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'''クシロキング'''(欧字名:{{Lang|en|Kushiro King}}、[[1982年]][[5月18日]] - [[1996年]]12月)は[[日本]]の[[競走馬]]、[[種牡馬]]<ref name="jbis">{{Cite web|title=クシロキング|JBISサーチ(JBIS-Search)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000144204/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2021-04-28}}</ref>。


主な勝ち鞍は、1986年の[[天皇賞|天皇賞(春)]]({{GI}})、[[中山記念]]({{GII}})、[[金杯(東)]]({{GIII}})。
== 戦績 ==
=== 3歳~4歳 ===
[[1984年]][[9月]]、[[函館競馬場]]でデビュー。惜敗を繰り返したが、4戦目で初勝利を挙げた。その後、オープン特別のひいらぎ賞で2着になり、3歳時は5戦1勝で終わった。


== 生涯 ==
年が明けて4歳になったクシロキングは自己条件を勝ち上がって、[[クラシック_(競馬)|クラシック]]路線を歩むも[[皐月賞]]は13着に終わり、[[東京優駿|日本ダービー]]は骨折のため出走できなかった。半年の休養を経て、復帰戦で2着と好走したクシロキングは900万条件を連勝して、4歳シーズンを終えた。


=== 誕生までの経緯 ===
ちなみに3~4歳時は[[安田富男]]がクシロキングの主戦騎手を務めている。
テスコカザンは、1977年に[[北海道]][[荻伏村]]の上山牧場で生産された牝馬である<ref>{{Cite web|title=テスコカザン|JBISサーチ(JBIS-Search)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000098224/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2021-07-27}}</ref>。当歳の頃から骨格に優れており、多くの人から売却を提案を受けたが、上山栄蔵牧場長が将来的に牧場で[[繁殖牝馬]]にすることを理由に断った<ref name="優駿-1992-4-61">『優駿』1992年4月号 61頁</ref>。栄蔵は、繁殖牝馬にすると宣言した手前、[[競走馬]]としてデビューさせるわけにはいかず、いち早く牧場で繁殖牝馬にした<ref name="優駿-1992-4-61" />。初年度は、[[パーソロン]]と交配し、牡馬を生産<ref>{{Cite web|title=繁殖牝馬情報:牝系情報|テスコカザン|JBISサーチ(JBIS-Search)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000098224/broodmare/info/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2021-07-27}}</ref>。そして2年目、栄蔵の親友である北海道[[三石町 (北海道)|三石町]]の大塚牧場大塚牧夫の推薦により、交配相手に[[ダイアトム]]を選択した<ref name="優駿-1992-4-62">『優駿』1992年4月号 62頁</ref>。


1982年5月18日、北海道[[浦河町]]<ref group="注釈">[[荻伏村]]が吸収合併された。</ref>の上山牧場にて[[黒鹿毛]]の牡の仔(後のクシロキング)が誕生する<ref name="優駿-1992-4-62" />。
=== 5歳春 ===
5歳になってからの初戦は中山での[[中山金杯|金杯]]で、このレースから鞍上は[[岡部幸雄]]に替わった。このレースでは53キロの軽ハンデを生かして差し切り勝ちを収め、[[重賞]]初制覇となった。


=== 幼駒時代 ===
続く[[目黒記念]]は3着だったが、[[中山記念]]では[[トウショウペガサス]]にクビ差で競り勝ち、春の天皇賞へ向かう事になった。
父ダイアトムの仔は、気性が荒い傾向にあったが、産まれた仔は傾向に反して素直で大人しかった<ref name="優駿-1992-4-62" />。さらに、馬体は体つき、骨量共に充実していた<ref name="優駿-1992-4-62" />。


