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「秋月型駆逐艦」の版間の差分

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{{Infobox 艦級
{| class="wikitable" style="clear:right; float:right; margin: 0em 0em 1em 1em; width: 300px; background:#ffffff"
|名称 = 秋月型駆逐艦
|-
|画像 = Akizuki.jpg
! colspan="2" style="color: white; height: 30px; background: navy;"| 秋月型(乙型)駆逐艦
|画像説明 = 公試運転中の秋月(1942年5月17日)<ref name="写真日本の軍艦第11巻p144上">[[#写真日本の軍艦第11巻]]p.144上写真と解説。</ref>
|-
|種別 = 一等[[駆逐艦]]<ref name="S16内令535">[[#S16.5-8内令2巻/昭和16年5月(2]]画像9-10『
| colspan="2" align=center|[[Image:Akizuki.jpg|300px|秋月]]
内令第五百三十五號
<br /><small><center>公試運転中の秋月。</small></center>
艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス
|-
昭和十六年五月十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎
! colspan="2" style="color: white; height: 30px; background: navy;"| 艦級概観
軍艦、敷設艦ノ項中「蒼鷹」ノ下二「、若鷹」ヲ加フ
|-
驅逐艦、一等夕雲型ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ
|艦種||一等[[駆逐艦]]
| 秋月型 | 秋月 |
|-
潜水艦一等伊六十八型ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ
|艦名||月型
| 伊七十六型 | 伊號第七十六 |
|-
驅潜艇、第十三號型ノ項中「第十九號」ノ下ニ「、第二十號、第二十一號」ヲ加フ
|前級||[[夕雲型駆逐艦|夕雲型]]
』</ref>
|-
|命名基準 =
|次級||[[島風型駆逐艦|島風型]]
|運用者 = {{navy|Empire of Japan}}
|-
|建造所 =
! colspan="2" style="color: white; height: 30px; background: navy;"| 性能諸元
|建造期間 =
|-
|就役期間 =
|建造数||12隻
|同型艦 = 12隻
|-
|計画数 =
|[[排水量]]||基準:2,700[[トン]]<br />公試:3,470トン<br />満載:3,878トン
|建造数 = 13隻
|-
|前級 = - <!--[[夕雲型駆逐艦|夕雲型]]-->
|全長||134.2m
|次級 = - <!--[[島風型駆逐艦|島風型]]-->
|-
|要目注記 = 計画
|全幅||11.6m
|基準排水量 = 2,700[[英トン]]<ref>[[#海軍造船技術概要(1987)]]上巻p.428</ref>、または2,701英トン<ref name="Ippan-p4">[[#一般計画要領書(駆逐艦)]]p.4</ref>
|-
|公試排水量 = 3,470トン<ref name="Ippan-p4"/> または3,485トン<ref name="Ippan-p49">[[#一般計画要領書(駆逐艦)]]p.49</ref>
|吃水||4.15m(公試状態)
|満載排水量 = 3,888トン<ref name="Ippan-p4"/><!--3,878トンは秋月の値 --> または3,899.2トン<ref name="Ippan-p49"/>
|-
|全長 = 134.20[[メートル|m]]<ref name="Ippan-p4"/>
|主缶||[[艦本式ボイラー|ロ号艦本式缶]]3基
|水線長 = 132.00m<ref name="Ippan-p4"/>
|-
|垂線間長 = 126.00m<ref name="Ippan-p4"/>
|主機||[[艦本式タービン]]2基2軸 52,000hp
|全幅 = 11.60m<ref name="Ippan-p4"/>
|-
|水線幅 = 11.60m<ref name="Ippan-p4"/>
|最大速力||33.0[[ノット]]
|吃水 = 公試平均 4.15m<ref name="Ippan-p4"/><br />満載平均 4.51m<ref name="Ippan-p4"/>
|-
|深さ = 7.05m<ref name="Ippan-p4"/>
|航続距離||18ノットで8,000[[カイリ]]
|推進 = 2軸 x 340[[rpm (単位)|rpm]]<ref name="Ippan-p24">[[#一般計画要領書(駆逐艦)]]p.24</ref><br />直径3.650m、ピッチ3.720m<ref>[[#海軍造船技術概要(1987)]]下巻p.1695</ref>
|-
|主機 = [[艦本式タービン]](高中低圧<ref name="昭和造船史1pp788-789">[[#昭和造船史1]]pp.788-789、附表第2 艦艇要目表 6.駆逐艦及び水雷艇要目表</ref>)2基<ref name="Ippan-p24"/>
|燃料||重油:1,080トン
|出力 = 52,000[[馬力|shp]]<ref name="Ippan-p4"/>
|-
|ボイラー = [[艦本式ボイラー|ロ号艦本式缶]](空気余熱器付<ref name="昭和造船史1pp788-789"/>) 3基<ref name="Ippan-p24"/>
|乗員||315名<ref>秋月竣工時の乗員は263名</ref>
|速力 = 33.0[[ノット]]<ref name="Ippan-p4"/>
|-
|燃料 = [[重油]] 1,080トン<ref name="Ippan-p4"/>
|兵装(新造時)||[[六五口径九八式一〇糎高角砲|65口径10cm連装高角砲]] 4基8門<br />[[九六式二十五粍高角機銃|25mm機銃]] 連装2基<br />61cm4連装[[魚雷発射管]] 1基4門<br />([[九三式魚雷]]8本)<br />九四式爆雷投射器2基<br />爆雷投下台6基<br />九五式爆雷×54
|航続距離 = 8,000[[カイリ]] / 18ノット<ref name="Ippan-p4"/>
|-
|乗員 = 計画乗員 263名<ref>[[#一般計画要領書(駆逐艦)]]p.28</ref><br />秋月竣工時定員 273名<ref>[[#S16.5-8内令2巻/昭和16年7月(1)]]画像19、一等駆逐艦定員表其の7(昭和16年内令第764号別表)。士官8人、特務士官2人、准士官3人、下士官75人、兵185人。</ref><br />{{要出典|date=2017-02|乗員 315名}}
|兵装([[1944年]])<ref>秋月1944年10月25日戦没時点。歴史群像秋月型p.103。</ref>|||65口径10cm連装高角砲 4基8門<br />25mm機銃 3連装5基、単装13基(推定)、単装取付座7基<br>13mm機銃 単装4基<br>61cm4連装[[魚雷発射管]] 1基4門<br />(九三式魚雷8本)<br />九四式爆雷投射器2基<br />爆雷投下軌条2基<br />九五式爆雷×54
|搭載量 =
|}
|兵装 = [[六五口径九八式一〇糎高角砲|65口径10cm連装高角砲]] 4基8門<ref name="Ippan-p8">[[#一般計画要領書(駆逐艦)]]p.8</ref><br />[[九六式二十五粍高角機銃|25mm機銃]] 連装2基<ref name="Ippan-p8"/><br />61cm九二式4連装4型[[魚雷発射管|発射管]] 1基4門<ref name="Ippan-p12">[[#一般計画要領書(駆逐艦)]]p.12</ref><br />[[九三式魚雷]]8本<ref name="Ippan-p13"/><br />九四式爆雷投射器2基、爆雷装填台2基<ref name="Ippan-p12"/><br />爆雷投下台(水圧三型)2基、同(手動一型)4基<ref name="Ippan-p12"/><br />九五式爆雷 54個<ref name="Ippan-p12"/><br />'''秋月[[1944年]]10月'''<ref>秋月1944年10月25日戦没時点。歴史群像秋月型p.103。</ref><br />65口径10cm連装高角砲 4基8門<br />25mm機銃 3連装5基、単装13基(推定)、単装取付座7基<br>13mm機銃 単装4基<br>61cm4連装[[魚雷発射管]] 1基4門<br />(九三式魚雷8本)<br />九四式爆雷投射器2基<br />爆雷投下軌条2基<br />九五式爆雷54個
'''秋月型駆逐艦'''(あきづきかたくちくかん)は、[[太平洋戦争]]中に[[大日本帝国海軍|日本海軍]]が対空戦闘用に建造した[[駆逐艦]]の艦級。計画時の名称から「乙型駆逐艦」、各艦名から「月型」とも呼ばれる<ref name="S2204二水戦(3)17">[[#S2004二水戦日誌(3)]]p.17『四月六日〇九五六GF参謀長(宛略)海上特攻〔大和矢矧d×8('''月型'''二隻、磯風型三隻、若葉型三隻)〕Y-2日夕刻豊後水道出撃列島線西側ヲ経テY日極内密ニ沖縄島ニ突入ス味方識別ニ留意アリ度Y日ハ8日ヲ予定|無電』</ref><ref name="阿川高松宮167">{{Cite book|和書|author=阿川弘之|coauthors=|year=1999|month=4|title=高松宮と海軍|publisher=中公文庫|pages=167|isbn=4-12-203391-8|ref=高松宮と海軍}}</ref>。第四次海軍軍備充実計画([[マル4計画]]<ref>本来は「○の中に漢数字の四」だが、丸付き数字は機種依存文字であるためこう表記する。以下同じ。</ref>)で6隻、出師準備第一着作業建艦計画([[マル急計画]])で10隻、第五次海軍軍備充実計画([[マル5計画]])で16隻(後に[[改マル5計画]]へ改訂の際23隻に増加)の合計39隻の建造が計画され、それらのうち12隻が竣工した。
|搭載艇 = 9m内火艇2隻、9mカッター2隻、6m通船1隻(港保管)<ref>[[#一般計画要領書(駆逐艦)]]p.36</ref>
|レーダー =
|ソナー = 九三式水中聴音機1組(後日装備)<ref name="Ippan-p20">[[#一般計画要領書(駆逐艦)]]p.20</ref><br />九三式三型探信儀(1943年3月)<ref name="Ippan-p20"/>
|特殊装備 = 小掃海具1型改1 2組<ref name="Ippan-p12"/>
|その他 =
|備考 =
}}
'''秋月型駆逐艦'''(あきづきかたくちくかん)は、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の一等[[駆逐艦]]<ref name="S16内令535"/>。
計画時の名称から'''乙型駆逐艦'''、各艦名から'''月型'''とも呼ばれる<ref name="S2204二水戦(3)17">[[#S2004二水戦日誌(3)]]p.17『四月六日〇九五六GF参謀長(宛略)海上特攻〔大和矢矧d×8('''月型'''二隻、磯風型三隻、若葉型三隻)〕Y-2日夕刻豊後水道出撃列島線西側ヲ経テY日極内密ニ沖縄島ニ突入ス味方識別ニ留意アリ度Y日ハ8日ヲ予定|無電』</ref><ref name="阿川高松宮167">{{Cite book|和書|author=阿川弘之|coauthors=|year=1999|month=4|title=高松宮と海軍|publisher=中公文庫|pages=167|isbn=4-12-203391-8|ref=高松宮と海軍}}</ref>。


なお、仮称艦名第361号艦以降を「冬月ふゆつき<ref name="海軍公報 昭和18年10月">海軍公報『10月(1)』第1画像 昭和18年10月1日付 海軍大臣達第235号。</ref>型」、仮称艦名第365号艦以降を「満月みちつき<ref name="S20達22号"/>型」として区別するものもあるが、日本海軍の正式な類別は冬月および満月も『秋月型駆逐艦』である<ref name="S18内令第2026号">[[#内令昭和18年10月(1)]]p.1『内令第二千二十六號 艦艇類別等級表中左ノ通改正ス|昭和十八年十月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|驅逐艦、一等秋月型ノ項中「霜月」ノ下ニ「、冬月」ヲ加フ|潜水艦、一等伊十型ノ項中「伊號第十二」ノ下ニ「、伊號第十三」ヲ加フ|同二等呂三十五型ノ項中「呂號第四十九」ノ下ニ「、呂號第五十」ヲ加フ|海防艦、御蔵型ノ項中「千振」ノ下ニ「、草垣」ヲ加フ|掃海艇、第十九號型ノ項中「第三十三號」ノ下ニ「、第三十八號、第四十一號」ヲ加フ|驅潜艇、第十四號型ノ項中「第五十四號、」ノ下ニ「第五十五號、」ヲ加フ』</ref><ref name="S20内令96号">[[#秘公報昭和20年2月(1)]]p.45『内令第九六號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和二十年二月五日 海軍大臣|驅逐艦、一等秋月型ノ項中「夏月」ノ下ニ「、満月」ヲ、同松型ノ項中「楡」ノ下ニ「、栃」ヲ、「初櫻」ノ下ニ「、若櫻」ヲ、「雄竹」ノ下ニ「、矢竹」ヲ加フ(以下略)』</ref>。本稿では便宜上の分類も一括記載する。
なお、仮称艦名第361号艦以降を「冬月(ふゆつき)<ref name="海軍公報 昭和18年10月">『10月(1)』第1画像 (昭和18年10月1日付 海軍大臣達第235号)。</ref>型」、仮称艦名第365号艦以降を「満月(みちつき)<ref name="S20達22号"/>型」として区別するものもあるが、日本海軍の正式な類別(艦艇類別等級)では冬月および満月も『秋月型駆逐艦』である<ref name="S18内令第2026号">[[#内令昭和18年10月(1)]]p.1『内令第二千二十六號 艦艇類別等級表中左ノ通改正ス|昭和十八年十月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|驅逐艦、一等秋月型ノ項中「霜月」ノ下ニ「、冬月」ヲ加フ|潜水艦、一等伊十型ノ項中「伊號第十二」ノ下ニ「、伊號第十三」ヲ加フ|同二等呂三十五型ノ項中「呂號第四十九」ノ下ニ「、呂號第五十」ヲ加フ|海防艦、御蔵型ノ項中「千振」ノ下ニ「、草垣」ヲ加フ|掃海艇、第十九號型ノ項中「第三十三號」ノ下ニ「、第三十八號、第四十一號」ヲ加フ|驅潜艇、第十四號型ノ項中「第五十四號、」ノ下ニ「第五十五號、」ヲ加フ』</ref><ref name="S20内令96号">[[#秘公報昭和20年2月(1)]]p.45『内令第九六號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和二十年二月五日 海軍大臣|驅逐艦、一等秋月型ノ項中「夏月」ノ下ニ「、満月」ヲ、同松型ノ項中「楡」ノ下ニ「、栃」ヲ、「初櫻」ノ下ニ「、若櫻」ヲ、「雄竹」ノ下ニ「、矢竹」ヲ加フ(以下略)』</ref>。本稿では便宜上の分類も一括記載する。


== 建造背景 ==
マル5計画艦(仮称艦名第770号艦から同第785号艦)および改マル5計画艦のうち最後の7隻(仮称艦名第5077号艦から同第5083号艦)については[[改秋月型駆逐艦]]を参照のこと。
[[第一次世界大戦]]以降、航空機の脅威の認識に差はありつつも航空機対策として各国では[[軍艦]]に対空機銃や高角砲を装備するようになった<ref name="写真日本の軍艦第11巻p154">[[#写真日本の軍艦第11巻]]p.154</ref>。その中で[[イギリス海軍]]が[[1935年]](昭和10年)から旧式化していた[[C級軽巡洋艦]]の中から2隻を改装、備砲・発射管を全て撤去して10cm高角砲単装10基を搭載する[[防空艦]]として就役させた<ref name="写真日本の軍艦第11巻p154"/>。更に1936年(昭和11年)から[[ダイドー級軽巡洋艦]]の計画を初め、その後実際に建造を実行に移した<ref name="写真日本の軍艦第11巻p154"/>。
これに影響を受けた[[アメリカ海軍]]もまた防空専門艦の建造計画を推進し、結果[[アトランタ級軽巡洋艦]]を建造した<ref name="日本駆逐艦物語p196">[[#日本駆逐艦物語]]p.196</ref>。


日本海軍でも旧式化していた[[天龍 (軽巡洋艦)|天龍型軽巡洋艦]]<ref name="御説明21">[[#昭和14年度海軍御説明]]p.21『四.防空艦ニ改装豫定ノ天龍、龍田ヲ第一戰隊ニ編入致シマシタ』</ref>や[[5500トン型軽巡洋艦|5,500t級軽巡洋艦]]を改装し防空巡洋艦とする案も出され、[[昭和天皇]]にも奏上した<ref name="御説明21"/>。
== 概要 ==
{{要出典|date=2017-02|実際、候補になった艦の船体のサイズはC級軽巡と類似しており、また、[[川内型軽巡洋艦]]と[[長良型軽巡洋艦]]を除く軽巡は老朽化のため退役が予定されていたため理論上可能であった。だが、当時の日本海軍は水雷戦隊の編成を優先しており、退役予定の艦も必要ならその任務に動員する予定だったためこの改装案は見送られた。他にも、多額の予算をつぎ込んで候補の船を改装しても能力不足となってすぐに第一線での任務をこなせなくなっては意味がないと考えられた。また、イギリス海軍の様に第一線での任務をこなせなくなった艦を[[護送船団|船団護衛]]等の輸送船護衛任務に投入することを考慮していなかったため、それを実行しても費用対効果が低いと判断された。他にも新たに防空巡洋艦を建造するという計画が立てられたが、建造コストの高さから防空巡洋艦の建造計画は中止された。}}
開戦前、航空機の脅威の認識に差はありつつも航空機対策として各国では[[軍艦]]に対空機銃や高角砲を装備するようになった。その中では[[イギリス海軍]]が[[1935年]](昭和10年)から旧式化していた[[C級軽巡洋艦]]の中から状態が比較的良好な艦を防空巡洋艦に改装し、当時としては破格の防空能力を備えた艦を誕生させた。これに影響を受けた各国海軍は[[防空艦|防空専門艦]]の建造や、既存の旧式艦の改装を計画し始め、C級巡洋艦の改装で経験を得たイギリス海軍はその後[[ダイドー級軽巡洋艦]]の建造を実行に移し、[[アメリカ海軍]]もまた防空専門艦の建造計画を推進し、結果[[アトランタ級軽巡洋艦]]を建造した。


日本海軍で防空艦の計画が実現したのは昭和14年度([[1939年]])の海軍軍備充実計画(通称[[マル4計画]]<ref group="注釈">本来は「○の中に漢数字の四」だが、丸付き数字は機種依存文字であるためこう表記する。以下同じ。</ref>)での乙型駆逐艦(本型)6隻からになり<ref name="写真日本の軍艦第11巻p154"/>、[[1940年]](昭和15年)に1番艦が起工した<ref name="11巻p156建造行程一覧">[[#写真日本の軍艦第11巻]]p.156「秋月型建造行程一覧」</ref>。
日本海軍でも旧式化していた[[天龍 (軽巡洋艦)|天龍型軽巡洋艦]]<ref name="御説明21">[[#昭和14年度海軍御説明]]p.21『四.防空艦ニ改装豫定ノ天龍、龍田ヲ第一戰隊ニ編入致シマシタ』</ref>や[[5500トン型軽巡洋艦|5,500t級軽巡洋艦]]を改装し防空巡洋艦とする案も出され、[[昭和天皇]]にも奏上した<ref name="御説明21"/>。実際、候補になった艦の船体のサイズはC級軽巡と類似しており、また、[[川内型軽巡洋艦]]と[[長良型軽巡洋艦]]を除く軽巡は老朽化のため退役が予定されていたため理論上可能であった。だが、当時の日本海軍は水雷戦隊の編成を優先しており、退役予定の艦も必要ならその任務に動員する予定だったためこの改装案は見送られた。
日本海軍では乙型駆逐艦(本型)を量産し、[[大和型戦艦]]・[[改大和型戦艦]]・航空戦隊の護衛に配備する予定だった<ref>[[#昭和22.25年度戦時編制案(昭和16年2月)]]p.25『別表第六 昭和二十五年度帝國海軍戰時編制案 聯合艦隊ノ部』</ref>。
他にも、多額の予算をつぎ込んで候補の船を改装しても能力不足となってすぐに第一線での任務をこなせなくなっては意味がないと考えられた。また、イギリス海軍の様に第一線での任務をこなせなくなった艦を[[護送船団|船団護衛]]等の輸送船護衛任務に投入することを考慮していなかったため、それを実行しても費用対効果が低いと判断された。他にも新たに防空巡洋艦を建造するという計画が立てられたが、建造コストの高さから防空巡洋艦の建造計画は中止された。


== 計画 ==
ただし防空艦の必要性は認識していたようであり、建造コストが安くできる駆逐艦で防空艦を実現することが計画された。そういった経緯を経て、[[1939年]](昭和14年)秋月型の建造が開始されたのである。設計主務者は[[松本喜太郎]]である。最終的に日本海軍は乙型駆逐艦(本型)を量産し、[[大和型戦艦]]・[[改大和型戦艦]]・航空戦隊の護衛に配備する予定だった<ref>[[#昭和22.25年度戦時編制案(昭和16年2月)]]p.25『別表第六 昭和二十五年度帝國海軍戰時編制案 聯合艦隊ノ部』</ref>。
本型の計画は[[1938年]](昭和13年)頃の軍令部要求から始まる<ref name="写真日本の軍艦第11巻p154"/>。当初の要求は、
* 基準排水量 2,200トン
* 速力35ノット以上
* 航続距離18ノットで10,000カイリ
* 長10cm高角砲8門、25mm機銃4挺、爆雷投射機近用2基(爆雷30個)、同遠用2基(同40個)
その他に煙幕展張装置、飛行機救難デリックを装備などだった<ref name="写真日本の軍艦第11巻p154"/>。これは当時トンボ釣りと言われた空母直衛駆逐艦の代用として計画されたもので、魚雷の搭載は考慮されておらず艦種も「直衛艦」となっていた<ref name="写真日本の軍艦第11巻p154"/>。しかし航続距離の要求を満たした場合、重油搭載量は1,200トン、排水量は4,000トンを突破することになり、[[1939年]](昭和14年)4月にまとまった計画では速力33ノット、航続距離は18ノットで8,000カイリと縮小されることになる<ref name="写真日本の軍艦第11巻p154"/>。この時点では4連装魚雷発射管1基、魚雷8本の装備が含まれており、艦種は「駆逐艦」に変更されて建造されることとなった<ref>[[#写真日本の軍艦第11巻]]pp.154-155</ref>。


上記のように[[マル4計画]]で6隻され<ref name="写真日本の軍艦第11巻p154"/>、更に昭和16年度(1941年)の戦時建造計画(そのうちの[[マル急計画]]内)で10隻の建造が計画された<ref name="海軍造船技術概要(1987)下pp1535-1536"/>。昭和17年度の軍備充実計画([[マル5計画]])で16隻が計画されたが、昭和17年度の戦時艦船建造補充計画([[改マル5計画]])へ改訂の際23隻に増加し、合計39隻の建造が計画された<ref name="海軍造船技術概要(1987)下pp1535-1536">[[#海軍造船技術概要(1987)]]下巻p.1535、日華事変より太平洋戦争までの建艦計画。同書下巻p.1536、太平洋戦争中の建艦計画。</ref>。
== 特徴 ==
このうちマル5計画の16隻、改マル5計画の最後の7隻は速力を増したいわゆる[[改秋月型駆逐艦]]だった<ref name="海軍造船技術概要(1987)下pp1535-1536"/>。
当初の要求では、
* 最大速度35ノット
* 航続距離18ノットで1万カイリ
* 魚雷発射管を装備しない
とあり、艦種も「直衛艦」となっていたが、速度と航続距離の要求を満たした場合、重油搭載量は1,200トン、排水量は4,000トンを突破することになる。最終的に、最大速度は33ノット、航続距離は8,000カイリと縮小されることになるが、軍令部が対艦戦闘もできるように魚雷装備をもとめたため、4連装魚雷発射管の装備が決定し、艦種は「駆逐艦」に変更されて建造されることとなった。


== 艦型 ==
=== 長10センチ高角砲 ===
設計主務者は[[松本喜太郎]]<ref name="日本駆逐艦物語p222">[[#日本駆逐艦物語]]p.222</ref>。基本計画番号'''F51'''<ref name="Ippan-p4"/>。

=== 船体 ===
いわゆる船首楼型船体で前部に主砲2基を搭載するために船首楼の長さが全長のおよそ1/3になっている<ref name="軍艦メカ4日本の駆逐艦pp42-43">梅野和夫「秋月型 艦首&前甲板」[[#軍艦メカ4日本の駆逐艦]]pp.42-43</ref>。また重心対策として前部主砲の位置がなるべく低くなるように上甲板も船首楼下では前下がりの傾斜が付けられ、低船首楼型に近い船型になっている<ref name="高角砲と防空艦pp130,132">[[#高角砲と防空艦]]pp.130,132</ref><ref name="軍艦メカ4日本の駆逐艦pp56-57">阿部安雄「秋月型 主砲&機銃」[[#軍艦メカ4日本の駆逐艦]]pp.56-57</ref>。日本海軍の駆逐艦は艦首形状にいわゆるダブル・カーブド・バウを採用していたが、本型の艦首は直線に近い形状になった<ref name="軍艦メカ4日本の駆逐艦pp42-43"/>。フレームスペースは場所によって5mm単位になっており、精密な設計が伺える<ref name="高角砲と防空艦p128">[[#高角砲と防空艦]]p.128</ref>。

