八尾恵

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八尾 恵(やお めぐみ、1955年 - )は、よど号グループ柴田泰弘の元妻、兵庫県尼崎市出身[1]

人物[編集]

1976年チュチェ思想研究会に入会。1977年2月、北朝鮮に渡航。5月に「よど号」グループの柴田泰弘と結婚し、日本革命村で生活を始める。後年、八尾はこの結婚は北朝鮮による強制だったとしている。

1980年代に入り、革命のための人材獲得のためにヨーロッパで活動を開始し、北朝鮮による日本人の拉致に関与した。神戸市外国語大学の学生で、1982年4月からロンドンで1年間の語学留学をしていた有本恵子(当時23歳)に声をかけ、1983年(昭和58年)8月頃、彼女を誘拐した[1]。当時ヨーロッパで仕事に就こうとしている有本に「市場調査の仕事がある。いろんな外国に行けるよ」などと持ち掛け、北朝鮮の拉致に協力したのである[1]。彼女の証言によれば、1983年1月頃、平壌市内の「よど号グループ」の拠点で、八尾はグループのリーダーだった田宮高麿1989年死亡)から「ロンドンで日本革命の中核となる人を発掘、獲得してほしい。男性ばかりでなく、女性も。25歳くらいまでの若い女性がいい」と指示され、有本恵子を拉致することとした。彼女をデンマークコペンハーゲンでよど号ハイジャック犯の魚本公博に引き合わせ、魚本が北朝鮮へ連れ出したという。また、田宮の妻森順子若林盛亮の妻若林佐喜子がヨーロッパで男性2人を獲得したという話を聞いたといい、「有本さんは、彼らと結婚させるための拉致だったと思う」とも証言した。

1984年夏、よど号グループ最高幹部田宮高麿から革命のために日本で人を集める命令を受けて帰国し、防衛大学生を拉致するよう指令を受けた。そのため、神奈川県横須賀市に防大生と接触する場として「カフェバースクエア・おんなのことおとこのこの夢見波(ゆめみは)」というスナックを経営しながら活動をしていた。夫の柴田もひそかに日本に入国していた。

1988年1月に「横須賀でスナック経営をしている女が大韓航空機爆破事件に関与している」旨の情報が神奈川県警察本部警備部外事課に入る。その後の捜査で、1982年2月にデンマークコペンハーゲンで北朝鮮の外交官と会っていたことや東欧での出入国履歴など、北朝鮮人脈との接触が疑われる証拠が出てきた。夫の柴田が1988年5月逮捕され、彼女も5月25日に偽名を使っていたことが判明したため、アパートの名義に偽名を用いたとして公正証書原本不実記載・同行使罪で神奈川県警外事課に逮捕される。のちに、彼女は「よど号メンバー」の妻だと判明。6月に罰金5万円の略式起訴となった。

共同通信記者の斎藤茂男が、『朝日ジャーナル』で担当していた「メディア時評」に彼女の言い分をうのみにした文章を発表(1988年8月12日)。「この女スパイ騒ぎ、もしかすると一方で北朝鮮バッシングに、他方で『だから国家秘密法は必要だ』の世論誘導に有効、と深読みした人が筋書きを作ったのだろうか」と書いた。八尾本人も1989年に「北朝鮮のスパイとデッチアゲられた。違法捜査を許さない! 没収した旅券も返してほしい。」として国に対して裁判を起こしている[注釈 1]

八尾恵は、2002年3月12日東京地方裁判所において「私がロンドンにいる有本恵子さんを騙して北朝鮮に連れていきました」と証言した[2]。八尾はまた、「よど号」メンバーと訣別し、同年6月に文藝春秋より自著『謝罪します』を出版し、そのなかで「私が有本恵子さんを誘拐しました」と証言した[3]。さらに有本の両親に土下座もしている[4][注釈 2]。八尾の犯罪については、同年3月20日参議院外交防衛委員会で漆間巌警察庁警備局長が「我々としてはまだ時効になっていないものとして捜査を進めております」と答弁している[2]。しかしながら、八尾本人は起訴も逮捕もされておらず、この点について2013年平成25年)の第183回国会では参議院議員より質問書が出された[2]2014年第186回国会でも、この件について、衆議院予算委員会において批判を受けた[5]

その後、自分が話せる範囲で北朝鮮による日本人拉致問題に関して語り始め、上述の著書を出版、テレビ出演も行っていたが、社会の拉致問題への関心低下、他方では実娘、よど号グループ及び支援者からの激しい個人攻撃や誹謗中傷を受け、2010年代以降は目立った活動は行っていない。

著書[編集]

  • 『謝罪します』文藝春秋、2002年6月。ISBN 978-4-16-358790-5

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ この件については、浅野健一率いる「人権と報道・連絡会」などが八尾の救援にかかわったものの、実は「よど号」グループの一味だったことがのちに判明し、支援者の多くは愕然としたという。
  2. ^ このとき、有本恵子の両親は、八尾に対し、きわめて優しく対応した[4]

出典[編集]

参考文献 [編集]

関連項目[編集]