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津軽丸 (2代)

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津軽丸(2代目)
MS TSUGARU MARU 2.jpg
基本情報
船種 車載客船
船籍 日本の旗 日本
所有者 日本国有鉄道
建造所 浦賀重工業浦賀造船所
姉妹船 八甲田丸松前丸(2代)
大雪丸(2代)摩周丸(2代)
羊蹄丸(2代)十和田丸(2代)
信号符字 JQUW
経歴
起工 1963年(昭和38年)5月24日
進水 1963年(昭和38年)11月15日
竣工 1964年(昭和39年)3月31日
就航 1964年(昭和39年)5月10日
終航 1982年(昭和57年)3月4日
要目 (新造時)
総トン数 8,278.66トン(5,319.71トン[1][2][3]
全長 132.00m
垂線間長 123.00m
型幅 17.90m
型深さ 7.20m
満載喫水 5.20m
主機関 単動4サイクルトランクピストン
排気ターボ過給機付ディーゼル機関
川崎 MAN V8V 22/30mAL
8台
最大出力 13,444軸馬力[4]
定格出力 1,600制動馬力×8
最大速力 21.57ノット [5][4][6]
航海速力 18.20ノット
旅客定員 1,200名
乗組員 53名
車両搭載数 ワム換算48両
その他 鉄道電報略号: ツルマ
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津軽丸(つがるまる、Tsugaru Maru)は、国鉄青函航路車載客船で、津軽丸型の第1船。戦中から戦後の混乱期に建造された船質の良くない連絡船の代替と、青函航路の輸送力増強を目的に建造された同航路初の自動化船で、従来4時間30分前後を要していた青森 - 函館間を3時間50分に短縮した。ここでは、津軽丸および津軽丸型車載客船について記述する。なお青函連絡船の津軽丸としては2代目であった。

目次

津軽丸型建造までの経緯[編集]

1960年(昭和35年)頃の青函連絡船は、全14隻のうち、洞爺丸事件後に建造された3隻以外は、全て戦中から戦後の混乱期に建造された戦時標準船またはそれに準じる船で、元来船質は不良で、種々の船質改善工事を重ねながら十数年間使用されて来た。しかし、老朽化とともに維持費も増大し、1959年(昭和34年)9月に出された国鉄内の「連絡船船質調査委員会」の2年間にわたる調査報告でも、“これ以上の長期使用は得策ではない”、とされた[7][8]。折しも高度経済成長時代、急増する旅客、貨物に対応するためにも、国鉄はこれら老朽船を取り替える方向にふみ切り、その方法を検討するため1961年(昭和36年)1月、「青函連絡船取替等計画委員会」を設置し、同年5月には第1回の中間報告が出された。

それによれば、第1順位として、300〜400名の旅客とワム換算43両の貨車を積載できた客載車両渡船(デッキハウス船)第六青函丸第七青函丸第八青函丸の3隻を、800〜1,000名の旅客と、1,000トン列車1本に相当するワム換算48両の貨車を積載でき、1日2.5往復可能な高速車載客船3隻で置き換える。

第2順位として、当時1,400名前後の旅客と、ワム換算19両の貨車を積載できた車載客船大雪丸(初代)摩周丸(初代)羊蹄丸(初代)の3隻を、1,500〜1,700名の旅客と、ワム換算27両の貨車を積載でき、1日2.5往復可能な高速車載客船2隻で置き換える。

第3順位として、当時ワム換算46両の貨車のみ積載の車両渡船第十二青函丸と、ワム換算44両の貨車のみ積載の車両渡船石狩丸(初代)渡島丸(初代)の3隻を、ワム換算48両の貨車のみ積載でき、1日2.5往復可能な高速車両渡船2隻で置き換える、というもので、これら計7隻を1967年(昭和42年)度までに建造するという計画であった。

この計画に基づいて、第1順位の第1船が1962年(昭和37年)11月8日に浦賀重工[9]へ、第2船が1963年(昭和38年)6月13日に新三菱重工神戸造船所へ、それぞれ発注され[10]、第1船は 1963年(昭和38年)5月24日起工され建造中のところ、それまでも旅客定員はたびたび増やされてはいたが、同年6月12日には更に1,100名から1,200名に増員された[11]。そして同年8月13日には、上記置き換え対象の老朽船9隻を、当初予定より2年前倒しの1965年(昭和40年)度中までに引退させ、この時建造中の旅客定員1,200名に増員された ワム換算48両積載の高速車載客船のみ6隻で置き換えることに変更され、旅客定員1,500〜1,700名の車載客船案は消滅した。

これは、1961年(昭和36年)当時の予測に比べ、その後の貨物輸送量の伸びが著しく[12]、より早急な貨車航送能力の向上が求められたことと、旅客が集中する深夜便については、定期客貨便増発により、その増加率の低下が見込め、定員1,200名なら、続行便2隻で運べると判断されたためであった[13][14]

この第1船が津軽丸と命名され、1964年(昭和39年)3月31日竣工、4月11日函館港回着、4月14日7108便[15]より貨車航送のみの試運航開始し、5月10日変14便より旅客扱い開始し本就航した[16][17]。引き続き 八甲田丸松前丸(2代)大雪丸(2代)摩周丸(2代)羊蹄丸(2代)の6隻が1965年(昭和40年)8月5日までに就航し、老朽船9隻は、同年9月30日終航の石狩丸(初代)を最後に引退した。しかしその後の輸送需要は、客貨とも1963年(昭和38年)8月の予測を大きく上回る伸びで、国鉄は1965年(昭和40年)10月22日、更にもう1隻の同型船の追加建造を決定し、11月15日に浦賀重工へその建造を発注、1966年(昭和41年)2月15日起工し、1966年(昭和41年)11月1日、2代目十和田丸として就航した[18][19]。これら7隻を「津軽丸型」と呼んだが、1982年(昭和57年)3月の津軽丸引退後は、国鉄内では残った船を「八甲田丸型」と呼んだ。

船種の呼称[編集]

国鉄では、翔鳳丸型以来、鉄道車両を航送する船を「貨車渡船」・「車両渡船」・「客載車両渡船」・「車載客船」等と呼称していた[20]。しかし1961年(昭和36年)の「青函連絡船取替等計画委員会」の頃から、車載客船洞爺丸型(当時の国鉄内では羊蹄型)を「客船」、客載車両渡船(デッキハウス船)第六青函丸等を「客貨船」、車両渡船日高丸等を「貨物船」と呼称するようになっが[21]、この記事では従来の呼称を継続使用する。なお津軽丸型が当初、客載車両渡船(デッキハウス船)・「客貨船」の代替として建造されたという事情もあり、船種は「客貨船」とされていた[13]が、津軽丸型の使用実態に合わせ、ここでは「客載車両渡船」ではなく「車載客船」を使用する。

概要[編集]

津軽丸は1954年(昭和29年)の洞爺丸事件や、1955年(昭和30年)の宇高連絡船 紫雲丸事件を教訓として設計された安全な船であるとともに、津軽丸建造当時の日本の造船・海運界は、世界に先駆けて船舶の自動化や遠隔操縦化を導入し始めた時期で、とりわけ、津軽丸は青函連絡船初の自動化船だけに留まらず、当時の造船・海運界の最先端技術を先取りした船として、後続の国鉄連絡船のみならず、その数年後から登場する長距離フェリーにも多大な影響を与えた[22][23]

津軽丸は車載客船・車両渡船特有の天井高さの低い機関室に、中速ディーゼルエンジンを8台搭載するマルチプルエンジン方式を採用することで、12,800馬力という従来船の2倍以上の高出力化を実現し、航海速力を18.2ノットに上げながら、当時日本最大の可変ピッチプロペラ (Controllable Pitch Propeller CPP)を2基装備して、ブレーキ距離を半分以下に短縮するとともに[24]、船首水線下には日本初となる出力850馬力の本格的なバウスラスター (Bow Thruster BT)を装備して[25][26]、舵の効かない低速時に容易に船首を回頭できるようにし、港内での操船能力も格段に向上させた。これらにより、従来4時間30分前後を要していた青森 - 函館間を3時間50分に短縮し、「海の新幹線」と呼ばれた。また、従来の1日2往復から、1日2.5往復の運航が可能となり、稼働率向上も図られた。

建造した浦賀重工でも初めて造るものが多く、津軽丸には製造番号1番という機器が大量に使用されていた[27]。中には、船位自動測定装置(SPレーダー)のように実用化には至らず、後に撤去された機器も少なくなかった。

なお津軽丸型の画期的な自動化・遠隔操縦化により、従来の車載客船では約120名、車両渡船でも72〜78名要していた運航要員が53名になり[28][29]、この9隻廃船、7隻新造で、青函航路全体で471名の船員が陸上勤務に配置転換された[30]

外観[編集]

青森第2岸壁から見た入港する津軽丸。右舷後進をかけて減速し、右舷船尾を補助汽船に押させている。この後、バウスラスターで右推力を出してその場回頭し、後進して右方の第1岸壁に着岸する。右舷の防舷材は船尾側に少しあるだけ。(1976年4月30日154便) 記事冒頭の津軽丸の写真は1980年8月3日撮影、煙突の色が変わっている。
青森第1岸壁を出港した津軽丸。船尾扉は半開状態で、船内軌道が船尾扉敷居部分を越える個所では軌道が跳ね上げられている。車両甲板後端段差部分に貨車海中投棄装置の水中傘が収納されているのが見える。左舷の防舷材は船首近くまである。(1976年4月30日23便)

1957年(昭和32年)建造の車載客船 初代 十和田丸とは異なり、津軽丸型では車両甲板のほぼ全てを車両格納所に充てたため、1,200名の旅客は全て船楼甲板より上の甲板室に収容されることになった。このため、十和田丸(初代)では遊歩甲板(十和田丸(初代)では端艇甲板と呼ばれた)の甲板室は煙突前方のみを占める高級船員室と1等寝台室の入った小さなものであったが、これを後部煙突兼マスト直下まで伸ばし、1層下の船楼甲板(十和田丸(初代)では遊歩甲板と呼ばれた)の甲板室も、周囲の遊歩廊を廃しただけでなく、船体中央部より船尾側と、一部船首側でも、甲板室を両側面へオーバーハング状態で張り出させた結果、船楼甲板上に2層の甲板室を持つ堂々たる姿となった。甲板室前面は1層ずつ後退する十和田丸(初代)の優美なデザインを継承し、甲板室後部も、順次その層数を減らすことで、客船らしいシルエットを描き出し、更に操舵室前面を7度前傾させ[31]、その下の2層の甲板室前面は7度後傾させて[32]スピード感を持たせ、アンカーリセスを設けた船首部船体と相まって、均整のとれたスタイルとなった。

ところが津軽丸では、本来つける予定でなかった操舵室床にシアー(舷弧:船体中央部が低く船首船尾が高い反り)を付けてしまい[33]、更に操舵室前面窓の高さを、キャンバー(梁矢:甲板面の船体中心線が高く両舷が低い反り)20cmと大きい床に合わせてしまったことと、前面7度前傾も相まって、各窓の高さが舷側へ行くほど段違い状に低くなるという、やや不格好な配置となってしまったが、第2船の八甲田丸以降はシアーもなくなり、窓はキャンバー5cmの天井に合わせ、段違いは解消された[34]

また、津軽丸では当初、操舵室前の航海甲板前端に、十和田丸(初代)に見られた、丸みの付いたブルワークが設置される予定で、進水後の一時期、設置されていたが、操舵室前面中央部からの両側面下方の視野が遮られる、との理由で竣工前には撤去された。このため航海甲板前端が角ばってしまった。第2船の八甲田丸も同様であったが、第3船の松前丸(2代)からはこの部分は丸く整形された。

また遊歩甲板の甲板室前面窓の数が、津軽丸と松前丸(2代)の2隻では12個と、他の5隻より1個多かったほか、津軽丸のみ、船楼甲板室舷側外板に、溝付きの鋼板を使用し、窓の上下に、前後に続く長い2本の線状の隆起が見られた。

青函連絡船が通常使用する青森・函館の専用岸壁では、全て左舷着けのため、舷側に遊歩廊を持たない船楼甲板の乗船口は左舷にしかなく、2等船室の配置を、左舷に椅子席、右舷に雑居席としたため、船楼甲板左舷の2等椅子席のピッチに合わせた多数の小さな窓と、右舷の2等雑居席や旅客食堂のための比較的数少ない連窓、という左右非対称な外観となり、津軽丸型のひとつの特徴となった。

ファンネルマーク[編集]

津軽丸の初期計画当時の図面では、前部煙突は消音器室全長にわたる前後に長い巨大な煙突として描かれており、従来からの国鉄船舶のファンネルマークである「工」[35][36]よりも、当時の国鉄特急の横長の「JNR」マーク[37]の方が収まりが良く、この「JNR」マークをファンネルマークとした[38]。しかし、その後、立体的にはこの巨大煙突は不適当とされ、結局、十和田丸(初代)の煙突頂部を角ばらせた程度の煙突となったが、「JNR」マークはファンネルマークとして残り、オリジナルの縦横比1:8では横長過ぎのため、津軽丸では煙突に白い鉢巻塗装を加え、そこに縦横比1.5:8に修正した「JNR」マークを貼り付けてバランスをとった[39]。これ以後建造の国鉄船舶は「JNR」マークをファンネルマークとした。

船体塗色[編集]

津軽丸の新造時の塗色は、外舷下部が にぶい青色(2.0PB5/6)、外舷上部が白(N-9.5)、煙突がアイ色(2.5PB3/6)で、後部煙突兼マストが全て銀色であった。1967年(昭和42年)に外舷下部が灰青色(2.5PB5/2)に改められ、1970年(昭和45年)4月には煙突も外舷下部と同色とされ[40]、後部煙突兼マストの上部は1973年(昭和48年)頃に 黒(N-1.5)になり、1979年(昭和54年)4月には煙突が新造時のアイ色(2.5PB3/6)に戻された[41][42]

船体構造[編集]

一般配置[編集]

コンパス甲板[編集]

操舵室屋上に相当する最上層の甲板がコンパス甲板で、中央部に磁気コンパス本体が置かれ、その後方には前部マストがそびえていた。マスト頂部には円筒形のラドームが載り、中には船位自動測定装置(SPレーダー)の空中線が設置されており、本体撤去後も終航まで格納されていた[43][44]。ラドームの左右側面には遠方からの船名識別のため、イニシャル文字「T」が取り付けられていた[45]。マスト中段の前方への張出しには第1レーダーのスキャナーとハーモニック形のエアホーンのラッパが左右に2本、その直下の張出しにはモーターサイレンのラッパが1本、最下段の張出しには第2レーダーのスキャナーが設置されていた。

このほか、操舵室屋上には、右舷に探照灯、左舷に灯火前面のスリットを開閉させてモールス信号を送る信号灯があり、また最前部中心線上には約3mの高さのポールが設置され、上端に碇泊灯、中段には赤色の危険物積載表示灯が設けられ[46]、後年この2灯の間に、汽笛を鳴らした時だけ点灯するライトエミッターが追加された。

航海甲板[編集]

操舵室床面高さが航海甲板で、その最前部には全幅にわたり、更に両翼を舷外へ約1mずつ張り出した操舵室が設置されていた。その中央部の後ろ右舷側に隣接して無線通信室が設置されたのは十和田丸(初代)と同様であったが、その間に直接行き来できる扉を設けたのは、津軽丸が初めてであった。しかし、津軽丸では、無線通信室内の機器配置が、十和田丸(初代)同様前向きのままであったが、第2船の八甲田丸からは、操舵室との連携がとりやすい後ろ向きに変更された。無線通信室の左舷にはジャイロコンパス本体やレーダーの送受信部、可変ピッチプロペラやバウスラスターの翼角遠隔操縦装置の操作部以外の部分等、航海関係の重要電気機器を収納した電気機器室が置かれ、また無線通信室後ろ隣には空気調整室(第1系統)が配置された。

航海甲板の中央部には前部消音器室の入った甲板室があり、この位置は水面から高く、事故等で車両甲板下の主発電機や主機械が浸水で停止するような事態が発生しても、ここまですぐに浸水する可能性は低いため、この甲板室前側には電池室が、右舷後側に補助発電機室が、両者の間、右舷前側には補助配電盤室が配置された。補助発電機は、船内電圧が10秒以上にわたって85%以下を継続すると自動起動し、電圧が90%以上に回復すれば自動停止する100馬力ディーゼルエンジン駆動の出力70kVAで、主発電機故障時に、主軸駆動発電機ではバックアップされない航海用機器や無線装置、船内通信装置、水密辷戸動力、消防用ポンプ等の非常用設備関連の電源や、非常用照明をバックアップするもので[47]、国際航海に従事する旅客船に義務づけられた非常用設備規程を準用し、国鉄では既に十和田丸(初代)1961年(昭和36年)建造の宇高連絡船 讃岐丸(初代) でこの発電機を装備していた。しかし、津軽丸型では羊蹄丸(2代)までの6隻で、沖錨泊等の電力需要の少ない時、主発電機を全て停止できるよう、船員居住区や機関室補機類の電力等、非常用でない電力もこの発電機の受け持ちとしたため、あえて補助発電機と呼称した。しかし70kVAでは容量不足気味のため、第7船の十和田丸(2代)では、これら非常用ではない電力系統を外し、名称も非常用発電機とした[48]。電池室収納の蓄電池は青函連絡船では初めてニッケル・カドミウム・アルカリ蓄電池を採用し[49][50]、通常はシリコン整流器で整流した直流で常時充電状態とし、補助発電機故障時や完全起動までのつなぎとして、航海用機器や無線装置、船内通信装置、火災警報装置、水密辷戸装置制御電源[51]等の電源をバックアップした[47]。なお、一部の交流負荷[52]への対応のため非常用電動発電機(3kVAと700VA)も装備されていた。

甲板室左舷には空気調整室(前から後ろへ第4、2、3系統が収納)が配置され、屋上には主発電機と第1主機室搭載の4台の主機械からの排気を担当するJNRのファンネルマーク付きの前部煙突が載っていたが、船楼甲板より上の甲板室が大きくなったことによる重心上昇を抑えるため煙突はアルミニウム製であった[53]