1982年9月、[[釧路地方]]出身の運送会社経営者である阿部昭が牧場を訪れた。阿部はそれまで20頭近くの競走馬を所有、しかし成績は未勝利戦を勝利する程度であった<ref name="優駿-1992-4-61" />。仔は母親と、牧場で遊んでいたが、阿部を見つけると母親の下を離れて、牧柵の向こうにいる阿部に駆け寄った。すると、阿部の上着の匂いを嗅いだり、袖口を噛むなどして、阿部の下を一向に離れようとしなかった<ref name="優駿-1992-4-60">『優駿』1992年4月号 60頁</ref>。阿部はそんな仔の姿を見ているうちに、欲しいと思うようになり、値段を聞いていない状態で栄蔵に購入を宣言<ref name="優駿-1992-4-60" />。栄蔵は、特別良い馬であるとは考えておらず値段を決めていなかったが、その場で1500万円を提示した。阿部は承諾し、すぐに手付け金の1000万円を支払った<ref name="優駿-1992-4-60" />。
=== 天皇賞 ===
この年の春の天皇賞は前年の2冠馬[[ミホシンザン]]が骨折で離脱したため、主役不在という前評判だった。クシロキングは当初、[[安田記念]]もしくは[[京阪杯]](当時、京阪杯は2000mの中距離戦で5月に行われていた)から[[宝塚記念]]に向かう予定であったが、ミホシンザンが出ないため、急遽、天皇賞出走を決意した。


阿部は「この仔馬こそ自分の夢を叶えてくれるかもしれない<ref name="優駿-1992-4-61" />」と考え、故郷の釧路地方を絡めた「'''クシロキング'''」という競走馬名を仔に与えた<ref name="優駿-1992-4-61" />。[[美浦トレーニングセンター]]の[[中野隆良]]厩舎に入厩。美浦でも体調を崩すことなく順調であった<ref name="優駿-1992-4-62" />。
クシロキングは[[スダホーク]]、[[サクラユタカオー]]に次いで3番人気だったが、単勝は11.倍だった。人気がさほど上がらなかったのは、これまでの実績から距離不安が指摘されていたためである。


=== 競走馬時代 ===
しかしレースでは、クシロキングは1周目のスタンド前ではスタミナを温存しながら後方13番手を追走、2周目の3コーナーの上り坂から動き、4コーナーで3番手まで進出したのち、最後の直線で抜け出して優勝した。


==== 3-4歳(1984-85年) ====
「[[マイル]](1600m)の競馬を2回走る競馬をさせればいい」と後半勝負に徹して、3コーナーから一気にまくってみせた岡部の常識外れともいえる騎乗は、[[京都競馬場]]における「ゆっくり上り、ゆっくり下る」という坂のセオリーの逆をいくものであり、岡部自身「もう一度同じ騎乗をしろといわれても無理」と振り返ったほどの絶妙の騎乗だった。のちに岡部は「騎手冥利に尽きる、自分だけが腹の中で笑えるような、そんなレースだった」と述懐している。


1984年9月1日、[[函館競馬場]]の[[新馬|新馬戦]](芝1200メートル)で[[安田富男]]とともにデビューしたが、4着敗退<ref name="優駿-1992-4-62" />。12月、4戦目の未勝利戦(芝2000メートル)で好位追走から後方に3馬身半差をつけて初勝利となった<ref name="優駿-1992-4-62" />。2週間後のひいらぎ賞(OP)では2着に敗れたが、1985年1月6日の若竹賞を4馬身差で制して2勝目となった<ref name="優駿-1992-4-62" />。
=== 5歳秋~6歳 ===
天皇賞優勝後、クシロキングは距離が2200mになるという事もあり、[[宝塚記念]]では1番人気になったが、全くいいところなく7着と敗れた。秋は天皇賞(秋)、[[ジャパンカップ]]、[[有馬記念]]のGIレース3戦に出走したが、天皇賞(秋)は14着、ジャパンカップは8着、有馬記念は10着と大敗が続いた。


