高田博厚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Jump to navigation Jump to search
撮影:中村光紀

高田 博厚(たかた ひろあつ、1900年8月19日 - 1987年6月17日)は、日本彫刻家思想家文筆家、評論家。

経歴[編集]

少年時代から文学・哲学・芸術に目覚め、18歳で上京し、高村光太郎の勧めで彫刻や翻訳に従事。31歳でフランスにわたり、ロマン・ロラン(作家)やアラン(哲学者)、ジョルジュ・ルオー(画家)をはじめとするヨーロッパの優れた知識階層と交流する。第二次世界大戦中も日本に戻らず新聞記者として活動し、パリ外国人記者協会副会長を務める。難民生活を経て、戦後もフランスにとどまり、彫刻家としての創作活動や記者としての活動を再開、カンヌ国際映画祭日本代表を10年にわたり務めるなどフランスでは日本人を代表する存在となる。57歳の時にフランスで制作し手元にあった作品(彫刻、デッサンなど)はすべて処分して日本に帰国。新制作協会会員、日本美術家連盟委員、日本ペンクラブ理事、東京芸術大学講師その他を務めるが、徐々に引退し制作のみに専念する。

娘の田村和子は詩人田村隆一の元夫人。ねじめ正一の小説『荒地の恋』のモデルとなった。

略年譜[編集]

  • 1900年(明治33年)8月19日、石川県鹿島郡矢田郷村(現七尾市岩屋町)に誕生。父安之助と母敏子の間の三男。
  • 1903年(明治36年)父の弁護士開業で福井市に移り、1907年、同市順化小学校入学。1910年、父没。
  • 1912年(明治45年)小学6年生で、父の蔵書を読み漁る。ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』で精神に火をつけられる。
  • 1913年(大正2年)県立福井中学(現福井県立藤島高等学校)へ入学、入学試験では100人以上の中で10番以内で合格している。国語、漢文、英語などの視察の際には高田に朗読させた。美術・文学・哲学に熱中した。
  • 1915年(大正4年)学校の勉強はしなかったが、英語の能力が高く、シェイクスピアを原文で読みだす。ゲーテ、トルストイ、ドストエフスキーなどは英訳本を読み、中学の英語の先生を驚かせていた。
  • 1918年(大正7年)中学を卒業して東京へ移り、年長の高村光太郎岸田劉生岩田豊雄中川一政尾崎喜八高橋元吉片山敏彦岩波茂雄らをつぎつぎに知る。17歳も年が違うのに高村光太郎は高田を対等に遇した。人を訪ねることをしない高田のその後数十年の東京での生活で、高村一人が訪ねていく人であった。
  • 1919年(大正8年)東京外国語学校イタリア語科に入学、
  • 1921年(大正10年)出席時間不足で落第、退学。尾崎喜八の勧めで『ミケランジェロの書簡』を訳出し、『白樺』誌上にこの年の1月号から翌年の7月号まで掲載。このころ、制作を絵画から彫刻に転じた。高村光太郎から借りた彫刻台で、トルソなどを作り始める。高村が見に来る。それ以降、作るものは高村に見せ、高村も作りかけのものは決して人に見せないのだったが、高田には見せるようになった。この年、沢田庚子生と結婚。
  • 1922年(大正11年)コンディヴィの『ミケランジェロ伝』の翻訳を、岩波書店より初出版。
  • 1925年(大正14年)山羊を飼いその乳の販売で自活する共産村を、仲間と下高井戸に開き、3年後に解散した。
  • 1928年(昭和3年)当時非合法の共産党員をかくまい、警察に留置された。このころ、武者小路実篤草野心平谷川徹三古谷綱武中原中也小林秀雄大岡昇平中野重治梅原龍三郎らを知る。
  • 1931年(昭和6年)妻と4人の子を残して渡仏。片山敏彦に連れられてヴィルヌーヴのロマン・ロラン邸を訪ねる。彫刻作品の写真を見せると、後日ロランから片山宛に「私はこの15年誰にも自分の像を作ることを断ってきたが、彼には作ってほしい」という手紙をもらう。同じ年の11月、マハトマ・ガンジーがロンドンの会議の帰途ロラン邸に一週間滞在することになった際、高田博厚は素描のため、旅費まで用意された上で招かれ、ロマン・ロランとマハトマ・ガンジーの会談に同席した。
  • 1932年(昭和7年)高村光太郎から「君が去ってしまって、彫刻のことを語り合える者は誰もいない」という便りをもらう。以降27年近く、おもにパリに暮らし、シニャックアランヴィルドラックデュアメルジュール・ロマンルオージャン・コクトーらと付き合い、その塑像を制作した。かたわら、多くの記事を日本へ送り、生活の助けにした。妻に離別された。
  • 1937年(昭和12年)在欧日本人向けに、謄写版刷りの日刊『日仏通信』を始めた。フランスのみならず全欧、北アフリカ、トルコあたりまで購読者ができる。
  • 1938年(昭和13年)『パリ日本美術家協会』を設立した。
  • 1940年(昭和15年)毎日新聞のパリ兼ヴィッシー特派員になる。パリ外国記者協会副会長の任に就き、戦争末期に会長に推される。フランスがドイツに占領されていた5年間、高田はヴァティカン法王庁のパリ支所と連絡を取り正確な情報を得ていた。
  • 1944年(昭和19年)パリ解放の直前、駐独大使大島浩の命令で、在仏日本人とともにベルリンへ移される。
  • 1945年(昭和20年)ドイツ降伏後ソヴィエト軍に保護された。単身パリを目指すが、1年半の収容所で暮らす。
  • 1946年(昭和21年)暮にフランスへ戻る。
  • 1948年(昭和23年)カンヌ国際映画祭日本代表となる。この後10年続けた。
  • 1949年(昭和24年)日仏通信再開と共に読売新聞嘱託となった。1950年、故国の母、没。
  • 1957年(昭和32年)ライ・レ・ローズのアトリエを洋画家・野見山暁治に譲り帰国、東京新宿区下落合に住む。以後、新制作協会会員、日本美術家連盟委員、日本ペンクラブ理事、東京芸術大学講師などを勤めた。
  • 1959年(昭和34年)高村光太郎賞選考委員となる。『高村光太郎』像を作る。
  • 1966年(昭和41年)鎌倉市稲村ヶ崎に住居兼アトリエを建て移る。大野常と再婚した。
  • 1967年と1970年、パリを訪れた。
  • 1987年(昭和62年)6月17日、満87歳を目前に没。