航海甲板後端には後部消音器室と、その上に載る後部煙突兼マストがあったが、こちらは第2主機室搭載の4台の主機械と第2補機室の2台の補助ボイラーからの排気を担当し、同様の理由でアルミニウム製であった[53]。後部煙突兼マストは小さく消音器の一部を煙突内に収容できないため、後部消音器室は1層下の遊歩甲板室まで占めていた。後部煙突兼マストには、機関部品積卸し用デリックが設置され、これを使用して、後部消音器室船首側の航海甲板中心線上にある機関部品積込口から、車両甲板下の第2主機室まで繋がる竪穴を通して、機械部品の積卸しができるようになっていた。

航海甲板露天部の両舷側にはボートダビットに懸架された救助艇2隻、救命いかだの入ったカプセル形のコンテナを載せた多数の架台が設置されていた。

航海甲板は就航当初は一般旅客全面立入禁止であったが、乗用車航送による一般旅客の遊歩甲板後部遊歩スペースへの立入制限に対応して、乗用車航送開始2年後の1969年(昭和44年)6月から、前部消音器室後ろ側ならびに両舷側の救命いかだ収納コンテナ架台内側に柵を新設するなど安全対策施行のうえ、前部消音器室より後方のみ一般開放された。

遊歩甲板[編集]

両舷には甲板室全長にわたる遊歩廊が設けられ、甲板室最前部には船長室、事務長室、甲板部・通信部の高級船員室と船員用トイレ、空気調整室(第6系統)が配置され、それに続いて1等寝台室5室と寝台室用トイレ・洗面所(左舷寄りが婦人用、右舷寄りが男子用)、その後ろに1等指定椅子席、1等トイレ・洗面所(左舷が婦人用、右舷が男子用)、1等出入口広間と続き、その後ろには左舷に雑居席の1等座席、右舷に1等自由椅子席が配置されていた。最後部の後部煙突兼マスト直下は消音器室、その後ろ左舷側に手荷物室、右舷側に空気調整室(第5系統)が配置され、これより後ろには甲板室はなく、新造時は広い遊歩スペースで色とりどりのベンチが設置されていたが、1967年(昭和42年)6月から乗用車積載スペースに改装され、乗用車航送が開始された[54]

船楼甲板[編集]

船首の露天部は揚錨機や係船ウインチが設置された船首係船作業場になっており、甲板室最前部には機関部・事務部の高級船員室と事務室、左舷にトイレ、右舷に高級船員用洗面所、同浴室、前部水密辷戸動力室が配置されていた。それに続いて2等トイレ・洗面所(左舷寄りが男子用、右舷寄りが婦人用)、その後ろに左舷側は前部2等椅子席、2等出入口広間、2等婦人席、後部2等椅子席と続き、右舷側は前部2等座席、調理室、旅客食堂、食堂前の中央部2等座席、後部水密辷戸動力室、後部2等座席と続いて配置されていた。なお国鉄船舶では雑居席を“座席”と呼び、椅子席は“椅子席”と呼んだ。甲板室最後部の左舷には病室と警乗員室があり、その右側に男子用、右舷側に婦人用の2等トイレ・洗面所が配置されていた。船尾側の露天部は係船ウインチの設置された船尾係船作業場で、船尾端には車両積卸し作業を目視しながらヒーリングポンプ操作のできる箱型のポンプ操縦室が、一段高くなって後方へ突き出して設置されていた。離着岸時、船尾扉開放状態でも船尾が監視できるよう、このポンプ操縦室屋上から両翼舷外まで張り出した入渠甲板も設置されていた。なお、旅客定員を増やすため、船楼甲板の甲板室幅が、船首寄りの一部と船体中央部より船尾側では、車両甲板より広く、若干両舷へ張り出していた。

中甲板[編集]

車両甲板中2階の中甲板は、船内軌道各線の終端部から船首端までの隙間部分の狭い甲板であった。最前部に甲板長倉庫、左舷には船首係船作業場が狭くて設置できなかったスプリングウインチの本体および、揚錨機とスプリングウインチの動力となる油圧を造る動力機械が、右舷には主ウインチと補助ウインチの動力機械が設置されていた[55]ほか、両舷にそれぞれ船員浴室と上下につながる階段室が配置されていた。

車両甲板[編集]

車両甲板は、従来の車両渡船同様、可動橋の架かる船尾端は3線、そのうち中線はすぐに分岐し、車両甲板の大部分で4線となるよう敷設され、左舷から順に船1番線~4番線と付番され、ワム換算48両積載できた。津軽丸型では、檜山丸型に比べ、幅が更に50cm広くなったこともあり、車両甲板船首側には船体中心線上の船2番線と船3番線の間に、レール面からの高さ約92cm、幅1.4mのプラットホーム状の通路が設けられ、付近から車両甲板下へ降りる階段は、このプラットホーム上から約3cmの低い敷居越しに降りる構造とし、それ以外の場所から車両甲板下へ降りる階段は、在来船通り高さ61cmの敷居が設けられ、いずれにも防火扉が設置され[56]、万一車両甲板上に海水が滞留しても、容易に車両甲板下へ流れ込まない構造とした。しかしこのプラットホーム状通路は、前部煙突に続く幅1.4mの前部機関室囲壁の前で行き止まりであった。第5船以降の摩周丸(2代)羊蹄丸(2代)十和田丸(2代)の3隻では、将来の寝台車航送の準備工事として、前部機関室囲壁の船尾側に短いプラットホームと、ここから船楼甲板の2等出入口広間につながる階段を設置したが、旅客を寝かせたままで寝台車航送をしたい、という国鉄と、安全上旅客は船室へ移動させるべし、という運輸省の間の折り合いは付かず、結局寝台車航送は実現できなかった[57][58]

車両甲板の船内軌道各線の終端部から船首端までの隙間部分、中甲板の真下の部分は最前部が甲板部作業室、両舷はともに、船員用トイレと上下につながる階段室になっていた。また船尾右舷には“その他の乗船者”用のトイレが設置されていた。

車両甲板より下の船体は、12 枚の水密隔壁により13区画に分けられ、隣接する2区画に浸水しても沈まない構造であった。更に船体中央部、第1補機室、発電機室、第1主機械、第2主機室、第2補機室の5区画では、船底だけでなく側面にも、2対のヒーリングタンクと、5対のボイドスペース(空タンク)またはバラストタンクが設けられ、二重構造とし、これらボイドスペースは、片側が損傷して浸水しても、この浸水を対側のボイドスペースへも導き、非対称性浸水による船体傾斜を軽減するクロスフラッディング設備も設けられていた[59][60][61][62]

第二甲板[編集]

バウスラスター室[編集]

車両甲板の下が第二甲板で、車両甲板プラットホーム上から降りる最も船首側の階段は、バウスラスター室に通じており、ここにバウスラスターを駆動する出力625kWの三相交流巻線型誘導電動機が回転軸を垂直にして設置されていたほか、この電動機の起動時に使う電動カム式抵抗器、バウスラスターの可変ピッチプロペラ変節油ポンプも設置されていた[63][64]バウスラスターはこの三相交流巻線型誘導電動機の直下に設置されていた。

第1船室・第2船室[編集]

船首から2番目の階段を降りると、普通船員居室のほか、左舷前方に空気調整室(第7系統)、前後方向に通じる中央の通路を隔てて、左舷に高級船員食堂、右舷に普通船員食堂が設置された第1船室と呼ばれる区画であった。この通路の先は水密隔壁であるが、ここにはこの隔壁を通り抜ける通路があり、通常は開放されているが、浸水時には閉鎖して隣接区画への浸水をくい止める水密辷戸(すべりど)(第1水密辷戸)が設置されていた。この辷戸を潜り抜けると、車両甲板へ上ることなく一つ船尾側の、第2船室と呼ばれる水密区画へ通行できた。第2船室も普通船員居室があり、左前に空気調整室(第8系統)があった。

なお第2船室下の船艙倉庫には1974年(昭和49年)汚物処理装置が設置された[65]

第1補機室[編集]

第2船室から階段で車両甲板プラットホームへ上り、もう一つ船尾側の階段を降りると、第1補機室の中段で、第二甲板高さに相当した。右舷中段は一部倉庫となっており、船艙には冷房用冷水を造る2台のターボ冷凍機と、第1ヒーリングポンプの配管を見下ろすことができたほか、船艙前側には消防用スプリンクラー圧力タンクが設置されていた。この第1補機室からは船尾に向かって第二甲板の高さで、水密辷戸(第2〜8水密辷戸)付きの通路が連続して7枚の水密隔壁に設置されており、最後尾の操舵機室まで、車両甲板に上がることなく通行できた。

1971年(昭和46年)からは、右舷中段に固定式炭酸ガス消火装置の炭酸ガスボンベが設置され[66]、ここを起点に赤く塗装された炭酸ガス放出管が発電機室・第1主機室・第2主機室・第2補機室の4区画まで配管された[67]

1972年(昭和47年)には、その船尾側に、機関室船底に溜まる油分と海水の混じった汚水を浄化するビルジ処理装置が設置された[68]。更に1974年(昭和49年)には左舷にも中段が新設され、汚物処理装置が設置された[65]

発電機室[編集]

第2水密辷戸を通り抜けると、発電機室の中段で、船艙には左舷から中央部にかけて、出力840制動馬力ディーゼルエンジン(大雪丸(2代)摩周丸(2代)羊蹄丸(2代)では800制動馬力)[69]で駆動される三相交流60Hz 445V 700kVAの主発電機が3台設置され、右舷にはバウスラスター駆動電源で、かつ主発電機故障時には、主要推進補機のバックアップ電源となる、右舷主軸につながる出力900kVAの主軸駆動発電機が設置されていた[70]

また、ディーゼルエンジン起動用の圧縮空気などを作る空気圧縮機とその空気ダメも発電機室に設置されていた。

総括制御室・第1・第2主機室[編集]

更に船尾側へ第3水密辷戸を通り抜けると、そこは防音冷暖房完備の総括制御室で、第1主機室船首側中段に設置されていた。計器盤は船尾方向向きに設置され、ここで各種機械類の状態が監視され、通常の機関運転操作はここから遠隔操作で行われた。防音扉を開けて船尾側へ通りぬけると第1主機室で、ここには8台の主機械のうち前側の4台が横並びで設置され、その頂部がほぼ中段の高さであった。各主機械番号は右舷から左舷へ、右舷第1主機械、右舷第2主機械、左舷第1主機械、左舷第2主機械と付けられ、流体継手付き減速装置も、この第1主機室に設置されていた。更に第4水密辷戸を船尾側へ通り抜けると、第2主機室で、後ろ側4台の主機械が設置されて、同様に各舷の第3第4主機械と付番されていた[71]

第2補機室[編集]

更に第5水密辷戸を船尾側へ通り抜けると、第2補機室の中段で、眼下には第2ヒーリングポンプの配管、更に毎分217.5回転する2本の主軸が望め、ほかに暖房給湯から係船機械類の凍結防止その他雑用の、補助ボイラー2台(クレイトンRO-175形[72])が設置されていた。

第3補機室[編集]

更に第6水密辷戸を船尾側へ通り抜けると、第3補機室の中段で、機関部作業事務室や倉庫があり、船艙の両舷を走る主軸には可変ピッチプロペラ管制装置が仕組まれ、操舵室からの翼角指令を電気信号で受けた交流サーボモーターが、この管制装置の制御レバーを機械的に指令翼角まで動かした。これにより、中空のプロペラ軸内を通る、前後端が滑り弁となった送油管を前後に巧妙に動かし、可変ピッチプロペラ変節油圧系の圧力油をプロペラボス部(プロペラ翼の根元)のピストンの前または後ろに供給することで、ピストンを前後させ、滑り金を介してプロペラ翼角を制御したほか、変節油圧低下時には、プロペラボス部の後端に付いたバネにより、ピストンが前方に押され前進翼角をとる安全策もとられていた[73][74]松前丸(2代)川崎 エッシャーウイス式では、中空のプロペラ軸内を通る変節軸内の送油管に可変ピッチプロペラ変節油圧系の圧力油を通し、この送油管が通じるプロペラボス内のピストン後ろ側を加圧して変節軸を前進させるか、またはプロペラ軸中空部分の変節軸外側に圧力油を通し、ピストン前側を加圧して変節軸を後退させるかし、この前後動をリンク機構を介して回転運動に変換し翼角を制御した。バネによる翼角前進装置はなかった。)。可変ピッチプロペラ変節油ポンプは航海に重要なもので、各軸1台と予備1台の計3台を装備し、吐出油圧の低下を検出すると予備機が自動的に起動し、故障した舷に圧力油を送るシステムであった[75]。また主発電機停電時には瞬時に主軸駆動発電機からの電源に切り替わって運転継続された。

その他の乗船者室・操舵機室[編集]

更に第7水密辷戸を船尾側へ通り抜けると、“その他の乗船者”室があり、食堂従業員や機関整備員等の居室となっており、左前方に空気調整室(第9系統)も設置されていた。更に第8水密辷戸を船尾側へ通り抜けると操舵機室で、2枚の舵を動かす2台の大きな油圧シリンダーや、その油圧を造る2台の交流電動機駆動油圧ポンプがあり[76]、操舵室のジャイロパイロットからの舵角指令は、電気信号、油圧を介して一旦機械力に変換され、この電動油圧ポンプを制御して舵を動かしていた[77]。操舵機は重要機器のため、その油圧を造る電動油圧ポンプは常時2台並列運転され、こちらも主発電機停電時には瞬時に主軸駆動発電機からの電源に切り替わって運転継続できた。右舷主軸回転中は必ず発電している主軸駆動発電機の登場で、蓄電池を電源とする非常用の直流電動機を装備する必要はなくなった[78]。このほか、船尾扉の開閉装置や船尾係船機械の油圧動力機械もここに設置されていた[72]

“その他の乗船者”室からは車両甲板右舷に上がる階段があり、更に舷側を船楼甲板の2等船室最後部まで上がれる構造であった。

旅客設備[編集]

新造時の旅客定員は、1等寝台20名、1等席310名、2等席870名の1,200名であった、なお津軽丸就航時の国鉄は2等級制で、就航5年後の 1969年(昭和44年)5月10日からモノクラス制に改められ、以後1等寝台は寝台に、1等はグリーンに、2等は普通になった。なお津軽丸型では、客室および船員居住区はすべでセントラル冷暖房完備であった。

1等船室[編集]

1等船室は全て遊歩甲板にあり、遊歩甲板左舷遊歩廊の1等乗船口につながる左舷中央部の前部煙突下付近に1等出入口広間があり、入ってすぐ左が売店で、その角を左折して、右舷側男子用トイレ・洗面所と左舷側婦人用トイレ・洗面所の間を通る船体中心線上の廊下を前方へ進むと、両舷にわたる大部屋があり、ここが1等指定椅子席であった。ここには津軽丸建造以前の1961年(昭和36年)6月に、在来の車載客船4隻の1等出入口広間に60席程度のリクライニングシートを設置し、好評であったため、これを更に拡充する形で、背ずりが垂直に対して65度までリクライニングし、レッグレストや読書灯も付いて、寝台代用となる1人掛けシートを、各列前後に8席、シートピッチ140cmで配置し、これを横に12列、計96席、全て前向きのゆったりとした配置であった。各列の通路と反対側は手荷物棚で仕切られ、更に船体中心線上には手荷物棚で仕切られた通路が確保され、船首側の1等寝台室区画出入口に通じていた[79][80]。船体中心線上の1等寝台室区画出入口から左舷婦人用、右舷男子用の1等寝台室用トイレ・洗面所の間の廊下を進むと、左右両舷を結ぶ廊下の中ほどに丁字に交わるが、この両舷を結ぶ廊下の船首側に3室、船尾側に2室の計5室の1等寝台室が設置されていた。いずれも2段寝台4人部屋で、寝台幅は上下段とも当時の列車の1等B寝台下段に準じた91.5cmで[81]、寝台上の空間も90cm確保されていた。室内の2段寝台手前のスペースにはソファーと小テーブルが作り付けられていたが[82]、すべて窓なしの部屋であった。

1等出入口広間の売店前を直進すると右舷遊歩廊への出入口に達するが、この通路の船尾側、前部機関室囲壁を右舷側にかわした位置には1等自由椅子席への出入口があった。ここには、当時の国鉄特急1等車用2人掛けシートに準じながも、幅を若干広げ、シート中央部に起倒式の肘掛けを設け、読書灯付きとし、背ずりが垂直に対して49度までリクライニングする、フットレスト付きリクライニングシートを[83]、シートピッチ125cm(列車の1等は116cm)で、全て前向きに配置した1等椅子席120席があった[84]が、横方向最大8席で、1等車が2両横並びした状態であった。1978年(昭和53年)に、前側の44席が撤去され、普通船客も利用できる喫茶室「サロン海峡」が設置され、同時にグリーン出入口広間(旧1等出入口広間)の売店も撤去され、ソファーが置かれ、出入口広間はロビー化された[85]。また、1等出入口広間の後方には、カーペット敷きの定員94名の雑居席の1等座席が配置され、内部で右舷の1等自由椅子席とも交通していた。なお1等出入口広間へ入室したとき、正面に見える壁(前部機関室囲壁の左舷側)には、各船の名称にちなんだ壁面装飾が施されており、津軽丸では、リンゴの断面を図案化して描いたポリエステル樹脂化粧板に、FRP製の「リンゴ園に遊ぶ子供たち」と題するレリーフを貼ったものであった[86]

2等船室[編集]

2等船室は全て船楼甲板にあった。1等乗船口よりやや船尾側で、1層下の船楼甲板左舷にある2ヵ所の舷門が2等乗船口で、この乗船口につながる、前後方向に長い2等出入口広間が左舷に配置されていた。この2ヵ所の乗船口の間に舷側を背にする形で、電報切符類の取り扱いが行われる案内所が設置され、この向かい側やや後方の壁には、デザインは各船共通ながら色づかいの異なる、秋田、盛岡以北の東北と北海道の地図を図案化したレリーフが掲げられていた。

案内所向かい側やや前方には売店が、その奥の右舷側には旅客食堂が設けられ、右舷側の窓から外を眺めながらの食事が楽しめた。なお第4船大雪丸(2代)から、食堂の窓が若干拡大された。食堂の船首側に隣接して調理室が配置され、そのほぼ中央から右舷に向け遊歩甲板へ上る階段があり右舷遊歩廊の調理室入口に通じていた。この階段の船首側に隣接して、上下に動く食料積込リフトも設置されていた[87]。調理室船首側左端には車両甲板下第二甲板の船員食堂まで達する食料運搬装置の積込み口があり、ここで調理された食事が、この無人の食料運搬装置に載せられ、まず車両甲板天井まで垂直移動の後、車両甲板プラットホームの天井部分を前方へ約28m水平移動し、更に6m垂直移動して船員食堂まで運ばれた[88]