3月24日、重賞初挑戦となる[[スプリングステークス]]({{GII}})は7着。[[皐月賞]]({{GI}})は13着に敗れた<ref name="優駿-1992-4-62" />。続いて、[[NHK杯 (競馬)|NHK杯]]({{GII}})を叩き台に[[東京優駿]](日本ダービー)({{GI}})に参戦する予定であった<ref name="優駿-1992-4-62" />。しかし、5月2日の調教後に右第一[[指骨]][[剥離骨折]]が判明し、全治3か月の診断から、NHK杯、東京優駿ともに回避した<ref name="優駿-1992-4-62" />。療養から明けた10月26日、[[東京競馬場]]の赤富士賞(900万円以下)で復帰し2着。12月1日の900万円以下を逃げ切り2馬身差の3勝目を挙げ、12月15日の冬至特別(900万円以下)で4馬身差をつけて連勝とした<ref name="優駿-1992-4-62" />。
6歳になると、クシロキングは復調し、[[アメリカジョッキークラブカップ]]は3着、連覇を狙った中山記念で2着、[[大阪杯]]でも2着と好走が続いたが、連覇を狙った天皇賞(春)では6位入線で繰り上がりの5着(2位で入線した[[ニシノライデン]]が進路妨害で失格したため)に終わり、連覇はならなかった。


==== 5-6歳(1986-87年) ====
宝塚記念で8着、そして有馬記念で[[メジロデュレン]]の9着に敗れたのを最後に引退。1988年1月24日、[[中山競馬場]]で[[引退#競馬|引退式]]が行われた。
1月5日、[[金杯(東)]]({{GIII}})では、それまで主戦を務めていた安田がアサカサイレントに騎乗するため、[[岡部幸雄]]に乗り替わった<ref name="優駿-1992-4-62" />。1番人気に支持され、5番手から差し切って勝利。中野は「(前略)いきなり重賞を勝てるとは考えなかった<ref name="優駿-1992-4-62" />」と振り返り、直線で差し切られた安田は、クシロキングの強さに驚くほどであった<ref name="優駿-1992-4-62" />。2月16日、[[目黒記念]]({{GII}})では長距離戦となる芝2500メートルに初めて出走したが、レコードで制したビンゴチムールに1馬身4分の1差まで迫った3着となった<ref name="優駿-1992-4-62" />。


3月9日の[[中山記念]]({{GII}})では、1番人気に支持された。直線で、先に抜け出していたトウショウペガサスを外から追い上げた<ref name="優駿-1992-4-63">『優駿』1992年4月号 63頁</ref>。結局差し切り、決勝線ではクビ差先着して重賞2勝目となった<ref name="優駿-1992-4-63" />。続いて中野は、距離適性から長距離の[[天皇賞(春)]]({{GI}})への出走を諦め、[[京阪杯]]({{GIII}})を挟んで[[宝塚記念]]({{GI}})という中距離レースに出走するローテーションを計画。京阪杯に向けて、4月13日に関西へ移動した<ref name="優駿-1992-4-63" />。
クシロキングは同世代であったスダホークとは同一レースでの対決も多かったが、4勝5敗とスダホークに負け越している。


一時、出走を諦めた天皇賞(春)は、前年の二冠馬で有力視されていた[[ミホシンザン]]が骨折により回避していた<ref name="優駿-1992-4-63" />。中野は、代わって有力視されたのが[[スダホーク]]であることからクシロキングに勝機があると判断<ref name="優駿-1992-4-63" />。加えて、体調、状態ともに良好であり、騎乗する岡部には、距離不安を克服するだけの力量があると考えていたため、クシロキングは一転、天皇賞(春)に出走することが決定した<ref name="優駿-1992-4-63" /><ref name="優駿-1992-4-64">『優駿』1992年4月号 64頁</ref>。{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=2vxDxPymkbs 1986年 天皇賞(春)<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}4月29日、天皇賞(春)は、雨により重馬場であった。スダホークが1番人気に推されて[[単枠指定制度]]の対象となる一方、3番人気で出走した<ref name="優駿-1992-4-64" />。スタートから最後方に位置し、すぐ外のスダホークと並んで後方待機。2周目の第3コーナーで追い上げ、先頭から3番手まで進出、その外からスダホークも先頭を窺っていた<ref name="優駿-1992-4-64" />。最終コーナーに差し掛かると、スダホークが失速。クシロキングも前2頭を外から捕らえようとしたが、単独先頭のメジロトーマスがしぶとく、すぐにはかわせなかった<ref name="優駿-1992-4-64" />。そこで岡部がムチを入れると、クシロキングが再加速。ようやくメジロトーマスを差し切り、4分の3馬身差をつけて先頭で入線した<ref name="優駿-1992-4-64" />。
== 引退後 ==

