年)
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オーテモン1955年3月11日 - 1967年4月)は、日本競走馬種牡馬。1960年の天皇賞(秋)で優勝し、同年度の啓衆社賞最優秀5歳以上牡馬に選出された。

馬齢は旧表記とする。

経歴

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1955年3月11日北海道浦河郡浦河町の冨岡牧場にて誕生。トキノミノルのオーナーで知られた永田雅一所有馬となり、尾形藤吉厩舎へ入厩した。

1957年10月27日中山競馬場での三歳新馬戦で岩下密政が手綱を取って初出走(5着)。その後2戦して2着が続いて初勝利を挙げたのは同年11月23日の東京競馬場での三歳特別競走であった。同年の朝日杯三歳ステークスに1勝馬ながら挑戦し、カツラシユウホウの3着と健闘した。

4歳の春は勝ち星に恵まれず、1勝馬ながら1958年の皐月賞東京優駿に出走したが、ともに14着と敗れる。2勝目を挙げたのは鞍上が野平好男に交代したあとの同年7月5日の中山競馬場四歳特別戦。11月6日の京都競馬場での特殊ハンデキャップ競走で3勝目を挙げると、その翌週の菊花賞連闘で出走してコマヒカリの3着と健闘した。

5歳となってからも特殊ハンデキャップや平場オープン競走では勝つが、重賞ではなかなか勝てないという状況が続いた。それでも1959年天皇賞(秋)で2着となるなど地力のあるところを示していた。

6歳になって、尾形籐吉厩舎から田中和夫厩舎(名義上は父の田中和一郎厩舎)に転厩したのち、1960年3月6日の東京記念[1](東京競馬場)に1番人気で優勝し、ようやく重賞初制覇を果たすと6月の日本経済賞も優勝する。不良馬場で行われた11月23日の天皇賞(秋)では8番人気の人気薄であったが、オンワードベル(この年の安田記念[2]優勝馬)、ウイルデイール(1959年皐月賞優勝馬)を退けて優勝し、ビッグタイトルを手にした。暮れの有馬記念では1番人気に支持されるも、9番人気の牝馬スターロツチの前に1馬身4分の3差及ばず2着となった。

7歳になってから金杯アメリカジョッキークラブカップと2戦走ったが勝つことなく現役を引退した。

引退後のオーテモンは種牡馬となったが、マルヤマオーカン(1970年 NTV盃)、セカンドホーリ(1969年の南関東アラブ三冠馬)と地方競馬の重賞勝ち馬を出したのみにとどまっている。

エピソード

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  • 道悪下手で知られ、1960年の天皇賞(秋)は馬主の永田雅一も勝てるとは思わず、同馬の優勝を目の当たりにするや平服で観戦していた永田は急いで背広姿に着替えたという。
  • 第40回の天皇賞(秋)にて、オーテモンはガーネツトと並んでゴールインし写真判定となる。移動中に偶然、ガーネツトの馬主と関係者一同エレベーター内で一緒になった。「俺の馬が勝ったんだぞ!」と勝ったとばかりに永田雅一が誇らしげに話している一方で、ガーネツトの関係者達は負けたと思い暗い雰囲気だった。長い写真判定の結果、ガーネツトが1着、オーテモン2着となり写真判定前と打って変わり、ガーネツトの馬主関係者が喜んでいる一方で永田雅一が愕然とした表情で落ち込んでいた。

主な勝鞍

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いずれも1960年。

脚注

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  1. ^ 1960年代に中央競馬で施行されていた重賞競走であり、現在南関東公営競馬大井競馬場で開催されている同名の競走とは関係ない。
  2. ^ 当時は現代のようなGI競走ではなかったうえに、距離も1,800メートルであった。

参考資料

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外部リンク

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