2等出入口広間前方左舷側には階段があり、ここを上ると、左舷遊歩廊への出口、ならびに1等出入口広間につながっていた。この階段を上らず右側を前方へ進むと、リクライニング機能のない当時の国鉄特急2等車用2人掛けシートに準じながらも、座席下に救命胴衣を収納し、シート中央部に起倒式の肘掛けを設けた2人掛けシートを、シートピッチ96cm(列車では91cm)で、全て前向きに配置した定員206名の前部2等椅子席があった[89]。出入口広間のすぐ後ろ隣には、定員37名のカーペット敷き雑居室の「婦人席」があったが、1978年(昭和53年)のグリーン自由椅子席(旧1等自由椅子席)への喫茶室「サロン海峡」設置時に、囲碁や将棋などを楽しめる「娯楽室」に模様替えされた[90]。この後ろ、両舷に後部遊歩甲板へ上る階段が設置されていた。更に後方の左舷側には、前部2等椅子席と同様の椅子が並ぶ、定員118名の後部2等椅子席が配置されていた。また、前部2等椅子席の右舷側には、定員236名のカーペット敷き雑居席の前部2等座席があり、その最後部の1区画も壁で仕切られて「婦人席」とされていた。後部2等椅子席の右舷側には、定員126名のカーペット敷き雑居席の後部2等座席が配置され、更に旅客食堂と通路をはさんだ後方にも、定員147名のカーペット敷き雑居席の中央部2等座席が配置されていた[61]

1980年(昭和55年)には、後部左舷椅子席と右舷座席の間の壁が撤去され、椅子席も撤去され、両舷にわたる普通雑居席の大広間となり、映写スクリーンが設置された[91]。この改装では、右舷座席も含め、各区画を仕切る手荷物棚は従来より低くなり、仕切りも不完全で開放的な造りとなった。1969年(昭和44年)には、普通船室前部男子用洗面所内にシャワー室が設置され、その後好評につき、1970年(昭和45年)には普通船室前部婦人用洗面所内に1ヵ所(通路から直接入れるようにしたため男子も使用可)、1973年(昭和48年)にはグリーン船室中央右舷にも1ヵ所設置された[92]

船内冷暖房[編集]

1937年(昭和12年)建造の関釜連絡船 金剛丸(7081.74総トン[93])で、当時鉄道省と呼ばれていた国鉄は世界初となる船内全室冷房を実現していたが[94]、その後戦争もあり、青函連絡船の船内冷房は実現していなかった。しかし、1960年(昭和35年)12月には上野-青森間の特急「はつかり」が全車冷房完備のキハ81系気動車に置き換えられ、1961年(昭和36年)10月には大阪-青森間特急「白鳥」と、函館-旭川特急おおぞら」が同じく全車冷房完備のキハ82系気動車で運転開始され、青函連絡船と接続する両岸の特急は窓の開かない空調完備の車両に近代化されていた。

これら特急を接続する青函連絡船の客室冷房は当然の流れで、津軽丸型にはセントラル方式の冷暖房装置が搭載された。車両甲板下の第1補機室船艙に75kW交流電動機駆動の26万kcal/hの海水による水冷式ターボ冷凍機が2台搭載され[95]、ここで造られた冷水が船内9ヵ所の空気調整室の冷却コイルへ送られ、室内から戻った空気や船外から取り入れた空気をこのコイルで冷却し、冷風をダクトで各室へ送るセントラル冷房方式であった。暖房は第2補機室の補助ボイラーからの蒸気を各空気調整室の加熱コイルへ送り、温風を同じダクトで送風したほか、各室設置のラジエーターによる暖房も併用された。

セントラル冷房の施行範囲は、全客室と全船員居住区、その他の乗船者室、無線通信室で、電子機器等の発熱の多い総括制御室と電気機器室、調理のため発熱の多い調理室に隣接する旅客食堂には、セントラル冷房休止中でも冷房可能なパッケージ型エアコンが装備された[96]。操舵室はラジエーター暖房のみで冷房はなかった。

当初2台のターボ冷凍機はそれぞれ受け持ちの系統が分担され、冷水回路も独立していた。1号機が第1系統(1等寝台室)、第2系統(1等指定椅子席、1等出入口広間)、第4系統(前部2等椅子席・座席、2等出入口広間)、第6系統(無線通信室、高級船員室)、第7系統(第1船員室)、第8系統(第2船員室)、第9系統(その他の乗船者室)の7系統を受け持ち、2号機が第3系統(1等自由椅子席・座席、1等出入口広間)、第5系統(後部2等椅子席・座席、中央部2等座席、婦人席、2等出入口広間)の2系統を受け持った[97][98]。ところが、これでは片方のターボ冷凍機が故障すると、その受け持ち系統の冷房が全く効かなくなる問題が生じ、就航後ターボ冷凍機の前後で両冷水回路の冷水管をつなぐ改造を行った。しかし、それでも両回路の冷水が十分混じり合わないため、冷房の不均衡は十分改善されず、第4船の大雪丸(2代)からはターボ冷凍機の前後にそれぞれ小さなタンクを設け、両冷凍機で造られた冷水が完全に混じり合い、また各系統から戻って来た温まった水も完全に混じり合わせて両冷凍機の負荷が均衡するよう設計変更された[99]

車両積載設備[編集]

船体の大型化で軌道有効長も伸び、左舷側から船1番線95.8m、船2番線111.6m、船3番線85.4m、船4番線95.8mとなり、車両積載数は船1番線から ワム換算で、順次12両、14両、10両、12両の合計48両と、当時の国鉄連絡船最多となり[100]、1,000トン列車1本をほぼそのまま積載できた。

船内軌道船首端には、翔鳳丸型以来自動連結器の装備された車止めが設置されていたが、入換機関車に押されて来た列車の、たび重なる衝撃で、車止め自体が損傷されるため、宇高連絡船  讃岐丸(初代)では、この連結器と車止め本体との間に油圧緩衝器が装備された。津軽丸型では、これの細部を改良した同一性能の、重量50トンの列車が時速6kmで衝突したエネルギーを、約9cmのストロークで吸収できる油圧緩衝器が、同様に装備された。また積載列車のブレーキ管と繋いで、ブレーキの締め直しができるよう、機関車用自動ブレーキ弁も設置された。なお油圧緩衝器付き車止めの場合は、列車先頭車両の最前部車輪に、レール上に載る小型車輪止めのヘムシューをかます必要があった[101][102]

油圧緩衝器の装備を受け、津軽丸では従来の機関車用坐付連結器に代わり、通常の上作用式の並型自動連結器が設置された[103]。更に車両甲板船尾から、車止めの自動連結器の遠隔解錠ができるよう、車止めに設置したエアシリンダーで、連結器解錠レバーに繋いだワイヤーを、滑車とテコを介して引っ張って解錠する仕組みとした。しかし構造が複雑なため、第2船の八甲田丸以降では、連結器内部が改造された特殊な自動連結器が設置され、連結器直下に置かれたエアシリンダーで、連結器の解錠レバーを直接押すという単純な構造になった[104]

「あと5両」の電光表示が可動橋門構え上に確認できる。函館第1岸壁、連絡船は十和田丸

油圧緩衝器が装備されたとはいえ、車止めはあくまでも積載車両を固定することが目的で、入換機関車の“暴走”を止めるものではない。このため、陸上の入換機関車の機関士が目視できない列車先頭と車止めまでの距離を、機関士からも分かるよう、電光表示器が、青森第1岸壁、第2岸壁、函館第1岸壁、第2岸壁の各可動橋の門構え上に、1965年(昭和40年)9月30日に設置され、車止め付近の表示操作器ダイヤルから、有線で車止めまで「あと何両」という電光表示と音声放送もできるようになり[105][106]、そのため船内軌道各線の中ほどから終端部にかけて、ワム換算で「あと5両~1両」の標記看板が車両甲板天井に設置され、軌道内には「あと5m~1m」の目印の白線がペイント標示された。その後、可動橋の電光表示器は、青森第3岸壁には1969年(昭和44年)11月20日に、函館第3岸壁、第4岸壁には1970年(昭和45年)3月にそれぞれ設置された[107]

国鉄連絡船では、翔鳳丸以来、積載車両転倒防止のため、車両台枠を横から斜め下の甲板につなぎ止める甲種緊締具と呼ばれる緊締具が使用されてきた。この緊締具の車両側はハサミ状で、このハサミで車両台枠の鉄骨をはさみ込み、甲板側はフック付きで、甲板上の緊締用レールの穴に引っ掛け、ターンバックルで締め上げる方式であった。しかし、ハサミ部分が重く、常に張力がかかっていないと緩んでしまう、などの欠点があった。

津軽丸型は1日2.5往復するため、折り返し時間が55分に短縮され、車両積載数も増加し、更に人員削減のため、この甲種緊締具の操作性改善が強く求められた。このため、両側をフック付きにして、重量を20kgから13kgに軽量化した緊締具が考案され、これに対応するため、国鉄では1962年(昭和37年)4月から1966年(昭和41年)3月までに、11万両に及ぶ車両にフック掛けを設置した。更なる軽量化を目指した鎖を用いたレバー・ブロック方式も開発され、第6船の摩周丸(2代)以降、羊蹄丸(2代)十和田丸(2代)で、船首から25mの範囲で採用された[108][109]。しかし、車両のフック掛け位置を気にせず使用できた従来型のハサミ式甲種緊締具も、青函連絡船終航まで一部で使用され続けた[110]

列車最後尾を固定する乙種緊締具は、従来は二股の鎖を用いて一端を連結器に巻きつけ、二端を軌道外の甲板上の鉄環にフックで掛け、ターンバックルで締めて積載列車の前後動を防いだが、津軽丸からは、最後尾車両の一端を連結器に巻きつけ、他端は後方下の軌道内に設置された鉄環にフックをかけ、レバー・ブロックで締める形の小型の乙種緊締具となった[111]。また檜山丸型同様、軌道の間に梁柱を密に立てることで、積載車両がたとえ傾いても、横転して左右へ大きく移動することなく、船体横転につながらないよう配慮された。

陸上の鉄道では、車両がはみ出してはならない限界の車両限界と、トンネルやプラットホーム、跨線橋等の建築物が線路に近付き過ぎてはならない限界の建築限界が定められており、高速走行等を考慮して、車両限界は幅3.0m、高さ4.1mなのに対し、建築限界は幅3.8m、高さ4.3mとかなり余裕を付けていた。しかし、船内軌道では制限速度4km/h[112]と低速で、船内の限られた容積内に、できるだけ多くの車両を積載するため、特別に幅3.4m、高さ4.265mの縮小建築限界が採用されていたが、幅3.6m、高さ4.25mの第1種かつ大貨物にも対応できるよう、船2番線の船尾側約40mには一般の建築限界が採用された[113][114]

ヒーリング装置[編集]

車両の積卸し時、船体中心線から離れた船内軌道に、列車を載せたり卸したりすると、その重みで船体が横傾斜するため、両舷側のタンク間で海水を移動させて、その横傾斜を抑制するのがヒーリング装置で、青函連絡船では1924年(大正13年)建造の翔鳳丸以来、全船に装備されて来たが、全てヒーリングタンク1対、ポンプも1台の装備であった。

津軽丸型のように、車両甲板に4線の船内軌道を持ち、かつ船楼甲板上の大部分に2層の客室を有する船は、国鉄連絡船としては初めてであった。このため、大容量のヒーリングタンクと、強力なヒーリングポンプを備えることが必要となったが、大き過ぎるヒーリングタンクは、損傷時の非対称浸水による横転を招きかねず[115]、また強力過ぎるヒーリングポンプは、タンク底内部に突出した肋骨による段差で水の流れが滞り、ポンプ吸入口への残水の流れ込み量が、ポンプ吸引量に追いつけなくなり、ポンプが空気を吸ってしまって残水量が増え、結局タンク有効容量の減少を招くため[116]、前後2組の独立したヒーリング装置を装備することとした。

このため、第1ヒーリングタンク(片舷163.9トン 有効容量約130トン)は、発電機室とタンク後端は第1主機室水密区画の一部の両舷に達する形で設置され、両舷タンク間は、発電機室の一つ前に隣接する第1補機室を迂回する太いパイプで繋がれ、第1ヒーリングポンプは第1補機室に設置された。第2ヒーリングタンク(片舷238.8トン 有効容量約200トン)は、第2主機室両舷を中心に、その前後端は前後の隣接水密区画舷側まで達したやや大きなタンクで[117][118]、両舷タンク間は第2補機室を通る太いパイプで繋がれ、第2ヒーリングポンプは第2補機室に設置された。更にこの太いパイプは船尾方向へも分岐し、第3補機室を経由して、“その他の乗船者”室船底のトリミングタンクに繋がり、船尾喫水の調節も迅速にできるようになった。このトリミングタンクまで繋がる配管は讃岐丸(初代)に始まるものであった。

このような経緯で、ヒーリング装置を2組装備することになったが、1組故障した場合、タンク容量の少ない第1ヒーリング装置単独でも、貨車が80%載貨状態以下であれば[119]、積卸し速度を規程の半分の2km/h程度に落とすことで、どうにか48両の積卸しは可能であった[120]

なお津軽丸ではヒーリングポンプに、十和田丸(初代)讃岐丸(初代) で採用された交流誘導電動機駆動の可変ピッチプロペラ式軸流ポンプは採用されず、110馬力三相交流誘導電動機駆動の可変吐出量型油圧ポンプで駆動される定容量型油圧モーター駆動の可逆転固定ピッチプロペラ式軸流ポンプが2組採用され、第3船の松前丸(2代) でも、この方式が採用された。なお、第2船の八甲田丸では、85kW三相交流誘導電動機駆動の可変ピッチプロペラ式軸流ポンプが2組採用され、上記2隻以外の津軽丸型5隻でも、この可変ピッチプロペラ式軸流ポンプが採用された。

このように、津軽丸型では2種類のヒーリングポンプが採用されたが、いずれのタイプも、ポンプ容量は1台当たり2,200m3/h×7.5m(水頭)と、檜山丸(初代)のもの[121]と同程度で、車両積卸し時に、“自動ヒーリング操作”を選択すれば、横傾斜1度になると、自動的に傾斜を補正するようにポンプが動き始め、±0.5度以内になると、ポンプは自動停止した[122]。また讃岐丸(初代)同様、ボタン操作での、個別の手動操作も可能であったほか、車両積卸し開始時に、船体傾斜が1度に達して自動ヒーリング運転が始まる前に、数秒間手動操作を介入させて、船体傾斜を更に軽減することもできた[123]。このポンプ容量は、車両長1m当たり3トンの満載貨物列車を[124]、船1番線または船4番線に平均時速4kmで積卸ししても、片舷への最大傾斜が3度以内に収まる、という容量であった[125]

しかし、この自動ヒーリング装置を実際に使用してみると、船2番線、船3番線では問題なかったが、船1番線、船4番線では船体傾斜の進行にヒーリング操作が追い付けないことがあり、手動操作であらかじめ船体を反対側へ若干傾斜させ、そのまま手動操作で車両積卸しを行うことが常態となった[126]。なお可動橋を架けての車両積卸し時の船体横傾斜の許容角度は、可動橋のねじれによる2軸貨車の3点支持脱線の危険性からは4度以内であったが、安全のため余裕を持って3度以内とされた[127][128][112]

乗用車航送[編集]

1967年(昭和42年)6月1日から、遊歩甲板後部の遊歩スペース上に、乗用車6台を積載航送するサービスを開始した[129]。これに先立ち、一般旅客領域と車載領域の仕切り柵を設置し、この部分にあったベンチを撤去し、乗用車が甲板上でUターンしなくて済むよう、左右両舷の柵の一部を開閉可能な構造とし、ここを乗用車乗降口とした。青森では第1岸壁の船尾右舷が接岸する副岸方向から、斜路で右舷乗降口へ至り、函館側では、第2岸壁の待合所と岸壁の間にエレベーターを設置して、左舷乗降口に至ることとし、乗用車は全車船の進行方向に横向きの、2台縦列が3列の6台積載であった。当初2往復(夏期多客時3往復)で開始し、翌1968年(昭和43年)6月からは6往復(夏期多客時8往復)、1970年(昭和45年)5月からは8往復(夏期多客時10往復、閑散期6往復)とし、1971年(昭和46年)4月からは車両間隔をつめ、2台縦列4列の8台積載とした。更に1972年(昭和47年)7月までに、船尾係船作業場の上、遊歩甲板からポンプ操縦室屋上の入渠甲板に至るまでの空間に、係船作業に支障が出ないよう、左舷側1/4程度を残して屋根掛けする形で車載領域を拡張し、右舷の横向き積載車を船尾側へ1台増やして5台としたうえ、船尾側拡張部分に船の進行方向向きに3台積載して合計12台積載に改造したが、依然露天積みであった[130]。なおこの改造に伴い、遊歩甲板室後端から係船機械のある船尾船楼甲板へ降りる階段が撤去された。

航送自動車台数は順調に増加し、1973年(昭和48年)度には40,427台に達したが、これをピークに、同年秋の第1次オイルショック1976年(昭和51年)の国鉄運賃の大幅値上げ等の影響で、減少に転じ、1976年(昭和51年)度は29,492台まで減少してしまった。このため、国鉄では、荒天時の無料洗車券の発行や往復割引回数券を発売し、以後微増に転じた。1982年(昭和57年)には津軽丸と松前丸(2代)が引退し、その代船として、乗用車20台積載可能な改造客載車両渡船石狩丸(3代)檜山丸(2代)が就航し、1983年(昭和58年)度には35,172台まで増加した。 1984年(昭和59年)2月1日の有川桟橋廃止後は夏期多客時9往復となったが、東北自動車道の延伸もあり、1987年(昭和62年)度には37,462台を航送してその幕を閉じた[131]。また1985年(昭和60年)4月1日からは、横向き積載の乗用車積載位置を若干船尾側へ寄せ、車載領域前側にわずかなスペースを捻出し、そこへ数台のオートバイ・自転車の積載を開始し[132]、同時期には船尾の進行方向向き積載の乗用車数を4台に増やし、乗用車13台まで積載していた[133][134]

係船機械[編集]

係船ウインチ[編集]