引退後は、馬主の個人所有という形式[[三石町 (北海道)|三石町]]の大塚牧場で[[種牡馬]]入りするが、種付け頭数が集まらなかった上、数少ない産駒も中央競馬で勝ち鞍を挙げた馬が一頭もいいという結果に終わった。
クシロキングにとって初の{{GI}}制覇が天皇賞であり、中野は1978年春を[[グリーングラス]]で制して以来の天皇賞制覇となった<ref name="優駿-1992-4-64" />。上山牧場は、1976年春に生産馬[[ロングホーク]]がクビ差の2着に敗れて以降、待望の天皇賞制覇であった<ref name="優駿-1992-4-64" />。中野は岡部の騎乗を「完璧」と評している一方、岡部はこう述懐している<ref name="優駿-1992-4-64" />。{{Quotation|この馬に合ったレースをしようとそれだけを心掛けていました。前半は力をセーブして、後半1600メートルに賭けました。それが巧くいったが、こうしたレースはいつもできるとは限らない。もう一度乗れと言われても同じ騎乗はできないでしょうね。|[[岡部幸雄]]<ref name="優駿-1992-4-64" />}}なお、2着のメジロトーマスが11番人気と低評価であったことから、[[連勝複式]]は天皇賞史上最高配当となる1万4480円であった<ref name="優駿-1992-4-64" />。
繁殖にあがった馬も確認できるのがモリノローズ一頭で、その血統は絶えた。

その後、距離を短縮した宝塚記念では1番人気に推されるも7着敗退。[[秋古馬三冠|秋古馬三冠競走]]を完走したものの、敗れた。6歳になっても現役を続行し、{{GII}}では好走するも勝利には至らず、連覇を狙った天皇賞(春)は5着敗退。宝塚記念8着敗退後、函館競馬場で休養したが右前脚[[屈腱炎]]を発症した<ref name="優駿-1992-4-64" />。温泉による治療で患部が癒えて、年末の[[有馬記念]]({{GI}})で復帰<ref name="優駿-1992-4-64" />。[[柴田善臣]]に乗り替わり、[[ブービー賞|ブービー]]の15番人気で出走し9着に敗れた。出走後、両前脚の屈腱炎が悪化したため、競走馬引退が決定した<ref name="優駿-1992-4-64" />。

1988年1月24日、[[中山競馬場]]で[[引退#競馬|引退式]]が行われた<ref name="優駿-1992-4-64" />。

=== 種牡馬時代 ===
引退後は、馬主の個人所有という形式を取り、大塚牧場で[[種牡馬]]となった<ref>駿』1992年4月号 65頁</ref>。しかし、種付け頭数が集まら、数少ない産駒も中央競馬で勝を挙げることはできった。


[[1995年]]には種牡馬からも引退した。同年5月に乗馬として[[山梨県]]の風林ファームに移ったが、[[1996年]]12月に放牧中の事故で脚を骨折し、[[予後不良 (競馬)|安楽死]]の処置がとられた。風林ファームは同馬の死後、程なく閉鎖している。
[[1995年]]には種牡馬からも引退した。同年5月に乗馬として[[山梨県]]の風林ファームに移ったが、[[1996年]]12月に放牧中の事故で脚を骨折し、[[予後不良 (競馬)|安楽死]]の処置がとられた。風林ファームは同馬の死後、程なく閉鎖している。
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==

