蓮池薫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

蓮池 薫(はすいけ かおる、1957年9月29日 - )は、日本翻訳家新潟県柏崎市出身。新潟県立柏崎高等学校を経て[1][2]1978年から2002年まで北朝鮮による日本人拉致問題の被害者として、北朝鮮で日本の新聞翻訳業務を強いられる生活を送る[3]。帰国後、復学した中央大学法学部卒業、新潟大学大学院修士課程修了。新潟産業大学経済学部准教授新潮ドキュメント賞受賞。蓮池透の実弟。

人物[編集]

1978年7月31日、中央大学法学部3年在学中に、夏休みで実家に帰省していたところを[4]当時交際していた奥土祐木子とともに、新潟県柏崎市の海岸で北朝鮮工作員、通称チェ・スンチョル[5]並びに共犯者・自称韓明一(ハン・ミョンイル)こと通称ハン・クムニョン[5]及び通称キム・ナムジン[5]拉致され、24年間、北朝鮮での生活で日本で夢だった弁護士ではなく、日本の新聞の翻訳業務を余儀なくされる。祐木子と結婚、一男一女をもうける。反日国家の北朝鮮で差別されずに生きていくには「日本人」であることは不利として、子供たちには「帰還事業で北朝鮮に来た元在日朝鮮人」と思い込ませることにした。また、将来子供が北朝鮮工作員に採用されるリスクを減らそうと、日本語を教えないことも決めた。1980年1月に日本で初めて拉致の存在をスクープした元産経新聞記者阿部雅美は、1979年に蓮池家を訪ねた際に海岸線を棒で突きながら歩いたり、東京など遠方を訪ねたりして探し続けていたことや、いつ戻ってもいいように東京の下宿先の家賃を払い、大学には休学届を出したことを知った。「当時は非公開だったが、苦しい胸の内を聞いてほしかったのかもしれない。親心に触れ、涙が出た」と語っている[3]。1990年代後半に北朝鮮のある場所で、日本の新聞を翻訳させられていた際1997年に結成された「『北朝鮮による拉致』被害者家族連絡会」(家族会)に関するもの記事の写真の中に、年老いた両親の姿を見つけた。薫は「特に父は年齢以上に老けていたように見えた。それも自分のせいかと、ぎゅっと締め付けられる思いがし、酸っぱい胃液が込み上げてきた。いつしか望郷の念で胸がいっぱいになった」と当時の気持ちを語っている[3]。一方の北朝鮮は1997、98年頃から朝鮮労働党機関紙「労働新聞」で拉致関連の記事の論調の骨子は「拉致はねつ造」「日本反動勢力の策動」であり、薫らの所に労働新聞が届かない日も出てきた。理由を配達人に尋ねると「拉致関連記事の掲載日は配るなとの指示があった」とのことだった[3]

北朝鮮の2002年に出した報告書では1993年3月に自殺したとなっている横田めぐみと1994年まで同じ集落で暮らしていた。また、増元るみ子は1979年4月に結婚し81年に死亡したことになっているが、祐木子と1978年秋から1979年10月25日まで一緒に暮らしていたとされ、この間に3度引っ越しをしたという。

2002年6月に山奥に住まわされていた薫と祐木子の夫妻は、平壌の高層アパートへの転居を命じられた。当時北朝鮮は罪を誤魔化すために水面下で「ボートで漂流し、日本海で救助された後、平壌で幸せに暮らしている」との筋書きで、蓮池夫妻を「行方不明者」として公表し、両親を北朝鮮に面会に呼び寄せる計画を進めていた。薫は当時の心境を「正直、両親と再会できる喜びより、子供の将来の不安の方が大きかった」と述懐している。しかし、同年9月17日の日朝首脳会談で北朝鮮は否定し続けていた拉致を認めた[3]2002年10月15日帰国後、2005年から学校法人柏専学院嘱託職員となり新潟産業大学韓国語の教育に従事するかたわら、2004年9月24日中央大学に復学[6]。勉学のかたわら翻訳者としての仕事をこなし、2005年に初訳書『孤将』を刊行。2008年3月、中央大学法学部卒業。卒業にあたり、「やはり悔しい。拉致という悲惨さを感じずにはいられなかった」[7]と心中を語った。

2008年4月から新潟産業大学国際センター特任講師、2009年から新潟産業大学経済学部特任講師、2010年から新潟産業大学経済学部専任講師。同年、新潟大学大学院現代社会文化研究科社会文化論専攻(韓国・朝鮮史博士前期課程入学、のち修士(文学)の学位を得る。2013年4月、准教授に昇格。

拉致される前からポピュラー音楽が好きで、帰国直前のNHKニュースでは音楽を聴く蓮池の写真が公開されている。帰国直後には兄である透に「CDは知らないだろ?」と言われ(その時、「馬鹿にするな!北朝鮮にもCDはある」と反論した事が、蓮池透著の「奪還」に書かれている)、ボブ・マーリーレーナード・スキナードのCDを見せられたり、南こうせつから『国境の風』を収録したMDをもらったりしている。

帰国後は日本各地で講演を行い、自身の拉致や帰国後のできごとを語っている。

北朝鮮で過ごした経験から、北朝鮮にとっては体制を維持することが最優先と認識している。拉致問題においては、北朝鮮が国際的に孤立していく中で、日本は厳しい姿勢を取りつつも、いずれ対話ムードが生まれた時に北朝鮮が呼応しやすいような軍事技術に転用されないインフラ整備支援策を提示しておくべきと主張する。また「日本へ帰国して、本当に良かったと思っている。生活の豊かさ、便利さ、言論の自由が日本にはあるが、北朝鮮で拉致された日本人は、食糧は配給制、服など生活必需品は毎月支給される30ドル(約3000円)で賄い、生きがいもなかった」と胸の内を語っている[8]

著書[編集]

訳書[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 高校野球2003”. スポーツナビ. 2012年10月16日閲覧。
  2. ^ 蓮池薫さんとの40分間彼が語り続けた全内容”. 北朝鮮に拉致された中大生を救う会. 2012年10月16日閲覧。
  3. ^ a b c d e 拉致40年 歳月と希望 蓮池夫妻編|拉致問題|新潟日報モア” (2018年11月15日). 2020年6月10日閲覧。
  4. ^ 蓮池薫さんが中大卒業へ”. 柏崎日報 (2008年3月4日). 2012年10月16日閲覧。
  5. ^ a b c 国際手配被疑者一覧 警察庁
  6. ^ 蓮池薫さんが中央大に復学 以前と同じ学籍番号で”. 47news (2004年9月24日). 2012年10月16日閲覧。[リンク切れ]
  7. ^ 蓮池薫さん、中央大卒業 50歳で「悔しい」”. asahi.com (2008年3月26日). 2012年10月16日閲覧。
  8. ^ [1]「「蓮池薫さん」が語った「北朝鮮の拉致解決にまだ打つ手はある」」2016年3月17日号,デイリー新潮

関連項目[編集]