没後の顕彰事業[編集]

  • 2017年(平成29年)12月、高田の没後30年を機に、大野慶子(高田の義理の娘)ら高田の遺族が、鎌倉市稲村ヶ崎のアトリエを閉鎖することを決め、野見山暁治入江観室町澄子堀江敏幸らが参加しお別れ会を開催。アトリエに保管されている彫刻作品や絵画、書籍など数千点の遺品全てが埼玉県東松山市に寄贈された[1][2]

作品のおもな展示場[編集]

ウェブ上の作品[編集]

おもな著作[編集]

近年刊行の新版

小品集をまとめた著作

参考文献

  • 福田真一編:高田博厚年譜(『高田博厚著作集 第4巻』の巻末)

外部リンク[編集]

  • 高田博厚没後30年記念イベント『思索の灯』第一部 
  1. 指で思索するということー高田博厚の生涯と思想ー(浅見洋:西田幾多郎記念哲学館館長)
  2. 彫刻のモデルになる室町澄子:元NHKアナウンサー、ラジオ深夜便アンカー)
  3. 新事実ロマン・ロランと高田博厚ー新発見の日記・書簡から-(高橋純:小樽商科大学名誉教授)
  • 高田博厚没後30年記念イベント『思索の灯』第二部 
  1. 朗読コンサート 朗読:妻沼 絢子、ヴァイオリン:渡邉 賢治、チェロ:井村 果奈枝、ピアノ:高橋 在也

脚注[編集]

  1. ^ 彫刻家高田博厚の全遺品寄贈=埼玉県東松山市2017年12月15日 時事通信
  2. ^ 彫刻家・高田博厚のアトリエお別れ会が行われました”. 2017年12月6日閲覧。