十和田丸(初代)以前の青函連絡船では、船首係船作業場には揚錨機が1台あり、これで両舷の錨の投揚錨を行うほか、揚錨機本体の両側面には、ワーピングドラムという水平軸で回転する糸巻き形のドラムが突出していた。入港時、岸壁前で速力を落とし、近寄ってきた綱取り艇という小舟に、甲板縁に設置された係船索の向きを変える滑車(フェアリーダー)を通して降ろした係船索(フォアライン)の一端を持たせ、これを岸壁まで運ばせ、岸壁のビットに掛けた後、フォアラインをこのワーピングドラムに数回巻き付け、甲板員が3名がかりで引いたり緩めたりして、フォアラインとワーピングドラムのスリップを調節することで、その張力を調節しながら、フォアラインを巻き込んで船体を岸壁に引き寄せて行った。着岸作業では通常、補助汽船は船尾しか押さないため、このフォアライン巻き込み力は船首を岸壁方向へ引き寄せる唯一の力で、重要なものであった。

また船尾にも、車両甲板の曝露部、あるいは船楼甲板の両舷に、ワーピングドラムを垂直にした形のキャプスタンが1台ずつあり、甲板員2名で船尾を可動橋に合わせる作業を行っていた[135]

この危険で、人手のかかる係船作業の自動化・遠隔化の試みが、青函航路よりは条件の緩い宇高航路1961年(昭和36年)建造の讃岐丸(初代) で行われ、国鉄連絡船初の電動油圧式の揚錨機や、係船ウインチが開発された。特に後者では、係船索を自在に巻き込んだり繰り出したりができたほかに、係留中も係船索を一定の張力で引張り続ける“自動係船運転”と呼ばれるオートテンション機能をも持たせることができた等、一定の成果を上げることができたため、津軽丸型でも電動油圧式係船機械が導入された[136]

この国鉄連絡船で使用された電動油圧式係船機械とは、三相交流誘導電動機駆動で、回転数一定のまま、その吐出量を無段階に変えることのできる可変吐出量型油圧ポンプ[137]で油圧を発生させ、配管を通して油圧を揚錨機やウインチへ導き、それらの機械の定容量型油圧モーター[138]を任意の方向・速度で回転させる仕組みであった。この油圧回路では、係船機械の油圧モーターへの負荷が増大し、回路の油圧が規定値を越えても、安全弁あるいはリリーフ弁を通して油圧を低圧側に逃がせるため、停止状態でも過負荷にならないで一定のトルクを発生し続けることができ、更に、予め回路油圧と連動させつつ油圧ポンプの吐出量を制御するシステムを導入することで、係船ウインチとして望ましい荷重速度特性を得ることができた[139]

津軽丸型では、船楼甲板船首係船作業場には、揚錨機のほか、着岸前、最初に岸壁のビットに繋いで船首を岸壁へ引き寄せるフォアラインを巻き込む左舷の主ウインチ、左舷が岸壁から離れないよう固定するブレストラインを巻き込む右舷の補助ウインチ、そして船体を後方へ引き寄せて船尾を岸壁ポケットへ押し込むスプリングラインを巻き込むスプリングウインチが、それぞれ別個に設置されたが、船首係船作業場が狭いため、スプリングウインチだけは1層下の左舷中甲板に設置され、船楼甲板上にはスプリングラインを出す穴が設けられた。いずれのウインチ・揚錨機も、船首の一段高くなった船首指揮台の操縦スタンドから遠隔操作されたが、揚錨機だけは、操舵室内前面左舷側の操縦スタンドからも遠隔操作できた。しかし錨鎖をロックしている制鎖器のカンヌキの解除は現場でしかできず、そこまで行くなら船首スタンドを使う、ということで、結局操舵室のスタンドは使われず、第7船十和田丸(2代)では設置されなかった。なお、船首係船機械の油圧を造る油圧ポンプを含む動力機械は、揚錨機とスプリングウインチ用が左舷中甲板に、主ウインチと補助ウインチ用が右舷中甲板に設置された[55]

船楼甲板船尾係船作業場でも、左舷後方の岸壁ビットに左舷アフターラインをかけ、これを巻き込んで船尾を後進させ、可動橋に押しつける船尾左舷ウインチの1ドラム、ならびに、左舷船尾から前方のビットにかけ、左舷アフターラインの張力に対抗してブレーキをかける船尾スプリングラインを巻き込む船尾左舷ウインチの1ドラム、の2つのドラムを持つ船尾左舷ウインチと、右舷アフターラインを巻き込む船尾右舷ウインチが設置された。この2台のウインチは船尾船楼甲板左舷の台の上に設置された操縦スタンドから遠隔操作された[140]。なお、船尾係船機械の動力機械は、車両甲板下の操舵機室に設置された[72]

このように各係船索をそれぞれ個別の電動油圧式ウインチで、自在に巻き込んだり繰り出したりが遠隔操作で可能となり、少ない人員で安全に係船作業が行えるようになった。なお船尾左舷ウインチのみ2ドラムで兼用となったのは、船楼甲板の甲板室が大きく船尾係船作業場が狭くて、ウインチを3台設置できなかったためであった[141]

停泊中の車両積卸し作業による船体の傾斜や喫水の変化、潮位の変化などに対し、係船索が緩んだり張りすぎたりしないよう、係船索を一定の張力で引っ張り続ける“自動係船運転”と称するオートテンション機能は、津軽丸の係船機械を製作したメーカーが讃岐丸(初代)の係船機械を製作した東洋電機製造でなかったこともあり、結局所定の性能が出せず、この機能は使われなかったが[142]、第2船の八甲田丸以降は予定通り、船首では補助ウインチとスプリングウインチ、船尾では左舷ウインチの左舷アフターライン用ドラム、右舷ウインチの4台で“自動係船運転”可能となった。また、第3船の松前丸(2代)には川崎重工製の係船機械が採用されたが、八甲田丸を含め、以後の青函連絡船は全て東洋電機製造 の係船機械が使用された[143]

なお、津軽丸型6隻の使用実績から、船尾左舷ウインチは2ドラムで、左舷アフターラインとそのブレーキとなる船尾スプリングラインが同時作業となるため、両ドラムを同時に油圧モーターで動かせない、という問題が浮上した。そこで、第7船十和田丸(2代)では、左舷ウインチを左舷アフターライン専用の1ドラム型にし、右舷アフターライン作業は船尾スプリングライン作業とは重ならないため、船尾右舷ウインチを2ドラム型として、スプリングラインを左舷から船尾船楼甲板上をローラーを介して右舷ウインチまで導き、船尾右舷ウインチの1ドラムを船尾スプリングライン用とした。これにより、船尾スプリングラインは従来の摩擦ブレーキから、きめ細かな運転のできる油圧回生ブレーキをかけながらの、左舷アフターライン巻き込み作業が可能となり、この形が以後の標準となった[141]

自動係船運転機能についても、1955年(昭和30年)建造の檜山丸(初代)以降の青函連絡船では、船体幅を拡大したため、岸壁係留位置では、船体中心線が可動橋中心線に対し14.8‰の角度で岸壁とは反対方向に振れており、左舷側は岸壁に接舷しているのは全長132mのうち、船尾側から約40%の52m付近までで、それより船首側では岸壁と隙間をあけて係留していた。このため、船首部をブレストラインで岸壁に引き寄せ過ぎると、船尾の可動橋との接続部分に無理がかかることが判明し、十和田丸(2代)からはブレストラインを巻き込む補助ウインチの自動係船運転機能は省略された[144]

国鉄型錨[編集]

洞爺丸台風では、JIS型錨を装備した当時の青函連絡船の多くが走錨に悩まされ、その後も函館港では、風速毎秒20m程度で錨が動き出し、船が流され始めていた。潜水調査の結果、JIS型錨では比較的条件の良い砂地でも、50%以上で爪が海底を掻いていないことが判明したため[145]、国鉄では海底表面が泥の函館港でも有効な、爪の付け根幅の広いバルト型錨(Baldt Anchor)を連絡船用に改良した“国鉄型錨”を開発し、津軽丸型には重量3,910kgの国鉄型錨が装備された[146][147][148]

球状船首の不採用[編集]

球状船首自体は決して新しい物ではなかったが、第二次世界大戦後、日本でも理論的研究が進み、本船基本計画中の1961年(昭和36年)3月には、その前年に建造された関西汽船 阪神―別府航路の高速客船 くれない丸(2,928総トン)に巨大な球状船首[149]を仮設しての実船試験が行われ、従来からの小型球状船首では5,400馬力で18.45ノットのところを、巨大球状船首では19.0ノットを記録し、また同じ18.45ノットなら4,690馬力で達成できたと報告された[150]。また、1963年(昭和38年)建造の日本郵船の高速貨物船山城丸(10,466総トン)以降は、球状船首が各社建造の高速貨物船に本格的に採用されるようになった[151]

このような状況下、国鉄も球状船首に関心を持ち、1961年(昭和36年)11月以降、東大水槽で球状船首付き、球状船首なしの各種船型の模型実験を行い、球状船首付きで約14%の全抵抗減少が見込まれたが、車両甲板前部が狭くなって積載車両数が減る、頻繁に出入港するため着岸時に水面下の球状船首を岸壁に接触して損傷する可能性がある、などの理由のほか、十和田丸(初代)では、スムーズな投錨のためアンカーリセスを設けて、あえて錨の出口であるベルマウスを船体中心線から1.2mと近い位置に寄せており、この位置のまま投錨すると、船首喫水線下で、側方へ船体中心線から1.75m膨隆した球状船首付け根側面に錨が衝突してしまい、これを避けるには、ベルマウスを船体中心線から最低2.9mは離さなければならなくなり、錨の位置を抜本的に変更する等の対策を迫られた。

以上を総合的に判断した結果、球状船首なしの船型が採用された[152]。なお、くれない丸も巨大球状船首は別府港内での操船上の理由から、上記試験終了後撤去され、従来からの小型球状船首に戻された[153]

機関部[編集]

津軽丸1973年7月27日16便(函館2岸19時25分 青森1岸23時15分)総括制御室 推進機関操作盤、後ろ向き設置のため、左右が逆になっている。左翼左から右舷主機1号機~4号機の計器、右翼左から左舷主機1号機~4号機の計器で、右舷2号機と左舷3号機が休止中、上側が各主機の負荷計で右舷稼働機の負荷は60%代後半、左舷稼働機は70%前後。下側が各主機の回転数計で、稼働機は何れも750回転。手前卓上は各主機の遠隔操作スイッチ。中央部は上段がプロペラ翼角と舵角で、右舷翼角23度、左舷翼角24度で、舵は2度ほど左へ切られている。中段が主軸馬力計で、右舷3,200馬力、左舷3,400馬力で、中央の時計は22時18分、下段は両舷主軸回転数計で、ともに217.5回転、中央の速力計は18.0ノット、手前卓上のエンジンテレグラフ受信機はRING UPが点灯中。定時では大島22時19分、湯ノ島22時43分で、湯ノ島まではこのまま18ノット、湯ノ島でエンジンテレグラフ受信機はSTAND BYになり、青森入港体制となる[154]
津軽丸 総括制御室 発電機操作盤 上の写真の左側にこの発電機操作盤がつながっている。左上が主軸駆動発電機電流計でゼロアンペアを指していて、その下の電圧計は445Vを指している。電圧計の右が周波数計で60サイクルを指している。その上は補助発電機電流計で、こちらもゼロアンペアを指している。下の二つのメーターは主軸駆動発電機と補助発電機共用切換え式で、この時は主軸駆動発電機の電圧と周波数を表示中。主軸駆動発電機は主軸回転中は常に発電はしているが、この時は高速航行中でバウスラスターは運転されておらず、発電された電気は全く使用されていないため電流はゼロとなる。ただ端子間には60Hzの三相交流445Vの電圧がかかっている。このため、主軸駆動発電機は主発電機故障時には、瞬時に主要推進補機への給電を肩代わりできた。その右側が3台の主発電機の電力計(上)と周波数計(下)で右端(上)が母線電圧計。真夏の多客時(1973年7月27日)で冷房運転中のため2台並列運転を行っていた。

マルチプルエンジン[編集]

青函連絡船 で初めてのディーゼル船となった檜山丸(初代)から 十和田丸(初代)までの3隻では、主軸に直結でき、燃料に安価なB重油が使える、毎分230〜250回転の2サイクル低速ディーゼルエンジンが主機械に採用されていた。しかしこれら3隻は、車両渡船・車載客船で、車両甲板上に敷設する軌道の有効長を可能な限り伸ばして積載車両数を確保しなければならず、車両甲板中央部に一般商船のように大きな吹き抜けを設けることはできなかった。このため、機関室の天井高さは二重底の上から車両甲板下までに制限され、そこへ背の高い2サイクル低速ディーゼルエンジンを搭載したため、主機械頂部と機関室天井との間の余裕は少なく、主機械のピストン抜き作業は、車両甲板に設けたボルト締めの水密ハッチの蓋を開けて行う必要が生じ、車両積載時にはできなかった[155]

津軽丸型では、1日2.5往復させるため、航海速力を18.2ノットに上げなければならず、従来の約2倍の出力を必要とし、これを在来型のディーゼル船3隻のように、主軸直結2サイクル低速ディーゼルエンジン搭載で実現することは、同じ理由で機関室の天井高さが制限される津軽丸型では不可能であった[156]

このため津軽丸型では、背の低い毎分750回転で、定格出力1,600制動馬力の4サイクル中速ディーゼルエンジンである川崎 MAN V8V 22/30mAL(大雪丸(2代)摩周丸(2代)羊蹄丸(2代)の3隻では、毎分560回転で定格出力1,600制動馬力4サイクル中速ディーゼルエンジン三井 B&W 1226  MTBF-40V)を片舷4台、合計8台搭載することで、所要出力を確保しつつ、天井の低い車両渡船の機関室内で、主機械頂部と機関室天井の間に余裕を持たせ、ピストン抜き作業も機関室内でできるようにした。なおこれらエンジンには軽油が燃料として使われた。

しかしこの回転数ではプロペラ効率が悪く[156]、減速機を介して主軸に繋ぐ必要があり、また片舷1軸あたり4台のエンジンが繋がるため、故障機や休止機を軸系から容易に切り離せるようにしておくことも必要で、各主機械と主軸の間にはクラッチも必要となった。当時はこの程度の大出力のディーゼルエンジンからの出力を減速歯車に伝達する場合、歯車に対するディーゼルエンジンの変動トルクの影響を吸収する目的で流体継手が用いられており、津軽丸型ではこの流体継手に、作動油の出し入れでクラッチとしての機能も持つタイプを採用し、各主機械を個別に主軸から切り離したり繋いだりすることができた[157][158][159]。このように8台のエンジンの出力は、それぞれ流体継手と1段減速歯車を介して両舷の主軸に伝達され、主軸はプロペラ効率のよい毎分217.5回転で互いに外転した[160]

通常は主機械6台程度の稼働で定時運航可能なため[161]、運航しながらの機関整備が可能となり、当時檜山丸型で行われていた20日間運航後3日間休航、という機関整備のための休航は不要となった[162][158]

津軽丸は就航から4年後の、1968年(昭和43年)5月26日から1969年(昭和44年)4月4日までの314日間のロングラン試験を行い、途中台風や、配船計画、陸上都合による欠航または休航はあったものの、船の都合による欠航はなく、期間中同時に2台の主機械が運転不能となることもなかったため、以後津軽丸型では中間入渠を廃し、1年に1回の入渠となった[163][158]。その後、主機械の小改造を経て、1973年(昭和48年)からは主機械2年間無開放運転を開始し、年1回の入渠時には全8台のうち4台の主機械のみ開放整備することとなった[164]

右舷主軸のみ減速機のある第1主機室から遊星増速歯車で毎分1,200回転に増速のうえ、ひとつ前方の発電機室までのび、バウスラスター駆動電動機の電源でもある主軸駆動発電機(900kVA)を常時直結で駆動した。このため主軸駆動発電機は右舷主軸が正常に回転している運航中であれば、常に三相交流60Hz 445Vの電圧を発生しており(バウスラスター運転時以外は無負荷のため電流はゼロアンペア)、主発電機(700kVA)故障時には、瞬時に主要推進補機への給電を肩代わりできるバックアップ電源でもあった[165]

可変ピッチプロペラ[編集]

国鉄では、1961年(昭和36年)6月建造の大島連絡船 大島丸(後の安芸丸)(257.99総トン)に、350馬力と小型ながら川崎重工スイスエッシャーウイス社から技術導入して製作した3翼の可変ピッチプロペラを、国鉄連絡船として初めて装備し[166][167][168][169]、同時期建造の宇高連絡船 讃岐丸(初代)フォイト・シュナイダープロペラと比較したが、高速航行時間の方が出入港時間よりも長い青函宇高の両航路では可変ピッチプロペラの方が適していると結論づけた[167]

このため、津軽丸型では、当時の三菱日本重工横浜造船所がスウェーデンカメワ社から技術導入して製作した、直径3.25m 4翼の、当時日本最大の可変ピッチプロペラ 三菱横浜KAMEWA 102S/4型[170]松前丸(2代)のみエッシャーウイス式で、直径3.3m 4翼、同じく当時日本最大の[171] 川崎Escher Wyss B-1000/SV-370型)を2基装備した。

可変ピッチプロペラの利点は、全速前進から急ブレーキをかけた場合、固定ピッチプロペラでは、全速後進発令後エンジンを一旦停止し、逆回転で再起動しなければならず、その間の無駄な空走を許してしまうが、可変ピッチプロペラでは、エンジンはそのまま運転継続で、プロペラの翼角を逆向きにするだけのため、発令直後からブレーキがかかり、ブレーキ距離の大幅な短縮が可能なことであった。津軽丸での試運転からの試算では、可変ピッチプロペラでは19ノットから475mで停止できたが、固定ピッチプロペラでは1,129mも要したとのとであった[24]。このような可変ピッチプロペラの圧倒的な操縦性の良さは、相当長い高速航行区間と頻繁な出入港を併せ持つ青函連絡船には最適であった。

可変ピッチプロペラ採用により、主軸回転数は毎分217.5回転で、回転方向は互いに外転のまま、あとは操舵室のプロペラ翼角操縦レバーからの翼角制御だけで、船の前後進から速力の調節まで行われた。これは、主機械は一定方向への一定回転数さえ維持していればよいことを意味し、天井高さの低い機関室での出力増強の目的で、マルチプルエンジンが採用されたが、多数の ディーゼルエンジンの発停、逆転を、同時に行うことが容易ではないことを考えると、もし可変ピッチプロペラがなければ、建造コストの高いディーゼル・エレクトリック方式を選択せざるを得なかったことにもなる[172]