* 『[[優駿]]』([[日本中央競馬会]])
** 1992年4月号
*** 横尾一彦「【サラブレッド・ヒーロー列伝 71】名中距離の天皇賞馬 クシロキング」

== 外部リンク ==
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2021年7月27日 (火) 09:27時点における版

クシロキング
品種 サラブレッド[1]
性別 [1]
毛色 黒鹿毛[1]
生誕 1982年5月18日[1]
死没 1996年12月
ダイアトム[1]
テスコカザン[1]
母の父 テスコボーイ[1]
生国 日本の旗 日本北海道浦河町[1]
生産者 上山牧場[1]
馬主 阿部昭[1]
調教師 中野隆良[1]美浦
競走成績
生涯成績 25戦7勝[1]
獲得賞金 2億4740万6400円[1]
勝ち鞍
GI 天皇賞(春) 1986年
GII 中山記念 1986年
GIII 金杯(東) 1986年
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クシロキング(欧字名:Kushiro King1982年5月18日 - 1996年12月)は日本競走馬種牡馬[1]

主な勝ち鞍は、1986年の天皇賞(春)GI)、中山記念GII)、金杯(東)GIII)。

生涯

誕生までの経緯

テスコカザンは、1977年に北海道荻伏村の上山牧場で生産された牝馬である[2]。当歳の頃から骨格に優れており、多くの人から売却を提案を受けたが、上山栄蔵牧場長が将来的に牧場で繁殖牝馬にすることを理由に断った[3]。栄蔵は、繁殖牝馬にすると宣言した手前、競走馬としてデビューさせるわけにはいかず、いち早く牧場で繁殖牝馬にした[3]。初年度は、パーソロンと交配し、牡馬を生産[4]。そして2年目、栄蔵の親友である北海道三石町の大塚牧場大塚牧夫の推薦により、交配相手にダイアトムを選択した[5]

1982年5月18日、北海道浦河町[注釈 1]の上山牧場にて黒鹿毛の牡の仔(後のクシロキング)が誕生する[5]

幼駒時代

父ダイアトムの仔は、気性が荒い傾向にあったが、産まれた仔は傾向に反して素直で大人しかった[5]。さらに、馬体は体つき、骨量共に充実していた[5]

1982年9月、釧路地方出身の運送会社経営者である阿部昭が牧場を訪れた。阿部はそれまで20頭近くの競走馬を所有、しかし成績は未勝利戦を勝利する程度であった[3]。仔は母親と、牧場で遊んでいたが、阿部を見つけると母親の下を離れて、牧柵の向こうにいる阿部に駆け寄った。すると、阿部の上着の匂いを嗅いだり、袖口を噛むなどして、阿部の下を一向に離れようとしなかった[6]。阿部はそんな仔の姿を見ているうちに、欲しいと思うようになり、値段を聞いていない状態で栄蔵に購入を宣言[6]。栄蔵は、特別良い馬であるとは考えておらず値段を決めていなかったが、その場で1500万円を提示した。阿部は承諾し、すぐに手付け金の1000万円を支払った[6]

阿部は「この仔馬こそ自分の夢を叶えてくれるかもしれない[3]」と考え、故郷の釧路地方を絡めた「クシロキング」という競走馬名を仔に与えた[3]美浦トレーニングセンター中野隆良厩舎に入厩。美浦でも体調を崩すことなく順調であった[5]

競走馬時代

3-4歳(1984-85年)

1984年9月1日、函館競馬場新馬戦(芝1200メートル)で安田富男とともにデビューしたが、4着敗退[5]。12月、4戦目の未勝利戦(芝2000メートル)で好位追走から後方に3馬身半差をつけて初勝利となった[5]。2週間後のひいらぎ賞(OP)では2着に敗れたが、1985年1月6日の若竹賞を4馬身差で制して2勝目となった[5]