なお舷外電路は秋月の竣工時から装備されていた<ref name="軍艦メカ4日本の駆逐艦pp42-43"/>。

=== 艦橋 ===
日本海軍として初めての防空艦であり、艦橋は[[1940年]](昭和15年)春、舞鶴海軍工廠に実物大模型を作り検討が重ねられた<ref name="軍艦メカ4日本の駆逐艦pp8-10">梅野和夫「艦橋構造&前檣 秋月型」[[#軍艦メカ4日本の駆逐艦]]pp.8-10</ref>。艦橋構造は陽炎型と同じ3層構造ながら、前部主砲に視界を遮られないように高さが2m増している<ref name="軍艦メカ4日本の駆逐艦pp8-10"/>。従来の日本海軍駆逐艦は操舵室が羅針艦橋の下に設けられていたが、本型では同様の理由で羅針艦橋に舵輪が設けられた<ref name="軍艦メカ4日本の駆逐艦pp8-10"/>。羅針艦橋上部には露天の防空指揮所が設けられ、全周にブルワークがあり、前方には遮風装置が設置されている<ref name="軍艦メカ4日本の駆逐艦pp8-10"/>。艦長は対空戦闘の指揮をここで執る<ref name="軍艦メカ4日本の駆逐艦pp8-10"/>。トップには九四式高射装置が装備され、艦橋構造とは独立して3本の円柱で支えられ<ref name="写真日本の軍艦第11巻p158">[[#写真日本の軍艦第11巻]]p.158</ref>、艦橋後方には支柱2本が外部に露出している<ref name="歴史群像23秋月型pp146-148">水谷清高「秋月型の基礎知識」[[#歴史群像23秋月型]]pp.146-148、「艦橋」</ref>。

電探装備(後述)の際に信号所下のセルター甲板を後方に拡大し、電探室を設けた<ref name="歴史群像23秋月型pp146-148"/>(「高角砲と防空艦」p.138の艦橋内の側面略図によると暗号室を後方に拡張し、電探室と兼用としている<ref name="高角砲と防空艦p138">[[#高角砲と防空艦]]p.138「図79 艦橋の拡張」</ref>)。この時信号所甲板の床も拡張された<ref name="歴史群像23秋月型pp146-148"/>。羅針艦橋後方側面にあるブルワークは二式哨信儀が装備されて高さが低められた<ref name="歴史群像23秋月型pp146-148"/>。初月では哨信儀の位置のみ、以降の艦ではブルワーク全体の高さが低められている<ref name="歴史群像23秋月型pp146-148"/>。

また冬月以降は艦橋基部を後方に拡大して内部容積を増やし、電探室を艦橋内に設け、信号所下の張り出しは無くなった<ref name="歴史群像23秋月型pp146-148"/>。春月は旗艦設備を艦橋内に設けたため、拡大した艦橋から更に甲板室や野菜室が信号所下に張り出した<ref name="歴史群像23秋月型pp146-148"/>。

=== 主砲 ===
{{main|六五口径九八式一〇糎高角砲}}
{{main|六五口径九八式一〇糎高角砲}}
従来海軍が採用していた[[四〇口径八九式十二糎七高角砲|八九式40口径12.7センチ高角砲]]に替わり、九八式65口径10センチ高角砲を装備している。この砲は口径サイズこそ以前のものより小さいが口径長は長く、より長射程、高初速の砲となった。通説では、砲身そのものの寿命砲身命数は短く、12.7センチ砲が約1,000発なのに対し、10センチ砲は350発と三分の一程度となっており、寿命の短さの対策として砲身を艦の設備でも交換できる用にしたと言われているが、それを実現すると構造が複雑化するため、実際はその設計が行われなかったとも言われる。仮にできたとしても予備砲身を積んだ記録が確認できないため、少なくともそういった運用は考慮されていなかったと思われる。
従来海軍が採用していた[[四〇口径八九式十二糎七高角砲|八九式40口径12.7センチ高角砲]]に替わり、九八式65口径10センチ高角砲を装備している<ref name="写真日本の軍艦第11巻p156">[[#写真日本の軍艦第11巻]]p.156</ref>。この砲は口径サイズこそ以前のものより小さいが口径長は長く、より長射程、高初速の砲となった。通説では、砲身そのものの寿命(砲身命数)は短く、12.7センチ砲が約1,000発なのに対し、10センチ砲は350発と三分の一程度となっており<ref name="写真日本の軍艦第11巻p156"/>、寿命の短さの対策として砲身を艦の設備でも交換できる用にしたと言われているが、それを実現すると構造が複雑化するため、実際はその設計が行われなかったとも言われる。仮にできたとしても予備砲身を積んだ記録が確認できないため、少なくともそういった運用は考慮されていなかったと思われる。


砲の性能は高く、最大射程19,500メートル最大射高14,700メートル発射速度毎分19発<ref>歴史群像秋月型p.109〜110では、乗組員の証言として「揚弾器の性能が毎分15発であり、即応弾を打ち尽くせば毎分15発を超えて撃てない」「訓練では4秒1発を目標としたが実戦ではそれを下回った」とある。</ref>というものであり、八九式12.7センチ砲に比べ、いずれも1.4倍以上の能力向上を誇った。だが、揚弾薬装置も長時間の使用で故障を生ずる可能性があり、その場合は人力で運ばねばならなかった<ref>[[#霜月戦闘詳報(捷号)]]p.29『(二)一般ニ九八式十糎高角砲ハ軽妙ナルモ揚弾薬装置其他ノ故障多ク多弾発射ノ場合ハ強靭ナラザル点アリ一抹ノ不安ヲ感ズ』</ref>。
砲の性能は高く、カタログスペックで最大射程19,500メートル最大射高14,700メートル発射速度毎分19発<ref group="注釈">歴史群像秋月型p.109〜110では、乗組員の証言として「揚弾器の性能が毎分15発であり、即応弾を打ち尽くせば毎分15発を超えて撃てない」「訓練では4秒1発を目標としたが実戦ではそれを下回った」とある。</ref>というものであり<ref name="写真日本の軍艦第11巻p156"/>、八九式12.7センチ砲に比べ、いずれも1.4倍以上の能力向上を誇った。だが、揚弾薬装置も長時間の使用で故障を生ずる可能性があり、その場合は人力で運ばねばならなかった<ref>[[#霜月戦闘詳報(捷号)]]p.29『(二)一般ニ九八式十糎高角砲ハ軽妙ナルモ揚弾薬装置其他ノ故障多ク多弾発射ノ場合ハ強靭ナラザル点アリ一抹ノ不安ヲ感ズ』</ref>。
砲側照準による目標の捕捉も可能であるが、実戦では難しいのが実情だった<ref>[[#霜月戦闘詳報(捷号)]]pp.24-25『(三)主砲ニ於テ高射器射法中ハ方向盤ニ依リ目標捕捉極メテ容易ナリシモ高射器故障ノ為砲側照準ニ移リシ後ノ目標捕捉状況ハ極メテ不良ニシテ今後演練ノ余地大ナリ』</ref>。また連続発射後のガスで、砲手が気絶した事もあった<ref>[[#S1906第61dg戦闘詳報(1)]]p.22『(ロ)砲室後煙排除装置ノ強化ヲ要ス 後煙ノタメ初月一番砲手一名卒倒其ノ他被害大ナリ』</ref>。
砲側照準による目標の捕捉も可能であるが、実戦では難しいのが実情だった<ref>[[#霜月戦闘詳報(捷号)]]pp.24-25『(三)主砲ニ於テ高射器射法中ハ方向盤ニ依リ目標捕捉極メテ容易ナリシモ高射器故障ノ為砲側照準ニ移リシ後ノ目標捕捉状況ハ極メテ不良ニシテ今後演練ノ余地大ナリ』</ref>。また連続発射後のガスで、砲手が気絶した事もあった<ref>[[#S1906第61dg戦闘詳報(1)]]p.22『(ロ)砲室後煙排除装置ノ強化ヲ要ス 後煙ノタメ初月一番砲手一名卒倒其ノ他被害大ナリ』</ref>。<!--
性能面では申し分のないものであったが、生産能力の関係から、秋月型と同時期に計画された空母[[大鳳 (空母)|大鳳]]や軽巡[[大淀 (軽巡洋艦)|大淀]]に装備するのが精一杯であり、装備できた艦は少数に留まった。ただし、大鳳と大淀では秋月型のような密閉砲塔型ではなく波除けや煤煙除けを目的とする簡易的な防盾を設けたものとなっている。
性能面では申し分のないものであったが、生産能力の関係から、秋月型と同時期に計画された空母[[大鳳 (空母)|大鳳]]や軽巡[[大淀 (軽巡洋艦)|大淀]]に装備するのが精一杯であり、装備できた艦は少数に留まった。ただし、大鳳と大淀では秋月型のような密閉砲塔型ではなく波除けや煤煙除けを目的とする簡易的な防盾を設けたものとなっている。(秋月型と直接関係ない記述のためコメントアウト)-->


本型では砲塔形式のA型連装砲を搭載<ref name="写真日本の軍艦第11巻p156"/>、船首楼甲板に背負い式に2基、後部甲板に背負い式に2基の計4基8門が搭載された<ref name="高角砲と防空艦p123">[[#高角砲と防空艦]]p.123</ref>。最大仰角90度、俯角10度<ref name="写真日本の軍艦第11巻p156"/>、俯仰旋回は20kw電動機で行われた<ref name="軍艦メカ4日本の駆逐艦pp42-43"/>。
なお、制式採用された中では最新の九四式高射装置が備え付けられていたが、米軍の射撃指揮装置・MK(マーク)37射撃指揮装置(GFCS)が[[レーダー]]測距を可能としていたのに比し、射撃用レーダーを持たず、対空目標との距離測定及びその照準追尾は[[光学]]による人力であり、高角砲のコントロールも人手に拠ったため射撃の精度は乗組員の錬度に頼る点が大きかった。当初の計画では九四式高射装置は前部と後部の2箇所に計2機装備するとなっていたが、実際には艦橋上の前部にのみ装備されて1機で全砲塔の射撃を指揮することとなり、後部に装備した艦は無かった<ref name="歴史群像86">[[#歴史群像]]p.86〜91</ref><ref>「当初高射装置2基装備」「前後の主砲を分火可能」「後部撤去は生産が間に合わず修理も多かったため」等の通説は、「軍艦メカVol.4」p.10、「軍艦メカニズム図鑑」p.35等でも書かれている。</ref>。後部高射装置部分には外筒のみ装着されていたが中身はなく、測距儀の出っ張りも無かった。この部分は後の機銃増備時に機銃台に転用された。マリアナ沖海戦における第61駆逐隊(初月、若月、秋月)の[[戦闘詳報]]では、後部高射装置の増設を強く訴えている<ref>[[#S1906第61dg戦闘詳報(1)]]p.22『(イ)後部高射器ノ装備ヲ要ス 分火実施上其ノ他絶對必要ナリ』</ref>。

制式採用された中では最新の九四式高射装置が備え付けられていたが、米軍の射撃指揮装置・MK(マーク)37射撃指揮装置(GFCS)が[[レーダー]]測距を可能としていたのに比し、射撃用レーダーを持たず、対空目標との距離測定及びその照準追尾は[[光学]]による人力であり、高角砲のコントロールも人手に拠ったため射撃の精度は乗組員の錬度に頼る点が大きかった。当初の計画では九四式高射装置は前部と後部の2箇所に計2機装備するとなっていたが、実際には艦橋上の前部にのみ装備されて1機で全砲塔の射撃を指揮することとなり、後部に装備した艦は無かった<ref name="歴史群像86">[[#歴史群像23秋月型]]p.86〜91</ref><ref>「当初高射装置2基装備」「前後の主砲を分火可能」「後部撤去は生産が間に合わず修理も多かったため」等の通説は、「軍艦メカVol.4」p.10、「軍艦メカニズム図鑑」p.35等でも書かれている。</ref>。後部高射装置部分には外筒のみ装着されていたが中身はなく、測距儀の出っ張りも無かった。この部分は後の機銃増備時に機銃台に転用された。マリアナ沖海戦における第61駆逐隊(初月、若月、秋月)の[[戦闘詳報]]では、後部高射装置の増設を強く訴えている<ref>[[#S1906第61dg戦闘詳報(1)]]p.22『(イ)後部高射器ノ装備ヲ要ス 分火実施上其ノ他絶對必要ナリ』</ref>。

=== 機銃 ===
煙突の直後、魚雷発射管の直前に左右に渡る機銃台が設置され、25mm連装機銃2基が装備された<ref name="軍艦メカ4日本の駆逐艦pp42-43"/>。射撃指揮装置はなく直接照準であり、操作も人力によった<ref name="軍艦メカ4日本の駆逐艦pp42-43"/>。

[[1943年]](昭和18年)の初めに煙突の缶用吸気口の乗せる形で左右に機銃台を設け、3連装機銃を各1基ずつ増備した<ref name="軍艦メカ4日本の駆逐艦pp42-43"/>。同年には連装機銃は3連装機銃に交換した<ref name="軍艦メカ4日本の駆逐艦pp42-43"/>。この時に機銃台も3連装用に拡張されたものと思われる<ref name="歴史群像23秋月型pp155-156兵器">水谷清高「秋月型の基礎知識」[[#歴史群像23秋月型]]pp.155-156、「兵器」</ref>。同年末に後部高射装置設置予定の支筒の上に機銃台を設け、3連装機銃1基を増載した<ref name="軍艦メカ4日本の駆逐艦pp42-43"/>。

冬月以降の艦は竣工時から魚雷発射管直後に両舷に渡る機銃台を設け、3連装機銃を2基設置した<ref name="歴史群像23秋月型p152後部甲板室">水谷清高「秋月型の基礎知識」[[#歴史群像23秋月型]]p.152、「後部甲板室」</ref>。秋月などに装備された煙突両舷の機銃台は無く、中部機銃台と合わせて3連装4基の計画になる<ref name="歴史群像23秋月型pp155-156兵器"/><ref name="Ippan-p9"/>。冬月の竣工時([[1944年]](昭和19年)5月)には秋月などと同様に後部高射装置支筒上の機銃台に3連装1基も搭載し、計3連装5基を搭載した<ref name="歴史群像23秋月型pp155-156兵器"/>。1944年6月の[[あ号作戦]]までに秋月型各艦は3連装機銃5基を装備したことになる<ref name="あ号作戦後調査">[[#日本駆逐艦物語]]pp.276-277,280-281「あ号作戦後の兵装増備の状況調査」</ref>。各艦によって違いがあるが、あ号作戦以降は単装機銃を各所に増備した<ref name="あ号作戦後調査"/>。

[[1945年]](昭和20年)2月には「春月」を除く各艦は艦橋の左右に機銃台を設けて3連装機銃各1基を設置、計3連装7基となった<ref name="軍艦メカ4日本の駆逐艦pp42-43"/>。「春月」は旗艦設備を艦橋内に設けたためにこの増備は実施しなかった<ref name="軍艦メカ4日本の駆逐艦pp42-43"/>。

=== 魚雷 ===
上述の通り、当初は魚雷を搭載しない計画だったが、途中で搭載することに計画が改められた<ref name="軍艦メカ4日本の駆逐艦pp80-81">瀬名堯彦「魚雷兵装 秋月型」[[#軍艦メカ4日本の駆逐艦]]pp.80-81</ref>。兵装は陽炎型(艦隊型駆逐艦)の半分で、魚雷発射管は陽炎型と同じ次発装填装置付きの九二式4連装発射管4型1基、酸素魚雷8本(陽炎型は発射管2基、魚雷16本)を搭載した<ref name="軍艦メカ4日本の駆逐艦pp80-81"/>。

冬月以降は当初予備魚雷を搭載せずに魚雷は発射管内の4本のみの計画だった<ref name="軍艦メカ4日本の駆逐艦pp80-81"/>。しかし1944年2月に予備魚雷の搭載が復活し、竣工時には秋月と同様の予備魚雷格納筺が設置され、魚雷8本の搭載が可能になっている<ref name="軍艦メカ4日本の駆逐艦pp80-81"/>。

=== 爆雷 ===
九四式爆雷投射機2基、爆雷投下台6基を装備し、九五式爆雷54個を搭載した<ref name="軍艦メカ4日本の駆逐艦pp130-131">阿部安雄「艦尾&後甲板 秋月型」[[#軍艦メカ4日本の駆逐艦]]pp.130-131</ref>。朝潮型から夕雲型の艦隊型駆逐艦では爆雷投射機1基、爆雷18個または36個(大掃海具を装備しない場合)で、本型では空母の直衛を任務にしたことからより強力な対潜兵装となっている<ref name="軍艦メカ4日本の駆逐艦pp130-131"/>。

1944年3月竣工の霜月以降は投下台から爆雷投下軌道2条に変更された<ref name="軍艦メカ4日本の駆逐艦pp130-131"/>。以前の艦も同時期に投下軌道に変更されたものと思われる<ref name="軍艦メカ4日本の駆逐艦pp130-131"/>。
軌道の長さは爆雷6個分で右舷のものはそれより長く、運搬を兼ねて前方に延長されたと思われる<ref name="歴史群像23秋月型pp155-156兵器"/>(「あ号作戦後の兵装増備状況調査」掲載の略図によると、「若月」「霜月」は左舷側が延長されている<ref name="あ号作戦後調査"/>)。


=== 電探 ===
=== 電探 ===
電探の装備は計画になく<ref name="Ippan-p20">[[#一般計画要領書(駆逐艦)]]p.20</ref>、秋月の竣工時にも電探は装備されていない<ref name="写真日本の軍艦第11巻p144上"/>。照月は電探装備の機会が無く沈没している<ref name="高角砲と防空艦p102">[[#高角砲と防空艦]]p.102</ref>。
秋月型では、秋月・照月・涼月の竣工時には電探は装備されていなかった。


では1943826付訓令により、1943年11月はじめまでに前マスト上に[[二式二号電波探信儀一型|21号電探]]1基追加装備し<ref>歴史群像秋月型p.98〜99p.102</ref>これに伴い前部マストが設計変更されている<!-- 交換ではない。マスト基部は同一 --><ref name="歴史群像13"/>。初月から冬月は竣工時から21号電探を装備しており<ref>歴史群像秋月型p.9〜11ただし月はマスト形状は電探対応タイプだが電探そのものは写真には写っておらず、竣工と訓令の日時も前後ている。</ref>、涼月も同時期に増備したと考えられる。21号電探は大型の対空電探であり、戦艦・航空母艦といった大型艦から装備が始まり、後巡洋艦にも装備されるようになったが、駆逐艦で装備したのは秋月型のみである<ref>軍艦メカ4 p.10</ref>。
(19421229竣工)から冬月は竣工時から21号電探を装備しており<ref>歴史群像秋月型pp.9-11。ただし初月はマスト形状は電探対応タイプだが電探そのものは写真には写っておらず、竣工と訓令の日時も前後している。</ref>これに伴い前部マストの形状が変更されている<!-- 交換ではない。マスト基部は同一 --><ref name="歴史群像13"/>。初月と同日竣工の涼月も同様の可能性がある<ref name="歴史群像23秋月型pp152-155"/>秋月では1943年8月26日付訓令により1943年11月はじめまでに前部マスト上に[[二式二号信儀一型|21号電探]]を1基追加装備た<ref>歴史群像秋月型pp.98-99,102</ref>。21号電探は大型の対空電探であり、戦艦・航空母艦や巡洋艦などの大型艦に装備されたが、駆逐艦で装備したのは秋月型のみである<ref>軍艦メカ4 p.10</ref>。


秋月では1944年7月上旬、後マスト上に[[三式一号電波探信儀三型|13号電探]]を1基追加装備した<ref>歴史群像秋月型p.101、p.103</ref>。「あ号作戦後の兵装増備の状況調査」にて、他の秋月型各艦でも同様に増備されていたことが確認できる<ref>日本駆逐艦物語p.276〜277</ref>。13号電探は小型・軽量な対空電探だったため、他の駆逐艦にも装備された。
秋月では1944年7月上旬、後マスト上に[[三式一号電波探信儀三型|13号電探]]を1基追加装備した<ref>歴史群像秋月型p.101、p.103</ref>。「あ号作戦後の兵装増備の状況調査」にて、他の秋月型各艦でも同様に増備されていたことが確認できる<ref name="あ号作戦後調査"/>。13号電探は小型・軽量な対空電探だったため、他の駆逐艦にも装備された。


1944年10月の[[レイテ沖海戦]]の前後に前マストから21号電探を撤去し、跡に13号電探1基と[[仮称二号電波探信儀二型|22号電探]]1基を増備した艦があった。13号電探は前後あわせて2基となる。涼月・冬月では時期が不明だが写真でこの増備されたことが確認でき、霜月は[[戦闘詳報]]で両方とも装備している事がわかる。春月以降の艦は新造時よりこの形態をとった<ref>[[#歴史群像]]p.12〜13、p.18〜19、p.22〜25。軍艦メカ4 p.10</ref>。秋月はこの増備を行う前に戦没した<ref>[[#歴史群像]]p.103</ref>。22号電探は小型・軽量な対水上電探で他の駆逐艦にも装備された。
1944年10月の[[レイテ沖海戦]]の前後に前マストから21号電探を撤去し、跡に13号電探1基と[[仮称二号電波探信儀二型|22号電探]]1基を増備した艦があった。13号電探は前後あわせて2基となる。涼月・冬月では時期が不明だが写真でこの増備されたことが確認でき、霜月は[[戦闘詳報]]で両方とも装備している事がわかる。春月以降の艦は新造時よりこの形態をとった<ref>[[#歴史群像23秋月型]]p.12〜13、p.18〜19、p.22〜25。軍艦メカ4 p.10</ref>。秋月はこの増備を行う前に戦没した<ref>[[#歴史群像23秋月型]]p.103</ref>。22号電探は小型・軽量な対水上電探で他の駆逐艦にも装備された。


他の日本海軍の艦艇全般に共通することだが、電探を装備していても主砲・機銃を電探に連動させる照準装置が開発されていなかったことは秋月型でも同じだったため、射撃における電探の効力は限定されたものとなった<ref>[[#S1906第61dg戦闘詳報(1)]]p.19『(ホ)敵ハ偽瞞紙ヲ相當使用セルヲ認ム 敵ノ偽瞞防止上モ前項ニ関聯追尾ヲ容易ナラシムル爲指揮装置、自動追尾装置ノ實現ヲ要ス』</ref>。それでも機数・編隊・方向・距離がわかるため、対空戦闘には不可欠の装備となっていた<ref>[[#霜月戦闘詳報(捷号)]]pp.24-25『(ロ)敵機探知状況 電波探信儀ハ22號13號共敵機ノ来襲ヲ予想セラルル期間常時配員シ対空哨戒ニ全幅利用セシトコロ敵機ノ感度ハ22號ニ於テハ約120粁附近ヨリ13號ニ於テハ約100粁附近ヨリ現ハレ敵機ノ反射波ガ我ガ飛行機ニ比シ極メテ顕著ナル特徴ヲ呈スルニ依リ敵味方ノ識別容易ニシテ且其ノ機数編隊数モ概ネ判別セラレ対空戦準備ヲ整フルコトヲ得従ッテ戦闘力ノ発揮ニ遺憾ナキヲ得タリ 電波探信儀ハ対空戦上不可欠ノモノニシテ更ニ敵機来襲前ニ高角測空可能ナラシムルノ要切ナルモノアリ』</ref>。
他の日本海軍の艦艇全般に共通することだが、電探を装備していても主砲・機銃を電探に連動させる照準装置が開発されていなかったことは秋月型でも同じだったため、射撃における電探の効力は限定されたものとなった<ref>[[#S1906第61dg戦闘詳報(1)]]p.19『(ホ)敵ハ偽瞞紙ヲ相當使用セルヲ認ム 敵ノ偽瞞防止上モ前項ニ関聯追尾ヲ容易ナラシムル爲指揮装置、自動追尾装置ノ實現ヲ要ス』</ref>。それでも機数・編隊・方向・距離がわかるため、対空戦闘には不可欠の装備となっていた<ref>[[#霜月戦闘詳報(捷号)]]pp.24-25『(ロ)敵機探知状況 電波探信儀ハ22號13號共敵機ノ来襲ヲ予想セラルル期間常時配員シ対空哨戒ニ全幅利用セシトコロ敵機ノ感度ハ22號ニ於テハ約120粁附近ヨリ13號ニ於テハ約100粁附近ヨリ現ハレ敵機ノ反射波ガ我ガ飛行機ニ比シ極メテ顕著ナル特徴ヲ呈スルニ依リ敵味方ノ識別容易ニシテ且其ノ機数編隊数モ概ネ判別セラレ対空戦準備ヲ整フルコトヲ得従ッテ戦闘力ノ発揮ニ遺憾ナキヲ得タリ 電波探信儀ハ対空戦上不可欠ノモノニシテ更ニ敵機来襲前ニ高角測空可能ナラシムルノ要切ナルモノアリ』</ref>。