操舵室からのプロペラ翼角制御による翼角の変化は、主軸に負荷変動をもたらし、主軸ならびに各主機械の回転数の変動となって表れ、これらを素早くガバナーで検知し、各主機械への燃料噴射量を調節して、回転数を一定に保つよう自動制御された。

このガバナーによる主機械の制御は、フォイトシュナイダープロペラ採用により、既に主機械の定速回転制御を行っていた宇高連絡船 讃岐丸(初代) で使われていたが[173]、津軽丸型ではマルチプルエンジンのため、ガバナーは主軸のほか、各主機械にも装備され、各主機械の負荷の均等化を図りつつ、主軸回転数を一定に制御できるよう、これらのガバナーを統合する自動負荷分担装置が設けられた[174]。これらのシステム構築は当時試行錯誤で、津軽丸型各船でも種々の異なった方式が導入された。

また、操舵室において不用意にプロペラ翼角操縦レバーを進め過ぎても、主機械に過負荷がかからないよう、翼角の進みを調節する、過負荷防止装置については、津軽丸のものは動作が不安定過ぎて実用に耐えられず、結局使われなかったが[175]、第2船の八甲田丸以降では実用化された。

操舵室から総括制御室への推進機器の発停関連の指令は、操舵室のプロペラ制御盤にある押しボタン式のエンジンテレグラフが用いられた。STAND BY(主機械始動準備→主機械始動、入港前発停操作配置、警戒航行配置)、DRIVE PROPELLER(プロペラ回転させよ→流体継手嵌)、RING UP(出港配置解除、警戒配置解除)、FINISH(プロペラ使用終了)の4項目で、うちDRIVE PROPELLERの発令がない限り、総括制御室から流体継手に作動油を注入して、主機械を主軸に繋ぐ(現場では「フルカン嵌」と表現[176]、逆は「フルカン脱」)ことができないよう、インターロックがかけられていたが[177]、通常は操舵室から主機械や流体継手を直接制御することはできず(主軸“非常”停止用押しボタンはあった[178])、全て総括制御室を介して各機械類が遠隔操作され、操舵室からは可変ピッチプロペラの翼角制御だけが行われ、これによる負荷変動に対し、自動負荷分担装置が働いて、各主機械への燃料噴射量が自動制御された。

総括制御室では、表示される各主機械の負荷状況、船の運航状況、操舵室からの運航方針の伝達等を受け、主機械の稼働台数を検討し、円滑な運航ができるよう、主機械の発停と、それに伴う流体継手の嵌脱操作を、手動の遠隔操作で行った。なおこれらの手動遠隔操作は、一連の手順を順次自動的に行うシーケンス制御により、簡単なスイッチ操作で行われた。

このような、機関部の自動化は、頻繁に出入港を繰り返す国鉄連絡船ならではの方式で、運航状況が正反対の、同時代の外航貨物船の自動化が、操舵室からの主機械発停を伴う主機械遠隔操縦から始まったのとは対照的であった[179][180]

バウスラスター[編集]

従来の青函連絡船では、出港時は、予め入港時に投錨しておいた右舷錨を揚錨して船首を右に回頭するだけでは事足らず、船首のロープを補助汽船に牽引させていた。また入港時は青森、函館とも、船首から岸壁まで係船索を綱取り艇に運ばせて、岸壁のビットに繋ぎ、それを引き寄せて接岸していた。

津軽丸型では、これらの作業を解消し、より迅速に離着岸できるよう、既にヨーロッパの鉄道連絡船では装備されつつあったバウスラスターを装備した。これも三菱日本重工横浜造船所がカメワ社から技術導入して製作した三菱横浜KAMEWA SP800/6S型バウスラスターで、操舵室直下の船首喫水線下の船体に、両舷間をつなぐ内径2.2mのトンネルを設け、その中に直径2mの4翼可変ピッチプロペラを装着し、毎分264回転で定速回転させ、あとは翼角制御するだけで、左右いずれの方向へも任意の推力が得られる装置であった。その最大推力は当時の青函航路の補助汽船1隻分相当の9.3トンで[181]、このような本格的なバウスラスターの装備は日本の船として初めてであった[25]。なお、1966年(昭和41年)建造の第7船、十和田丸(2代)では、バウスラスタートンネル内で、プロペラ軸を両側から3本ずつのステーで支持する6-STAY型から、片側3本のステーだけで支持する、3-STAY型のSP800/3S(毎分262回転)に変更された[181]

これを駆動するのは、バウスラスタートンネル直上のバウスラスター室に設置された625kW(850馬力)の三相交流巻線型誘導電動機で[63]、これを運転するには900kVA(力率80%)の発電機を必要とした。バウスラスターの使用は通常出入港時だけであったが、特に入港時は係船機械の電力需要とも重なるため、1台の出力が700kVA、力率80%の主発電機3台のうち、2台を並列運転し、残り1台は循環整備にあてるため、常時使用できるのは2台までで、バウスラスター駆動にまで電力を供給する余裕はなかった。もし、これを主発電機2台並列で賄うなら、主発電機出力は1台1,150kVA[182]にもなり、バウスラスターを運転していない多くの時間帯で非効率な低負荷運転を強いられ[183]、得策ではなかった。一方、バウスラスターの使用は低速の出入港時に限られ、その時も主軸は毎分217.5回転で定速回転しており、主機械出力には余裕があるはず、ということで、右舷減速機から、主軸を毎分1,200回転に増速のうえ、前方の発電機室まで伸ばし、900kVAという大容量の主軸駆動発電機を駆動し、この電力をバウスラスター駆動に充てた。

バウスラスター使用開始前には予め、主軸駆動発電機が運転されていることを確認し、操舵室プロペラ制御盤のスイッチから、翼角ゼロの無負荷状態で、バウスラスター翼角変節油ポンプ駆動電動機[184]を駆動させた後、バウスラスター駆動電動機を駆動させておけば、必要に応じてバウスラスターの翼角を、操舵室プロペラ制御盤のバウスラスター翼角操縦レバー、または操舵室左舷の補助スタンドのバウスラスター翼角操縦レバーのいずれかを、左右に倒すことで翼角操縦ができ、船首に横推力を発生させて、舵の効かない低速時でも容易に回頭できた。就航当初こそ綱取り艇も使用されたが、やがて、補助汽船の助けを借りるのは、入港着岸時の右舷船尾押しだけとなり、出港時を考慮した入港時の右舷投錨の頻度も少なくなった。

バウスラスター駆動電動機は625kWと大出力の三相交流巻線型誘導電動機で、起動時には当時の電車のように、電動カム制御器で抵抗を順次短絡して行く方法がとられた[185]。このため、操舵室プロペラ制御盤には、就航後の後付けではあったが、バウスラスター駆動電動機電流計と、起動抵抗がすべて短絡され、電動機が完全運転状態になったことを示す表示灯が装備された[186]

なお、バウスラスター使用時は、その電源となる主軸駆動発電機を駆動する右舷主軸に負荷がかかり、右舷の自動負荷分担装置が働いて、自動的に稼働中の右舷主機械への燃料噴射量が増やされるが、バウスラスター出力の850馬力は、主機械0.5台分相当以上に大きく、右舷稼働機が2台では負荷的に苦しいこともあった。津軽丸が就航して程なく、バウスラスターを使用する港内での操船時、とりわけ入港時の減速しながらの右回頭時には、右舷の可変ピッチプロペラに後進をかけるため、右舷の負荷の方が左舷より大きいことが明確になったが、続々と建造された津軽丸型では、結局第7船の十和田丸(2代)まで、主軸駆動発電機は負荷の大きい右舷のままで変更されることはなかった[183][187]

2枚舵[編集]

青函連絡船では、洞爺丸事件直後の1955年(昭和30年)建造の檜山丸(初代)以来、2基のプロペラの直後にそれぞれ舵を置く2枚舵を採用することで、強い横風を受けた時、風下に回頭できなくなる、“風に切れ上がる”という現象を解消できたが[188]、津軽丸型もこれを踏襲し、更に低速時に限り舵角を在来船より10度多い45度までとれるようにしたうえ、操舵機出力も倍増し[189]舵角0度から35度まで転舵所要時間も約9秒と、在来船の15.5秒の半分程度に短縮して、低速時、迅速にその旋回性能が発揮できるようにした[190]。また、左右の主軸間隔よりも左右の舵の間隔を狭くしたことで、入渠時、舵の有無にかかわらず推進軸抜去が可能となった[191]。なお、国鉄連絡船の2枚舵は、互いに機械的に結合されていたため、左右別々に動かすことはできなかった[192]

操舵室[編集]

津軽丸操舵室 手前から第2レーダー指示器、この時期既に使用されていなかった船位自動測定装置(SPレーダー)、通信制御盤、操舵スタンド、プロペラ制御盤、前方の航海士が覗いているのが第1レーダー指示器、左舷端がプロペラ補助操縦スタンドで、この時期まだこの補助スタンド上のCPP操縦補助レバーは残されていたが、CPP主レバーとの機械的連結は既に解消されており、補助レバーによるCPP翼角操縦はできなかった。このため高速航行中にもかかわらず、手前のプロペラ制御盤上のCPP主レバーは前傾しているのに対し補助レバーは中立位置であった。また手前のプロペラ制御盤も既に新造時の形ではなく、丸型CPP翼角計と、小型で微動調整可能なCPP主レバー装備の改造型になっていた。BT翼角操縦レバーは主・補助とも新造時の形で、これが終航まで維持された。補助スタンド前面窓上には、新造時には無かった両舷CPPの実際翼角計も装備されていた。舵輪ハンドルのちょうど向うに見える、やや前傾した箱型の計器が「国鉄型船舶主軸推力計」の指示器で、この時期使用されていたかどうかは不明。津軽丸のみ操舵室床部分にシヤ―が付き、操舵室の床が前上がりで[33]、更にその床には各船共通の20cmのキャンバーが付き、前壁は7度前傾し、そこへ連続する前面窓の各窓の中心を床面から同一高さに揃えたうえ、全て中央の窓と平行に配置したため、写真のように側方へ行くほど窓が段違いに下がる形になってしまった[34]。1973年7月27日撮影

操舵室の平面形状は十和田丸(初代)に準じたが、前面を7度前傾させる[31]などの改良もなされた。

操舵スタンド[編集]

船体中心線上には、大型自動車のハンドルを舵輪として装着したジャイロパイロット内蔵の操舵スタンドがあり[193]、このハンドルによる手動操舵のほか、船首方向を決めて自動操舵にすれば、ジャイロコンパスと連動して、横方向からの外力が働いても、常に船首を指定方向を向け続けることができた[194]。このような装置は外航船では古くから使われており、目新しいものではなく、この操舵スタンドのジャイロパイロットもスペリー式の既製品であったが、国鉄では津軽丸への装備が初めてであった。舵角指令はジャイロパイロットからの電気信号が船尾車両甲板下の操舵機室へ伝達され、油圧変換後、機械力で操舵機のアキシャルプランジャ式可変吐出量型油圧ポンプの傾転角を調節し、2枚の舵を動かす左右の油圧シリンダーへの作動油の出し入れを制御して操舵する仕組みであった。操舵システムの冗長性維持のため、このジャイロパイロットは常用2系統、非常用2系統を備え、操舵スタンド舵輪右側には第1 系統・OFF・第2系統を選択する装置切換スイッチと、ジャイロパイロット・手動操舵・ノンホローアップを選択する操舵切換スイッチがあり、左側には汽笛押しボタン、ノンホローアップコントローラー(コントロールレバーを倒した方向へ舵角が進み続け、目的の舵角でスイッチを中立に戻すと進みが止まる)を備えていた[195]

プロペラ制御盤[編集]

操舵スタンドの左には、プロペラ制御盤があり、両舷の推進用可変ピッチプロペラ(Controllable Pitch Propeller CPP)の翼角を、前後に動かして遠隔操縦する2本の推進用プロペラ翼角操縦レバーと、その間の向う側に バウスラスター(Bow Thruster BT)の可変ピッチプロペラの翼角を、左右に動かして遠隔操縦するバウスラスター翼角操縦レバーがあり、レバー先端のボタンを拇指で押してロックを解除しながら操作する作りであった。それぞれのレバーの根元には、レバーの行程に沿った横から見ればカマボコ型、上から見れば直線型のゲージが設置され、レバー直結の指令翼角指針と、やや遅れて追従する実際翼角指針が、同一ゲージ両側から相対し、翼角の変化を直観的に読み取れる優れたものであった。

このプロペラ制御盤の推進用プロペラ(CPP)翼角操縦レバーからの翼角指令は、操縦レバーに接続されたシンクロ制御変圧器からの電気信号となって最終的に第3補機室の交流サーボモーター を駆動し、この回転運動がボールスクリューで往復運動に変換され[196]、これが可変ピッチプロペラ翼角管制装置の制御レバーを機械的に動かし、可変ピッチプロペラの変節油回路を制御して翼角操縦を行った[197]。この推進用可変ピッチプロペラ翼角遠隔操縦回路も常用2系統とノンホローアップ式(スイッチを倒した方向へ翼角が進み続け、目的の翼角でスイッチを中立に戻すと進みが停止する)の非常用2系統を備えていた[198]

バウスラスター(BT) 翼角操縦レバーからの翼角指令も同レバー接続のシンクロ制御変圧器からの電気信号となり、最終的にバウスラスター室の電磁弁を作動させ、直接バウスラスター翼角変節油回路を制御して翼角操縦する仕組みで、こちらは常用1系統、ノンホローアップ式の非常用1系統であった[199]

これら、非常用ノンホローアップ式翼角操縦スイッチや、常用・非常用の切換スイッチ群は左右を両側の推進用プロペラ翼角操縦レバー根元のカマボコ型行程にはさまれ、前方をバウスラスター翼角操縦レバー根元のカマボコ型行程に囲まれた四角い領域に配置されていた[200]。左右の推進用プロペラ翼角操縦レバーのちょうどその奥の斜面部分には、左右の主軸回転数計が、その下にはデジタル表示の各舷の主機稼働台数表示器や主軸非常停止用押しボタンが、それらの間には時計が配置されていた。なおバウスラスター駆動電動機電流計は、津軽丸、八甲田丸松前丸(2代)では新造時には装備されておらず、就航後に右舷主軸回転数計の右側(八甲田丸では左舷主軸回転数計の左側)に後付けで装備された[201][178][202]

更に操舵室左舷端には、離着岸時、船長が岸壁を目視しながら、直接バウスラスターと両舷推進用プロペラの翼角操縦ができるよう、これらの補助操縦レバーを装備した補助操縦スタンドが設置されていた。プロペラ制御盤の主操縦レバーと左舷の補助操縦レバーはそれぞれ機械的に連結されており、いずれかを操作すると他方も同じように動いたが、このように機械的に連結したことが、操縦レバーの動きを非常に重くて使いづらいものにしてしまった。高速域では、わずかな翼角の違いで速度が大きく変化してしまうため[203]、津軽丸では就航早々、推進用プロペラ翼角操縦レバーが重すぎて、翼角を細かく調整できないと不評をきたしてしまった[204]

このため、第4船の大雪丸(2代)からは、プロペラ制御盤上に四角い箱を載せた不格好な形となり、その箱の両側面に、前後に動かすというよりは倒すという感じの2本の推進用プロペラ翼角操縦レバーが、手前の面には左右に倒すバウスラスター翼角操縦レバーが装備され、両側面の左右の推進用プロペラ翼角操縦レバーの付け根のレバーの回転軸には微動調整用グリップが付けられた。箱の上面には三つの丸型メーターが並び、両側が両舷の推進用プロペラ翼角計、中央がバウスラスター翼角計で、いずれも外周が指令翼角、内周が実際翼角であった[200]。しかしこの微動調整グリップも、動かすのにかなりの力が必要ということで不評であった[204]。また新造時よりバウスラスター駆動電動機電流計を、プロペラ制御盤の奥の斜面部分の左右の主軸回転数計の間に装備し、時計は右舷主軸回転数計の右側へ移った。なおこの四角い箱が邪魔して、奥の斜面部分の低い位置が見えづらくなったため、主機稼働台数表示器は両舷主軸回転数計の内側の高い位置へ移した。しかしこの箱のおかげで、プロペラ制御盤上での推進用プロペラ翼角操縦レバーの前後行程がなくなり、盤面手前に余裕ができ、非常用翼角操縦スイッチや、常用・非常用の切換スイッチ等は、盤面手前側に横1列に並べて配置され、以後この配置が標準となった[200]

第7船十和田丸(2代)では、バウスラスター翼角操縦レバー、推進用プロペラ翼角操縦レバーとも、レバー操作を重くしている元凶の、主レバーと補助レバーの機械的連結を全て解消し、従来は主レバーにしか接続されていなかったシンクロ制御変圧器を補助レバーにも増設接続し、ようやく軽く扱いやすい翼角操縦レバーとなった[205]。そして、主操縦レバー、補助操縦レバーを問わず、後から操作した操縦レバーの指令が優先されるシステムとしたため、機械的連結の従来型と大差ない取り扱いができた[206]。プロペラ制御盤上の不格好な箱はなくなり、津軽丸の形に似たものに戻ったが、軽くなった分レバーも短くなり、前後の行程も短縮された[207]。レバーの先端に拇指をかけ、グリップ部分を引き上げるとロックが解除され、このグリップ部分を回すと微動調整できる形となった。プロペラ制御盤の翼角計は大雪丸(2代)以来の丸型で、外周が指令翼角、内周が実際翼角であったが、これとは別に、推進用プロペラ翼角操縦レバー根元の制御盤上のカマボコ型の前後行程部分に、指令翼角が直観的にわかるよう、直線型の目盛板が貼り付けられた[208]。バウスラスター翼角操縦レバーに関しては、プロペラ制御盤上の主操縦レバーは手のひらで押すとロックが解除されるレバー付きのグリップハンドルに変わったが、補助スタンド側は操縦レバーのままで[209]、この形が以後のプロペラ制御盤の標準型となった。