3月24日、重賞初挑戦となるスプリングステークスGII)は7着。皐月賞GI)は13着に敗れた[5]。続いて、NHK杯GII)を叩き台に東京優駿(日本ダービー)(GI)に参戦する予定であった[5]。しかし、5月2日の調教後に右第一指骨剥離骨折が判明し、全治3か月の診断から、NHK杯、東京優駿ともに回避した[5]。療養から明けた10月26日、東京競馬場の赤富士賞(900万円以下)で復帰し2着。12月1日の900万円以下を逃げ切り2馬身差の3勝目を挙げ、12月15日の冬至特別(900万円以下)で4馬身差をつけて連勝とした[5]

5-6歳(1986-87年)

1月5日、金杯(東)GIII)では、それまで主戦を務めていた安田がアサカサイレントに騎乗するため、岡部幸雄に乗り替わった[5]。1番人気に支持され、5番手から差し切って勝利。中野は「(前略)いきなり重賞を勝てるとは考えなかった[5]」と振り返り、直線で差し切られた安田は、クシロキングの強さに驚くほどであった[5]。2月16日、目黒記念GII)では長距離戦となる芝2500メートルに初めて出走したが、レコードで制したビンゴチムールに1馬身4分の1差まで迫った3着となった[5]

3月9日の中山記念GII)では、1番人気に支持された。直線で、先に抜け出していたトウショウペガサスを外から追い上げた[7]。結局差し切り、決勝線ではクビ差先着して重賞2勝目となった[7]。続いて中野は、距離適性から長距離の天皇賞(春)GI)への出走を諦め、京阪杯GIII)を挟んで宝塚記念GI)という中距離レースに出走するローテーションを計画。京阪杯に向けて、4月13日に関西へ移動した[7]

一時、出走を諦めた天皇賞(春)は、前年の二冠馬で有力視されていたミホシンザンが骨折により回避していた[7]。中野は、代わって有力視されたのがスダホークであることからクシロキングに勝機があると判断[7]。加えて、体調、状態ともに良好であり、騎乗する岡部には、距離不安を克服するだけの力量があると考えていたため、クシロキングは一転、天皇賞(春)に出走することが決定した[7][8]

映像外部リンク
1986年 天皇賞(春)
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画

4月29日、天皇賞(春)は、雨により重馬場であった。スダホークが1番人気に推されて単枠指定制度の対象となる一方、3番人気で出走した[8]。スタートから最後方に位置し、すぐ外のスダホークと並んで後方待機。2周目の第3コーナーで追い上げ、先頭から3番手まで進出、その外からスダホークも先頭を窺っていた[8]。最終コーナーに差し掛かると、スダホークが失速。クシロキングも前2頭を外から捕らえようとしたが、単独先頭のメジロトーマスがしぶとく、すぐにはかわせなかった[8]。そこで岡部がムチを入れると、クシロキングが再加速。ようやくメジロトーマスを差し切り、4分の3馬身差をつけて先頭で入線した[8]。 クシロキングにとって初のGI制覇が天皇賞であり、中野は1978年春をグリーングラスで制して以来の天皇賞制覇となった[8]。上山牧場は、1976年春に生産馬ロングホークがクビ差の2着に敗れて以降、待望の天皇賞制覇であった[8]。中野は岡部の騎乗を「完璧」と評している一方、岡部はこう述懐している[8]

この馬に合ったレースをしようとそれだけを心掛けていました。前半は力をセーブして、後半1600メートルに賭けました。それが巧くいったが、こうしたレースはいつもできるとは限らない。もう一度乗れと言われても同じ騎乗はできないでしょうね。 — 岡部幸雄[8]

なお、2着のメジロトーマスが11番人気と低評価であったことから、連勝複式は天皇賞史上最高配当となる1万4480円であった[8]

その後、距離を短縮した宝塚記念では1番人気に推されるも7着敗退。秋古馬三冠競走を完走したものの、敗れた。6歳になっても現役を続行し、GIIでは好走するも勝利には至らず、連覇を狙った天皇賞(春)は5着敗退。宝塚記念8着敗退後、函館競馬場で休養したが右前脚屈腱炎を発症した[8]。温泉による治療で患部が癒えて、年末の有馬記念GI)で復帰[8]柴田善臣に乗り替わり、ブービーの15番人気で出走し9着に敗れた。出走後、両前脚の屈腱炎が悪化したため、競走馬引退が決定した[8]