=== 機関配置 ===
=== 機関 ===
缶(ボイラー)は陽炎型と同じロ号[[艦本式ボイラー]]3基、蒸気圧力350kg/平方cm、蒸気温度350℃も同一である<ref name="昭和造船史1pp788-789"/>。前部缶室にボイラー2基、後部缶室に同1基を搭載した(陽炎型は1缶1室)<ref name="海軍造船技術概要(1987)下pp1759-1760">[[#海軍造船技術概要(1987)]]下巻pp.1759-1760、機関配置略図</ref>。主機は生産性を考慮して基本的に陽炎型と同じ[[艦本式タービン]]であるが、減速ギアは新設計になり、回転数は陽炎型の380rpmから340rpmに落とされた<ref name="軍艦メカ4日本の駆逐艦pp102-104">阿部安雄「煙突、後檣&艦載艇 秋月型」[[#軍艦メカ4日本の駆逐艦]]pp.102-104</ref><ref group="注釈">[[#写真日本の軍艦第11巻]]p.158では生産性を考慮して減速ギアを新設計にしたとしている。</ref>。
秋月型以前の駆逐艦の機関配置は、艦首側から見て「ボイラー・タービン・減速機」とし、それぞれを隔壁で分離するという配置であった。しかし秋月はボイラーの後に「左舷側タービン+減速機」その後ろに「右舷側タービン+減速機」となっている。通常の配置だと、艦のスペースを有効に使える代わりに、どれかにトラブルや被弾すると航行不能になるのに対し、後年建造される[[松型駆逐艦]]が採用する[[松型駆逐艦#機関配置|シフトエンジン方式]]ほどではないが、ボイラーが破壊されない限り、航行ができ残存性が高まることになる。ただし[[レイテ沖海戦]]で小沢機動部隊に所属していた霜月は至近弾による浸水を左舷機械室外側の重油タンクが喰いとめた例を紹介し、重油タンクのない右舷側後部で浸水があった場合、機械室が一気に浸水する危険性を指摘している<ref>[[#霜月戦闘詳報(捷号)]]p.23『一.秋月型駆逐艦ニアリテハ是非共機械室外側ハ両舷共重油「タンク」若クハ空所ヲ設クル要アリト認ム。今次至近弾ニ依ル被害ハ左舷側ナリシタメ重油「タンク」ノミノ破損浸水ニテスミタルモ若シ右舷側ナリシナラバ忽ニシテ後部機械室浸水シ重大ナル結果ヲ招来シタルベシ』</ref>。


初春型以降、陽炎型までの駆逐艦の機械室は、前部機械室に左右のタービン2基を置き、後部機械室には発電機などの補機を置いていた<ref name="海軍造船技術概要(1987)下pp1759-1760"/>。一方秋月型では前部機械室に左舷タービン、後部機械室に右舷タービンを置いた<ref name="海軍造船技術概要(1987)下pp1759-1760"/>。それまでの配置だと、前部機械室が被弾などで浸水すると航行不能になるのに対し、後年建造される[[松型駆逐艦]]が採用する[[松型駆逐艦#機関配置|シフトエンジン方式]]ほどではないが、片方の機械室の浸水だけでは航行可能で、残存性が高まることになる<ref name="軍艦メカ4日本の駆逐艦pp102-104"/>。
また、軽巡[[夕張 (軽巡洋艦)|夕張]]以降採用されている「誘導煙突」を駆逐艦として初めて(そして唯一)採用しており、艦の大きさやシルエットが夕張と似ているため、{{要出典範囲|ラバウル方面に配備された照月、新月を目撃したアメリカ軍は「日本軍は夕張を量産している」と誤報を出したという。|date=2010年11月}}<ref>アメリカ海軍Office of Naval Intelligence発行 ONI 222-J THE JAPANESE NAVY 1945年6月回付分 p.61では、“TERUTSUKI's closest design antecedent in the Japanese Navy appears to be the small, unusual cruiser YUBARI, commissioned over 20 year ago.”とデザイン面での関連が示唆されてはいるが、夕張の量産については言及していない。</ref>


前部機械室の右舷側と後部機械室の左舷側は重油タンクに当てられた(陽炎型までは機械室舷側に重油タンクは無い)<ref name="海軍造船技術概要(1987)下pp1759-1760"/>。[[レイテ沖海戦]]で小沢機動部隊に所属していた霜月は至近弾による浸水を左舷機械室外側の重油タンクが喰いとめた例を紹介し、重油タンクのない右舷側後部で至近弾があった場合、後部機械室が一気に浸水する危険性を指摘している<ref>[[#霜月戦闘詳報(捷号)]]p.23『一.秋月型駆逐艦ニアリテハ是非共機械室外側ハ両舷共重油「タンク」若クハ空所ヲ設クル要アリト認ム。今次至近弾ニ依ル被害ハ左舷側ナリシタメ重油「タンク」ノミノ破損浸水ニテスミタルモ若シ右舷側ナリシナラバ忽ニシテ後部機械室浸水シ重大ナル結果ヲ招来シタルベシ』</ref>。
== 艦名・戦歴 ==

[[1942年]](昭和17年)6月、1番艦秋月が竣工した。以降、終戦までに12隻が竣工するが8番艦の冬月以降は工期短縮のため日本海軍独特の各所の曲線曲面形状を取りやめ、直線平面形状となっている。実際そういった簡略化による性能低下は無視できる程度だったといわれる。また仮称艦名第365号艦(「満月」)以降は、鋼材規格の低下も実施された。なお、下記のサブタイプ分けは資料によって諸説ある([[秋月型駆逐艦#サブタイプの呼称について|後述]]参照)。日本海軍の現場からは、まとめて月型(月クラス)と呼ばれることもあった<ref name="S2204二水戦(3)17"/><ref name="阿川高松宮167"/>。これについて「[[待合茶屋]]の名前ばかりつけて」という冗談があった<ref name="阿川高松宮167"/>。
また、軽巡[[夕張 (軽巡洋艦)|夕張]]以降、日本海軍巡洋艦で採用されている「誘導煙突」を駆逐艦として初めて(そして唯一)採用した<ref name="軍艦メカ4日本の駆逐艦pp102-104"/>。

艦の大きさやシルエットが夕張と似ているため、{{要出典範囲|ラバウル方面に配備された照月、新月を目撃したアメリカ軍は「日本軍は夕張を量産している」と誤報を出したという。|date=2010年11月}}<ref group="注釈">アメリカ海軍Office of Naval Intelligence発行 ONI 222-J THE JAPANESE NAVY 1945年6月回付分 p.61では、“TERUTSUKI's closest design antecedent in the Japanese Navy appears to be the small, unusual cruiser YUBARI, commissioned over 20 year ago.”とデザイン面での関連が示唆されてはいるが、夕張の量産については言及していない。</ref>

=== マスト ===
前部マストは下部は煙突をまたぐ4脚で、信号所甲板の高さから3脚になる<ref name="歴史群像23秋月型pp152-155">水谷清高「秋月型の基礎知識」[[#歴史群像23秋月型]]pp.152-155、「マスト」</ref>。艦橋トップに備えた高射装置の射界を広くとるために支柱の間隔は狭められ、位置も艦橋から離され<ref name="写真日本の軍艦第11巻p158"/>、軽く後方に傾斜している<ref name="歴史群像23秋月型pp152-155"/>。電探装備の際にマスト上部にフラットを設け、電探の後方にマストが延びるよう設計が変更された<ref name="歴史群像23秋月型pp152-155"/>。同時にマスト下部も補強がされている<ref name="歴史群像23秋月型pp152-155"/>。


== サブタイプ ==
日本海軍の[[大日本帝国海軍艦艇類別変遷|艦艇類別等級表]]においては命名された全13隻が『秋月型駆逐艦』である<ref name="S18内令第2026号"/><ref name="S20内令96号"/>。
しかし秋月型駆逐艦は就役が戦時中だったため、後になればなるほど工期の短縮を図るために艤装の簡略化が進み、「同型艦」でありながら初期と後期の艦では外見上相違する部分がある<ref name="歴史群像23秋月型p144">水谷清高「秋月型の基礎知識」[[#歴史群像23秋月型]]p.144、乙型駆逐艦概観</ref>。各艦が属するサブタイプの呼称は文献によって見解や表記が異なる場合が多いため、以下にそれを列挙する。
=== 秋月型 ===
=== 秋月型 ===
'''秋月型'''<ref name="高角砲と防空艦p81">[[#高角砲と防空艦]]p.81</ref>、'''秋月型原型'''。
; [[秋月 (駆逐艦)|秋月]](あきづき)
* 秋月から霜月まで(マル4計画艦6隻とマル急計画の第360号艦)<ref name="11巻p156建造行程一覧"/>
: 1942年6月11日[[舞鶴工廠]]で竣工。竣工直後、日本本土に空襲をかけるため接近中のアメリカ機動部隊迎撃のため駆逐艦2隻([[浦風 (陽炎型駆逐艦)|浦風]]、[[朧 (吹雪型駆逐艦)|朧]])と共に空母[[瑞鶴 (空母)|瑞鶴]]の護衛として出撃した。その後、ソロモン諸島に向かう途中、攻撃してきた[[B-17_(航空機)|B-17]]を1機撃墜した。第四水雷戦隊旗艦として行動中、空襲を受けて中破する。修理後は第十戦隊旗艦として[[鼠輸送]]に従事。1943年1月19日、輸送船妙法丸救助に向かったところ、その際米潜水艦の雷撃が右舷缶室下に命中した。かろうじてトラック島に寄港できたものの、応急修理に40日以上を費やした。サイパン島に寄港し佐世保に向かうこととなったが、その後突然艦橋下の構造物が切断した。秋月はやむなくサイパンに戻り、艦橋を撤去した。強度が落ち折れ曲がった船体前部を切断し[[長崎]]に帰還、建造中だった霜月の艦首を流用して接合することで修理工期短縮を図ったが、それでも修理に9ヶ月を要することになった。
「高角砲と防空艦」では「霜月」までを秋月型、後述する冬月型・満月型を合わせた総称として'''秋月級'''と仮に呼ぶとしている<ref name="高角砲と防空艦p81"/>。
: 1944年10月25日[[レイテ沖海戦#10月25日 エンガノ岬沖海戦|エンガノ岬沖海戦]]に参加、機動部隊の援護射撃中爆発を起こして沈没した。これは、「味方空母(瑞鳳)に接近した魚雷を自分が犠牲になって受けたため」とも「味方が打ち上げた高角砲弾の破片、または機関銃弾の不発弾が魚雷に当たり誘爆した(当時の艦長の憶測)」ともいわれている。また、機関科士官として秋月に乗り込んでいた[[山本平弥]]は著書「防空駆逐艦『秋月』爆沈す」(光文社NF文庫)の中で、敵機の爆弾命中による魚雷誘爆が原因という説を唱えている。一部の書籍で秋月はアメリカ軍潜水艦の攻撃によるとするものがあるが、雷撃した時刻と沈没した時刻との関係からこれには否定的な見解が多い。
=== 冬月型 ===
; [[照月 (駆逐艦)|照月]](てるづき)
{{Infobox 艦級
: 1942年8月31日三菱[[長崎造船所]]で竣工。同年10月、[[南太平洋海戦]]に参加する。同年11月中旬の[[第三次ソロモン海戦]]は二度の夜戦に参し、撃沈された金剛型戦艦2隻([[比叡 (戦艦)|比叡]]、[[霧島 (戦艦)|霧島]])から乗組員を救助する。[[ガダルカナル島の戦い|ガダルカナル]]への物資輸送の警戒艦旗艦([[第二水雷戦隊]]司令官[[田中頼三]]少将座乗)として行動中の12月12日、アメリカ軍の魚雷艇の攻撃を受け沈没した。
|名称 = 冬月型
|画像 = Fuyuzuki.jpg
|画像説明 = 公試から帰港した「冬月」(1944年5月下旬)<ref>[[#写真日本の軍艦第11巻]]pp.153-154の写真と解説</ref>
|要目注記 = F53計画
|基準排水量 = 2,750[[英トン]]<ref name="Ippan-p5">[[#一般計画要領書(駆逐艦)]]p.5</ref>
|公試排水量 = 3,458[[トン]]<ref name="Ippan-p65">[[#一般計画要領書(駆逐艦)]]p.65、復元性能</ref><ref group="注釈">[[#一般計画要領書(駆逐艦)]]p.4では公試排水量3,485トンになっている</ref>
|満載排水量 = 3,899[[トン]]<ref name="Ippan-p5"/>
|全長 = 134.20m<ref name="Ippan-p5"/>
|水線長 = 132.00m<ref name="Ippan-p5"/>
|垂線間長 = 126.00m<ref name="Ippan-p5"/>
|全幅 = 16.00m<ref name="Ippan-p5"/>
|水線幅 = 16.00m<ref name="Ippan-p5"/>
|吃水 = 公試平均 4.15m<ref name="Ippan-p5"/><br />満載平均 4.50m<ref name="Ippan-p5"/>
|深さ = 7.05m<ref name="Ippan-p5"/>
|推進 = 2軸 x 340rpm<ref name="Ippan-p25">[[#一般計画要領書(駆逐艦)]]p.25</ref><br />推進器直径3.650m<ref name="Ippan-p25"/>
|主機 = 艦本式タービン2基<ref name="Ippan-p25"/>
|出力 = 52,000[[馬力|shp]]<ref name="Ippan-p5"/>
|ボイラー = ロ号艦本式ボイラー3基<ref name="Ippan-p25"/>
|速力 = 33[[ノット]]<ref name="Ippan-p5"/>
|燃料 = 1,066トン><ref name="Ippan-p5"/>
|航続距離 = 8,000[[カイリ]] / 18ノット<ref name="Ippan-p5"/>
|乗員 = 計画乗員 272名<ref name="Ippan-p29">[[#一般計画要領書(駆逐艦)]]p.29、士官7名、下士官2人、准士官3人、下士官兵260人</ref>
|兵装 = 65口径10cm連装高角砲 4基8門<ref name="Ippan-p9">[[#一般計画要領書(駆逐艦)]]p.9</ref><br />25mm機銃 3連装4基<ref name="Ippan-p9"/><br />(冬月竣工時:25mm3連装機銃 5基<ref name="歴史群像23秋月型pp155-156兵器"/>)<br />61cm九二式4連装4型[[魚雷発射管|発射管]] 1基4門<ref name="Ippan-p13">[[#一般計画要領書(駆逐艦)]]p.12</ref><br />[[九三式魚雷]]4本<ref name="Ippan-p13"/>、竣工時8本<br />九四式爆雷投射器2基、爆雷装填台2基<ref name="Ippan-p13"/><br />爆雷投下台(水圧三型)2基、同(手動一型)4基<ref name="Ippan-p13"/><br />九五式改一爆雷 72個<ref name="Ippan-p13"/>
|搭載艇 = 8m内火艇2隻、8mカッター2隻<ref name="Ippan-p37">[[#一般計画要領書(駆逐艦)]]p.37</ref>
|レーダー = 21号電探1基<ref name="Ippan-p21">[[#一般計画要領書(駆逐艦)]]p.21</ref>
|ソナー = 九三式水中聴音機1組(後日装備)<ref name="Ippan-p21"/><br />九三式探信儀<ref name="Ippan-p21"/>
|その他 =
|備考 =
}}
'''冬月型'''、'''改秋月型'''<ref name="高角砲と防空艦p85">[[#高角砲と防空艦]]p.85</ref>、'''秋月型改型'''<ref name="Ippan-p5"/>。
* 冬月(第361号艦)から花月(第366号艦)まで
* 「高角砲と防空艦」では「花月」(第366号艦)を<ref name="高角砲と防空艦pp86-87表34"/>、「写真日本の軍艦第11巻」では「満月」(第365号艦)と「花月」を後述の満月型に含める。
冬月以降は計画番号'''F53'''<ref name="Ippan-p5"/>(秋月は'''F51'''<ref name="Ippan-p4"/>)となる。秋月の計画との相違点は以下のようなものがある。
*秋月の艦首は下部でなだらかなカーブを描いて艦底と繋がるが、冬月以降は艦首は艦底まで直線状になっている<ref name="歴史群像23秋月型pp144-145">水谷清高「秋月型の基礎知識」[[#歴史群像23秋月型]]pp.144-145、「船体」</ref>。なお宵月の艦首は水線下で一部斜めにカットされた形状となっているのが確認出来る<ref name="歴史群像23秋月型pp144-145"/>。これが宵月だけの特徴か、他の艦が同様だったかは確認できていない<ref name="歴史群像23秋月型pp144-145"/>。
*日本海軍駆逐艦独特の2番3番ボイラー用のお椀型吸気口が廃止され<ref name="高角砲と防空艦p85"/>、煙突側面と中部機銃台下にそれぞれ吸気口が設けられた<ref name="歴史群像23秋月型pp149-152">水谷清高「秋月型の基礎知識」[[#歴史群像23秋月型]]pp.149-152、「中部機銃台」「後部甲板室」</ref>。
*後部甲板室はその前半部が省略され、後部操舵室は吸排気口上に探照燈台を兼ねて設置され後部甲板室から独立した上構となった<ref name="歴史群像23秋月型p152後部甲板室"/>。
*後部マストは13号電探装備の関係から開脚が大きくなり、開脚方向も違っている<ref name="歴史群像23秋月型pp152-155"/>。柱の材料も円材から角材とアングルに変更されたようである<ref name="歴史群像23秋月型pp152-155"/>。
*機銃台や探照燈台が多角形の形状になっている<ref name="歴史群像23秋月型pp149-152"/>。
*機銃は25mm3連装機銃4基12挺で計画された(秋月の計画では連装2基4挺)<ref name="高角砲と防空艦p112">[[#高角砲と防空艦]]p.112「表42 要目表(続)」</ref>。中部機銃台は秋月と同様の煙突後方、後部機銃台が後部操舵所両舷(発射管直後)に設置された<ref name="歴史群像23秋月型pp149-152"/>。
*機銃増備の代償重量として計画では予備魚雷の搭載を廃止したが、1944年2月頃に復活、冬月以降の各艦も竣工時には秋月と同様の予備魚雷格納筺を装備していた<ref name="高角砲と防空艦p153">[[#高角砲と防空艦]]p.153</ref>。右舷側の魚雷用ダビットを廃止、それにより魚雷運搬軌道も途中に分岐点のある敷き方に変更されている<ref name="歴史群像23秋月型pp155-156兵器"/>。
*爆雷は72個(秋月計画54個)に増載された<ref name="高角砲と防空艦p113">[[#高角砲と防空艦]]p.113「表42 要目表(続)」</ref>。
*21号電探の装備は計画から盛り込まれた<ref name="高角砲と防空艦p115">[[#高角砲と防空艦]]p.115「表42 要目表(続)」</ref>。
*艦載艇が8m内火艇と8mカッターに変更された<ref name="高角砲と防空艦p116">[[#高角砲と防空艦]]p.1163「表42 要目表(続)」</ref>。

同じ冬月型でも後期艦では1番ボイラー用吸気口や後部甲板室側面が曲面から平面を使用した形状に変更された<ref name="歴史群像23秋月型pp149-152図">水谷清高「秋月型の基礎知識」[[#歴史群像23秋月型]]pp.149-152、「図6 煙突比較」「図11 後部甲板室比較」</ref>。
=== 満月型 ===
'''満月型'''、'''清月型'''<ref name="歴史群像13"/>、'''改冬月型'''、'''改改秋月型'''<ref name="高角砲と防空艦p87">[[#高角砲と防空艦]]p.87</ref>。
* 第367号艦(予定艦名「清月」)から第5076号艦(予定艦名「南風」)まで<ref name="歴史群像13"/>。
1944年5月5日に決裁されたマル19線表改定では、次期着工艦から大幅な工事簡易化がされることになった<ref name="高角砲と防空艦p85">[[#高角砲と防空艦]]p.85</ref>。船体は直線を多用した形になり、特殊鋼の使用が中止され<ref name="高角砲と防空艦pp85,87">[[#高角砲と防空艦]]pp.85,87</ref>、これにより排水量が若干増し、速度が低下することなった<ref name="高角砲と防空艦p87">[[#高角砲と防空艦]]p.87</ref>。工期については、起工から竣工まで12カ月から13カ月かかっていた所を、平均8カ月から9カ月に短縮できる予定だった<ref name="高角砲と防空艦p87"/>。

外観上は船体水上部や艦首の曲線を大幅に削除し、艦尾形状も外板の傾斜を廃止<ref name="歴史群像13"/>。四式[[聴音機#水中聴音機|水中聴音機]]を艦底に搭載し、それにより艦底は膨らんだ形となる予定だった<ref name="歴史群像13"/>。<!--外観上は艦首が平面を多用した形状で舷側にはナックルが付けられて、艦首材は水線で折れ角のある形状に単純化された<ref name="歴史群像23秋月型pp144-145"/>。また四型水中聴音機の搭載が計画され、前部の艦底に取り付け用に広い円形の平面がある船型になっている<ref name="歴史群像13"/>。艦尾は水面上の舷側が垂直になり(冬月型までは傾斜が付く)、艦尾材もナックルの付いた形状に簡略化された<ref name="歴史群像23秋月型pp144-145"/>。艦橋は外板の曲面をほとんど廃止した角張った形状になる<ref name="歴史群像23秋月型pp144-145"/>。-->損傷復旧後の「涼月」の艦橋と艦首はこの型に準拠した形状と推定される<ref name="歴史群像23秋月型pp144-145"/>。

「満月」(第365号艦)と「花月」(第366号艦)を冬月型とするか、満月型とするかで諸説ある。
*「写真日本の軍艦第11巻」では2隻とも満月型としている<ref name="11巻p156建造行程一覧"/>。
* 「高角砲と防空艦」では「満月」は満月型、「花月」を冬月型としている<ref name="高角砲と防空艦pp86-87表34"/>。
*[[歴史群像]]のムック「太平洋戦史シリーズVol.23 秋月型駆逐艦」では、「花月」は満月型に伝えられる大規模な工事簡易化が写真から確認できないことから冬月型に含めている<ref group="注釈">[[#歴史群像23秋月型]]付録にある『秋月型公式図 冬月型「花月」補音器室横壁構造』(昭和19年12月2日[[舞鶴海軍工廠|舞鶴工廠]]製図)では、花月の線図として四式水中聴音機補音器室の船体フレームの一部が掲載されている。しかし注記として「実際に搭載したか明らかではなく、図の通り船底部がふくらんだ船体として完成したかも確認されていない」としている。</ref>。上記の大幅な簡略化は「367号艦」(「清月」)から実施すると残された図面に書かれており、これを当てはめるとこの型は'''清月型'''になる、としている<ref name="歴史群像13"/>。
=== 改秋月型 ===
{{main|改秋月型駆逐艦}}
'''改秋月型'''<ref name="写真日本の軍艦第11巻p155"/>、'''秋月改型'''<ref name="海軍造船技術概要(1987)下pp1535-1536"/>、'''超秋月型'''<ref name="歴史群像133">[[#歴史群像23秋月型]]p.133-134</ref>。
* マル5計画艦(仮称艦名第770号艦から同第785号艦)および改マル5計画艦のうち最後の7隻(仮称艦名第5077号艦から同第5083号艦)
秋月型から機関出力を「島風」と同じ75,000馬力にして速力36.7ノットを計画した<ref name="高角砲と防空艦pp89-93">[[#高角砲と防空艦]]pp.89-93、4.超秋月型計画</ref>。
<!--お手元に別の情報がありましたら添削をお願いいたします-->
== 艦名・戦歴 ==
[[マル4計画]]の6隻は舞鶴海軍工廠と三菱長崎造船所で3隻ずつ建造され、[[1942年]](昭和17年)6月に1番艦秋月が竣工した<ref name="11巻p156建造行程一覧"/>。[[マル急計画]]では佐世保海軍工廠が加わり、浦賀船渠でも1隻建造された<ref name="11巻p156建造行程一覧"/>。

