西新井事件

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西新井事件(にしあらいじけん)は、1985年昭和60年)に発覚した、北朝鮮の諜報機関スパイ事件である。日本に密入国した朝鮮労働党対外情報調査部の北朝鮮工作員が、土台人の橋梁で日本人に背乗りして、日本人拉致など十数年間もなりすましていた事件。戦後史にのこるスパイ事件で、スパイを取り締まる法律の制定が拉致被害者家族から求められている[1]

事件の概要[編集]

この事件の主犯である工作員の通称「朴」(本名:チェ・スンチョル)は、1970年(昭和45年)に秋田県男鹿半島から日本に密入国した後、大阪在日韓国人Aを土台人として獲得した。その後朴は東京都足立区西新井に居を定め、「松田忠雄」の偽名を名乗って足立区内のゴム工場に勤め始めた[2]。事件名の「西新井」は朴の居所に由来する。朴の勤務態度はまじめであったが、私生活については上司や同僚に一切明かさなかった[2]

1972年(昭和47年)7月、朴は山谷福島出身の日本人O(当時34歳)と知り合った。Oは病気がちであったため、朴はOを病院に入院させるとAとともにOの実家に赴き、船会社の社長であると身分を偽り、Oの戸籍を福島から東京に移させた。その後朴はOに背乗りし、O名義の日本国旅券運転免許証を不正取得して3回海外に渡航し、韓国・日本に跨るスパイ網の構築に努めた。

1974年(昭和49年)5月、朴はAを石川県鳳至郡能都町から密出国させ、北朝鮮に連れて行き、約6ヶ月間スパイ教育を受けさせた。その後、Aを日本に密入国させ、土台人として資金調達や新たな工作員の獲得の任務を担わせた。

1974年(昭和49年)12月、朴は事件の発覚を恐れて実在の日本人Oを北朝鮮に拉致しようとしたが、Oは1976年(昭和51年)7月に病死したため断念した。その後、朴は新たに北海道出身の日本人K(当時41歳)に成りすまし、1980年(昭和55年)頃にKの戸籍を東京に移した後、K名義の旅券や運転免許証を不正取得している。この際、戸籍の移動を不審に思ったKの親族がKに電話をかけているが、同居人を称する朴が電話に出ている[2]。その後、貿易会社を設立した朴は日本人女性を騙して母子家庭に入り込み、家族旅行と称して日本海沿岸部を度々訪れては海岸線を写真ビデオで撮影した[2]。また、K名義のパスポートで東南アジアヨーロッパなども訪れ、1978年(昭和53年)7月31日には蓮池夫妻を北朝鮮に拉致している[2]。その後も朴はしばらくスパイ活動をしていたが、1983年(昭和58年)頃に日本から出国し、現在行方不明となっている。なお、実在のKの行方は1961年(昭和36年)以降はっきりとしていない。

1985年(昭和60年)3月1日警視庁公安部外事第二課が在日韓国人Aを逮捕したことで事件が発覚した。

日本での工作・拉致[編集]

この事件に関与していたと見られる北朝鮮工作員に李京雨がいるが、李は大韓航空機爆破事件の際に、自殺した男性工作員の偽造パスポート作成などに関与していたとみられている[3]蓮池薫夫妻を拉致した実行犯の一人で、日本人拉致に深く関与していた。拉致するために以前から被害者らと頻繁に会っていたことが、帰国者の証言で判明している。このスパイが国外移送目的略取容疑で国際手配されたのは、家宅捜索の21年後であった。そのため、1985年に中曽根康弘総理時代に成立させる筈だったスパイを逮捕できる法律案が、世論の反発で廃案に追い込まれたことが当時の関係者や拉致被害家族から悔やまれている[4]

脚注[編集]

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  1. ^ [1]日本にスパイ罪はない 「西新井事件」で工作員を逃した法の壁
  2. ^ a b c d e 拉致実行犯に迫る - NHK クローズアップ現代+
  3. ^ 朝日新聞1987年12月15日
  4. ^ [2]日本にスパイ罪はない 「西新井事件」で工作員を逃した法の壁

参考文献[編集]

  • 『昭和61年版 警察白書』
  • 『月刊治安フォーラム』2002年3月号

関連項目[編集]

外部リンク[編集]