不評だった津軽丸タイプ(津軽丸・八甲田丸松前丸(2代)の3隻)では、1969年(昭和44年)頃から、プロペラ制御盤の推進用プロペラ翼角操縦レバーの動きを軽くするため、補助スタンドの補助推進用プロペラ翼角操縦レバーとの間の機械的連結を解消して、補助推進用プロペラ翼角操縦レバーを無効化したり、補助スタンドから補助推進用プロペラ翼角操縦レバーを撤去したりし、最終的には3隻とも補助スタンドにはバウスラスター翼角操縦レバーだけが残された形となった。またプロペラ制御盤も、視覚的には優れるが、指針が長大で重く、これを精密に駆動するためのサーボモーターを要する等、制御盤内部で場所をとる直線ゲージ式の実際翼角計[210]は撤去され、外周が指令翼角、内周が実際翼角の丸型の翼角計に変更され、推進用プロペラ翼角操縦レバーも先端グリップを持ちあげるとロックが解除され、その部分を回すと微動調整できる十和田丸(2代)タイプの小型のレバーに交換され、その分レバー根元のカマボコ型の前後行程も短縮され、この部分に十和田丸(2代)同様、指令翼角が直観的にわかるよう、直線型の目盛板が貼り付けられた。カマボコ型前後行程短縮により、盤面手前が空いたため、非常用翼角操縦スイッチや、常用・非常用の切換スイッチ等は、盤面手前側に横1列に並べて配置された。しかしバウスラスター翼角操縦レバーと、これに付随した直線ゲージ式の実際翼角計は終航まで使われた。これらの写真は八甲田丸参照のこと。

1978年(昭和53年)には、大雪丸(2代)タイプ(大雪丸(2代)摩周丸(2代)羊蹄丸(2代)の3隻)でも、補助スタンドから推進用プロペラ翼角操縦レバーが撤去され、バウスラスター翼角操縦レバーだけが残された。プロペラ制御盤も全面的に十和田丸(2代)に準じた形に改修され、推進用プロペラ翼角操縦レバーが十和田丸(2代)タイプの小型のレバーに交換されただけでなく、バウスラスター翼角操縦レバーも小さなグリップハンドルに変更された。

なお、十和田丸(2代)以外の6隻の補助スタンドには、推進用プロペラの実際翼角計もバウスラスターの実際翼角計も装備されておらず[211]、これら改造と並行して、操舵室左舷前面窓上に両舷の推進用可変ピッチプロペラの実際翼角計が設置された。

また、これら6隻の、バウスラスター翼角操縦用の主操縦レバーあるいは主操縦ハンドルと、補助操縦レバーとの間の機械的連結はその後も維持されたままであったが、関係者の努力もあり、その操作性は実用に耐えるレベルに維持された[212]

国鉄型船舶主軸推力計[編集]

津軽丸では、プロペラ制御盤の頂部左端に四角い箱形の「国鉄型船舶主軸推力計」の指示器が外付け状態で設置されていた[213]。これは第2主機室後壁近くの左舷主軸に挿入された弾性軸のひずみを抵抗線ひずみ計で検出し[214]、左舷推進用可変ピッチプロペラの前後進時の推力をリアルタイムでトン表示するものであった。これは当時日本最大の可変ピッチプロペラの試運転時の各種データ―収集のほか、失速状態とならず有効に推力を発生できる操縦方法の研究にも供されたが[215]、あくまでも試作機で、左舷のみのため、各種解析には限界があった[216]。それでも可変ピッチプロペラメーカー発表の速力ゼロ時の推定最大推力53トン[217]に対し、後進全速(翼角-22度)から前進全速(翼角+26.4度)にした時、激しい失速の後、最大推力48トンを記録する等[216]、貴重なデータ―を残した。しかし、この推力計は津軽丸以外に装備されることはなかった。また、上の1973年(昭和48年)7月撮影の操舵室内写真では推力計指示器は写っているが、当時使用されていたかどうかは不明で、終航後の写真ではその指示器は撤去されていた[218]

船位自動測定装置(SPレーダー Ship’s Position System)[編集]

青函連絡船では、航路がほぼ南北方向のため、、航路途中の7ヵ所の沿岸の通過目標を東西に見る地点を通過地点とし[219]、その通過時刻を見ながら速度調節をし、また通過目標との距離をレーダーで測ることで、予定航路からの左右のずれも知ることができた。

これを自動化するため、沿岸の更木岬、大魚島(おおよしま)、平館灯台、蓬田に反射板を設けて電波定点とし、まず第1レーダーで電波定点の方位と距離を入力すると、前部マスト頂部の円筒形のラドーム内のSPレーダー空中線から、その電波定点の反射板に向けて電波が出され、その反射波を受けると、SPレーダーは、以後その電波定点を捕捉し続け、その方位と距離を連続的に測定し、予め入力してあった予定時刻、予定航路からのずれを、操舵室右側の第2レーダー指示器の左側(八甲田丸のみ右側)に並んで設置された制御表示器の上面中央部の正方形の表示盤に表示した。表示盤には田の字に十字線が描かれており、更に、時間的早遅れを表示する横指針と、左右のずれを表示する縦指針があり、この交差する2本の指針を動かして、現在位置を2本の指針の交点で表示し、時刻、左右のずれ、いずれもなければ、この2本の指針による十字と田の字の十字はぴったり合致するが、ずれがあれば、早い遅いは上下のずれとして分単位で、左右のずれは海里単位で表される、視覚的にも分かりやすい表示ではあった。また、他船を電波追尾すれば、衝突予防レーダーとしても使用できた[220][221]

しかし電波定点の捕捉に難があり[222]、またこれだけの性能では、従来のレーダーで事足りたこともあり、結局十分使われず、1978年(昭和53年)の、同時に20隻まで監視可能なレーダー情報処理装置(CAS)導入時[223]には撤去されてしまった。 この装置の最終目標は、ジャイロパイロットやプロペラ翼角操縦装置まで繋いでの自動操縦であった[224]

安全対策[編集]

船尾水密扉[編集]

津軽丸型のように車両甲板船尾に車両積卸し用の開口があり、車両甲板全幅が車両格納所となっている車載客船では、船の水線長よりわずかに長い波長の大波を、船首方向から受け続けて、大きくピッチングしている状態で、大波によって船首が持ち上げられた時、船尾はその前に通り過ぎた波の斜面に勢いよく突っ込み、海水が車両甲板上にまくれ込む形で流入する。船尾が上がると、この海水は車両甲板上を船首方向へ流れ下り、再び船首が上がっても、この海水は前回と同じメカニズムで船尾から新たに流入してきた海水と衝突して、流れ出ることができず、やがて車両甲板上に大量の海水が滞留し、これが自由水のため、左右どちらか低い方へ素早く流れ、これだけで転覆してしまうことが、洞爺丸事件後の模型実験で明らかになっていた[225][226][227]

1955年(昭和30年)建造の檜山丸等、船楼甲板上に旅客用甲板室を持たない車両渡船では車両甲板船尾両舷への放水口設置で、この滞留水を迅速に船外へ排出でき復原性を確保し得たが、船楼甲板上に旅客用甲板室を持つ津軽丸型では、これでは不十分で、船尾水密扉設置が必須であった。既に1959年(昭和34年)までに、3隻の客載車両渡船(デッキハウス船)第六青函丸第七青函丸第八青函丸で、車両甲板船尾3線分をカバーして、船体外殻と同等の強度を持つ大型の船尾水密扉が設置されていた[228]

これら3隻では、鋼製の上下2枚折戸式船尾扉で、扉閉鎖状態での耐波性等を考慮し、船尾開口部位置で船内軌道の3線間に2本の梁柱を設置して、船尾扉を内側からも支える構造であった。この梁柱は当然船内軌道の建築限界外または縮小建築限界外に設置されていたが、船内軌道の間隔は船尾近くでは船尾へ行くほど接近し、車両は隣接する軌道の縮小建築限界と車両限界が交わる接触限界までは積載可能なため[229]、車両積載数確保のためには、船尾扉は接触限界よりも更に船尾側への設置が望まれた[230]。実際、デッキハウス船では船尾扉設置前の車両積載数がワム換算46両であったのに対し、設置後は43両と、各線1両ずつ減少していた。

このため、津軽丸では同じ上下2枚折戸ながら、鋼製箱型として強度を増し、梁柱による支持を不要とした。またデッキハウス船では、その開閉に、左右1対のワイヤーを船楼甲板に設置した電動ウインチで巻き込んで行われたが、この左右のワイヤーの長さ調節に相当の労力を要したため、1961年(昭和36年)11月に、在来船としては最後に船尾水密扉が設置された洞爺丸型車載客船羊蹄丸(初代)では、1線幅ながら電動油圧式が採用された。しかしこの方式での3線幅の船尾扉では、船尾開口部両側のガイドレール幅を広くとる必要があり、ワイヤー式に比べ、60cm程度船首側へ寄せなければならないという問題があった[231][230]。更に、開閉用の油圧シリンダー類を船尾開口部直上の船楼甲板船尾部に設置しなければならなかったが、度重なる旅客定員増しによる船楼甲板室の拡大で、船楼甲板船尾部には最小限の係船機械が設置できるだけの広さしか残されておらず、更なる機器設置の余裕はなかった[232]

折りしも、油圧シリンダー内を動くピストンの直線往復運動を、大ピッチの螺旋を用いてピストン軸を中心とした回転運動に変換し、この油圧シリンダーをそのまま自ら動くヒンジとして使う“トルクヒンジ”がスウェーデンゲタベルケン社で開発され、貨物船のハッチカバーの開閉等に使用され始めていた。これを羊蹄丸(初代)の船尾扉の油圧機器を製作した萱場工業 が技術導入し、国産化しようとしていたが、同社より津軽丸の船尾扉に、この“トルクヒンジ”を使用してみては、との提案があった。“トルクヒンジ”は歯車類を介さず、船尾扉のヒンジとして直接装備できたため、船尾扉の構造が単純化され、その油圧動力機械は直下の操舵機室内に収納できたため、既に係船機械で満杯の船楼甲板船尾部を何ら占有しない等、津軽丸にとっては好都合で、採用されることになった[232]。なお、日本で最初の“トルクヒンジ”装備船となった津軽丸では、ゲタベルケン社製の輸入品が使用された[233]

このトルクヒンジは、船尾開口部上縁と船尾水密扉の上部扉の間に20ton-mのヒンジを、上部下部扉間には6ton-mのヒンジを装備し、共に外開きとした。船尾開口部は垂直に対し約8度前傾しており、閉鎖状態からの開放では、まず第1段階として、上下扉間のトルクヒンジを180度回転させて、下部扉を上部扉外側に折り重ねる。続いて、船尾開口部上縁と上部扉の間のヒンジを約82度回転させて、この2枚重ね状態の扉を水平まで持ち上げ、船楼甲板船尾端から突出したポンプ操縦室の下面にロックする構造であった。

また閉鎖時はその最終段階で、船尾扉のすぐ内側の車両甲板面の、3線ある船内軌道間の2ヵ所と、両舷の軌道外側の2ヵ所の計4ヵ所に設置した油圧シリンダー駆動のフックを、船尾扉の下部扉下辺内側のアイに引っ掛けて引き寄せ、水密性を確保する締付け装置が設けられ、更に船尾扉折戸の折れ目の高さ近くの下部扉上部両端位置に、下部扉開閉時のヒンジを中心とした回転運動の円周方向にその先端が沿ったフックを設け、閉鎖時にこのフックが船尾開口部両側の船体に取り付けられたアイに納まって、折戸の折れ目が外側に脱転しないよう固定された[234]

この船尾扉は従来のようなシャクトリムシ運動をしないため、ガイドレールも不要となり、更に従来の車両渡船では、船尾アフターラインを船尾開口部両舷中段の滑車(デッキエンドローラー)で中継してから岸壁ビットに繋いでいたのを、船楼甲板の縁の滑車(フェアリーダー)から直接岸壁のビットに繋ぐ方式に変更して船尾開口部中段のデッキエンドローラーを廃止し、船尾扉を十分に船尾側に設置することができ[230]ワム換算48両積載可能となった。また下部扉のみ開放の“半開状態”でも安定して停止でき、全開では入渠甲板上からも、船尾全体を見通せなかったこともあり、出入港時[235]や港内錨泊時などに、半開状態がよく使われた。なおゴムパッキンは今回からは扉側に付けられ、船内軌道が船尾扉の敷居をまたぐ部分での跳ね上げレールは、従来通り船内側へ跳ね上げる構造で、羊蹄丸(初代)同様、開閉操作にはシーケンス制御が採用され、車両甲板船尾右舷と、ポンプ操縦室の開閉制御盤から操作できた[236]

津軽丸は日本初のトルクヒンジ装備船であったため、当初は装備方法や操作の不慣れ、想定設計以上の使用頻度もあり、ゲタベルケン社製の輸入品の6ton-mトルクヒンジは、早くも試運航中の1964年(昭和39年)4月28日には閉鎖状態で動かなくなり、急遽萱場工業製の国産品と交換、同年秋には工事中の不手際から20ton-mも破損し、国産品と交換された[233]。しかしこのトルクヒンジ式船尾扉は、以後新造あるいは改造の青函連絡船全船に装備され、その都度改良を重ね、8隻目の1967年(昭和42年)5月改造就航の石狩丸(2代目)でほぼ完全なものとなった[237]

油圧蓄圧式水密辷戸[編集]

車両甲板下の船体は、12 枚の水密隔壁により13区画に分けられ、隣接する2区画に浸水しても沈まない構造であった[61]。このうち3区画が乗組員居住区、8区画が航海・機関関連機械搭載区画として使われ、日常業務としての出入りも多かった。このため、これら12枚の水密隔壁のうち8枚で第二甲板レベルに通路を設けたが、通路が開けっぱなしでは水密隔壁の用をなさないため、各通路には水密辷戸が設置された。通常は開放されていたが、緊急時には操舵室後壁の操作盤より一斉開閉ができたほか、直上の車両甲板からの単独閉鎖、現場でも単独開閉操作ができた[238]

国鉄では、戦後建造の洞爺丸型や宇高航路 紫雲丸型では交流電動機直接駆動方式の水密辷戸を採用してきたが、紫雲丸事件の経験から、交流電源喪失後も駆動可能な、蓄電池を電源とする直流電動機直接駆動方式の水密辷戸に方針転換し、十和田丸(初代)以降の新造船ではこれを採用し、在来船も一部直流式への改造が行われた[239]。しかし、蓄電池は重く、直流電動機や、電動機から辷戸まで延々と続く動力伝達用のロッドは自在継手や傘歯車で連結されており、これらの保守整備も容易ではなかった。そこで電気エネルギー蓄積の蓄電池を、油圧エネルギー蓄積のアキュムレータ(蓄圧器)に置き換え、動力伝達ロッドを油圧配管に置き換えた油圧蓄圧式水密辷戸を採用した[240]。通常は交流電動機で油圧を造る電動油圧式で、水密辷戸は油圧シリンダーで直接駆動された。アキュムレーター(蓄圧器)は動力室に備えられ、通常時に十分な蓄圧が行われていた[241][242]。動力室は辷戸とは遠く離れた船楼甲板右舷の前部と後部に設置され、津軽丸と八甲田丸では前4ヵ所の辷戸を後部の動力室から、後ろ4ヵ所の辷戸を前部の動力室から、第3船の松前丸(2代)以降の5隻では前3ヵ所の辷戸を後部の動力室から、後ろ5ヵ所の辷戸を前部の動力室からそれぞれ油圧で動かすことで、損傷現場近くの辷戸と、そこへ油圧を供給する動力室の共倒れを防いで信頼性を高め[243]、更に交流停電時の対応として、各動力室のアキュムレータ(蓄圧器)からの油圧で、停電後も全ての辷戸を10回程度開閉できた[244]。それでも油圧が低下した場合は、現場での手動開閉も可能であった。しかし動力室の船楼甲板右舷への設置は、他船との衝突事故などには脆弱なため、第7船の十和田丸(2代)では、航海甲板の船体中心線付近となる無線通信室の後ろの空気調整室の更に後方と、後部消音器室内後方へ動力室を設置して安全性向上を図った[245]。なお、水密辷戸の制御回路は常時直流100Vで、通常は交流電源から整流装置を介して供給され、交流電源喪失時は同じくこの電源で充電されている104V 600AHの非常予備灯用ニッケル・カドミウム・アルカリ蓄電池から供給された[246]

消防設備[編集]

内装はできる限り不燃性、難燃性の材料を採用したうえ、消防ホース付きの消火栓や消火器が各所に設置された。車両甲板下では各水密区画が防火区画となり、船楼甲板では、「前部の船員室」、「前部2等客室」、「食堂と厨房」、「2等出入口広間と右舷2等雑居室」、「後部2等船室」に、遊歩甲板では「前部の船員室」、「1等指定椅子席と1等出入口広間」、「後部1等船室」、等の防火区画に分けられ、その境界線上の扉には防火扉が設置され、火災時は手動で閉鎖することとした[247]

これら各区画には各種火災感知器が設置され、火災時は、操舵室後壁の火災警報盤のグラフィックパネルに火災発生場所が表示された。客室は案内所、機関室は総括制御室でも警報ベルが鳴り、操舵室と総括制御室ではボイスアラームが「火災発生」等と音声で警報を発した[248]

車両甲板車両格納所は船首から船尾まで全通で区切りようがなく、火災発生時延焼しやすい場所で、津軽丸では79℃で作動するスプリンクラーを、2系統で百数十個設置したが、この方式は熱を受けないと放水しないため、出火しても出火場所しか放水しない恐れがあった。津軽丸型では車両格納所には煙感知に優れたイオン式火災感知器が設置されていたため、この警報を受けてから手動で放水した方が延焼を防げる、ということで、第4船の大雪丸(2代)からは遠隔手動式の9系統に変更された[249]

機関室では、軽油を燃料に使用するため、機関室船底に溜まる油分を含んだ汚水である油ビルジへの引火を考慮して、第1補機室、発電機室、第1主機室、第2主機室、第2補機室の5区画に固定式泡消火装置が設置された。これは二酸化炭素を多く含む泡を噴射して窒息消火するもので[250]、操舵室から遠隔操作できた。

固定式炭酸ガス消火装置の導入[編集]