1988年1月24日、中山競馬場引退式が行われた[8]

種牡馬時代

引退後は、馬主の個人所有という形式を取り、大塚牧場で種牡馬となった[9]。しかし、種付け頭数が集まらず、数少ない産駒も中央競馬で勝利を挙げることはできなかった。

1995年には種牡馬からも引退した。同年5月に乗馬として山梨県の風林ファームに移ったが、1996年12月に放牧中の事故で脚を骨折し、安楽死の処置がとられた。風林ファームは同馬の死後、程なく閉鎖している。

競走成績

以下の内容は、netkeiba.com[10]及びJBISサーチ[11]の情報に基づく。

競走日 競馬場 競走名 距離(馬場)


オッズ
(人気)
着順 タイム 着差 騎手 斤量
[kg]
1着馬(2着馬)
1984.09.01 函館 3歳新馬 芝1200m(良) 13 6 8 004.20(2人) 04着 1:11.9 0安田富男 53 バンブーアステア
0000.09.22 函館 3歳新馬 芝1200m(良) 11 7 9 003.40(1人) 02着 1:11.9 0安田富男 53 イブキマスター
0000.11.18 東京 3歳未勝利 芝1600m(稍) 11 7 8 002.30(1人) 03着 1:39.2 0安田富男 54 ヘイアンスイート
0000.12.08 中山 3歳未勝利 芝2000m(良) 22 8 20 005.60(2人) 01着 2:03.8 0安田富男 54 (モンテジャパン)
0000.12.22 中山 ひいらぎ賞 OP 芝2000m(稍) 8 7 7 004.30(2人) 02着 2:04.7 0安田富男 53 ブラックスキー
1985.01.06 中山 若竹賞 4下 芝2000m(良) 16 1 2 002.70(1人) 01着 2:03.3 0安田富男 55 (ドウカンテスコ)
0000.03.24 中山 スプリングS GII 芝1800m(稍) 11 2 2 025.40(6人) 07着 1:50.8 0安田富男 56 ミホシンザン
0000.04.14 中山 皐月賞 GI 芝2000m(稍) 22 8 21 041.9(10人) 13着 2:03.6 0安田富男 57 ミホシンザン
0000.10.26 東京 赤富士賞 9下 芝2000m(良) 12 4 4 013.10(6人) 02着 2:00.4 0安田富男 55 アクティブダイナ
0000.12.01 中山 4歳上900万下 芝2000m(良) 10 1 1 001.70(1人) 01着 2:01.2 0安田富男 55 (レインボーハード)
0000.12.15 中山 冬至特別 9下 芝2000m(良) 17 2 3 001.90(1人) 01着 2:01.2 0安田富男 56 (フェニックスダイナ)
1986.01.05 中山 金杯(東) GIII 芝2000m(良) 13 6 9 002.50(1人) 01着 2:01.6 -0.3 0岡部幸雄 53 (アサカサイレント)
0000.02.16 東京 目黒記念 GII 芝2500m(良) 14 5 7 004.00(2人) 03着 2:32.3 -0.2 0岡部幸雄 56 ビンゴチムール
0000.03.09 中山 中山記念 GII 芝1800m(良) 8 8 8 002.80(1人) 01着 1:48.0 -0.0 0岡部幸雄 56 (トウショウペガサス)
0000.04.29 京都 天皇賞(春) GI 芝3200m(重) 16 2 3 011.00(3人) 01着 3:25.4 -0.1 0岡部幸雄 58 (メジロトーマス)
0000.06.01 阪神 宝塚記念 GI 芝2200m(良) 17 6 11 002.20(1人) 07着 2:15.0 -0.6 0岡部幸雄 56 パーシャンボーイ
0000.10.26 東京 天皇賞(秋) GI 芝2000m(良) 16 4 7 012.00(4人) 14着 2:00.2 -1.9 0岡部幸雄 58 サクラユタカオー
0000.11.23 東京 ジャパンカップ GI 芝2400m(良) 14 3 4 026.9(12人) 08着 2:25.9 -0.9 0岡部幸雄 57 ジュピターアイランド
0000.12.21 中山 有馬記念 GI 芝2500m(稍) 12 8 12 007.90(5人) 10着 2:34.6 -0.6 0岡部幸雄 57 ダイナガリバー
1987.01.25 中山 AJCC GII 芝2200m(良) 6 1 1 004.90(3人) 03着 2:15.6 -0.2 0岡部幸雄 58 ミホシンザン
0000.03.15 中山 中山記念 GII 芝1800m(稍) 8 8 8 002.60(1人) 02着 1:49.8 -0.2 0岡部幸雄 58 スズパレード
0000.04.05 阪神 サンケイ大阪杯 GII 芝2000m(良) 11 3 3 001.40(1人) 02着 2:01.2 -0.2 0河内洋 59 ニシノライデン
0000.04.29 京都 天皇賞(春) GI 芝3200m(良) 10 8 10 013.40(5人) 05着 3:20.9 -0.5 0河内洋 58 ミホシンザン
0000.06.14 阪神 宝塚記念 GI 芝2200m(良) 13 6 9 011.40(6人) 08着 2:13.8 -1.5 0河内洋 57 スズパレード
0000.12.27 中山 有馬記念 GI 芝2500m(良) 16 3 6 052.4(15人) 09着 2:34.7 -0.8 0柴田善臣 56 メジロデュレン