日本海軍の現場からは、艦名からまとめて月型(月クラス)と呼ばれることもあった<ref name="S2204二水戦(3)17"/><ref name="阿川高松宮167"/>。これについて「[[待合茶屋]]の名前ばかりつけて」という冗談があった<ref name="阿川高松宮167"/>。
; [[秋月 (駆逐艦)|秋月]](あきづき)<ref name="S16達156">[[#S16.1-6達/5月(1)]]画像48-49、昭和16年5月15日附達第156号</ref>
: 1942年6月11日[[舞鶴工廠]]で竣工。竣工直後、日本本土に空襲をかけるため接近中のアメリカ機動部隊迎撃のため駆逐艦2隻([[浦風 (陽炎型駆逐艦)|浦風]]、[[朧 (吹雪型駆逐艦)|朧]])と共に空母[[瑞鶴 (空母)|瑞鶴]]の護衛として出撃した。その後、ソロモン諸島に向かう途中、攻撃してきた[[B-17_(航空機)|B-17]]を1機撃墜した。第四水雷戦隊旗艦として行動中、空襲を受けて中破する。修理後は第十戦隊旗艦として[[鼠輸送]]に従事。1943年1月19日、輸送船妙法丸救助に向かったところ、その際米潜水艦の雷撃が右舷缶室下に命中した。かろうじてトラック島に寄港できたものの、応急修理に40日以上を費やした。サイパン島に寄港し佐世保に向かうこととなったが、その後突然艦橋下の構造物が切断した。秋月はやむなくサイパンに戻り、艦橋を撤去した。強度が落ち折れ曲がった船体前部を切断し[[長崎]]に帰還、建造中だった霜月の艦首を流用して接合することで修理工期短縮を図ったが、それでも修理に9ヶ月を要することになった。
: 1944年10月25日[[レイテ沖海戦#10月25日 エンガノ岬沖海戦|エンガノ岬沖海戦]]に参加、機動部隊の援護射撃中爆発を起こして沈没した。これは、「味方空母(瑞鳳)に接近した魚雷を自分が犠牲になって受けたため」とも「味方が打ち上げた高角砲弾の破片、または機関銃弾の不発弾が魚雷に当たり誘爆した(当時の艦長の憶測)」ともいわれている。また、機関科士官として秋月に乗り込んでいた[[山本平弥]]は著書「防空駆逐艦『秋月』爆沈す」(光文社NF文庫)の中で、敵機の爆弾命中による魚雷誘爆が原因という説を唱えている。一部の書籍で秋月はアメリカ軍潜水艦の攻撃によるとするものがあるが、雷撃した時刻と沈没した時刻との関係からこれには否定的な見解が多い。
; [[照月 (駆逐艦)|照月]](てるづき)<ref name="S16達328">[[#S16.7-12達/10月(2)]]画像11、昭和16年10月25日附達第328号</ref>
: 1942年8月31日三菱[[長崎造船所]]で竣工。同年10月、[[南太平洋海戦]]に参加する。同年11月中旬の[[第三次ソロモン海戦]]は二度の夜戦に参し、撃沈された金剛型戦艦2隻([[比叡 (戦艦)|比叡]]、[[霧島 (戦艦)|霧島]])から乗組員を救助する。[[ガダルカナル島の戦い|ガダルカナル]]への物資輸送の警戒艦旗艦([[第二水雷戦隊]]司令官[[田中頼三]]少将座乗)として行動中の12月12日、アメリカ軍の魚雷艇の攻撃を受け沈没した。
: なお、アメリカ軍は秋月型を当初は'''TERATSUKI class'''<ref>アメリカ海軍Office of Chief of Naval Operations and Bureau of Aeronautics発行 Naval Aviation News 1943年9月15日号 p.2、[[アメリカ海軍情報局|アメリカ海軍Office of Naval Intelligence]]発行 ONI 41-42 Supplement Aerial Views of Japanese Naval Vessels 1943年7月期回付分 p.19など。</ref>、終戦近くになって'''TERUTSUKI class'''<ref>アメリカ海軍Office of Naval Intelligence発行 ONI 222-J THE JAPANESE NAVY 1945年6月期回付分 p.61など</ref>と呼んだが、これらは綴りが異なるものの本艦の名が元になっている。
: なお、アメリカ軍は秋月型を当初は'''TERATSUKI class'''<ref>アメリカ海軍Office of Chief of Naval Operations and Bureau of Aeronautics発行 Naval Aviation News 1943年9月15日号 p.2、[[アメリカ海軍情報局|アメリカ海軍Office of Naval Intelligence]]発行 ONI 41-42 Supplement Aerial Views of Japanese Naval Vessels 1943年7月期回付分 p.19など。</ref>、終戦近くになって'''TERUTSUKI class'''<ref>アメリカ海軍Office of Naval Intelligence発行 ONI 222-J THE JAPANESE NAVY 1945年6月期回付分 p.61など</ref>と呼んだが、これらは綴りが異なるものの本艦の名が元になっている。
; [[涼月 (駆逐艦)|涼月]]<ref>海軍大臣達『1月』第24画像 昭和17年1月20日付 海軍大臣達第18号。命名に係る本令達で用いられている漢字は'''涼'''である。</ref>すずつき
; [[涼月 (駆逐艦)|涼月]]<ref>海軍大臣達『1月』第24画像 (昭和17年1月20日付 海軍大臣達第18号)。命名に係る本令達で用いられている漢字は'''涼'''である。</ref>(すずつき)
: 1942年12月29日三菱長崎造船所で竣工。完成後、物資輸送や艦隊護衛などの任務に就いた。1944年1月16日にアメリカの潜水艦の魚雷により艦首の大部分と艦尾を喪失し初月に曳航され呉海軍工廠に帰還して大修理。同年10月17日にもアメリカ軍潜水艦の魚雷により艦首の一部を喪失するが撃沈されず帰投している。艦首の復旧時に新造された艦橋は形状を簡易化した角ばったものとなった。これは清月以降の設計図によるものと考察されているが<ref name="歴史群像13">[[#歴史群像]]p.13,25,143-156</ref>、就役した艦でこの形状を持つものは涼月のみである。しかし捷一号作戦直前に冬月と共に米潜水艦に雷撃され損傷。[[レイテ沖海戦]]や[[多号作戦]]には参加していない。[[菊水作戦]]時には戦艦[[大和 (戦艦)|大和]]および[[第二水雷戦隊]]僚艦と共に出撃した。だが戦闘中に艦橋近くに直撃弾を受け大浸水を来たす。戦闘終了後、火災のため弾薬の一部が誘爆し艦が前方に傾斜したため前進不能になり、駆逐艦長判断によって後進での航行を余儀なくされる、磁気コンパスが狂い南東に進む、海図が全て燃え乗組員の記憶で日本地図を作成する、さらに雷撃を受けるも後進での操艦により難を逃れるなど佐世保に満身創痍で帰投した逸話が残る。すでに沈没したと思われており、生還の知らせは驚きをもって迎えられた。涼月は直ちにドックへ入れられたが、ドックの排水を待つことができず着底してしまうという、まさにギリギリの帰還だった。帰投後は防空砲台として使用されて終戦を迎える。1948年に解体され、涼月の船体は冬月と共に福岡県[[若松港]]の防波堤となり、'''軍艦防波堤'''と呼ばれた。
: 1942年12月29日三菱長崎造船所で竣工。完成後、物資輸送や艦隊護衛などの任務に就いた。1944年1月16日にアメリカの潜水艦の魚雷により艦首の大部分と艦尾を喪失し初月に曳航され呉海軍工廠に帰還して大修理。同年10月17日にもアメリカ軍潜水艦の魚雷により艦首の一部を喪失するが撃沈されず帰投している。艦首の復旧時に新造された艦橋は形状を簡易化した角ばったものとなった。これは清月以降の設計図によるものと考察されているが<ref name="歴史群像13">[[#歴史群像23秋月型]]p.13,25,143-156</ref>、就役した艦でこの形状を持つものは涼月のみである。しかし捷一号作戦直前に冬月と共に米潜水艦に雷撃され損傷。[[レイテ沖海戦]]や[[多号作戦]]には参加していない。[[菊水作戦]]時には戦艦[[大和 (戦艦)|大和]]および[[第二水雷戦隊]]僚艦と共に出撃した。だが戦闘中に艦橋近くに直撃弾を受け大浸水を来たす。戦闘終了後、火災のため弾薬の一部が誘爆し艦が前方に傾斜したため前進不能になり、駆逐艦長判断によって後進での航行を余儀なくされる、磁気コンパスが狂い南東に進む、海図が全て燃え乗組員の記憶で日本地図を作成する、さらに雷撃を受けるも後進での操艦により難を逃れるなど佐世保に満身創痍で帰投した逸話が残る。すでに沈没したと思われており、生還の知らせは驚きをもって迎えられた。涼月は直ちにドックへ入れられたが、ドックの排水を待つことができず着底してしまうという、まさにギリギリの帰還だった。帰投後は防空砲台として使用されて終戦を迎える。1948年に解体され、涼月の船体は冬月と共に福岡県[[若松港]]の防波堤となり、'''軍艦防波堤'''と呼ばれた。
; [[初月 (駆逐艦)|初月]]はつづき
; [[初月 (駆逐艦)|初月]](はつづき)<ref name="S17達62">[[#S17.1-12達/3月(1)]]画像1、昭和17年3月1日附達第62号</ref>
: 1942年12月29日舞鶴工廠で竣工。実戦初参加はマリアナ沖海戦だった。1944年10月25日のエンガノ岬沖海戦には瑞鶴の護衛艦として参加、瑞鶴の沈没時には救助活動を行い、その後、同型艦若月と軽巡[[五十鈴 (軽巡洋艦)|五十鈴]]と共に[[千代田 (空母)|千代田]]乗員の救助に向かう。その救助作業中、[[ローレンス・T・デュボース|ローレンス・T・デュボーズ]]少将指揮するアメリカ艦隊重巡3・軽巡1・駆逐艦12)が接近し砲戦となる。初月は撃沈されたが、実に2時間にわたり敵を拘束することになり、若月、五十鈴は無事に帰還できた。この戦闘で、アメリカ軍巡洋艦4艦は徹甲弾を合計1,200発以上撃っており、前述のデュボーズ少将は麾下駆逐艦からの報告と併せ、初月を戦艦か少なくとも阿賀野型巡洋艦であると主張していた。またこの時瑞鶴乗員救助中の内火艇が取り残されて漂流、21日目に台湾に流れ着き瑞鶴乗員17名、初月乗員8名が生還している<!--最近まで全員戦死とされていた最近とは西暦何年頃ですか?-->。
: 1942年12月29日舞鶴工廠で竣工。実戦初参加はマリアナ沖海戦だった。1944年10月25日のエンガノ岬沖海戦には瑞鶴の護衛艦として参加、瑞鶴の沈没時には救助活動を行い、その後、同型艦若月と軽巡[[五十鈴 (軽巡洋艦)|五十鈴]]と共に[[千代田 (空母)|千代田]]乗員の救助に向かう。その救助作業中、[[ローレンス・T・デュボース|ローレンス・T・デュボーズ]]少将指揮するアメリカ艦隊(重巡3・軽巡1・駆逐艦12)が接近し砲戦となる。初月は撃沈されたが、実に2時間にわたり敵を拘束することになり、若月、五十鈴は無事に帰還できた。この戦闘で、アメリカ軍巡洋艦4艦は徹甲弾を合計1,200発以上撃っており、前述のデュボーズ少将は麾下駆逐艦からの報告と併せ、初月を戦艦か少なくとも阿賀野型巡洋艦であると主張していた。またこの時瑞鶴乗員救助中の内火艇が取り残されて漂流、21日目に台湾に流れ着き瑞鶴乗員17名、初月乗員8名が生還している<!--(最近まで全員戦死とされていた)最近とは西暦何年頃ですか?-->。
; [[新月 (駆逐艦)|新月]]にいづき
; [[新月 (駆逐艦)|新月]](にいづき)<ref name="S17達157">[[#S17.1-12達/5月(1)]]画像39-41、昭和17年5月15日附達第157号</ref>
: 1943年3月31日、三菱長崎造船所にて竣工。第11水雷戦隊、続いて第8艦隊に所属してラバウルへ進出。7月6日、第三水雷戦隊旗艦としてコロンバンガラ島への輸送任務中、米艦隊との夜間水上戦闘で沈没、第三水雷戦隊司令官[[秋山輝男]]少将と共に全将兵戦死した[[クラ湾夜戦]]。秋月型駆逐艦の中で最も短い生涯を遂げた艦であった。
: 1943年3月31日、三菱長崎造船所にて竣工。第11水雷戦隊、続いて第8艦隊に所属してラバウルへ進出。7月6日、第三水雷戦隊旗艦としてコロンバンガラ島への輸送任務中、米艦隊との夜間水上戦闘で沈没、第三水雷戦隊司令官[[秋山輝男]]少将と共に全将兵戦死した([[クラ湾夜戦]])。秋月型駆逐艦の中で最も短い生涯を遂げた艦であった。
; [[若月 (駆逐艦)|若月]]わかつき
; [[若月 (駆逐艦)|若月]](わかつき)<ref name="S17達233">[[#S17.1-12達/8月]]画像19-21、昭和17年8月20日附達第233号</ref>
: 1943年5月31日、三菱長崎造船所にて竣工。実戦初参加は[[マリアナ沖海戦]]で初月・五十鈴とともに参加、[[大鳳 (空母)|大鳳]]の沈没時には[[小沢治三郎]]中将の救助にあたった。続くエンガノ岬沖海戦後の救助作業時のアメリカ艦隊との遭遇戦では、無事生還するも約半月後の1944年11月11日、オルモック輸送作戦における船団護衛中米軍機の攻撃を受け沈没した。
: 1943年5月31日、三菱長崎造船所にて竣工。実戦初参加は[[マリアナ沖海戦]]で初月・五十鈴とともに参加、[[大鳳 (空母)|大鳳]]の沈没時には[[小沢治三郎]]中将の救助にあたった。続くエンガノ岬沖海戦後の救助作業時のアメリカ艦隊との遭遇戦では、無事生還するも約半月後の1944年11月11日、オルモック輸送作戦における船団護衛中米軍機の攻撃を受け沈没した。
; [[霜月 (駆逐艦)|霜月]]しもつき
; [[霜月 (駆逐艦)|霜月]](しもつき)<ref name="S18達42">[[#S18.1-8達/3月]]画像3-4、昭和18年3月5日附達第42号</ref>
: 1944年3月31日、三菱長崎造船所にて竣工。建造中に舞鶴工廠からのボイラーの配送待ちで工事が遅延していたところ、回航された秋月に本艦の艦首を移植したため工期がさらに遅延する。マリアナ沖海戦、エンガノ岬沖海戦に参加した。再びフィリピン方面へ進出後の1944年11月25日、[[第三十一戦隊]]旗艦として行動中にアメリカ潜水艦の雷撃で沈没、第三十一戦隊司令官[[江戸兵太郎]]少将も戦死した。
: 1944年3月31日、三菱長崎造船所にて竣工。建造中に舞鶴工廠からのボイラーの配送待ちで工事が遅延していたところ、回航された秋月に本艦の艦首を移植したため工期がさらに遅延する。マリアナ沖海戦、エンガノ岬沖海戦に参加した。再びフィリピン方面へ進出後の1944年11月25日、[[第三十一戦隊]]旗艦として行動中にアメリカ潜水艦の雷撃で沈没、第三十一戦隊司令官[[江戸兵太郎]]少将も戦死した。
; [[冬月 (駆逐艦)|冬月]](ふゆつき<ref name="海軍公報 昭和18年10月"/>)<ref name="S18達235">[[#S18.9-12達/10月(1)]]画像1-2、昭和18年10月1日附達第235号</ref>

=== 冬月型 ===
; [[冬月 (駆逐艦)|冬月]](ふゆつき<ref name="海軍公報 昭和18年10月"/>)
: 1943年10月1日、『秋月型』に類別<ref name="S18内令第2026号"/>。1944年5月25日、舞鶴工廠にて竣工。菊水作戦時には大和・涼月等と共に出撃。帰投後は門司で防空砲台として使用されて終戦を迎えた。戦後は工作艦として使用され、1948年に解体される。船体は涼月と共に若松港の防波堤となった。
: 1943年10月1日、『秋月型』に類別<ref name="S18内令第2026号"/>。1944年5月25日、舞鶴工廠にて竣工。菊水作戦時には大和・涼月等と共に出撃。帰投後は門司で防空砲台として使用されて終戦を迎えた。戦後は工作艦として使用され、1948年に解体される。船体は涼月と共に若松港の防波堤となった。
; [[春月 (駆逐艦)|春月]]はるつき
; [[春月 (駆逐艦)|春月]](はるつき)<ref name="S19達153">[[#S19.1-6達/5月(1)]]画像35-38、昭和19年5月10日附達第153号</ref>
: 1944年12月28日、[[佐世保工廠]]にて竣工。瀬戸内海での防衛任務で終戦を迎える。復員船として使用されたあと、1947年9月25日に戦時賠償艦としてソ連へ引き渡される。ソ連では駆逐艦「ヴネザープヌィイ」として短期間運用されたのち、練習艦「オスコール」として1955年まで運用、その後標的艦や海上施設として運用、1969年6月4日に除籍され解体された。
: 1944年12月28日、[[佐世保工廠]]にて竣工。瀬戸内海での防衛任務で終戦を迎える。復員船として使用されたあと、1947年9月25日に戦時賠償艦としてソ連へ引き渡される。ソ連では駆逐艦「ヴネザープヌィイ」として短期間運用されたのち、練習艦「オスコール」として1955年まで運用、その後標的艦や海上施設として運用、1969年6月4日に除籍され解体された。
; [[宵月 (駆逐艦)|宵月]]よいづき
; [[宵月 (駆逐艦)|宵月]](よいづき/よひづき)<ref name="S19達153"/>
: 1945年1月31日、[[浦賀船渠]]にて竣工。戦後復員輸送に従事し1947年戦時賠償艦として[[雪風 (駆逐艦)|雪風]]と共に[[中華民国]]に引き渡され、中華民国艦「[[汾陽]]」と改名となるが、実質運用はされていない。なお、秋月型の10センチ高角砲として書籍等に写真が載っているのは本艦の物だと言われていたが、<!--最近-->後の研究で、この写真は引き渡された雪風[[丹陽]]に搭載替えされた時点のものであることが判明した。
: 1945年1月31日、[[浦賀船渠]]にて竣工。戦後復員輸送に従事し1947年戦時賠償艦として[[雪風 (駆逐艦)|雪風]]と共に[[中華民国]]に引き渡され、中華民国艦「[[汾陽]]」と改名となるが、実質運用はされていない。なお、秋月型の10センチ高角砲として書籍等に写真が載っているのは本艦の物だと言われていたが、<!--最近-->後の研究で、この写真は引き渡された雪風([[丹陽]])に搭載替えされた時点のものであることが判明した。
; [[夏月 (駆逐艦)|夏月]]なつづき
; [[夏月 (駆逐艦)|夏月]](なつづき)<ref name="S19達341">[[#S19.9-12秘海軍公報号外/10月(2)]]画像1、昭和19年10月5日附達第341号</ref>
: 1945年4月8日、佐世保工廠にて竣工。戦後復員輸送に従事。1947年戦時賠償艦としてイギリスに引き渡されたが日本国内で解体された。
: 1945年4月8日、佐世保工廠にて竣工。戦後復員輸送に従事。1947年戦時賠償艦としてイギリスに引き渡されたが日本国内で解体された。
; 満月(みちつき<ref name="S20達22号">[[#秘公報昭和20年2月(1)]]p.28『達第二二號 昭和十九年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦四隻、潜水艦一隻及海防艦六隻ニ左ノ通命名ス 昭和二十年二月五日 海軍大臣|佐世保海軍工廠ニ於テ建造 驅逐艦 満月(ミチツキ)|舞鶴海軍工廠ニ於テ建造 驅逐艦 栃(トチ)|株式會社藤永田造船所ニ於テ建造 驅逐艦 若櫻(ワカザクラ)|横須賀海軍工廠ニ於テ建造 驅逐艦 矢竹(ヤダケ)|呉海軍工廠ニ於テ建造 伊號第二百七潜水艦|日本鋼管株式會社鶴見造船所ニ於テ建造 第百七號海防艦|三菱重工業株式會社神戸造船所ニ於テ建造 第二百二十三號海防艦 第二百二十九號海防艦|川崎重工業株式會社ニ於テ建造 第百四十二號海防艦|株式會社播磨造船所ニ於テ建造 第百六十號海防艦|三菱重工業會社長崎造船所ニ於テ建造 第百九十八號海防艦』</ref>、仮称艦名第365号艦)<ref name="高角砲と防空艦p83表32"/>

: 本籍は呉鎮守府、建造所は浦賀船渠を予定<ref name="高角砲と防空艦p83表32"/>。1945年1月3日、佐世保工廠で起工、同年12月竣工予定<ref name="高角砲と防空艦p83表32"/>。2月5日、『秋月型』に類別<ref name="S20内令96号"/>。4月17日に工程16%で工事中止。1948年2月に解体終了。
=== 満月型 ===
; [[花月 (駆逐艦)|花月]](はなづき、仮称艦名第366号艦)<ref name="S19達279">[[#S19.8秘海軍公報/8月(4)]]画像6-7、昭和19年8月25日附達第279号</ref>
; 満月(みちつき<ref name="S20達22号">[[#秘公報昭和20年2月(1)]]p.28『達第二二號 昭和十九年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦四隻、潜水艦一隻及海防艦六隻ニ左ノ通命名ス 昭和二十年二月五日 海軍大臣|佐世保海軍工廠ニ於テ建造 驅逐艦 満月(ミチツキ)|舞鶴海軍工廠ニ於テ建造 驅逐艦 栃(トチ)|株式會社藤永田造船所ニ於テ建造 驅逐艦 若櫻(ワカザクラ)|横須賀海軍工廠ニ於テ建造 驅逐艦 矢竹(ヤダケ)|呉海軍工廠ニ於テ建造 伊號第二百七潜水艦|日本鋼管株式會社鶴見造船所ニ於テ建造 第百七號海防艦|三菱重工業株式會社神戸造船所ニ於テ建造 第二百二十三號海防艦 第二百二十九號海防艦|川崎重工業株式會社ニ於テ建造 第百四十二號海防艦|株式會社播磨造船所ニ於テ建造 第百六十號海防艦|三菱重工業會社長崎造船所ニ於テ建造 第百九十八號海防艦』</ref>、仮称艦名第365号艦)
: 1945年1月3日、佐世保工廠で起工。2月5日、『秋月型』に類別<ref name="S20内令96号"/>。4月17日に工程16%で工事中止。1948年2月に解体終了。
; [[花月 (駆逐艦)|花月]](はなづき、仮称艦名第366号艦)
: 1944年12月26日、舞鶴工廠にて竣工。天一号作戦のため出撃した第一遊撃部隊を豊後水道まで護衛する。戦後復員輸送に従事。1947年戦時賠償艦としてアメリカに引き渡され、[[青島市|青島]]で調査された後、1948年2月3日に[[五島列島]]沖で実艦的として処分された。本艦以降竣工した艦は艦隊行動はほとんどおこなわず、瀬戸内海や日本近海より離れることはなかった。
: 1944年12月26日、舞鶴工廠にて竣工。天一号作戦のため出撃した第一遊撃部隊を豊後水道まで護衛する。戦後復員輸送に従事。1947年戦時賠償艦としてアメリカに引き渡され、[[青島市|青島]]で調査された後、1948年2月3日に[[五島列島]]沖で実艦的として処分された。本艦以降竣工した艦は艦隊行動はほとんどおこなわず、瀬戸内海や日本近海より離れることはなかった。


== 建造中止艦 ==
=== 建造中止艦 ===
戦時補充計画[[マル急計画]]での建造中止艦仮称艦名 - 予定艦名 - 備考
戦時補充計画([[マル急計画]])での建造中止艦(仮称艦名 - 予定艦名 - 備考)<ref name="11巻p156建造行程一覧"/>
* 第367号艦 - 清月(きよつき)<ref name="高角砲と防空艦p83表32">[[#高角砲と防空艦]]p.83「表32 昭和16年度戦時建造計画艦名(1942.6.19決裁)」</ref> - 当初浦賀船渠で建造予定、その後舞鶴海軍工廠に変更<ref name="高角砲と防空艦pp86-87表34"/>、本籍は横須賀鎮守府を予定<ref name="高角砲と防空艦p83表32"/>。[[1944年]]9月5日製造訓令<ref name="S19官房艦機密第5519号">[[#昭和19年9月舞鶴鎮守府戦時日誌]]画像18『発日時 元:五日 大臣 |受日時 宛(通報):七日 長官 |令達報告等:官房艦機密第5519號 第三六七號艦及第三六九號艦製造ノ件訓令| 種別:文書 |』</ref>、12月14日建造中止<ref name="高角砲と防空艦p95">[[#高角砲と防空艦]]p.95「表38 秋月級艦歴表」</ref>。
* 仮称艦名第367号艦 - 清月 - 舞鶴工廠で建造予定、[[1944年]]12月14日建造中止。
* 第368号艦 - 大月(おほつき)<ref name="高角砲と防空艦p83表32"/> - 当初三菱長崎造船所で建造予定、その後世保海軍工廠に変更、本籍は横須賀鎮守府を予定<ref name="高角砲と防空艦p83表32"/>。1943年10月19日製造訓令<ref name="大月製造訓令">[[#昭和18年10月佐世保鎮守府戦時日誌(3)]]画像25-26、官房艦機密第5288号 第368号艦製造の件訓令。</ref><ref group="注釈">[[#高角砲と防空艦]]p.88では、建造訓令を1944年(昭和19年)9月から10月としている。</ref>、1944年12月14日建造中止と推定<ref name="高角砲と防空艦p95"/>。
* 仮称艦名第368号艦 - 大月 - 佐世保工廠で建造予定、1944年12月14日建造中止。
* 第369号艦 - 葉月(はづき)<ref name="高角砲と防空艦p83表32"/> - 当初浦賀船渠で建造予定、その後舞鶴海軍工廠に変更<ref name="高角砲と防空艦pp86-87表34"/>、本籍は横須賀鎮守府を予定<ref name="高角砲と防空艦p83表32"/>。1944年9月5日製造訓令<ref name="S19官房艦機密第5519号"/>、1944年12月14日建造中止<ref name="高角砲と防空艦p95"/>。
* 仮称艦名第369号艦 - 葉月 - 舞鶴工廠で建造予定、1944年12月14日建造中止。