1970年(昭和45年)10月26日、機関室の造りが津軽丸型とほぼ同構造の車両渡船十勝丸(2代目) 第2主機室で、主機械燃料弁冷却油入口管折損により、霧状に噴出した軽油が高温の排気管に接触炎上し、3時間漂流するという火災事故が発生した。火元が主機械頂部付近と高位だったため、機関室船底から10数センチを覆うだけの泡消火器では無力であった。当時、軽微な類似事故は他にも起きており、これを重く見た国鉄は、その対策として、密閉された機関室内の空気中の酸素を急速に排除して窒息消火し、かつ液化炭酸ガス気化時の断熱冷却による消火効果もあり、消火時間の短い固定式炭酸ガス消火装置1971年(昭和46年)から[66]新造時より本装置を装備していた檜山丸(初代)型2隻を除く青函、宇高の全連絡船に装備した。この装置は第1補機室右舷中段に炭酸ガスボンベを設置し、ここからエンジンまたはボイラーの設置されている発電機室・第1主機室・第2主機室・第2補機室の4区画へ赤く塗装された炭酸ガス放出管が配管され、遠隔操作で選択した区画への炭酸ガス放出ができるものであった[67][251]

可燃性ガス警報装置の開発と設置[編集]

この十勝丸での火災事故では、イオン式火災感知器の警報で直ちに現場に駆け付けたが、初期消火不可能な状態であった。機関室内へはエンジン運転のため新鮮空気が大量に送り込まれているため気流状態は複雑で、煙がうまくイオン式火災感知器の方へ流れて行かないこともある。このため国鉄は、主機械および主発電機周辺の異常事態を早期に的確に検知するための、半導体素子を用いた発火する前の可燃性ガスを検知する“可燃性ガス警報装置”を開発し[252]、その検知部を機関室内の気流の影響を受けにくいよう、主機械、主発電機原動機の上部に取り付けた架台上に設置し、シリンダー頂部に十分近接させた[253]。本装置は1978年(昭和53年)9月から1979年(昭和54年)9月にかけ[66]、津軽丸ほか青函、宇高の全連絡船に取り付けられた[254]

ボイスアラーム[編集]

津軽丸では、自動化・遠隔操縦化の多用で、設備が複雑となり、警報だけでは区別がつかず、その都度表示灯を確認しなければならない煩雑さを避けるため、音声による警告を導入した。

ボイスアラーム本体は無線通信室左舷の電気機器室に設置され、録音再生には写真用35ミリフィルムをベースに磁性鉄粉を塗布したエンドレステープを用い、これに6トラックで録音、この 35ミリテープ8本を並べて合計48トラックとし、これらを1組の駆動装置で動かしたため、警報発声時は全テープ48トラック全てを録音再生ヘッドと摺動させ、該当トラックのみ再生する仕組みで、津軽丸では、うち32トラック32種類の警報発声が設定されていた。しかし、これでは警報と無関係なトラックも毎回警報ごとに録音再生ヘッドと摺動させられ、音質劣化著しいため、第4船の大雪丸(2代)からは、1警報が1台の機械部分だけのエンドレステープ内蔵のテープレコーダーにユニット化され、これが48台ボイスアラーム本体に差し込まれていた。増幅はボイスアラーム本体で行われ、警報発声時は該当ユニットだけが動いて再生された[255][256]

貨車海中投棄装置[編集]

液体塩素や石油類を輸送するタンク車など、危険物積載車両搭載は貨物便の船1番線、船4番線の各船尾3両以内とされていたが[257]、当時これら危険物積載車両の輸送が増加してきており、これらは車両甲板のスプリンクラー程度で対処できるものではないため、1964年(昭和39年)12月3日に、11月30日終航になったばかりの第八青函丸を用いて貨車海中投棄試験が行われた。この時は速力3.9ノットで航行しながら、石炭がらを満載した2軸貨車を、キャプスタンのほか、人力でも海中投棄を行い、トリムをつけて船尾を下げれば転動テコでも始動できることも確認されたが、いずれも貨車の速度は秒速1.5m程度で、車体の長い車両では車両甲板後端にひっかることも懸念された。

このため、貨車引き出しに、航行する船から見て、後方へ流れる海水の水中抵抗を利用することとし、落下傘のような直径60cmの金属製の半球形の水中傘が試作され、翌1965年(昭和40年)9月4日、やはり8月31日に終航になったばかりの 渡島丸(初代)を用い、2回目の貨車海中投棄試験が行われた。速力14.2ノットで航行しながら、石炭がら満載のボギー無蓋車トキ15000形1両(台車中心間9.7m全重量41.1トン)の連結器に、50mのワイヤーの更に先に、この金属製水中傘を5m間隔で4個繋ぎ、更にその先30mに円錐形浮標をつけたワイヤーを繋ぎ、先端の円錐形浮標と水中傘を海中に投げ込んで、水中傘が海水の抵抗で後方へ引っ張られ、貨車を引き出し、そのまま海中投棄まで可能かが試みられた。引き続きチキ300形2両連結(台車中心間8.0m全重量24.5トン×2)を、水中傘を8個としたもので、同様に海中投棄を試みた。それぞれ秒速3.8mと3.4mで、問題なく海中投棄できた[258]。この実験の成功により、津軽丸型6隻を含む当時就航中の全船は、1966年(昭和41年)までに車両甲板後端のエプロン甲板との段差部分に収納場所を設け、この水中傘貨車投棄装置が収納された。また、その後建造された十和田丸(2代) [259]を含む青函連絡船全船でも、同様の対応がとられた。

救命設備[編集]

1957年(昭和32年)建造の十和田丸(初代)では、端艇甲板には軽合金製の大きな救命艇が10隻も並んでいたが[260]、津軽丸では、合板製で定員6名の小さな発動機付き救助艇が航海甲板に2隻装備されているだけで[261]、あとはカプセル型のコンテナが航海甲板両舷の多数の架台上に2〜3個ずつ載っていたが、遠目には目立たないものであった。

このコンテナには、25名乗りのゴムボートである膨張式救命いかだ(ライフラフト)が折りたたまれて収納されており、乗員乗客全員収容できるだけの数を備えていた(新造時52個)。緊急時には操舵室後壁の非常操作盤内のハンドル操作で、架台のストッパーを油圧(津軽丸と松前丸(2代)以外は空気圧)で外し、片舷ごとの一斉投下ができたほか、各架台においても手動で個別に投下できた。海面に投下されれば、一端を船体に結び付けた紐が、コンテナ内の炭酸ガスボンベの口金を破り、折りたたまれたゴムボート内へ炭酸ガスが自動注入されて膨張し、海面に浮くようになっていた[262]

この救命いかだ一斉投下と前後して、航海甲板の片舷3ヵ所ずつから、幅1.5mの網梯子も放出されるが、名前どおりのアミバシゴで、使えるのは元気な人だけ[263]救命艇のように、高い端艇甲板から乗客を乗せたまま海面に降ろせないため、客室から 救命いかだの浮かぶ海面まで、乗客を降ろす手段が必要になった。

このため津軽丸には、三菱電機で開発された世界初の、甲板から海面まで滑り降りることのできる膨張式滑り台が搭載された[264]。これは、通常は小さくたたんで収納され、非常時放出されると、高圧窒素と随伴して吸い込まれる空気で膨張し、最終的には内圧が約2気圧のとなり、相当剛性の強い気柱のトラス構造の滑り台が形成される仕組みで、トラス内部には人が滑り降りる救助袋が展開され、先端には滑り降りた人を一旦収容するゴムボートも付属した形の滑り台となった。

遊歩甲板用は1等出入口の直後の1層上の航海甲板両舷側に設けられた箱に収納され、乗客はその直下の遊歩甲板舷側から滑り込める形の、長さ14mの膨張式滑り台で、左右1組ずつ、船楼甲板用は、左舷は左舷前部2等椅子席前端と、左舷後部2等椅子席前端、右舷は右舷前部2等雑居室前端と、旅客食堂後ろの通路先の行き止まりの4カ所に収納場所を設け、乗客はそこから滑り込む形の、長さ10m(第2船の八甲田丸以降は11m)の膨張式滑り台が、左右2組ずつ設置された。船体とは直角方向に、舷側から海面へ斜めに突き出した滑り台となるため、多少の船体横傾斜には対応できる構造であった[265]。この放出操作も操舵室後壁の非常操作盤内のハンドルからの遠隔操作のほか、現場での手動操作も可能であった[266]

就航後の環境対策[編集]

津軽丸型就航後の時代は、高度経済成長による環境汚染が問題化してきた時代でもあり、津軽丸型もその対応に迫られた。

ダストシュートの使用停止[編集]

新造時より船内で発生するゴミを船外へ廃棄するダストシュートが設置されていた[38]。投入口は遊歩甲板右舷出入口、遊歩甲板左舷遊歩廊後端付近、船楼甲板2等出入口広間船首側舷側、船楼甲板右舷前部2等座席船首側の非常脱出口前方、調理室内、右舷後部2等座席船首側舷側の6ヵ所に設けられ、投入されたゴミは船体外板内側に沿って縦に設置されたダクトに一時貯留され、海峡航行中に車両甲板レベルの舷側開口部から水とともに船外へ排出される、という装置であったが、さすがに陸奥湾内でのゴミ汚染が問題になり、1971年(昭和46年)12月には使用停止、以後ゴミは函館での陸揚げ処理に変更された[267]。船体外舷の車両甲板レベルの左舷に2個、右舷に4個ある四角い開口部がその排出口で、投入口はほぼその真上に位置していた。

ビルジ処理装置の新設[編集]

従来は船底にたまるビルジ(油混じりの汚水)はそのまま港外で排出していた。しかし、1967年(昭和42年)、「船舶の油による海水汚濁の防止に関する法律」が公布され、まずB重油使用の檜山丸(初代)型十和田丸(初代)改造の石狩丸(2代目)の3隻がビルジ処理装置設置対象となり、1969年(昭和44年)、手動の簡易なビルジ処理装置が設置された[68][268]。その後、1972年(昭和47年)7月発効の海洋汚染防止法により、軽油使用船も、油分100ppm以上の汚水の海上投棄が禁止され、ビルジ処理装置設置対象となった。このため、津軽丸型7隻と、その後建造された渡島丸(2代)型3隻でも、1971年(昭和46年)から1972年(昭和47年)にかけ自動運転可能なビルジ処理装置が設置された。

津軽丸型では、第1補機室右舷中段の固定式炭酸ガス消火装置の炭酸ガスボンベ室船尾側に隣接してビルジ処理装置が設置された。この装置は第1補機室から第3補機室までの6区画の船底にたまるビルジを、1次こし器を経由してビルジ集合タンクに吸い上げ、ここでの静置で油と水とゴミに分け、2次こし器を通した後、回転する“こし網”の連続濾過機、特殊ビニールスポンジの円筒を通す油水分離器を経て、水面に油膜が現れない程度の油分5~20ppm[269]に浄化し、海峡航行中に船外へ排出する仕組みであった[270]。なお、分離した廃油は船内に留め、年1回の入渠時に搬出した。しかし、本装置設置直後は、各こし器、連続濾過機共に目詰まり掃除に追われる結果となった。松前丸(2代)では、3等機関士のグループが、かご型の1次こし器、2次こし器内へ小石を入れて油分を吸着させる方法を考案し、これにより連続濾過機の目詰まりは著減、その作業量を30分の1に減らすことに成功、以後全船でこの小石を用いる方法が採用された[271][272][273]

汚物処理装置の新設[編集]

新造時より、トイレからの排出物等は、航海中も停泊中もすべてそのまま船外へ垂れ流していたが、海洋汚染防止法により1974年(昭和49年)6月25日からは、積載人員100名以上の船では、海岸または港の境界線から10km以内の海域では、粉砕のうえ、3ノット以上で航行しながら海面下に投棄しなければならなくなった[274][275]。津軽丸型7隻はこれに該当したため、1973年(昭和48年)9月から1974年(昭和49年)6月にかけ順次、汚物処理装置が設置された。この装置は、船内トイレからの汚物を車両甲板レベルの異物分離タンクで混入した金属異物等を分離し、いったん船底の汚物貯蔵タンクに貯蔵し、港外運航中、カッター付汚水排出ポンプが全自動で適宜運転され、貯蔵された汚物は粉砕され、海中に排出される仕組みであった。装置は3組あり、第1系統は遊歩甲板前部の高級船員居住区と寝台室のトイレ、船楼甲板前部の高級船員居住区と普通船室前部のトイレ、車両甲板前部の船員用トイレからの汚物を担当し、第2船室下の船艙に容量5.6m3の貯蔵タンクと120リットル/分のカッター付汚水排出ポンプ2台が設置された。第2系統は遊歩甲板グリーン船室中央部のトイレ担当で、第1補機室左舷中段に2.2m3の貯蔵タンクと第1系統と同能力のカッター付汚水排出ポンプが2台設置され、第3系統は船楼甲板普通船室後部トイレと車両甲板船尾右舷の“その他の乗船者”用トイレ担当で、第3補機室右舷中段に3.2m3の貯蔵タンクとやはり第1系統と同能力のカッター付汚水排出ポンプが2台設置された[65]

オイルショック後の燃料消費量節減への努力[編集]

1973年(昭和48年)秋の第1次オイルショックに続く急激な燃料費高騰は、経年による船底外板の平滑度低下による10〜15%の燃料消費量増加[276]に関心を向けさせる結果となった。このため、1978年(昭和53年)度より船底掃除のための6ヵ月毎の中間入渠を復活させる[277][278]とともに、同年度から1980年(昭和55年)度にかけ、サンドブラストによる船底平滑化工事も実施され[279]、約10%の燃料消費量節減を達成した[280]

また、これより前の1975年(昭和50年)度から1978年(昭和53年)度にかけ、津軽丸型全船で可変ピッチプロペラのプロペラ翼の交換も行われた[281]

これらハード面の改良に引き続き、当初は出港15分前から行っていた主機械の始動を1979年(昭和54年)10月からは、5〜10分前に遅らせ[282]、更に1982年(昭和57年)頃から、それまで出港5分前から行っていた主機械を主軸に繋いで主軸を回転させる操作“DRIVE PROPELLER”を、出港ぎりぎりの約2分前まで遅らせて燃料の無駄遣いを減らす[283]一方、入港着岸時の操船方法を工夫してその所要時間を短縮し、そのぶん途中の航海速力を抑えて燃料消費量を節減し、更に旅客扱いしない貨物便では、貨車積み完了後、定時より数分の早発を行い、一層の省エネ運航に努めた。これにより、客貨便でも主機械5台での運航が広く行われ、条件によっては4台で運航されることもあった。

これらの施策により、津軽丸型の一航海当たりの平均燃料消費量は、1973年(昭和48年)度には6,411リットルであったものが、1980年(昭和55年)度には5,617リットルに、更に1985年(昭和60年)度には5,115リットルまで[284]減らすことができた。

津軽丸型就航前後からの青函航路[編集]

基準航路[編集]

津軽丸型が就航する前年の1963年(昭和38年)までは、青函航路には明確な基準航路の設定はなく、上り便は、穴澗から磁方位で南10度西の針路で函館港口から27海里進むと、矢越と福浦の間で平館灯台まで10海里の地点に達し、ここで平館灯台を右12度に見る針路をとれば、平館灯台2海里沖を航過でき、以後磁方位南1度西の針路で青森に向かう。下り便は、青森港口から磁方位北1度西の針路で45海里進むと、大間を越え葛登支灯台まで10海里地点に達し、左12度に葛登支岬灯台を見る針路をとれば、葛登支灯台2海里沖に達し、以後函館に向かう、という比羅夫丸時代からの航法を基本としていた[285]。それでも翔鳳丸時代には各船への無線方位測定機装備と陸上の無線標識局設置が進み、不完全ながら視界不良時の船位測定も可能となり、上下便の接近する平館海峡では、上り便を平館灯台から2.5~3海里に離し、同1~1.5海里の下り便との接近を避けるようになった。戦後1946年(昭和21年)11月15日には、これらの実績経験をもとに、青函航路初の成文化された「青函間航法申合事項」が施行された。その後、青函連絡船全船にレーダーが装備され、航路全域での船位測定精度が向上したのを受け、1951年(昭和26年)10月1日からは、青森から函館に至る、南北に細長い帯状の非占位帯を設け、上り便はその東側を、下り便は西側を航行する左側航行を徹底し、上下便同士の衝突を予防していた[286][287]

津軽丸型就航前年の1963年(昭和38年)には、車載客船4隻には既に2台目のレーダーが装備され、安定して精度の高い船位測定が可能な時代となっていた。そこで国鉄では、従来からの航行実績を基本としたうえ、津軽丸型の就航に伴う、高速便も混じった多数便運航に対応するため、全連絡船が一定の航路上を航海する基準航路試案を作成し、同年10月10日から試行に入った。翌1964年(昭和39年)1月1日には修正を加え、4月からは順次就航する津軽丸型も交えて試行継続し、1965年(昭和40年)4月1日、この基準航路を「青函船舶鉄道管理局連絡船運航基準規程」に掲載し、正式に採用した[288][289]

このとき設定された青函航路通過物標間所要時分表[290]では、途中の通過物標間の所要時間と速力が提示され、津軽丸型が運航する3時間50分便は、上り便では、函館出航から穴澗(穴澗岬真方位300度1海里)までが25分、穴澗から湯の島(湯の島山頂から真方位270度4.3海里)[291]までの52.28海里は18.16ノットで2時間53分、湯の島から青森到着までは32分と決められ、下り便では、青森出航から湯の島(湯の島山頂から真方位270度5.1海里)まで21分、湯の島から葛登支(葛登支岬灯台から真方位90度2海里)[292]までの51.35海里は17.78ノットで2時間53分、葛登支から函館到着までが36分と決められた。しかし、出港時の所要時間は在来船より2分、入港時は青森側で4分、函館側では3分しか短く設定されておらず、その後の津軽丸型での港内操船の慣熟により、実際の出入港所要時間はそれぞれ、更に数分から10分程度短縮されたため、これら余裕時間は荒天時や到着列車遅れ時の回復運転、平穏時の省エネ運航に活用された。

なお、基準航路設定前後から青函航路に参入した民間フェリー 各社[293]も、この左側航行の基準航路に従っていたが、青函連絡船復活運航終了後の1988年(昭和63年)10月1日より、船舶航行の原則である右側航行に改めた[294]

運航[編集]

デッキハウス船の第六青函丸1964年(昭和39年)5月3日終航、入れ替わるように、津軽丸が5月10日に就航、第2船の八甲田丸が8月12日に就航し、車載客船大雪丸(初代)が8月31日終航。1964年(昭和39年)9月30日までは、従来通り深夜の特急接続便の1便が4時間25分、2便が4時間30分運航していた以外は、下り4時間30分、上り4時間40分運航の最大22往復(通常19往復)、うち旅客扱い便は最大6往復(通常5往復)で、両船も他の在来船と共通運用であった[295]。しかし当時は、津軽丸型も1船1日2往復運航のため、1隻だけの就航時から、津軽丸型での運航便は数週間程度固定されることになり、これらの便では、深夜便以外の一部の便で、変○○便として、毎日4時間台前半で運航されていた[296]