血統表

クシロキング血統プリンスビオ系(プリンスローズ系) / Fairway4×5=9.38% (血統表の出典)

*ダイアトム
Diatome
1962 黒鹿毛
父の父
Sicambre
1948 黒鹿毛
Prince Bio Prince Rose
Biologie
Sif Rialto
Suavita
父の母
Dictaway
1952 黒鹿毛
Honeyway Fairway
Honey Buzzard
Nymphe Dicte *ダイオライト
Nanaia

テスコカザン
1977 鹿毛
*テスコボーイ
Tesco Boy
1963 黒鹿毛
Princely Gift Nasrullah
Blue Gem
Suncourt Hyperion
Inquisition
母の母
ハナカンザシ
1969 栗毛
*ソロナウェー
Solonaway
Solferino
Anyway
*エスタブリツシユメント
Establishment
Worden
*ストーミーセツシヨン F-No.1-w


母の弟にマサヒコボーイ(京都記念(春)、日経新春杯)、曾祖母エスタブリツシユメントの産駒にロングホーク(阪神大賞典、日経新春杯、大阪杯朝日チャレンジカップスプリングステークス、天皇賞〈春〉2着)がいる。さらに4代母ストーミーセツシヨンの孫にはインターグロリア桜花賞エリザベス女王杯阪神牝馬特別マイラーズカップ京都牝馬特別2回、有馬記念2着)がいる。

脚注

注釈

  1. ^ 荻伏村が吸収合併された。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n クシロキング|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年4月28日閲覧。
  2. ^ テスコカザン|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年7月27日閲覧。
  3. ^ a b c d e 『優駿』1992年4月号 61頁
  4. ^ 繁殖牝馬情報:牝系情報|テスコカザン|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年7月27日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『優駿』1992年4月号 62頁
  6. ^ a b c 『優駿』1992年4月号 60頁
  7. ^ a b c d e f 『優駿』1992年4月号 63頁
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『優駿』1992年4月号 64頁
  9. ^ 駿』1992年4月号 65頁
  10. ^ クシロキングの競走成績”. netkeiba.com. 2021年4月28日閲覧。
  11. ^ 競走成績:全競走成績|クシロキング”. JBISサーチ. 2021年4月28日閲覧。

参考文献

  • 優駿』(日本中央競馬会
    • 1992年4月号
      • 横尾一彦「【サラブレッド・ヒーロー列伝 71】名中距離の天皇賞馬 クシロキング」

外部リンク