[[マル5計画]]での建造計画艦([[改秋月型駆逐艦]])<ref name="海軍造船技術概要(1987)下pp1535-1536"/>
: 第770号艦から第785号艦までの16隻(改マル5計画に計画変更)


[[改マル5計画]]での建造計画艦仮称艦名 - 予定艦名
[[改マル5計画]]での建造計画艦(仮称艦名 - 予定艦名 - 備考)<ref name="写真日本の軍艦第11巻p155">[[#写真日本の軍艦第11巻]]p.155「改マル5計画建造予定艦」</ref><ref name="高角砲と防空艦p83表33">[[#高角砲と防空艦]]p.83「表33 改マル5計画艦名案(1943.10.27)」</ref>。
* 第5061号艦 - 山月(やまづき) - 佐世保海軍工廠で建造予定、後に建造取り止め<ref name="高角砲と防空艦p88表35">[[#高角砲と防空艦]]p.88「表35 20線表による計画変更」</ref>。
* 仮称艦名第5061号艦 - 山月(やまづき)
* 仮称艦名第5062号艦 - 浦月うらづき
* 第5062号艦 - 浦月(うらづき) - 佐世保海軍工廠で建造予定、後に建造取り止め<ref name="高角砲と防空艦p88表35"/>。
* 第5063号艦 - 青雲(あおぐも) - 舞鶴海軍工廠で建造予定、1944年5月5日佐世保海軍工廠建造に変更、後に建造取り止め<ref name="高角砲と防空艦p88表35"/>。
* 仮称艦名第5063号艦 - 青雲(あおぐも)
* 仮称艦名第5064号艦 - 紅雲べにぐも
* 第5064号艦 - 紅雲(べにぐも) - 佐世保海軍工廠で建造予定、後に建造取り止め<ref name="高角砲と防空艦p88表35"/>。
* 第5065号艦 - 春雲(はるぐも) - 舞鶴海軍工廠で建造予定、1944年8月14日製造訓令、後に建造取り止め(1945年4月と推定される)<ref name="高角砲と防空艦p89">[[#高角砲と防空艦]]p.89</ref>。
* 仮称艦名第5065号艦 - 春雲(はるぐも)
* 第5066号艦 - 天雲(あまぐも) - 浦賀船渠で建造予定、1944年5月5日建造取り止め<ref name="高角砲と防空艦pp86-87表34">[[#高角砲と防空艦]]pp.86-87「表34 19線表による計画変更(1944.5.5決裁)」</ref>。
* 仮称艦名第5066号艦 - 天雲(あまぐも)
* 仮称艦名第5067号艦 - 八重雲やえぐも
* 第5067号艦 - 八重雲(やえぐも) - 佐世保海軍工廠で建造予定、1944年5月5日建造取り止め<ref name="高角砲と防空艦pp86-87表34"/>。
* 仮称艦名第5068号艦 - 冬雲ふゆぐも
* 第5068号艦 - 冬雲(ふゆぐも) - 浦賀船渠で建造予定、1944年5月5日建造取り止め<ref name="高角砲と防空艦pp86-87表34"/>。
* 仮称艦名第5069号艦 - 雪雲ゆきぐも
* 第5069号艦 - 雪雲(ゆきぐも) - 佐世保海軍工廠で建造予定、1944年5月5日建造取り止め<ref name="高角砲と防空艦pp86-87表34"/>。
* 仮称艦名第5070号艦 - 沖津風おきつかぜ
* 第5070号艦 - 沖津風(おきつかぜ) - 舞鶴海軍工廠で建造予定、1944年5月5日建造取り止め<ref name="高角砲と防空艦pp86-87表34"/>。
* 仮称艦名第5071号艦 - 霜風しもかぜ
* 第5071号艦 - 霜風(しもかぜ) - 浦賀船渠で建造予定、1944年5月5日建造取り止め<ref name="高角砲と防空艦pp86-87表34"/>。
* 仮称艦名第5072号艦 - 朝東風あさごち
* 第5072号艦 - 朝東風(あさごち) - 佐世保海軍工廠で建造予定、1944年5月5日建造取り止め<ref name="高角砲と防空艦pp86-87表34"/>。
* 第5073号艦 - 大風(おほかぜ) - 浦賀船渠で建造予定、1944年5月5日建造取り止め<ref name="高角砲と防空艦pp86-87表34"/>。
* 仮称艦名第5073号艦 - 大風(おおかぜ)
* 第5074号艦 - 東風(こち) - 佐世保海軍工廠で建造予定、1944年5月5日建造取り止め<ref name="高角砲と防空艦pp86-87表34"/>。
* 仮称艦名第5074号艦 - 東風(こち)
* 仮称艦名第5075号艦 - 西風にしかぜ
* 第5075号艦 - 西風(にしかぜ) - 舞鶴海軍工廠で建造予定、1944年5月5日建造取り止め<ref name="高角砲と防空艦pp86-87表34"/>。
* 第5076号艦 - 南風(はえ) - 浦賀船渠で建造予定、1944年5月5日建造取り止め<ref name="高角砲と防空艦pp86-87表34"/>。
* 仮称艦名第5076号艦 - 南風(はえ)
* 仮称艦名第5077号艦 - 北風きたかぜ)<ref>仮称艦名第5077号艦以下の7隻は[[改秋月型駆逐艦]]として計画</ref>
* 第5077号艦 - 北風(きたかぜ) - [[改秋月型駆逐艦]]として計画、佐世保海軍工廠で建造予定、1944年5月5日建造取り止め<ref name="高角砲と防空艦pp86-87表34"/>
* 第5078号艦 - 早風(はやかぜ) - 改秋月型駆逐艦として計画、浦賀船渠で建造予定、1944年5月5日建造取り止め<ref name="高角砲と防空艦pp86-87表34"/>。
* 仮称艦名第5078号艦 - 早風(はやかぜ)
* 第5079号艦 - 夏風(なつかぜ) - 改秋月型駆逐艦として計画、佐世保海軍工廠で建造予定、1944年5月5日建造取り止め<ref name="高角砲と防空艦pp86-87表34"/>。
* 仮称艦名第5079号艦 - 夏風(なつかぜ)
* 第5080号艦 - 冬風(ふゆかぜ) - 改秋月型駆逐艦として計画、舞鶴海軍工廠で建造予定、1944年5月5日建造取り止め<ref name="高角砲と防空艦pp86-87表34"/>。
* 仮称艦名第5080号艦 - 冬風(ふゆかぜ)
* 第5081号艦 - 初夏(はつなつ) - 改秋月型駆逐艦として計画、浦賀船渠で建造予定、1944年5月5日建造取り止め<ref name="高角砲と防空艦pp86-87表34"/>。
* 仮称艦名第5081号艦 - 初夏(はつなつ)
* 第5082号艦 - 初秋(はつあき) - 改秋月型駆逐艦として計画、佐世保海軍工廠で建造予定、1944年5月5日建造取り止め<ref name="高角砲と防空艦pp86-87表34"/>。
* 仮称艦名第5082号艦 - 初秋(はつあき)
* 第5083号艦 - 早春(はやはる) - 改秋月型駆逐艦として計画、浦賀船渠で建造予定、1944年5月5日建造取り止め<ref name="高角砲と防空艦pp86-87表34"/>。
* 仮称艦名第5083号艦 - 早春(はやはる)


== 駆逐隊の変遷 ==
== 駆逐隊の変遷 ==
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:昭和17年12月12日:照月、[[第二水雷戦隊]]旗艦として行動中、[[ソロモン諸島]]で米軍魚雷艇の襲撃により戦没。
:昭和17年12月12日:照月、[[第二水雷戦隊]]旗艦として行動中、[[ソロモン諸島]]で米軍魚雷艇の襲撃により戦没。
:昭和18年1月15日:涼月と初月を編入、照月を除籍<ref>[[#内令昭和18年1月(2)]]p.7『内令第十九號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十八年一月十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第六十一驅逐隊ノ項中「秋月、照月」ヲ「秋月、涼月、初月」ニ改ム』</ref>。
:昭和18年1月15日:涼月と初月を編入、照月を除籍<ref>[[#内令昭和18年1月(2)]]p.7『内令第十九號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十八年一月十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第六十一驅逐隊ノ項中「秋月、照月」ヲ「秋月、涼月、初月」ニ改ム』</ref>。
:昭和18年1月19日:秋月第十戦隊旗艦、アメリカ潜水艦の雷撃により大破、第十戦隊司令官[[木村進 (海軍軍人)|木村進]]少将が負傷、[[小柳冨次]]少将に交代<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072089500|昭和18年1月25日(発令1月21日付)海軍辞令公報(部内限)第1040号 p.14}}</ref>。
:昭和18年1月19日:秋月(第十戦隊旗艦)、アメリカ潜水艦の雷撃により大破、第十戦隊司令官[[木村進 (海軍軍人)|木村進]]少将が負傷、[[小柳冨次]]少将に交代<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072089500|昭和18年1月25日(発令1月21日付)海軍辞令公報(部内限)第1040号 p.14}}</ref>。
:昭和18年2月3日:第61駆逐隊司令[[大江覧治]]大佐<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072089600|昭和18年2月3日(発令2月3日付)海軍辞令公報(部内限)第1047号 pp.41-42}}</ref>。
:昭和18年2月3日:第61駆逐隊司令[[大江覧治]]大佐<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072089600|昭和18年2月3日(発令2月3日付)海軍辞令公報(部内限)第1047号 pp.41-42}}</ref>。
:昭和18年6月30日:秋月を除籍、予備艦に指定<ref>[[#内令昭和18年6月(6)]]pp.7-8『内令第千二百八十八號 駆逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十八年六月三十日 海軍大臣嶋田繁太郎|第六十一驅逐隊ノ項中「秋月、」ヲ削ル』-『内令第千二百八十九號 佐世保鎮守府予備驅逐艦 驅逐艦 秋月 右第二予備艦ト定ム|昭和十八年六月三十日 海軍大臣 嶋田繁太郎』</ref>。
:昭和18年6月30日:秋月を除籍、予備艦に指定<ref>[[#内令昭和18年6月(6)]]pp.7-8『内令第千二百八十八號 駆逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十八年六月三十日 海軍大臣嶋田繁太郎|第六十一驅逐隊ノ項中「秋月、」ヲ削ル』-『内令第千二百八十九號 佐世保鎮守府予備驅逐艦 驅逐艦 秋月 右第二予備艦ト定ム|昭和十八年六月三十日 海軍大臣 嶋田繁太郎』</ref>。
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:昭和19年8月3日:涼月の修理が完了、戦線に復帰する。
:昭和19年8月3日:涼月の修理が完了、戦線に復帰する。
:昭和19年10月16日:涼月、宮崎沖で被雷大破。[[レイテ沖海戦]]には秋月、初月、若月が参加。
:昭和19年10月16日:涼月、宮崎沖で被雷大破。[[レイテ沖海戦]]には秋月、初月、若月が参加。
:昭和19年10月25日:レイテ沖海戦で秋月、初月戦没天野駆逐隊司令戦死<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072102800|昭和20年1月7日(発令昭和19年10月25日付)海軍辞令公報(甲)第1686号 p.25}}</ref>。12月10日除籍。
:昭和19年10月25日:レイテ沖海戦で秋月、初月戦没(天野駆逐隊司令戦死)<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072102800|昭和20年1月7日(発令昭和19年10月25日付)海軍辞令公報(甲)第1686号 p.25}}</ref>。12月10日除籍。
:昭和19年11月11日:若月、オルモック作戦中に戦没[[多号作戦]]。涼月、修理完了、戦線復帰。
:昭和19年11月11日:若月、オルモック作戦中に戦没([[多号作戦]])。涼月、修理完了、戦線復帰。
:昭和19年11月15日:解隊、涼月と若月書類上在籍は第41駆逐隊に転出<ref name="S19内令1271">[[#秘海軍公報昭和19年11月(3)]]pp.4-5『内令第一二七一號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年十一月十五日 海軍大臣|第二驅逐隊ノ項中「清霜」ノ下ニ「朝霜」ヲ加フ|第七驅逐隊ノ項中「潮」ノ下ニ「、霞」ヲ加フ|第十八驅逐隊ノ項ヲ削ル|第二十一驅逐隊ノ項中「初春、初霜、若葉」ヲ「初春、初霜、時雨」ニ改ム|第三十一驅逐隊ノ項中「長波、朝霜、岸波、沖波」ヲ「長波、岸波、沖波、濱波」ニ改ム|第三十二驅逐隊ノ項ヲ削ル|第四十一驅逐隊ノ項中「冬月」ノ下ニ「、涼月、若月」ヲ加フ|第四十三驅逐隊ノ項ノニ左ノ一項ヲ加フ| |第五十二驅逐隊|桑、檜、桐、杉、樫| |第六十一驅逐隊ノ項ヲ削ル』</ref>。
:昭和19年11月15日:解隊、涼月と若月(書類上在籍)は第41駆逐隊に転出<ref name="S19内令1271">[[#秘海軍公報昭和19年11月(3)]]pp.4-5『内令第一二七一號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年十一月十五日 海軍大臣|第二驅逐隊ノ項中「清霜」ノ下ニ「朝霜」ヲ加フ|第七驅逐隊ノ項中「潮」ノ下ニ「、霞」ヲ加フ|第十八驅逐隊ノ項ヲ削ル|第二十一驅逐隊ノ項中「初春、初霜、若葉」ヲ「初春、初霜、時雨」ニ改ム|第三十一驅逐隊ノ項中「長波、朝霜、岸波、沖波」ヲ「長波、岸波、沖波、濱波」ニ改ム|第三十二驅逐隊ノ項ヲ削ル|第四十一驅逐隊ノ項中「冬月」ノ下ニ「、涼月、若月」ヲ加フ|第四十三驅逐隊ノ項ノニ左ノ一項ヲ加フ| |第五十二驅逐隊|桑、檜、桐、杉、樫| |第六十一驅逐隊ノ項ヲ削ル』</ref>。


=== 第四十一駆逐隊 ===
=== 第四十一駆逐隊 ===
[[マリアナ沖海戦]]に備えて単艦で第10戦隊に編入されていた霜月に第十一水雷戦隊での練成を終えた冬月を加えて昭和19年7月15日に編成した。[[レイテ沖海戦]]前に冬月が大破したため、駆逐隊単位での行動はほとんどなく、六十一駆から転入した涼月と修理が完了した冬月が[[菊水作戦]]に参加したのが駆逐隊として唯一の作戦行動である。菊水作戦によって、両艦とも<!--航行不能に至る 冬月の損傷は不発のロケット弾2発が通説です-->損傷を蒙ったため、稼動できるのは追加された宵月と夏月だったが、燃料の払底のために活動することはなかった。[[終戦の日]]に[[陽炎型駆逐艦]]の雪風を編入している。戦後の武装解除時に解隊した。
[[マリアナ沖海戦]]に備えて単艦で第10戦隊に編入されていた霜月に第十一水雷戦隊での練成を終えた冬月を加えて昭和19年7月15日に編成した。[[レイテ沖海戦]]前に冬月が大破したため、駆逐隊単位での行動はほとんどなく、六十一駆から転入した涼月と修理が完了した冬月が[[菊水作戦]]に参加したのが駆逐隊として唯一の作戦行動である。菊水作戦によって、両艦とも<!--航行不能に至る (冬月の損傷は不発のロケット弾2発が通説です)-->損傷を蒙ったため、稼動できるのは追加された宵月と夏月だったが、燃料の払底のために活動することはなかった。[[終戦の日]]に[[陽炎型駆逐艦]]の雪風を編入している。戦後の武装解除時に解隊した。


:昭和19年7月15日:霜月、冬月で編成<ref>[[#内令昭和19年7月]]p.21『内令第八百六十五號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十九年七月十五日 海軍大臣|第三十二驅逐隊ノ項ノ次ニ左ノ二項ヲ加フ |第四十一驅逐隊|霜月、冬月|・|第四十三驅逐隊|梅、竹、松、桃|』</ref>。第41駆逐隊司令[[脇田喜一郎]]大佐<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072100100|昭和19年7月21日(発令7月15日付)海軍辞令公報(部内限)第1541号 p.7}}</ref>。第三艦隊第10戦隊。
:昭和19年7月15日:霜月、冬月で編成<ref>[[#内令昭和19年7月]]p.21『内令第八百六十五號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十九年七月十五日 海軍大臣|第三十二驅逐隊ノ項ノ次ニ左ノ二項ヲ加フ |第四十一驅逐隊|霜月、冬月|・|第四十三驅逐隊|梅、竹、松、桃|』</ref>。第41駆逐隊司令[[脇田喜一郎]]大佐<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072100100|昭和19年7月21日(発令7月15日付)海軍辞令公報(部内限)第1541号 p.7}}</ref>。第三艦隊第10戦隊。
:昭和19年10月12日:冬月が被雷大破、レイテ沖海戦には霜月のみ六十一駆指揮下で参加する。
:昭和19年10月12日:冬月が被雷大破、レイテ沖海戦には霜月のみ六十一駆指揮下で参加する。
:昭和19年11月15日:[[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]][[第二水雷戦隊]]に転籍。解隊した第六十一駆逐隊より涼月、若月書類上在籍を編入<ref name="S19内令1271"/>。
:昭和19年11月15日:[[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]][[第二水雷戦隊]]に転籍。解隊した第六十一駆逐隊より涼月、若月(書類上在籍)を編入<ref name="S19内令1271"/>。
:昭和19年11月19日:[[第三十一戦隊]]旗艦[[五十鈴 (軽巡洋艦)|五十鈴]]大破。霜月を旗艦に指定。
:昭和19年11月19日:[[第三十一戦隊]]旗艦[[五十鈴 (軽巡洋艦)|五十鈴]]大破。霜月を旗艦に指定。
:昭和19年11月25日:[[南シナ海]]で霜月が戦没、第三十一戦隊司令官[[江戸兵太郎]]少将および41駆司令脇田大佐も戦死した。
:昭和19年11月25日:[[南シナ海]]で霜月が戦没、第三十一戦隊司令官[[江戸兵太郎]]少将および41駆司令脇田大佐も戦死した。
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== 秋月に関する通説 ==
== 秋月に関する通説 ==
; 秋月が初戦で[[B-17 (航空機)|B-17重爆]]3機と遭遇し、前部砲塔と後部砲塔を別々の目標に指向して2機を撃墜した<ref>[[#秋月型(潮2015)]]10-11頁</ref>。
; 秋月が初戦で[[B-17 (航空機)|B-17重爆]]3機と遭遇し、前部砲塔と後部砲塔を別々の目標に指向して2機を撃墜した<ref>[[#秋月型(潮2015)]]10-11頁</ref>。
これは古賀彌本艦初代艦長が戦後記述した文章が基となっている。しかし艦艇研究家の[[田村俊雄]]も調査の中で、
これは古賀彌(本艦初代艦長)が戦後記述した文章が基となっている。しかし艦艇研究家の[[田村俊雄]]も調査の中で、
* 公式記録「駆逐艦行動調書」では、B-17撃墜は1機、消費弾薬は108発となっている<ref name="歴史群像83">[[#歴史群像]]p.83-91</ref>。
* 公式記録(「駆逐艦行動調書」)では、B-17撃墜は1機、消費弾薬は108発となっている<ref name="歴史群像83">[[#歴史群像23秋月型]]p.83-91</ref>。
* 乗組員への聞き取り調査によると後部の高射装置は竣工時から未装備であった。また、初戦に限らずいかなる実戦でも分火を行った記憶が無い<ref name="歴史群像83"/>。
* 乗組員への聞き取り調査によると後部の高射装置は竣工時から未装備であった。また、初戦に限らずいかなる実戦でも分火を行った記憶が無い<ref name="歴史群像83"/>。
* 秋月を建造した舞鶴工廠に勤務していた方々への聞き取り調査でも一部で未装備だったという証言があり、秋月公式図の写図には前部高射装置が実線、後期高射装置は一点鎖線で書かれている<ref name="歴史群像83"/>。
* 秋月を建造した舞鶴工廠に勤務していた方々への聞き取り調査でも一部で未装備だったという証言があり、秋月公式図の写図には前部高射装置が実線、後期高射装置は一点鎖線で書かれている<ref name="歴史群像83"/>。
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* 基となるアメリカ側資料が自力調査しても全く見当たらず、海外の友人に協力してもらっているがそれでも見つからないこと。
* 基となるアメリカ側資料が自力調査しても全く見当たらず、海外の友人に協力してもらっているがそれでも見つからないこと。
* 同じように警告に関する通説も海外の文献に登場しないこと。
* 同じように警告に関する通説も海外の文献に登場しないこと。
以上から「通説は日本のみで言われていることではないか」と推測している<ref name="歴史群像110">[[#歴史群像]]p.110</ref>。
以上から「通説は日本のみで言われていることではないか」と推測している<ref name="歴史群像110">[[#歴史群像23秋月型]]p.110</ref>。


「警報を発した」説は、[[福井静夫]]が雑誌「丸」昭和46年12月号に寄稿した記事にある。この記事において福井は「ソロモン海域に新鋭艦が出現したという警報は、ただちに全軍にたっせられたらしい。」と、あくまでも伝聞として記述している<ref>日本駆逐艦物語p.211に同記事を再録</ref>。
「警報を発した」説は、[[福井静夫]]が雑誌「丸」昭和46年12月号に寄稿した記事にある。この記事において福井は「ソロモン海域に新鋭艦が出現したという警報は、ただちに全軍にたっせられたらしい。」と、あくまでも伝聞として記述している<ref>日本駆逐艦物語p.211に同記事を再録</ref>。
222行目: 351行目:
* 田村俊夫、「駆逐艦『秋月』の実像」歴史群像太平洋戦史シリーズVol.23『秋月型駆逐艦』、学習研究社、1999年、p79-110。
* 田村俊夫、「駆逐艦『秋月』の実像」歴史群像太平洋戦史シリーズVol.23『秋月型駆逐艦』、学習研究社、1999年、p79-110。


== 登場作品 ==
== サブタイプの呼称について ==
=== 小説 ===
: 秋月型駆逐艦は就役が戦時中だったため、後になればなるほど工期の短縮を図るために艤装の簡略化が進み、「同型艦」でありながら初期と後期の艦では外見上相違する部分がある。
; 『軍艦防波堤へ―駆逐艦凉月と僕の昭和二〇年四月』
: 日本海軍の[[大日本帝国海軍艦艇類別変遷|艦艇類別等級表]]においては全隻『秋月型駆逐艦』であるが<ref name="S18内令第2026号"/><ref name="S20内令96号"/>、各艦が属するサブタイプの呼称は解釈によって見解や表記が異なる場合が多いため、以下にそれを列挙する。
: [[菊水作戦|沖縄での海上特攻]]を描いた小説。作者は最後の[[船長|艦長]]である平山[[中佐]]の孫にあたる。


== 参考文献 ==<!--著者あいうえお順-->
* 秋月から霜月まで
* 秋元実・編 『[[ウォーターラインシリーズ|ウォーターライン]]ガイドブック 日本連合艦隊編』改訂版 (静岡模型教材協同組合、2007年10月改訂) [[JANコード]] 4945187990224
: 「秋月型」若しくは「秋月型原型」。
* <!--エンドウ1975-->{{Cite book|和書|author=遠藤昭|title=高角砲と防空艦(オンデマンド版)|publisher=原書房|date=2009-08|origyear=1975|isbn=978-4-562-10093-4|ref=高角砲と防空艦}}
* 冬月から仮称艦名第5076号艦まで
*片桐大自 『聯合艦隊軍艦銘銘伝』光人社、1988年。
: 1. 全艦を「冬月型」。
* <!--ニホンゾウセン1977-->{{Cite book|和書|author=(社)日本造船学会/編|title=昭和造船史(第1巻)|volume=明治百年史叢書 第207巻|edition=第3版|publisher=原書房|date=1981|origdate=1977-10|isbn=4-562-00302-2|ref=昭和造船史1}}
: 2. 冬月から夏月までを「冬月型」、満月から5076号艦までを「満月型」。
* <!--フクイ1993-->{{Cite book|和書|author=[[福井静夫]]|date=1993-01|volume=福井静夫著作集第5巻|title=日本駆逐艦物語|publisher=光人社|isbn=4-7698-0611-6|ref=日本駆逐艦物語}}(新装版あり ISBN 4-7698-1395-3)
: 3. 冬月から花月までを「冬月型」、仮称艦名第367号艦(予定艦名「清月」)から仮称艦名第5076号艦(予定艦名「南風」)までを「清月型」<ref name="歴史群像13"/>。
* <!--マキノ1987-->{{Cite book|和書|author=[[牧野茂 (軍人)|牧野茂]]、[[福井静夫]]/編|date=1987-05|title=海軍造船技術概要|publisher=今日の話題社|isbn=4-87565-205-4|ref=海軍造船技術概要(1987)}}
::[[歴史群像]]のムック「太平洋戦史シリーズVol.23 秋月型駆逐艦」では、花月も「冬月型」として大きな差異が無いとして含めている<ref group="注釈">[[#歴史群像]]付録にある『秋月型公式図 冬月型「花月」補音器室横壁構造』(昭和19年12月2日[[舞鶴海軍工廠|舞鶴工廠]]製図)では、花月の線図として四式水中聴音機補音器室の船体フレームの一部が掲載されている。しかし注記として「実際に搭載したか明らかではなく、図の通り船底部がふくらんだ船体として完成したかも確認されていない」としている。</ref>。「清月型」以降は船体水上部や艦種の曲線を大幅に削除し、艦尾形状も外板の傾斜を廃止。四式[[聴音機#水中聴音機|水中聴音機]]を艦底に搭載し、それにより艦底は膨らんだ形となる予定だったとしている<ref name="歴史群像13"/>。
* 雑誌「丸」編集部『丸スペシャル No.19 日本海軍艦艇シリーズ 駆逐艦朝潮型 秋月型』(潮書房、1978年) 雑誌コード 8343-7
* 仮称艦名第5077号艦以降
* <!--マル1990-06-->{{Cite book|和書|title=<small>写真</small>日本の軍艦 第11巻 <small>駆逐艦II</small>|author=雑誌『[[丸 (雑誌)|丸]]』編集部/編|publisher=光人社|date=1990-06|isbn=4-7698-0461-X|ref=写真日本の軍艦第11巻}}
: 「超秋月型」<ref name="歴史群像133">[[#歴史群像]]p.133-134</ref>若しくは「改秋月型」。
* <!--マル1991-08-->{{Cite book|和書|author=「丸」編集部/編|title=軍艦メカ4 日本の駆逐艦<!--Mechanism of Japanese Warships Destroyers-->|publisher=光人社|date=1991-08|isbn=4-7698-0564-0|ref=軍艦メカ4日本の駆逐艦}} (新装版あり ISBN 4-7698-1527-1。同内容が『図解 日本の駆逐艦』ISBN 4-7698-0898-4としても刊行。)
<!--お手元に別の情報がありましたら添削をお願いいたします-->
* 雑誌「モデルアート」 艦艇模型テクニック講座 vol.6 『日本海軍艦艇図面集 戦艦/駆逐艦/小艦艇篇』 (モデルアート社、1999年)

* 森恒英『軍艦メカニズム図鑑 日本の駆逐艦』 (グランプリ出版、1995年) ISBN 4-87687-154-X
== 脚注 ==
* {{Cite book|和書|author=「歴史群像」編集部著|coauthors=田村俊夫、水谷清高|year=1999|title=歴史群像太平洋戦史シリーズVol.23 秋月型駆逐艦|publisher=学習研究社|isbn=4-05-602063-9|ref=歴史群像23秋月型}}
=== 注釈 ===
* 雑誌「歴史群像」 太平洋戦史シリーズ Vol.45 『真実の艦艇史』 (学習研究社、2004年) ISBN 4-05-603412-5
<references group="注釈"/>
* {{Cite journal|和書|title=駆逐艦 一般計画要領書 附現状調査 昭和十八年七月|date=1943-07|ref=一般計画要領書(駆逐艦)}}
=== 出典 ===
<div style="font-size:88%">{{reflist|2}}</div>


* [http://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)](防衛省防衛研究所)<!-- レファレンスコード順-->
== 参考文献 ==
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030103200|title=昭和20年2月1日~昭和20年4月10日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)|ref=S2004二水戦日誌(3)}}
* [http://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)]
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030150500|title=昭和19年6月20日~昭和19年7月10日 第61駆逐隊戦闘詳報(1)|ref=S1906第61dg戦闘詳報(1)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030348600|title=昭和18年10月1日~昭和18年10月31日 佐世保鎮守府戦時日誌(3)|ref=昭和18年10月佐世保鎮守府戦時日誌(3)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030358100|title=昭和19年9月1日~昭和19年9月30日 舞鶴鎮守府戦時日誌|ref=昭和19年9月舞鶴鎮守府戦時日誌}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030590100|title=昭和19年10月25日 駆逐艦霜月戦闘詳報|ref=霜月戦闘詳報(捷号)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070109500|title=昭和16年1月~6月 達/5月(1)|ref=S16.1-6達/5月(1)}}
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**レファレンスコード:C12070510100 秘海軍公報『2月(1)』 (昭和20年1月~6月 秘海軍公報/昭和20年2月)
**{{Cite book|和書|id=Ref.C12070530000|title=昭和20年1月2日 昭和20年8月30日秘海軍公報/昭和20年8月(2)|ref=秘海軍公報昭和20年8月(2)}}
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C14121192600|title=昭和22年.25年度 帝国海軍戦時編制案 昭和16.2.1(別表第1~別表第6)|ref=昭和22.25年度戦時編制案(昭和16年2月)}}
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030150500|title=昭和19年6月20日~昭和19年7月10日 第61駆逐隊戦闘詳報(1)|ref=S1906第61dg戦闘詳報(1)}}


**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030590100|title=昭和19年10月25日 駆逐艦霜月戦闘詳報|ref=霜月戦闘詳報(捷号)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030103200|title=昭和20年2月1日~昭和20年4月10日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)|ref=S2004二水戦日誌(3)}}
* [[アメリカ海軍]]
* [[アメリカ海軍]]
**ONI 41-42 Supplement, Aerial Views of Japanese Naval Vessels 1943年7月期回付分、[[アメリカ海軍情報局|Office of Naval Intelligence]]、1943年
**ONI 41-42 Supplement, Aerial Views of Japanese Naval Vessels 1943年7月期回付分、[[アメリカ海軍情報局|Office of Naval Intelligence]]、1943年
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**Naval Aviation News 1943年9月15日号、Office of [[アメリカ海軍作戦部長|Chief of Naval Operations]] and [[:en:Bureau of Aeronautics|Bureau of Aeronautics]]、1943年
**Naval Aviation News 1943年9月15日号、Office of [[アメリカ海軍作戦部長|Chief of Naval Operations]] and [[:en:Bureau of Aeronautics|Bureau of Aeronautics]]、1943年


== 脚注 ==
* {{Cite book|和書|author=「歴史群像」編集部著|coauthors=田村俊夫、水谷清高|year=1999|title=歴史群像太平洋戦史シリーズVol.23 秋月型駆逐艦|publisher=学習研究社|isbn=4-05-602063-9|ref=歴史群像}}
=== 注釈 ===
* 雑誌「歴史群像」 太平洋戦史シリーズ Vol.45 『真実の艦艇史』 (学習研究社、2004年) ISBN 4-05-603412-5
<references group="注釈"/>
* 雑誌「丸」編集部『丸スペシャル No.19 日本海軍艦艇シリーズ 駆逐艦朝潮型 秋月型』(潮書房、1978年) 雑誌コード 8343-7
=== 出典 ===
* 雑誌「丸」編集部『<small>写真</small> 日本の軍艦 第11巻 <small>駆逐艦II</small>』(光人社、1990年)
<div style="font-size:88%">{{reflist|2}}</div>
* 雑誌「丸」編集部『軍艦メカ4 日本の駆逐艦』(光人社、1991年) ISBN 4-7698-0564-0 (新装版あり ISBN 4-7698-1527-1。同内容が『図解 日本の駆逐艦』ISBN 4-7698-0898-4としても刊行。)
* 雑誌「モデルアート」 艦艇模型テクニック講座 vol.6 『日本海軍艦艇図面集 戦艦/駆逐艦/小艦艇篇』 (モデルアート社、1999年)
* [[福井静夫]]『日本駆逐艦物語』 (光人社、1993年) ISBN 4-7698-0611-6 (新装版あり ISBN 4-7698-1395-3)
* 秋元実・編 『[[ウォーターラインシリーズ|ウォーターライン]]ガイドブック 日本連合艦隊編』改訂版 (静岡模型教材協同組合、2007年10月改訂) [[JANコード]] 4945187990224
* 森恒英『軍艦メカニズム図鑑 日本の駆逐艦』 (グランプリ出版、1995年) ISBN 4-87687-154-X
*片桐大自 『聯合艦隊軍艦銘銘伝』光人社、1988年。


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==

2017年3月31日 (金) 14:16時点における版

秋月型駆逐艦
公試運転中の秋月(1942年5月17日)[1]
公試運転中の秋月(1942年5月17日)[1]
基本情報
種別 一等駆逐艦[2]
運用者  大日本帝国海軍
同型艦 12隻
建造数 13隻
前級 -
次級 -
要目 (計画)
基準排水量 2,700英トン[3]、または2,701英トン[4]
公試排水量 3,470トン[4] または3,485トン[5]
満載排水量 3,888トン[4] または3,899.2トン[5]
全長 134.20m[4]
水線長 132.00m[4]
垂線間長 126.00m[4]
最大幅 11.60m[4]
水線幅 11.60m[4]
深さ 7.05m[4]
吃水 公試平均 4.15m[4]
満載平均 4.51m[4]
ボイラー ロ号艦本式缶(空気余熱器付[6]) 3基[7]
主機 艦本式タービン(高中低圧[6])2基[7]
推進器 2軸 x 340rpm[7]
直径3.650m、ピッチ3.720m[8]
出力 52,000shp[4]
速力 33.0ノット[4]
航続距離 8,000カイリ / 18ノット[4]
燃料 重油 1,080トン[4]
乗員 計画乗員 263名[9]
秋月竣工時定員 273名[10]
乗員 315名[要出典]
兵装 65口径10cm連装高角砲 4基8門[12]
25mm機銃 連装2基[12]
61cm九二式4連装4型発射管 1基4門[13]
九三式魚雷8本[14]
九四式爆雷投射器2基、爆雷装填台2基[13]
爆雷投下台(水圧三型)2基、同(手動一型)4基[13]
九五式爆雷 54個[13]
秋月1944年10月[15]
65口径10cm連装高角砲 4基8門
25mm機銃 3連装5基、単装13基(推定)、単装取付座7基
13mm機銃 単装4基
61cm4連装魚雷発射管 1基4門
(九三式魚雷8本)
九四式爆雷投射器2基
爆雷投下軌条2基
九五式爆雷54個
搭載艇 9m内火艇2隻、9mカッター2隻、6m通船1隻(港保管)[11]
ソナー 九三式水中聴音機1組(後日装備)[16]
九三式三型探信儀(1943年3月)[16]
特殊装備 小掃海具1型改1 2組[13]
テンプレートを表示

秋月型駆逐艦(あきづきかたくちくかん)は、日本海軍の一等駆逐艦[2]。 計画時の名称から乙型駆逐艦、各艦名から月型とも呼ばれる[17][18]

なお、仮称艦名第361号艦以降を「冬月(ふゆつき)[19]型」、仮称艦名第365号艦以降を「満月(みちつき)[20]型」として区別するものもあるが、日本海軍の正式な類別(艦艇類別等級)では冬月および満月も『秋月型駆逐艦』である[21][22]。本稿では便宜上の分類も一括記載する。

建造背景

第一次世界大戦以降、航空機の脅威の認識に差はありつつも航空機対策として各国では軍艦に対空機銃や高角砲を装備するようになった[23]。その中でイギリス海軍1935年(昭和10年)から旧式化していたC級軽巡洋艦の中から2隻を改装、備砲・発射管を全て撤去して10cm高角砲単装10基を搭載する防空艦として就役させた[23]。更に1936年(昭和11年)からダイドー級軽巡洋艦の計画を初め、その後実際に建造を実行に移した[23]。 これに影響を受けたアメリカ海軍もまた防空専門艦の建造計画を推進し、結果アトランタ級軽巡洋艦を建造した[24]

日本海軍でも旧式化していた天龍型軽巡洋艦[25]5,500t級軽巡洋艦を改装し防空巡洋艦とする案も出され、昭和天皇にも奏上した[25]実際、候補になった艦の船体のサイズはC級軽巡と類似しており、また、川内型軽巡洋艦長良型軽巡洋艦を除く軽巡は老朽化のため退役が予定されていたため理論上可能であった。だが、当時の日本海軍は水雷戦隊の編成を優先しており、退役予定の艦も必要ならその任務に動員する予定だったためこの改装案は見送られた。他にも、多額の予算をつぎ込んで候補の船を改装しても能力不足となってすぐに第一線での任務をこなせなくなっては意味がないと考えられた。また、イギリス海軍の様に第一線での任務をこなせなくなった艦を船団護衛等の輸送船護衛任務に投入することを考慮していなかったため、それを実行しても費用対効果が低いと判断された。他にも新たに防空巡洋艦を建造するという計画が立てられたが、建造コストの高さから防空巡洋艦の建造計画は中止された。[要出典]

日本海軍で防空艦の計画が実現したのは昭和14年度(1939年)の海軍軍備充実計画(通称マル4計画[注釈 1])での乙型駆逐艦(本型)6隻からになり[23]1940年(昭和15年)に1番艦が起工した[26]。 日本海軍では乙型駆逐艦(本型)を量産し、大和型戦艦改大和型戦艦・航空戦隊の護衛に配備する予定だった[27]

計画

本型の計画は1938年(昭和13年)頃の軍令部要求から始まる[23]。当初の要求は、

  • 基準排水量 2,200トン
  • 速力35ノット以上
  • 航続距離18ノットで10,000カイリ
  • 長10cm高角砲8門、25mm機銃4挺、爆雷投射機近用2基(爆雷30個)、同遠用2基(同40個)

その他に煙幕展張装置、飛行機救難デリックを装備などだった[23]。これは当時トンボ釣りと言われた空母直衛駆逐艦の代用として計画されたもので、魚雷の搭載は考慮されておらず艦種も「直衛艦」となっていた[23]。しかし航続距離の要求を満たした場合、重油搭載量は1,200トン、排水量は4,000トンを突破することになり、1939年(昭和14年)4月にまとまった計画では速力33ノット、航続距離は18ノットで8,000カイリと縮小されることになる[23]。この時点では4連装魚雷発射管1基、魚雷8本の装備が含まれており、艦種は「駆逐艦」に変更されて建造されることとなった[28]

上記のようにマル4計画で6隻され[23]、更に昭和16年度(1941年)の戦時建造計画(そのうちのマル急計画内)で10隻の建造が計画された[29]。昭和17年度の軍備充実計画(マル5計画)で16隻が計画されたが、昭和17年度の戦時艦船建造補充計画(改マル5計画)へ改訂の際23隻に増加し、合計39隻の建造が計画された[29]。 このうちマル5計画の16隻、改マル5計画の最後の7隻は速力を増したいわゆる改秋月型駆逐艦だった[29]

艦型

設計主務者は松本喜太郎[30]。基本計画番号F51[4]

船体

いわゆる船首楼型船体で前部に主砲2基を搭載するために船首楼の長さが全長のおよそ1/3になっている[31]。また重心対策として前部主砲の位置がなるべく低くなるように上甲板も船首楼下では前下がりの傾斜が付けられ、低船首楼型に近い船型になっている[32][33]。日本海軍の駆逐艦は艦首形状にいわゆるダブル・カーブド・バウを採用していたが、本型の艦首は直線に近い形状になった[31]。フレームスペースは場所によって5mm単位になっており、精密な設計が伺える[34]

なお舷外電路は秋月の竣工時から装備されていた[31]

艦橋

日本海軍として初めての防空艦であり、艦橋は1940年(昭和15年)春、舞鶴海軍工廠に実物大模型を作り検討が重ねられた[35]。艦橋構造は陽炎型と同じ3層構造ながら、前部主砲に視界を遮られないように高さが2m増している[35]。従来の日本海軍駆逐艦は操舵室が羅針艦橋の下に設けられていたが、本型では同様の理由で羅針艦橋に舵輪が設けられた[35]。羅針艦橋上部には露天の防空指揮所が設けられ、全周にブルワークがあり、前方には遮風装置が設置されている[35]。艦長は対空戦闘の指揮をここで執る[35]。トップには九四式高射装置が装備され、艦橋構造とは独立して3本の円柱で支えられ[36]、艦橋後方には支柱2本が外部に露出している[37]

電探装備(後述)の際に信号所下のセルター甲板を後方に拡大し、電探室を設けた[37](「高角砲と防空艦」p.138の艦橋内の側面略図によると暗号室を後方に拡張し、電探室と兼用としている[38])。この時信号所甲板の床も拡張された[37]。羅針艦橋後方側面にあるブルワークは二式哨信儀が装備されて高さが低められた[37]。初月では哨信儀の位置のみ、以降の艦ではブルワーク全体の高さが低められている[37]

また冬月以降は艦橋基部を後方に拡大して内部容積を増やし、電探室を艦橋内に設け、信号所下の張り出しは無くなった[37]。春月は旗艦設備を艦橋内に設けたため、拡大した艦橋から更に甲板室や野菜室が信号所下に張り出した[37]

主砲

従来海軍が採用していた八九式40口径12.7センチ高角砲に替わり、九八式65口径10センチ高角砲を装備している[39]。この砲は口径サイズこそ以前のものより小さいが口径長は長く、より長射程、高初速の砲となった。通説では、砲身そのものの寿命(砲身命数)は短く、12.7センチ砲が約1,000発なのに対し、10センチ砲は350発と三分の一程度となっており[39]、寿命の短さの対策として砲身を艦の設備でも交換できる用にしたと言われているが、それを実現すると構造が複雑化するため、実際はその設計が行われなかったとも言われる。仮にできたとしても予備砲身を積んだ記録が確認できないため、少なくともそういった運用は考慮されていなかったと思われる。

砲の性能は高く、カタログスペックで最大射程19,500メートル、最大射高14,700メートル、発射速度毎分19発[注釈 2]というものであり[39]、八九式12.7センチ砲に比べ、いずれも1.4倍以上の能力向上を誇った。だが、揚弾薬装置も長時間の使用で故障を生ずる可能性があり、その場合は人力で運ばねばならなかった[40]。 砲側照準による目標の捕捉も可能であるが、実戦では難しいのが実情だった[41]。また連続発射後のガスで、砲手が気絶した事もあった[42]

本型では砲塔形式のA型連装砲を搭載[39]、船首楼甲板に背負い式に2基、後部甲板に背負い式に2基の計4基8門が搭載された[43]。最大仰角90度、俯角10度[39]、俯仰旋回は20kw電動機で行われた[31]

制式採用された中では最新の九四式高射装置が備え付けられていたが、米軍の射撃指揮装置・MK(マーク)37射撃指揮装置(GFCS)がレーダー測距を可能としていたのに比し、射撃用レーダーを持たず、対空目標との距離測定及びその照準追尾は光学による人力であり、高角砲のコントロールも人手に拠ったため射撃の精度は乗組員の錬度に頼る点が大きかった。当初の計画では九四式高射装置は前部と後部の2箇所に計2機装備するとなっていたが、実際には艦橋上の前部にのみ装備されて1機で全砲塔の射撃を指揮することとなり、後部に装備した艦は無かった[44][45]。後部高射装置部分には外筒のみ装着されていたが中身はなく、測距儀の出っ張りも無かった。この部分は後の機銃増備時に機銃台に転用された。マリアナ沖海戦における第61駆逐隊(初月、若月、秋月)の戦闘詳報では、後部高射装置の増設を強く訴えている[46]

機銃

煙突の直後、魚雷発射管の直前に左右に渡る機銃台が設置され、25mm連装機銃2基が装備された[31]。射撃指揮装置はなく直接照準であり、操作も人力によった[31]

1943年(昭和18年)の初めに煙突の缶用吸気口の乗せる形で左右に機銃台を設け、3連装機銃を各1基ずつ増備した[31]。同年には連装機銃は3連装機銃に交換した[31]。この時に機銃台も3連装用に拡張されたものと思われる[47]。同年末に後部高射装置設置予定の支筒の上に機銃台を設け、3連装機銃1基を増載した[31]

冬月以降の艦は竣工時から魚雷発射管直後に両舷に渡る機銃台を設け、3連装機銃を2基設置した[48]。秋月などに装備された煙突両舷の機銃台は無く、中部機銃台と合わせて3連装4基の計画になる[47][49]。冬月の竣工時(1944年(昭和19年)5月)には秋月などと同様に後部高射装置支筒上の機銃台に3連装1基も搭載し、計3連装5基を搭載した[47]。1944年6月のあ号作戦までに秋月型各艦は3連装機銃5基を装備したことになる[50]。各艦によって違いがあるが、あ号作戦以降は単装機銃を各所に増備した[50]

1945年(昭和20年)2月には「春月」を除く各艦は艦橋の左右に機銃台を設けて3連装機銃各1基を設置、計3連装7基となった[31]。「春月」は旗艦設備を艦橋内に設けたためにこの増備は実施しなかった[31]

魚雷

上述の通り、当初は魚雷を搭載しない計画だったが、途中で搭載することに計画が改められた[51]。兵装は陽炎型(艦隊型駆逐艦)の半分で、魚雷発射管は陽炎型と同じ次発装填装置付きの九二式4連装発射管4型1基、酸素魚雷8本(陽炎型は発射管2基、魚雷16本)を搭載した[51]

冬月以降は当初予備魚雷を搭載せずに魚雷は発射管内の4本のみの計画だった[51]。しかし1944年2月に予備魚雷の搭載が復活し、竣工時には秋月と同様の予備魚雷格納筺が設置され、魚雷8本の搭載が可能になっている[51]

爆雷

九四式爆雷投射機2基、爆雷投下台6基を装備し、九五式爆雷54個を搭載した[52]。朝潮型から夕雲型の艦隊型駆逐艦では爆雷投射機1基、爆雷18個または36個(大掃海具を装備しない場合)で、本型では空母の直衛を任務にしたことからより強力な対潜兵装となっている[52]

1944年3月竣工の霜月以降は投下台から爆雷投下軌道2条に変更された[52]。以前の艦も同時期に投下軌道に変更されたものと思われる[52]。 軌道の長さは爆雷6個分で右舷のものはそれより長く、運搬を兼ねて前方に延長されたと思われる[47](「あ号作戦後の兵装増備状況調査」掲載の略図によると、「若月」「霜月」は左舷側が延長されている[50])。

電探

電探の装備は計画になく[16]、秋月の竣工時にも電探は装備されていない[1]。照月は電探装備の機会が無く沈没している[53]

初月(1942年12月29日竣工)から冬月は竣工時から21号電探を装備しており[54]、これに伴い前部マストの形状が変更されている[55]。初月と同日竣工の涼月も同様の可能性がある[56]。秋月では1943年8月26日付訓令により、1943年11月はじめまでに前部マスト上に21号電探を1基追加装備した[57]。21号電探は大型の対空電探であり、戦艦・航空母艦や巡洋艦などの大型艦に装備されたが、駆逐艦で装備したのは秋月型のみである[58]

秋月では1944年7月上旬、後部マスト上に13号電探を1基追加装備した[59]。「あ号作戦後の兵装増備の状況調査」にて、他の秋月型各艦でも同様に増備されていたことが確認できる[50]。13号電探は小型・軽量な対空電探だったため、他の駆逐艦にも装備された。

1944年10月のレイテ沖海戦の前後に前部マストから21号電探を撤去し、跡に13号電探1基と22号電探1基を増備した艦があった。13号電探は前後あわせて2基となる。涼月・冬月では時期が不明だが写真でこの増備されたことが確認でき、霜月は戦闘詳報で両方とも装備している事がわかる。春月以降の艦は新造時よりこの形態をとった[60]。秋月はこの増備を行う前に戦没した[61]。22号電探は小型・軽量な対水上電探で他の駆逐艦にも装備された。

他の日本海軍の艦艇全般に共通することだが、電探を装備していても主砲・機銃を電探に連動させる照準装置が開発されていなかったことは秋月型でも同じだったため、射撃における電探の効力は限定されたものとなった[62]。それでも機数・編隊・方向・距離がわかるため、対空戦闘には不可欠の装備となっていた[63]

機関

缶(ボイラー)は陽炎型と同じロ号艦本式ボイラー3基、蒸気圧力350kg/平方cm、蒸気温度350℃も同一である[6]。前部缶室にボイラー2基、後部缶室に同1基を搭載した(陽炎型は1缶1室)[64]。主機は生産性を考慮して基本的に陽炎型と同じ艦本式タービンであるが、減速ギアは新設計になり、回転数は陽炎型の380rpmから340rpmに落とされた[65][注釈 3]

初春型以降、陽炎型までの駆逐艦の機械室は、前部機械室に左右のタービン2基を置き、後部機械室には発電機などの補機を置いていた[64]。一方秋月型では前部機械室に左舷タービン、後部機械室に右舷タービンを置いた[64]。それまでの配置だと、前部機械室が被弾などで浸水すると航行不能になるのに対し、後年建造される松型駆逐艦が採用するシフトエンジン方式ほどではないが、片方の機械室の浸水だけでは航行可能で、残存性が高まることになる[65]

前部機械室の右舷側と後部機械室の左舷側は重油タンクに当てられた(陽炎型までは機械室舷側に重油タンクは無い)[64]レイテ沖海戦で小沢機動部隊に所属していた霜月は至近弾による浸水を左舷機械室外側の重油タンクが喰いとめた例を紹介し、重油タンクのない右舷側後部で至近弾があった場合、後部機械室が一気に浸水する危険性を指摘している[66]

また、軽巡夕張以降、日本海軍巡洋艦で採用されている「誘導煙突」を駆逐艦として初めて(そして唯一)採用した[65]

艦の大きさやシルエットが夕張と似ているため、ラバウル方面に配備された照月、新月を目撃したアメリカ軍は「日本軍は夕張を量産している」と誤報を出したという。[要出典][注釈 4]

マスト

前部マストは下部は煙突をまたぐ4脚で、信号所甲板の高さから3脚になる[56]。艦橋トップに備えた高射装置の射界を広くとるために支柱の間隔は狭められ、位置も艦橋から離され[36]、軽く後方に傾斜している[56]。電探装備の際にマスト上部にフラットを設け、電探の後方にマストが延びるよう設計が変更された[56]。同時にマスト下部も補強がされている[56]

サブタイプ

日本海軍の艦艇類別等級表においては命名された全13隻が『秋月型駆逐艦』である[21][22]。 しかし秋月型駆逐艦は就役が戦時中だったため、後になればなるほど工期の短縮を図るために艤装の簡略化が進み、「同型艦」でありながら初期と後期の艦では外見上相違する部分がある[67]。各艦が属するサブタイプの呼称は文献によって見解や表記が異なる場合が多いため、以下にそれを列挙する。

秋月型

秋月型[68]秋月型原型

  • 秋月から霜月まで(マル4計画艦6隻とマル急計画の第360号艦)[26]

「高角砲と防空艦」では「霜月」までを秋月型、後述する冬月型・満月型を合わせた総称として秋月級と仮に呼ぶとしている[68]

冬月型

冬月型
公試から帰港した「冬月」(1944年5月下旬)[69]
公試から帰港した「冬月」(1944年5月下旬)[69]
基本情報
要目 (F53計画)
基準排水量 2,750英トン[70]
公試排水量 3,458トン[71][注釈 5]
満載排水量 3,899トン[70]
全長 134.20m[70]
水線長 132.00m[70]
垂線間長 126.00m[70]
最大幅 16.00m[70]
水線幅 16.00m[70]
深さ 7.05m[70]
吃水 公試平均 4.15m[70]
満載平均 4.50m[70]
ボイラー ロ号艦本式ボイラー3基[72]
主機 艦本式タービン2基[72]
推進器 2軸 x 340rpm[72]
推進器直径3.650m[72]
出力 52,000shp[70]
速力 33ノット[70]
航続距離 8,000カイリ / 18ノット[70]
燃料 1,066トン>[70]
乗員 計画乗員 272名[73]
兵装 65口径10cm連装高角砲 4基8門[49]
25mm機銃 3連装4基[49]
(冬月竣工時:25mm3連装機銃 5基[47])
61cm九二式4連装4型発射管 1基4門[14]
九三式魚雷4本[14]、竣工時8本
九四式爆雷投射器2基、爆雷装填台2基[14]
爆雷投下台(水圧三型)2基、同(手動一型)4基[14]
九五式改一爆雷 72個[14]
搭載艇 8m内火艇2隻、8mカッター2隻[74]
レーダー 21号電探1基[75]
ソナー 九三式水中聴音機1組(後日装備)[75]
九三式探信儀[75]
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冬月型改秋月型[76]秋月型改型[70]

  • 冬月(第361号艦)から花月(第366号艦)まで
  • 「高角砲と防空艦」では「花月」(第366号艦)を[77]、「写真日本の軍艦第11巻」では「満月」(第365号艦)と「花月」を後述の満月型に含める。

冬月以降は計画番号F53[70](秋月はF51[4])となる。秋月の計画との相違点は以下のようなものがある。

  • 秋月の艦首は下部でなだらかなカーブを描いて艦底と繋がるが、冬月以降は艦首は艦底まで直線状になっている[78]。なお宵月の艦首は水線下で一部斜めにカットされた形状となっているのが確認出来る[78]。これが宵月だけの特徴か、他の艦が同様だったかは確認できていない[78]
  • 日本海軍駆逐艦独特の2番3番ボイラー用のお椀型吸気口が廃止され[76]、煙突側面と中部機銃台下にそれぞれ吸気口が設けられた[79]
  • 後部甲板室はその前半部が省略され、後部操舵室は吸排気口上に探照燈台を兼ねて設置され後部甲板室から独立した上構となった[48]
  • 後部マストは13号電探装備の関係から開脚が大きくなり、開脚方向も違っている[56]。柱の材料も円材から角材とアングルに変更されたようである[56]
  • 機銃台や探照燈台が多角形の形状になっている[79]
  • 機銃は25mm3連装機銃4基12挺で計画された(秋月の計画では連装2基4挺)[80]。中部機銃台は秋月と同様の煙突後方、後部機銃台が後部操舵所両舷(発射管直後)に設置された[79]
  • 機銃増備の代償重量として計画では予備魚雷の搭載を廃止したが、1944年2月頃に復活、冬月以降の各艦も竣工時には秋月と同様の予備魚雷格納筺を装備していた[81]。右舷側の魚雷用ダビットを廃止、それにより魚雷運搬軌道も途中に分岐点のある敷き方に変更されている[47]
  • 爆雷は72個(秋月計画54個)に増載された[82]
  • 21号電探の装備は計画から盛り込まれた[83]
  • 艦載艇が8m内火艇と8mカッターに変更された[84]

同じ冬月型でも後期艦では1番ボイラー用吸気口や後部甲板室側面が曲面から平面を使用した形状に変更された[85]

満月型

満月型清月型[55]改冬月型改改秋月型[86]

  • 第367号艦(予定艦名「清月」)から第5076号艦(予定艦名「南風」)まで[55]

1944年5月5日に決裁されたマル19線表改定では、次期着工艦から大幅な工事簡易化がされることになった[76]。船体は直線を多用した形になり、特殊鋼の使用が中止され[87]、これにより排水量が若干増し、速度が低下することなった[86]。工期については、起工から竣工まで12カ月から13カ月かかっていた所を、平均8カ月から9カ月に短縮できる予定だった[86]

外観上は船体水上部や艦首の曲線を大幅に削除し、艦尾形状も外板の傾斜を廃止[55]。四式水中聴音機を艦底に搭載し、それにより艦底は膨らんだ形となる予定だった[55]。損傷復旧後の「涼月」の艦橋と艦首はこの型に準拠した形状と推定される[78]

「満月」(第365号艦)と「花月」(第366号艦)を冬月型とするか、満月型とするかで諸説ある。

  • 「写真日本の軍艦第11巻」では2隻とも満月型としている[26]
  • 「高角砲と防空艦」では「満月」は満月型、「花月」を冬月型としている[77]
  • 歴史群像のムック「太平洋戦史シリーズVol.23 秋月型駆逐艦」では、「花月」は満月型に伝えられる大規模な工事簡易化が写真から確認できないことから冬月型に含めている[注釈 6]。上記の大幅な簡略化は「367号艦」(「清月」)から実施すると残された図面に書かれており、これを当てはめるとこの型は清月型になる、としている[55]

改秋月型

改秋月型[88]秋月改型[29]超秋月型[89]

  • マル5計画艦(仮称艦名第770号艦から同第785号艦)および改マル5計画艦のうち最後の7隻(仮称艦名第5077号艦から同第5083号艦)

秋月型から機関出力を「島風」と同じ75,000馬力にして速力36.7ノットを計画した[90]

艦名・戦歴

マル4計画の6隻は舞鶴海軍工廠と三菱長崎造船所で3隻ずつ建造され、1942年(昭和17年)6月に1番艦秋月が竣工した[26]マル急計画では佐世保海軍工廠が加わり、浦賀船渠でも1隻建造された[26]

日本海軍の現場からは、艦名からまとめて月型(月クラス)と呼ばれることもあった[17][18]。これについて「待合茶屋の名前ばかりつけて」という冗談があった[18]

秋月(あきづき)[91]
1942年6月11日舞鶴工廠で竣工。竣工直後、日本本土に空襲をかけるため接近中のアメリカ機動部隊迎撃のため駆逐艦2隻(浦風)と共に空母瑞鶴の護衛として出撃した。その後、ソロモン諸島に向かう途中、攻撃してきたB-17を1機撃墜した。第四水雷戦隊旗艦として行動中、空襲を受けて中破する。修理後は第十戦隊旗艦として鼠輸送に従事。1943年1月19日、輸送船妙法丸救助に向かったところ、その際米潜水艦の雷撃が右舷缶室下に命中した。かろうじてトラック島に寄港できたものの、応急修理に40日以上を費やした。サイパン島に寄港し佐世保に向かうこととなったが、その後突然艦橋下の構造物が切断した。秋月はやむなくサイパンに戻り、艦橋を撤去した。強度が落ち折れ曲がった船体前部を切断し長崎に帰還、建造中だった霜月の艦首を流用して接合することで修理工期短縮を図ったが、それでも修理に9ヶ月を要することになった。
1944年10月25日エンガノ岬沖海戦に参加、機動部隊の援護射撃中爆発を起こして沈没した。これは、「味方空母(瑞鳳)に接近した魚雷を自分が犠牲になって受けたため」とも「味方が打ち上げた高角砲弾の破片、または機関銃弾の不発弾が魚雷に当たり誘爆した(当時の艦長の憶測)」ともいわれている。また、機関科士官として秋月に乗り込んでいた山本平弥は著書「防空駆逐艦『秋月』爆沈す」(光文社NF文庫)の中で、敵機の爆弾命中による魚雷誘爆が原因という説を唱えている。一部の書籍で秋月はアメリカ軍潜水艦の攻撃によるとするものがあるが、雷撃した時刻と沈没した時刻との関係からこれには否定的な見解が多い。
照月(てるづき)[92]
1942年8月31日三菱長崎造船所で竣工。同年10月、南太平洋海戦に参加する。同年11月中旬の第三次ソロモン海戦は二度の夜戦に参し、撃沈された金剛型戦艦2隻(比叡霧島)から乗組員を救助する。ガダルカナルへの物資輸送の警戒艦旗艦(第二水雷戦隊司令官田中頼三少将座乗)として行動中の12月12日、アメリカ軍の魚雷艇の攻撃を受け沈没した。
なお、アメリカ軍は秋月型を当初はTERATSUKI class[93]、終戦近くになってTERUTSUKI class[94]と呼んだが、これらは綴りが異なるものの本艦の名が元になっている。
涼月[95](すずつき)
1942年12月29日三菱長崎造船所で竣工。完成後、物資輸送や艦隊護衛などの任務に就いた。1944年1月16日にアメリカの潜水艦の魚雷により艦首の大部分と艦尾を喪失し初月に曳航され呉海軍工廠に帰還して大修理。同年10月17日にもアメリカ軍潜水艦の魚雷により艦首の一部を喪失するが撃沈されず帰投している。艦首の復旧時に新造された艦橋は形状を簡易化した角ばったものとなった。これは清月以降の設計図によるものと考察されているが[55]、就役した艦でこの形状を持つものは涼月のみである。しかし捷一号作戦直前に冬月と共に米潜水艦に雷撃され損傷。レイテ沖海戦多号作戦には参加していない。菊水作戦時には戦艦大和および第二水雷戦隊僚艦と共に出撃した。だが戦闘中に艦橋近くに直撃弾を受け大浸水を来たす。戦闘終了後、火災のため弾薬の一部が誘爆し艦が前方に傾斜したため前進不能になり、駆逐艦長判断によって後進での航行を余儀なくされる、磁気コンパスが狂い南東に進む、海図が全て燃え乗組員の記憶で日本地図を作成する、さらに雷撃を受けるも後進での操艦により難を逃れるなど佐世保に満身創痍で帰投した逸話が残る。すでに沈没したと思われており、生還の知らせは驚きをもって迎えられた。涼月は直ちにドックへ入れられたが、ドックの排水を待つことができず着底してしまうという、まさにギリギリの帰還だった。帰投後は防空砲台として使用されて終戦を迎える。1948年に解体され、涼月の船体は冬月と共に福岡県若松港の防波堤となり、軍艦防波堤と呼ばれた。
初月(はつづき)[96]
1942年12月29日舞鶴工廠で竣工。実戦初参加はマリアナ沖海戦だった。1944年10月25日のエンガノ岬沖海戦には瑞鶴の護衛艦として参加、瑞鶴の沈没時には救助活動を行い、その後、同型艦若月と軽巡五十鈴と共に千代田乗員の救助に向かう。その救助作業中、ローレンス・T・デュボーズ少将指揮するアメリカ艦隊(重巡3・軽巡1・駆逐艦12)が接近し砲戦となる。初月は撃沈されたが、実に2時間にわたり敵を拘束することになり、若月、五十鈴は無事に帰還できた。この戦闘で、アメリカ軍巡洋艦4艦は徹甲弾を合計1,200発以上撃っており、前述のデュボーズ少将は麾下駆逐艦からの報告と併せ、初月を戦艦か少なくとも阿賀野型巡洋艦であると主張していた。またこの時瑞鶴乗員救助中の内火艇が取り残されて漂流、21日目に台湾に流れ着き瑞鶴乗員17名、初月乗員8名が生還している。
新月(にいづき)[97]
1943年3月31日、三菱長崎造船所にて竣工。第11水雷戦隊、続いて第8艦隊に所属してラバウルへ進出。7月6日、第三水雷戦隊旗艦としてコロンバンガラ島への輸送任務中、米艦隊との夜間水上戦闘で沈没、第三水雷戦隊司令官秋山輝男少将と共に全将兵戦死した(クラ湾夜戦)。秋月型駆逐艦の中で最も短い生涯を遂げた艦であった。
若月(わかつき)[98]
1943年5月31日、三菱長崎造船所にて竣工。実戦初参加はマリアナ沖海戦で初月・五十鈴とともに参加、大鳳の沈没時には小沢治三郎中将の救助にあたった。続くエンガノ岬沖海戦後の救助作業時のアメリカ艦隊との遭遇戦では、無事生還するも約半月後の1944年11月11日、オルモック輸送作戦における船団護衛中米軍機の攻撃を受け沈没した。
霜月(しもつき)[99]
1944年3月31日、三菱長崎造船所にて竣工。建造中に舞鶴工廠からのボイラーの配送待ちで工事が遅延していたところ、回航された秋月に本艦の艦首を移植したため工期がさらに遅延する。マリアナ沖海戦、エンガノ岬沖海戦に参加した。再びフィリピン方面へ進出後の1944年11月25日、第三十一戦隊旗艦として行動中にアメリカ潜水艦の雷撃で沈没、第三十一戦隊司令官江戸兵太郎少将も戦死した。
冬月(ふゆつき[19])[100]
1943年10月1日、『秋月型』に類別[21]。1944年5月25日、舞鶴工廠にて竣工。菊水作戦時には大和・涼月等と共に出撃。帰投後は門司で防空砲台として使用されて終戦を迎えた。戦後は工作艦として使用され、1948年に解体される。船体は涼月と共に若松港の防波堤となった。
春月(はるつき)[101]
1944年12月28日、佐世保工廠にて竣工。瀬戸内海での防衛任務で終戦を迎える。復員船として使用されたあと、1947年9月25日に戦時賠償艦としてソ連へ引き渡される。ソ連では駆逐艦「ヴネザープヌィイ」として短期間運用されたのち、練習艦「オスコール」として1955年まで運用、その後標的艦や海上施設として運用、1969年6月4日に除籍され解体された。
宵月(よいづき/よひづき)[101]
1945年1月31日、浦賀船渠にて竣工。戦後復員輸送に従事し1947年戦時賠償艦として雪風と共に中華民国に引き渡され、中華民国艦「汾陽」と改名となるが、実質運用はされていない。なお、秋月型の10センチ高角砲として書籍等に写真が載っているのは本艦の物だと言われていたが、後の研究で、この写真は引き渡された雪風(丹陽)に搭載替えされた時点のものであることが判明した。
夏月(なつづき)[102]
1945年4月8日、佐世保工廠にて竣工。戦後復員輸送に従事。1947年戦時賠償艦としてイギリスに引き渡されたが日本国内で解体された。
満月(みちつき[20]、仮称艦名第365号艦)[103]
本籍は呉鎮守府、建造所は浦賀船渠を予定[103]。1945年1月3日、佐世保工廠で起工、同年12月竣工予定[103]。2月5日、『秋月型』に類別[22]。4月17日に工程16%で工事中止。1948年2月に解体終了。
花月(はなづき、仮称艦名第366号艦)[104]
1944年12月26日、舞鶴工廠にて竣工。天一号作戦のため出撃した第一遊撃部隊を豊後水道まで護衛する。戦後復員輸送に従事。1947年戦時賠償艦としてアメリカに引き渡され、青島で調査された後、1948年2月3日に五島列島沖で実艦的として処分された。本艦以降竣工した艦は艦隊行動はほとんどおこなわず、瀬戸内海や日本近海より離れることはなかった。

建造中止艦

戦時補充計画(マル急計画)での建造中止艦(仮称艦名 - 予定艦名 - 備考)[26]

  • 第367号艦 - 清月(きよつき)[103] - 当初浦賀船渠で建造予定、その後舞鶴海軍工廠に変更[77]、本籍は横須賀鎮守府を予定[103]1944年9月5日製造訓令[105]、12月14日建造中止[106]
  • 第368号艦 - 大月(おほつき)[103] - 当初三菱長崎造船所で建造予定、その後世保海軍工廠に変更、本籍は横須賀鎮守府を予定[103]。1943年10月19日製造訓令[107][注釈 7]、1944年12月14日建造中止と推定[106]
  • 第369号艦 - 葉月(はづき)[103] - 当初浦賀船渠で建造予定、その後舞鶴海軍工廠に変更[77]、本籍は横須賀鎮守府を予定[103]。1944年9月5日製造訓令[105]、1944年12月14日建造中止[106]

マル5計画での建造計画艦(改秋月型駆逐艦)[29]

第770号艦から第785号艦までの16隻(改マル5計画に計画変更)

改マル5計画での建造計画艦(仮称艦名 - 予定艦名 - 備考)[88][108]

  • 第5061号艦 - 山月(やまづき) - 佐世保海軍工廠で建造予定、後に建造取り止め[109]
  • 第5062号艦 - 浦月(うらづき) - 佐世保海軍工廠で建造予定、後に建造取り止め[109]
  • 第5063号艦 - 青雲(あおぐも) - 舞鶴海軍工廠で建造予定、1944年5月5日佐世保海軍工廠建造に変更、後に建造取り止め[109]
  • 第5064号艦 - 紅雲(べにぐも) - 佐世保海軍工廠で建造予定、後に建造取り止め[109]
  • 第5065号艦 - 春雲(はるぐも) - 舞鶴海軍工廠で建造予定、1944年8月14日製造訓令、後に建造取り止め(1945年4月と推定される)[110]
  • 第5066号艦 - 天雲(あまぐも) - 浦賀船渠で建造予定、1944年5月5日建造取り止め[77]
  • 第5067号艦 - 八重雲(やえぐも) - 佐世保海軍工廠で建造予定、1944年5月5日建造取り止め[77]
  • 第5068号艦 - 冬雲(ふゆぐも) - 浦賀船渠で建造予定、1944年5月5日建造取り止め[77]
  • 第5069号艦 - 雪雲(ゆきぐも) - 佐世保海軍工廠で建造予定、1944年5月5日建造取り止め[77]
  • 第5070号艦 - 沖津風(おきつかぜ) - 舞鶴海軍工廠で建造予定、1944年5月5日建造取り止め[77]
  • 第5071号艦 - 霜風(しもかぜ) - 浦賀船渠で建造予定、1944年5月5日建造取り止め[77]
  • 第5072号艦 - 朝東風(あさごち) - 佐世保海軍工廠で建造予定、1944年5月5日建造取り止め[77]
  • 第5073号艦 - 大風(おほかぜ) - 浦賀船渠で建造予定、1944年5月5日建造取り止め[77]
  • 第5074号艦 - 東風(こち) - 佐世保海軍工廠で建造予定、1944年5月5日建造取り止め[77]
  • 第5075号艦 - 西風(にしかぜ) - 舞鶴海軍工廠で建造予定、1944年5月5日建造取り止め[77]
  • 第5076号艦 - 南風(はえ) - 浦賀船渠で建造予定、1944年5月5日建造取り止め[77]
  • 第5077号艦 - 北風(きたかぜ) - 改秋月型駆逐艦として計画、佐世保海軍工廠で建造予定、1944年5月5日建造取り止め[77]
  • 第5078号艦 - 早風(はやかぜ) - 改秋月型駆逐艦として計画、浦賀船渠で建造予定、1944年5月5日建造取り止め[77]
  • 第5079号艦 - 夏風(なつかぜ) - 改秋月型駆逐艦として計画、佐世保海軍工廠で建造予定、1944年5月5日建造取り止め[77]
  • 第5080号艦 - 冬風(ふゆかぜ) - 改秋月型駆逐艦として計画、舞鶴海軍工廠で建造予定、1944年5月5日建造取り止め[77]
  • 第5081号艦 - 初夏(はつなつ) - 改秋月型駆逐艦として計画、浦賀船渠で建造予定、1944年5月5日建造取り止め[77]
  • 第5082号艦 - 初秋(はつあき) - 改秋月型駆逐艦として計画、佐世保海軍工廠で建造予定、1944年5月5日建造取り止め[77]
  • 第5083号艦 - 早春(はやはる) - 改秋月型駆逐艦として計画、浦賀船渠で建造予定、1944年5月5日建造取り止め[77]

駆逐隊の変遷

秋月型は戦時中に建造されたため、戦没と新造艦の編入が錯綜し、フル編成が完結する機会は少ない。新月は駆逐隊編入の機会がないまま第八艦隊に単艦で編入されて戦没している。秋月型最終ロットが竣工する頃には、すでに艦隊行動が不可能になっており、駆逐隊も解隊されるものが続出した。このため、春月は当初より護衛戦隊の第103戦隊旗艦、花月は第31戦隊旗艦となっており、新月と合わせ3隻が駆逐隊に属していない。結果的に第六十一駆逐隊・第四十一駆逐隊の2個駆逐隊が編成された。機動部隊である第三艦隊第10戦隊での活動がほとんどを占め、戦争末期には第二艦隊第二水雷戦隊に所属し、主力駆逐艦らしい戦歴を重ねている。

第六十一駆逐隊

横須賀鎮守府に所属した秋月・照月で編成した最初の秋月型主体の駆逐隊。第10戦隊に属して機動部隊の直衛を担うはずであったが、編成時の秋月は第四水雷戦隊旗艦としてガダルカナル島の戦いに参加、照月は南太平洋海戦以降機動部隊と分離して第三次ソロモン海戦等の水上戦闘に参加した。涼月・初月の追加を待たず照月が戦没したほか、秋月や涼月が長期間の修理を要する被害を受けており、4隻体制を維持すること自体が困難だった。若月の戦没により、残るは本土で修理を完了した涼月のみとなったために解散した。

昭和17年10月7日:秋月、照月で編成[111]。第61駆逐隊司令則満宰次大佐[112]第三艦隊・第十戦隊。
昭和17年10月25日:秋月、第四水雷戦隊旗艦として行動中に損傷。内地帰投。
昭和17年12月12日:照月、第二水雷戦隊旗艦として行動中、ソロモン諸島で米軍魚雷艇の襲撃により戦没。
昭和18年1月15日:涼月と初月を編入、照月を除籍[113]
昭和18年1月19日:秋月(第十戦隊旗艦)、アメリカ潜水艦の雷撃により大破、第十戦隊司令官木村進少将が負傷、小柳冨次少将に交代[114]
昭和18年2月3日:第61駆逐隊司令大江覧治大佐[115]
昭和18年6月30日:秋月を除籍、予備艦に指定[116]
昭和18年8月15日:第十一水雷戦隊での練成を終えた若月を編入[117]
昭和18年10月31日:秋月を再編入[118]
昭和18年12月12日:第61駆逐隊司令泊満義大佐[119]
昭和19年1月16日:涼月が高知沖で被雷大破、泊駆逐隊司令が戦死した。
昭和19年3月20日:第61駆逐隊司令天野重隆大佐[120]
昭和19年8月3日:涼月の修理が完了、戦線に復帰する。
昭和19年10月16日:涼月、宮崎沖で被雷大破。レイテ沖海戦には秋月、初月、若月が参加。
昭和19年10月25日:レイテ沖海戦で秋月、初月戦没(天野駆逐隊司令戦死)[121]。12月10日除籍。
昭和19年11月11日:若月、オルモック作戦中に戦没(多号作戦)。涼月、修理完了、戦線復帰。
昭和19年11月15日:解隊、涼月と若月(書類上在籍)は第41駆逐隊に転出[122]

第四十一駆逐隊

マリアナ沖海戦に備えて単艦で第10戦隊に編入されていた霜月に第十一水雷戦隊での練成を終えた冬月を加えて昭和19年7月15日に編成した。レイテ沖海戦前に冬月が大破したため、駆逐隊単位での行動はほとんどなく、六十一駆から転入した涼月と修理が完了した冬月が菊水作戦に参加したのが駆逐隊として唯一の作戦行動である。菊水作戦によって、両艦とも損傷を蒙ったため、稼動できるのは追加された宵月と夏月だったが、燃料の払底のために活動することはなかった。終戦の日陽炎型駆逐艦の雪風を編入している。戦後の武装解除時に解隊した。

昭和19年7月15日:霜月、冬月で編成[123]。第41駆逐隊司令脇田喜一郎大佐[124]。第三艦隊第10戦隊。
昭和19年10月12日:冬月が被雷大破、レイテ沖海戦には霜月のみ六十一駆指揮下で参加する。
昭和19年11月15日:第二艦隊第二水雷戦隊に転籍。解隊した第六十一駆逐隊より涼月、若月(書類上在籍)を編入[122]
昭和19年11月19日:第三十一戦隊旗艦五十鈴大破。霜月を旗艦に指定。
昭和19年11月25日:南シナ海で霜月が戦没、第三十一戦隊司令官江戸兵太郎少将および41駆司令脇田大佐も戦死した。
昭和20年1月20日:霜月、若月除籍[125]
昭和20年3月1日:第41駆逐隊司令吉田正義大佐[126]
昭和20年4月6日:菊水作戦に涼月、冬月ともに参加。
昭和20年4月20日:連合艦隊直属第31戦隊に転属。
昭和20年5月20日:第十一水雷戦隊での練成を終えた宵月を編入[127]
昭和20年5月25日:第十一水雷戦隊での錬成を終えた夏月を編入[128]
昭和20年7月5日:涼月を除籍、同艦は第四予備艦となった[129]
昭和20年8月15日:解隊された第十七駆逐隊より雪風を編入[130]
戦後解隊。

秋月に関する通説

秋月が初戦でB-17重爆3機と遭遇し、前部砲塔と後部砲塔を別々の目標に指向して2機を撃墜した[131]

これは古賀彌(本艦初代艦長)が戦後記述した文章が基となっている。しかし艦艇研究家の田村俊雄も調査の中で、

  • 公式記録(「駆逐艦行動調書」)では、B-17撃墜は1機、消費弾薬は108発となっている[132]
  • 乗組員への聞き取り調査によると後部の高射装置は竣工時から未装備であった。また、初戦に限らずいかなる実戦でも分火を行った記憶が無い[132]
  • 秋月を建造した舞鶴工廠に勤務していた方々への聞き取り調査でも一部で未装備だったという証言があり、秋月公式図の写図には前部高射装置が実線、後期高射装置は一点鎖線で書かれている[132]
    • 秋月竣工直後に赴任した元技術大尉は「写図に実線で描かれていないのなら完成時に装備されていなかったことを示すもので、写図に誤りがあるとは考えられない」と語っている[132]

以上により、艦橋上の1基しかなく同時に2機の目標に照準を合わせることは不可能だったとしている[132]。 また別の記録として宇垣纏連合艦隊参謀長の「戦藻録」では、9月29日に秋月がブカ島でB-17爆撃機2機と交戦、1機を撃墜し「防空駆逐艦の価値を始めて発揮せり」と記述している[133]

そのためアメリカ軍は秋月型には不用意に近づかないよう警告を発した。

このことについて田村は同じく調査の中で、

  • 基となるアメリカ側資料が自力調査しても全く見当たらず、海外の友人に協力してもらっているがそれでも見つからないこと。
  • 同じように警告に関する通説も海外の文献に登場しないこと。

以上から「通説は日本のみで言われていることではないか」と推測している[134]

「警報を発した」説は、福井静夫が雑誌「丸」昭和46年12月号に寄稿した記事にある。この記事において福井は「ソロモン海域に新鋭艦が出現したという警報は、ただちに全軍にたっせられたらしい。」と、あくまでも伝聞として記述している[135]

この項の参考文献

  • 田村俊夫、「駆逐艦『秋月』の実像」歴史群像太平洋戦史シリーズVol.23『秋月型駆逐艦』、学習研究社、1999年、p79-110。

登場作品

小説

『軍艦防波堤へ―駆逐艦凉月と僕の昭和二〇年四月』
沖縄での海上特攻を描いた小説。作者は最後の艦長である平山中佐の孫にあたる。

参考文献

  • 秋元実・編 『ウォーターラインガイドブック 日本連合艦隊編』改訂版 (静岡模型教材協同組合、2007年10月改訂) JANコード 4945187990224
  • 遠藤昭『高角砲と防空艦(オンデマンド版)』原書房、2009年8月(原著1975年)。ISBN 978-4-562-10093-4 
  • 片桐大自 『聯合艦隊軍艦銘銘伝』光人社、1988年。
  • (社)日本造船学会/編『昭和造船史(第1巻)』 明治百年史叢書 第207巻(第3版)、原書房、1981年(原著1977年10月)。ISBN 4-562-00302-2 
  • 福井静夫『日本駆逐艦物語』 福井静夫著作集第5巻、光人社、1993年1月。ISBN 4-7698-0611-6 (新装版あり ISBN 4-7698-1395-3)
  • 牧野茂福井静夫/編『海軍造船技術概要』今日の話題社、1987年5月。ISBN 4-87565-205-4 
  • 雑誌「丸」編集部『丸スペシャル No.19 日本海軍艦艇シリーズ 駆逐艦朝潮型 秋月型』(潮書房、1978年) 雑誌コード 8343-7
  • 雑誌『』編集部/編『写真日本の軍艦 第11巻 駆逐艦II』光人社、1990年6月。ISBN 4-7698-0461-X 
  • 「丸」編集部/編『軍艦メカ4 日本の駆逐艦』光人社、1991年8月。ISBN 4-7698-0564-0  (新装版あり ISBN 4-7698-1527-1。同内容が『図解 日本の駆逐艦』ISBN 4-7698-0898-4としても刊行。)
  • 雑誌「モデルアート」 艦艇模型テクニック講座 vol.6 『日本海軍艦艇図面集 戦艦/駆逐艦/小艦艇篇』 (モデルアート社、1999年)
  • 森恒英『軍艦メカニズム図鑑 日本の駆逐艦』 (グランプリ出版、1995年) ISBN 4-87687-154-X
  • 「歴史群像」編集部著、田村俊夫、水谷清高『歴史群像太平洋戦史シリーズVol.23 秋月型駆逐艦』学習研究社、1999年。ISBN 4-05-602063-9 
  • 雑誌「歴史群像」 太平洋戦史シリーズ Vol.45 『真実の艦艇史』 (学習研究社、2004年) ISBN 4-05-603412-5
  • 「駆逐艦 一般計画要領書 附現状調査 昭和十八年七月」1943年7月。 
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『昭和20年2月1日~昭和20年4月10日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。Ref.C08030103200。 
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    • 『自昭和19年1月 至昭和19年7月内令/昭和19年7月』。Ref.C12070195500。 
    • 『昭和19年9月~12月 秘海軍公報 号外/10月(2)』。Ref.C12070497400。 
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    • 『昭和19年8月 秘海軍公報/8月(4)』。Ref.C12070502000。 
    • 『自昭和20年1月.至昭和20年8月秘海軍公報/1月(2)』。Ref.C12070503600。 
    • 『自昭和20年1月.至昭和20年8月秘海軍公報/2月(1)』。Ref.C12070503800。 
    • 『自昭和20年1月.至昭和20年8月秘海軍公報/5月(4)』。Ref.C12070505100。 
    • 『自昭和20年1月.至昭和20年8月秘海軍公報/秘海軍公報昭和20年7月(3)』。Ref.C12070505700。 
    • レファレンスコード:C12070510100 秘海軍公報『2月(1)』 (昭和20年1月~6月 秘海軍公報/昭和20年2月)
    • 『昭和20年1月2日 昭和20年8月30日秘海軍公報/昭和20年8月(2)』。Ref.C12070530000。 
    • 『昭和14年度帝国海軍作戦計画及同戦時編制に関する御説明』。Ref.C14121205900。 
    • 『昭和19年度戦時編制案 昭和13年10月』。Ref.C14121175900。 
    • 『昭和25年度戦時編制案 昭和13年10月』。Ref.C14121176400。 
    • 『昭和22年.25年度 帝国海軍戦時編制案 昭和16.2.1(別表第1~別表第6)』。Ref.C14121192600。 

脚注

注釈

  1. ^ 本来は「○の中に漢数字の四」だが、丸付き数字は機種依存文字であるためこう表記する。以下同じ。
  2. ^ 歴史群像秋月型p.109〜110では、乗組員の証言として「揚弾器の性能が毎分15発であり、即応弾を打ち尽くせば毎分15発を超えて撃てない」「訓練では4秒1発を目標としたが実戦ではそれを下回った」とある。
  3. ^ #写真日本の軍艦第11巻p.158では生産性を考慮して減速ギアを新設計にしたとしている。
  4. ^ アメリカ海軍Office of Naval Intelligence発行 ONI 222-J THE JAPANESE NAVY 1945年6月回付分 p.61では、“TERUTSUKI's closest design antecedent in the Japanese Navy appears to be the small, unusual cruiser YUBARI, commissioned over 20 year ago.”とデザイン面での関連が示唆されてはいるが、夕張の量産については言及していない。
  5. ^ #一般計画要領書(駆逐艦)p.4では公試排水量3,485トンになっている
  6. ^ #歴史群像23秋月型付録にある『秋月型公式図 冬月型「花月」補音器室横壁構造』(昭和19年12月2日舞鶴工廠製図)では、花月の線図として四式水中聴音機補音器室の船体フレームの一部が掲載されている。しかし注記として「実際に搭載したか明らかではなく、図の通り船底部がふくらんだ船体として完成したかも確認されていない」としている。
  7. ^ #高角砲と防空艦p.88では、建造訓令を1944年(昭和19年)9月から10月としている。

出典

  1. ^ a b #写真日本の軍艦第11巻p.144上写真と解説。
  2. ^ a b #S16.5-8内令2巻/昭和16年5月(2画像9-10『 内令第五百三十五號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和十六年五月十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎 軍艦、敷設艦ノ項中「蒼鷹」ノ下二「、若鷹」ヲ加フ 驅逐艦、一等夕雲型ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ | 秋月型 | 秋月 | 潜水艦一等伊六十八型ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ | 伊七十六型 | 伊號第七十六 | 驅潜艇、第十三號型ノ項中「第十九號」ノ下ニ「、第二十號、第二十一號」ヲ加フ 』
  3. ^ #海軍造船技術概要(1987)上巻p.428
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q #一般計画要領書(駆逐艦)p.4
  5. ^ a b #一般計画要領書(駆逐艦)p.49
  6. ^ a b c #昭和造船史1pp.788-789、附表第2 艦艇要目表 6.駆逐艦及び水雷艇要目表
  7. ^ a b c #一般計画要領書(駆逐艦)p.24
  8. ^ #海軍造船技術概要(1987)下巻p.1695
  9. ^ #一般計画要領書(駆逐艦)p.28
  10. ^ #S16.5-8内令2巻/昭和16年7月(1)画像19、一等駆逐艦定員表其の7(昭和16年内令第764号別表)。士官8人、特務士官2人、准士官3人、下士官75人、兵185人。
  11. ^ #一般計画要領書(駆逐艦)p.36
  12. ^ a b #一般計画要領書(駆逐艦)p.8
  13. ^ a b c d e #一般計画要領書(駆逐艦)p.12
  14. ^ a b c d e f #一般計画要領書(駆逐艦)p.12
  15. ^ 秋月1944年10月25日戦没時点。歴史群像秋月型p.103。
  16. ^ a b c #一般計画要領書(駆逐艦)p.20
  17. ^ a b #S2004二水戦日誌(3)p.17『四月六日〇九五六GF参謀長(宛略)海上特攻〔大和矢矧d×8(月型二隻、磯風型三隻、若葉型三隻)〕Y-2日夕刻豊後水道出撃列島線西側ヲ経テY日極内密ニ沖縄島ニ突入ス味方識別ニ留意アリ度Y日ハ8日ヲ予定|無電』
  18. ^ a b c 阿川弘之『高松宮と海軍』中公文庫、1999年4月、167頁。ISBN 4-12-203391-8 
  19. ^ a b 達『10月(1)』第1画像 (昭和18年10月1日付 海軍大臣達第235号)。
  20. ^ a b #秘公報昭和20年2月(1)p.28『達第二二號 昭和十九年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦四隻、潜水艦一隻及海防艦六隻ニ左ノ通命名ス 昭和二十年二月五日 海軍大臣|佐世保海軍工廠ニ於テ建造 驅逐艦 満月(ミチツキ)|舞鶴海軍工廠ニ於テ建造 驅逐艦 栃(トチ)|株式會社藤永田造船所ニ於テ建造 驅逐艦 若櫻(ワカザクラ)|横須賀海軍工廠ニ於テ建造 驅逐艦 矢竹(ヤダケ)|呉海軍工廠ニ於テ建造 伊號第二百七潜水艦|日本鋼管株式會社鶴見造船所ニ於テ建造 第百七號海防艦|三菱重工業株式會社神戸造船所ニ於テ建造 第二百二十三號海防艦 第二百二十九號海防艦|川崎重工業株式會社ニ於テ建造 第百四十二號海防艦|株式會社播磨造船所ニ於テ建造 第百六十號海防艦|三菱重工業會社長崎造船所ニ於テ建造 第百九十八號海防艦』
  21. ^ a b c #内令昭和18年10月(1)p.1『内令第二千二十六號 艦艇類別等級表中左ノ通改正ス|昭和十八年十月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|驅逐艦、一等秋月型ノ項中「霜月」ノ下ニ「、冬月」ヲ加フ|潜水艦、一等伊十型ノ項中「伊號第十二」ノ下ニ「、伊號第十三」ヲ加フ|同二等呂三十五型ノ項中「呂號第四十九」ノ下ニ「、呂號第五十」ヲ加フ|海防艦、御蔵型ノ項中「千振」ノ下ニ「、草垣」ヲ加フ|掃海艇、第十九號型ノ項中「第三十三號」ノ下ニ「、第三十八號、第四十一號」ヲ加フ|驅潜艇、第十四號型ノ項中「第五十四號、」ノ下ニ「第五十五號、」ヲ加フ』
  22. ^ a b c #秘公報昭和20年2月(1)p.45『内令第九六號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和二十年二月五日 海軍大臣|驅逐艦、一等秋月型ノ項中「夏月」ノ下ニ「、満月」ヲ、同松型ノ項中「楡」ノ下ニ「、栃」ヲ、「初櫻」ノ下ニ「、若櫻」ヲ、「雄竹」ノ下ニ「、矢竹」ヲ加フ(以下略)』
  23. ^ a b c d e f g h i #写真日本の軍艦第11巻p.154
  24. ^ #日本駆逐艦物語p.196
  25. ^ a b #昭和14年度海軍御説明p.21『四.防空艦ニ改装豫定ノ天龍、龍田ヲ第一戰隊ニ編入致シマシタ』
  26. ^ a b c d e f #写真日本の軍艦第11巻p.156「秋月型建造行程一覧」
  27. ^ #昭和22.25年度戦時編制案(昭和16年2月)p.25『別表第六 昭和二十五年度帝國海軍戰時編制案 聯合艦隊ノ部』
  28. ^ #写真日本の軍艦第11巻pp.154-155
  29. ^ a b c d e #海軍造船技術概要(1987)下巻p.1535、日華事変より太平洋戦争までの建艦計画。同書下巻p.1536、太平洋戦争中の建艦計画。
  30. ^ #日本駆逐艦物語p.222
  31. ^ a b c d e f g h i j k 梅野和夫「秋月型 艦首&前甲板」#軍艦メカ4日本の駆逐艦pp.42-43
  32. ^ #高角砲と防空艦pp.130,132
  33. ^ 阿部安雄「秋月型 主砲&機銃」#軍艦メカ4日本の駆逐艦pp.56-57
  34. ^ #高角砲と防空艦p.128
  35. ^ a b c d e 梅野和夫「艦橋構造&前檣 秋月型」#軍艦メカ4日本の駆逐艦pp.8-10
  36. ^ a b #写真日本の軍艦第11巻p.158
  37. ^ a b c d e f g 水谷清高「秋月型の基礎知識」#歴史群像23秋月型pp.146-148、「艦橋」
  38. ^ #高角砲と防空艦p.138「図79 艦橋の拡張」
  39. ^ a b c d e #写真日本の軍艦第11巻p.156
  40. ^ #霜月戦闘詳報(捷号)p.29『(二)一般ニ九八式十糎高角砲ハ軽妙ナルモ揚弾薬装置其他ノ故障多ク多弾発射ノ場合ハ強靭ナラザル点アリ一抹ノ不安ヲ感ズ』
  41. ^ #霜月戦闘詳報(捷号)pp.24-25『(三)主砲ニ於テ高射器射法中ハ方向盤ニ依リ目標捕捉極メテ容易ナリシモ高射器故障ノ為砲側照準ニ移リシ後ノ目標捕捉状況ハ極メテ不良ニシテ今後演練ノ余地大ナリ』
  42. ^ #S1906第61dg戦闘詳報(1)p.22『(ロ)砲室後煙排除装置ノ強化ヲ要ス 後煙ノタメ初月一番砲手一名卒倒其ノ他被害大ナリ』
  43. ^ #高角砲と防空艦p.123
  44. ^ #歴史群像23秋月型p.86〜91
  45. ^ 「当初高射装置2基装備」「前後の主砲を分火可能」「後部撤去は生産が間に合わず修理も多かったため」等の通説は、「軍艦メカVol.4」p.10、「軍艦メカニズム図鑑」p.35等でも書かれている。
  46. ^ #S1906第61dg戦闘詳報(1)p.22『(イ)後部高射器ノ装備ヲ要ス 分火実施上其ノ他絶對必要ナリ』
  47. ^ a b c d e f 水谷清高「秋月型の基礎知識」#歴史群像23秋月型pp.155-156、「兵器」
  48. ^ a b 水谷清高「秋月型の基礎知識」#歴史群像23秋月型p.152、「後部甲板室」
  49. ^ a b c #一般計画要領書(駆逐艦)p.9
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  63. ^ #霜月戦闘詳報(捷号)pp.24-25『(ロ)敵機探知状況 電波探信儀ハ22號13號共敵機ノ来襲ヲ予想セラルル期間常時配員シ対空哨戒ニ全幅利用セシトコロ敵機ノ感度ハ22號ニ於テハ約120粁附近ヨリ13號ニ於テハ約100粁附近ヨリ現ハレ敵機ノ反射波ガ我ガ飛行機ニ比シ極メテ顕著ナル特徴ヲ呈スルニ依リ敵味方ノ識別容易ニシテ且其ノ機数編隊数モ概ネ判別セラレ対空戦準備ヲ整フルコトヲ得従ッテ戦闘力ノ発揮ニ遺憾ナキヲ得タリ 電波探信儀ハ対空戦上不可欠ノモノニシテ更ニ敵機来襲前ニ高角測空可能ナラシムルノ要切ナルモノアリ』
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  66. ^ #霜月戦闘詳報(捷号)p.23『一.秋月型駆逐艦ニアリテハ是非共機械室外側ハ両舷共重油「タンク」若クハ空所ヲ設クル要アリト認ム。今次至近弾ニ依ル被害ハ左舷側ナリシタメ重油「タンク」ノミノ破損浸水ニテスミタルモ若シ右舷側ナリシナラバ忽ニシテ後部機械室浸水シ重大ナル結果ヲ招来シタルベシ』
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  118. ^ #内令昭和18年10月(5)p.38『内令第二千二百四十五號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年十月三十一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第九驅逐隊ノ項中「朝雲、」ヲ削ル|第十驅逐隊ノ項中「風雲」ノ下ニ「、朝雲」ヲ加フ|第二十四驅逐隊ノ項中「涼風」ノ下ニ「、満潮」ヲ加フ|第六十一驅逐隊ノ項中「若月」ノ下ニ「、秋月」ヲ加フ』
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  122. ^ a b #秘海軍公報昭和19年11月(3)pp.4-5『内令第一二七一號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年十一月十五日 海軍大臣|第二驅逐隊ノ項中「清霜」ノ下ニ「朝霜」ヲ加フ|第七驅逐隊ノ項中「潮」ノ下ニ「、霞」ヲ加フ|第十八驅逐隊ノ項ヲ削ル|第二十一驅逐隊ノ項中「初春、初霜、若葉」ヲ「初春、初霜、時雨」ニ改ム|第三十一驅逐隊ノ項中「長波、朝霜、岸波、沖波」ヲ「長波、岸波、沖波、濱波」ニ改ム|第三十二驅逐隊ノ項ヲ削ル|第四十一驅逐隊ノ項中「冬月」ノ下ニ「、涼月、若月」ヲ加フ|第四十三驅逐隊ノ項ノニ左ノ一項ヲ加フ| |第五十二驅逐隊|桑、檜、桐、杉、樫| |第六十一驅逐隊ノ項ヲ削ル』
  123. ^ #内令昭和19年7月p.21『内令第八百六十五號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十九年七月十五日 海軍大臣|第三十二驅逐隊ノ項ノ次ニ左ノ二項ヲ加フ |第四十一驅逐隊|霜月、冬月|・|第四十三驅逐隊|梅、竹、松、桃|』
  124. ^ 昭和19年7月21日(発令7月15日付)海軍辞令公報(部内限)第1541号 p.7」 アジア歴史資料センター Ref.C13072100100 
  125. ^ #秘公報昭和20年1月(2)p.7『昭和二十年一月十日海軍大臣|第二驅逐隊ノ項中「早霜、秋霜」ヲ削ル|第四驅逐隊ノ項ヲ削ル|第七驅逐隊ノ項中「曙、」ヲ削ル|第十七驅逐隊ノ項中「浦風、」ヲ削ル|第二十一驅逐隊ノ項中「初春、」ヲ削ル|第三十驅逐隊及第三十一驅逐隊ノ各項ヲ削ル|第四十一驅逐隊ノ項中「霜月、」及「、若月」ヲ削ル』
  126. ^ 昭和20年3月9日(発令3月1日付)海軍辞令公報(甲)第1741号 p.32」 アジア歴史資料センター Ref.C13072103700 
  127. ^ #秘海軍公報昭和20年5月(4)p.22『内令第四四七號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和二十年五月二十日 海軍大臣|第四十一驅逐隊ノ項中「冬月、」ノ下ニ「宵月、」ヲ加フ|第四十三驅逐隊ノ項中「榧、」ノ下ニ「椎、」ヲ加フ|第五十二驅逐隊ノ項中「楓、」ノ下ニ「梨、萩、」ヲ加フ』
  128. ^ #秘海軍公報昭和20年5月(4)p.29『内令第四百六十四號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和二十年五月二十五日 海軍大臣|第十七驅逐隊ノ項中「磯風、」ヲ削ル|第四十一驅逐隊ノ項中「宵月、」ノ下ニ「夏月、」ヲ加フ』
  129. ^ #秘海軍公報昭和20年7月(3)p.1『内令第六〇〇號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和二十年七月五日 海軍大臣|第四十一驅逐隊ノ項中「、涼月」ヲ削ル』
  130. ^ #秘海軍公報昭和20年8月(2)p.28『内令第七三四號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和二十年八月十五日海軍大臣|第十七驅逐隊ノ項ヲ削ル 第四十一驅逐隊ノ項中「夏月」ノ下ニ「、雪風」ヲ加フ』
  131. ^ #秋月型(潮2015)10-11頁
  132. ^ a b c d e #歴史群像23秋月型p.83-91
  133. ^ #戦藻録(九版)196頁
  134. ^ #歴史群像23秋月型p.110
  135. ^ 日本駆逐艦物語p.211に同記事を再録

関連項目