1964年(昭和39年)10月1日ダイヤ改正で、初めて津軽丸型専用の4往復が設定され、東北本線初の寝台特急はくつる」と、北海道内では2番目の設定となる特急「おおとり」とを接続する3便・4便に限り3時間50分運航を開始し、深夜の特急接続便1便・2便を含む6本の便では4時間20分運航を開始した。在来船でも運航できる2往復も含め、旅客扱い便は6往復となったが、最大22往復に変化はなかった[297]

1965年(昭和40年)8月5日の第6船羊蹄丸(2代)就航で、当初予定の6隻が出揃い、引退予定の老朽船も9月30日終航の石狩丸(初代)を最後に全て引退した。

1965年(昭和40年)10月1日ダイヤ改正で、青森第2岸壁と函館第2岸壁で55分折り返し運航が可能となり、部分的に2.5往復運航が開始された。津軽丸型5隻12往復で、うち9往復が旅客扱い便、津軽丸型1隻と在来船4隻で10往復(いずれも4時間30分運航の貨物便)、十和田丸(初代)1隻1往復の4時間30分運航の旅客扱い便の、最大23往復(通常20往復)となり、うち旅客扱い便は10往復と一気に増えた。津軽丸型5隻で運航する12往復は全て3時間50分運航となった[298][299]

1966年(昭和41年)10月1日ダイヤ改正では、十和田丸(初代)が車両渡船への改造工事のため休航し、代わりに追加建造の津軽丸型第7船 十和田丸(2代) が11月1日に就航したため、津軽丸型5隻12往復、1隻2往復、津軽丸型1隻と在来船4隻で10往復(いずれも4時間30分運航の貨物便)で、最大24往復(通常22往復)となったが、旅客扱い便は10往復のままであった。このダイヤ改正から、旅客扱い便は全て津軽丸型になり、原則3時間50分運航になったが、深夜の特急接続便の後発の101便は4時間10分運航であった。1967年(昭和42年)5月には車両渡船として十和田丸(初代)改造の石狩丸(2代)の再就航があったが、最大運航本数に変化はなかった[300][299]

1968年(昭和43年)10月1日ダイヤ改正時には、青森、函館両駅の構内配線が改良され、青森第1岸壁、函館第1岸壁で、それぞれの第2岸壁との同時作業での55分折り返し運航が可能となり、全面的2.5往復運航が始まった。津軽丸型2隻5往復の運用を3組とし、それぞれ、甲、乙、丙系統として計15往復。津軽丸型1隻と在来船4隻(または在来船のみ5隻)で10往復(いずれも4時間30分運航の貨物便)、最大25往復(通常23往復)、うち旅客扱い便は11往復となった[301][302][299]

1969年(昭和44年)10月1日ダイヤ改正では最大28往復(通常26往復)が設定され、その当日に1日2.5往復可能な高速車両渡船渡島丸(2代)が就航した。津軽丸型6隻15往復で、1隻余った津軽丸型と、この渡島丸(2代)の2隻で5往復し、在来船の檜山丸型2隻、石狩丸(2代)、更に引退間際の蒸気タービン船十勝丸(初代)の4隻もフル稼働8往復して青函航路初の28往復運航を、11月12日から24日まで行った[303][304]

1970年(昭和45年)6月30日までに高速車両渡船渡島丸(2代)型3隻が就航し、蒸気タービン船は引退し、ディーゼル船13隻体制となった。1972年(昭和47年)3月15日ダイヤ改正からは最大30往復(通常28往復)が設定され[299]、同年秋冬繁忙期の10月6日から31日まで津軽丸型6隻で15往復、1隻で2往復、渡島丸(2代)型2隻で5往復、1隻で2往復、檜山丸型2隻と石狩丸(2代)の在来船3隻で6往復して、青函航路初の30往復運航が行われた[305]。青森、函館両桟橋の折り返し容量から30往復が限度であった。

このように、1968年(昭和43年)10月以降は、津軽丸型は持てる能力をフルに発揮する稼働を続け、就航前の1963年(昭和38年)の旅客輸送人員が366万人、貨物輸送量593万トンであったのに対し、1970年(昭和45年)にはそれぞれ470万人、847万トンに達していた[306]。しかし貨物輸送は、これでも輸送能力が輸送需要に追い付けず、1966年(昭和41年)以来輸送制限を行っていた[307][22]。しかし、このような中、航空運賃の相対的低下や長距離フェリーの就航、1973年(昭和48年)秋には第1次オイルショックによる景気低迷、更には国鉄自体の度重なる労働争議による国鉄離れ、もあり、旅客は1973年(昭和48年)の499万人、貨物は1971年(昭和46年)の855万トンをピークに以後急激に減少していった[306]

国鉄では、歯止めのかからない貨物輸送量の減少に対し、1978年(昭和53年)10月2日ダイヤ改正では、1972年(昭和47年)3月以来の、最大30往復の運航ダイヤを見直し、最大27往復(通常25往復)に減便し、車両渡船渡島丸(2代)を係船した。更に1980年(昭和55年)10月1日ダイヤ改正では、車両渡船日高丸(2代)を係船し、最大24往復(通常23往復)へと減便し[308]1981年(昭和56年)の旅客輸送人員は248万人、貨物輸送量は465万トンと、ピーク時から半減していた[306]

その頃掘削中の青函トンネルは、1980年(昭和55年)における開業予定時期は1984年(昭和59年)であったが[309]、未だ流動的で、初期の津軽丸型は、耐用年数の18年を1982年(昭和57年)に迎えることになった。これは国鉄の財産管理上の基準年数で、必ずしも物理的なものではなく、実際過去にも20年以上稼働した船はあるが、老朽化とともに維持費も増大するため、係船機械やヒーリングポンプ、可変ピッチプロペラ等が他船と異なった津軽丸と松前丸(2代)を引退させ、他の5隻は1981年 (昭和56年)から順次延命工事を施行して、継続使用することとした[310]

旅客数が減少したとはいえ、利用客の集中する深夜便は、多客時には津軽丸型1隻では運びきれず、従来通り続行便が必要で、このため、1982年(昭和57年)には、1976年(昭和51年)と 1977年(昭和52年)建造の、船齢の若い車両渡船 檜山丸(2代)石狩丸(3代)に、650名の旅客と20台の乗用車を積載できる甲板室を造設して、客載車両渡船とした。

津軽丸は1982年(昭和57年)3月4日、松前丸(2代) は同年11月12日で終航となり。残った5隻のうち、大雪丸(2代)は検査切れのため、青函航路終航2ヵ月前の1988年(昭和63年)1月6日で終航、その他4隻は同年3月13日の航路終航まで運航された。

更に、羊蹄丸(2代)十和田丸(2代)は、青函トンネル開通記念博覧会の協賛事業として、同年6月3日から9月18日まで復活運航を行った。羊蹄丸(2代)が函館側から毎日1往復、十和田丸(2代)が青森側から毎日1往復の計2往復で、車両航送は行われなかった[311]

沿革[編集]

青函連絡船時代(一部同型他船も含む)[編集]

  • 1964年(昭和39年)
  • 1965年(昭和40年)
    • 3月30日 - 運航定員49名+夜間増派4名と決定[54]
    • 10月1日 - 101便・310便以外の旅客便の3時間50分運航開始[298]
  • 1966年(昭和41年)10月2日 - 旅客便の3時間50分運航開始[300]
  • 1967年(昭和42年)6月1日 - 乗用車航送開始 乗用車6台[130]
  • 1968年(昭和43年)5月26日 - 256便からロングラン試験開始
  • 1969年(昭和44年)4月4日 - 303便までロングラン試験終了[162][158]
  • 1970年(昭和45年)5月25日 - 船舶積量測度法改正(1967年8月1日)により、車両格納所容積が総トン数から除外され、5,319.71トンに減トン登録[1][317][2][318]
  • 1971年(昭和46年)4月1日‐乗用車航送 乗用車8台[130]
  • 1972年(昭和47年)7月 - 乗用車航送 乗用車12台[130]
  • 1973年(昭和48年)
    • 8月5日 - 深夜の続行便の後発便の2便の残客707名をバス12台で有川桟橋の函館第4岸壁へ移送し、松前丸(2代)で運航の6054便(函館第4岸壁1時30分発 青森第2岸壁6時10分着 4時間40分運航)で輸送[319][320][321]
    • 8月12日 - 同上802名、バス16台、松前丸[322][321]
    • 8月13日 - 同上770名、バス16台、松前丸[323][321]
    • 12月28日 - 旅客定員 通年1,330名認可(グリーン席30名増、普通席100名増)[324]
  • 1974年(昭和49年)10月29日 – 第2主機室、主機械シリンダー動弁装置注油管の動弁箱入口接手溶接部亀裂からの潤滑油噴出によって、主機械シリンダーカバーおよび排気管付近から発煙あり[325]
  • 1975年(昭和50年)
  • 1977年(昭和52年)3月7日 - 国営の青函連絡船として初めて比羅夫丸が就航した1908年(明治41年)3月7日から70年目ということで、当時就航中の13隻の連絡船のシンボルマークが作成され[329]、すべての津軽丸型に、順次各船の入渠の際に船体に取り付けられた。右舷が4,700×3,655mm、左舷が2,830×2,200mmと、右舷のマークのほうが大きかった。このシンボルマークのデザインは公募だったが、採用されたものは現役乗組員の作品であった。( )内は各船への取り付け時期
    • 津軽丸:津軽のりんご         (7月 - 遊歩甲板室後壁、12月 - 船楼甲板室両舷)[330]
    • 八甲田丸:八甲田山系と水蓮沼   (7月 - 遊歩甲板室後壁、9月 - 船楼甲板室両舷)[330]
    • 松前丸(2代):桜の松前丸      (7月 - 遊歩甲板室後壁、1978年(昭和53年)2月 - 船楼甲板室両舷)[330]
    • 大雪丸(2代):大雪の熊       (7月 - 遊歩甲板室後壁、1978年(昭和53年)3月 - 船楼甲板室両舷)[330]
    • 摩周丸(2代):神秘の湖・摩周湖  (7月 - 遊歩甲板室後壁、6月 - 船楼甲板室両舷ペイント描き、1978年(昭和53年)2月 - 船楼甲板室両舷)[330]
    • 羊蹄丸(2代):蝦夷富士・羊蹄山  (7月 - 遊歩甲板室後壁、6月 - 船楼甲板室両舷)[330]
    • 十和田丸(2代):湖面輝く十和田湖(7月 - 遊歩甲板室後壁、1978年(昭和53年)1月 - 船楼甲板室両舷)[330]
    • 全船の統一マーク:救命ブイとイルカ
  • 1978年(昭和53年)5月 - レーダー情報処理装置(CAS)装備[223]、喫茶室「サロン海峡」開設(グリーン自由椅子席44席撤去)旅客定員1,286名[85]
  • 1982年(昭和57年)3月4日 - 耐用年数切れにより青森発7時30分函館着11時20分の5便をもって終航

終航後[編集]

  • 1982年(昭和57年) 12月24日 - 東京の大久保商店(大久保尚志)に83,585,000円で売却されたが、函館ドックで係留継続[331][332][333]
  • 1983年(昭和58年)3月25日[333] - 北朝鮮に転売され、日本人回航員の手によって自航で元山へ向け函館を出港。回航に先立ち函館ドックで白と紺色に化粧直しされた。北朝鮮では、「HAE YON」などに改称し、主に元山港を母港に貨物船として運航されていたという。
    • なお、この北朝鮮への転売の際には、兵員輸送など軍事転用への懸念から、国会で転売を問題視する声が挙がっている[331][334]。回航の際、CASなどは基板が何枚か抜かれ、使用できないようにされていた。
  • 1987年(昭和62年)3月 - サウジアラビアの船舶会社に売却され、「AL JAWAHER」に船名を改称。スエズエジプト) - ジェッダ(サウジアラビア) - ポートスーダンスーダン)の定期航路のカーフェリーとして運航されていた。この間、ジェッダ港で社外船に転職していた元青函連絡船乗組員に目撃され、報道されるなどした。イスラム教巡礼期はメッカ巡礼船としてトリポリリビア) - ジェッダ(サウジアラビア)で運航されたという。
  • 1996年(平成8年) - エジプト政府に納付金滞納により差し押さえられる。
  • 1998年(平成10年)5月21日 - 係留中に火災が発生。
  • 1998年(平成10年)12月14日 - スエズで解体される。

その他[編集]

  • 津軽丸のとされるものは、1つは青森市みちのく北方漁船博物館(以前は中三デパート前)、もう1つは函館市青函連絡船記念館摩周丸に程近い旧函館桟橋の一角に展示されている(以前は函館駅の駅舎正面に保存されていた)が、北朝鮮への売却前にとりはずされた本物であるという説と、各船の予備の錨を津軽丸の錨として展示したとの説があり、本物であるかどうかは定かではない。

脚注[編集]

  1. ^ a b 履歴原簿 汽船津軽丸 昭和45年5月25日 日本国有鉄道
  2. ^ a b 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p162 成山堂書店1988
  3. ^ 1967年8月1日の規程改正により船尾水密扉で閉鎖された車両格納所容積が総トン数に加算されなくなった:古川達郎 鉄道連絡船のその後p46,47 成山堂書店2002
  4. ^ a b 航跡p329 国鉄青函船舶鉄道管理局1978
  5. ^ 古川達郎 続連絡船ドックp11 船舶技術協会1971
  6. ^ 青函連絡船栄光の航跡p370-371間の青函連絡船要目表 北海道旅客鉄道株式会社1988
  7. ^ 青函連絡船史p72 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  8. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p159 成山堂書店1988
  9. ^ 1962年11月1日 浦賀船渠株式会社が浦賀玉島デイゼル工業株式会社を合併し浦賀重工業株式会社と社名変更:http://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=6310&query=&class=&d=all&page=45:浦賀・追浜百年の航跡:1897-1997年表 住友重機械工業株式会社(1997.06)
  10. ^ 古川達郎 続連絡船ドックp12 船舶技術協会1971
  11. ^ 古川達郎 続連絡船ドックp16 船舶技術協会1971
  12. ^ 1961年(昭和36年)当時の予測は、1965年(昭和40年)度片道310万トン、1970年(昭和45年)度片道360万トンであったが、1963年(昭和38年)当時の予測は、1965年(昭和40年)度片道332万トン(上り実績は328万トン)、1970年(昭和45年)度片道390万トン(上り実績は472万トン):青函連絡船史p74、241 国鉄青函船舶鉄道管理局1970(1970年度輸送実績(出典元は上り下り逆に誤植:青函連絡船栄光の航跡p377 北海道旅客鉄道株式会社1988)
  13. ^ a b 青函連絡船史p72〜75 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  14. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p160 成山堂書店1988
  15. ^ a b 函館4岸10時45分発、青森2岸15時30分着:函館市青函連絡船記念館摩周丸 青函連絡船運航ダイヤ実績表 昭和39年4月14日 国鉄青函船舶鉄道管理局1964
  16. ^ a b 青函連絡船史p77 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  17. ^ a b 14便は函館2岸18時10分発、青森1岸22時50分着のところ青森2岸22時25分着の4時間15分運航で、変14便とした:函館市青函連絡船記念館摩周丸 青函連絡船運航ダイヤ実績表 昭和39年5月10日 国鉄青函船舶鉄道管理局1964
  18. ^ 青函連絡船史p78 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  19. ^ a b 古川達郎 続連絡船ドックp12 船舶技術協会1971
  20. ^ http://transport.or.jp/tetsudoujiten/HTML/1958_%E9%89%84%E9%81%93%E8%BE%9E%E5%85%B8_%E4%B8%8B%E5%B7%BB_P1241.html :この表には誤表記が多いが船種表記に注目:鉄道辞典p1241 日本国有鉄道1958
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  22. ^ a b 航跡p27 国鉄青函船舶鉄道管理局1978
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  27. ^ 鉄道ファンNo.324 1988年4月1日発行
  28. ^ 船員給食外注化等の要員数減も含まれた:青函連絡船史附表p12 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  29. ^ 青函連絡船栄光の航跡p370附表 北海道旅客鉄道株式会社1988
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  32. ^ 古川達郎 続連絡船ドックp212 船舶技術協会1971
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  34. ^ a b 古川達郎 続連絡船ドックp211〜214 船舶技術協会1971
  35. ^ 鉄道院汽船塗装規程第4条(1909年3月制定1965年3月廃止):古川達郎 続連絡船ドックp48 p54 船舶技術協会1971
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  39. ^ 松前丸は1.75:8 羊蹄丸と十和田丸は2:8で他3隻は1.5:8 :古川達郎 続連絡船ドックp48~50 p54 船舶技術協会1971
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  41. ^ 古川達郎 続連絡船ドックp296 船舶技術協会1971
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  44. ^ 大神隆 青函連絡船物語p42〜44 交通新聞社2014
  45. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p254 p256 成山堂書店1988
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  48. ^ 泉益生 連絡船のメモ(上巻)p220〜222 船舶技術協会1972
  49. ^ 国鉄では1961年建造の大島連絡船 大島丸(後の安芸丸)で初採用し、従来の鉛蓄電池に比べ長期間保守点検不要なことを確認した:泉益生 連絡船のメモ(上巻)p224、225 船舶技術協会1972
  50. ^ 非常予備灯および航海装置用104.4V 600AH(5時間率) 3時間給電可能、通信装置用25.2V 100AH(5時間率) 12時間給電可能、無線通信用25.2V 360AH(5時間率) 6時間給電可能の3組を:泉益生 連絡船のメモ(上巻)p226 p228 船舶技術協会1972
  51. ^ 辷戸開閉自体は油圧蓄圧式、制御電源は常時100V直流:泉益生 連絡船のメモ(中巻)p210 p235 船舶技術協会1975
  52. ^ VHF無線電話、各種放送装置(3種類)、イオン式火災警報装置、ボイスアラーム、無線受信機、定時放送受信装置など:泉益生 連絡船のメモ(上巻)p227、228 船舶技術協会1972
  53. ^ a b 古川達郎 続連絡船ドックp39 船舶技術協会1971
  54. ^ a b 青函連絡船栄光の航跡p402 北海道旅客鉄道株式会社1988
  55. ^ a b 泉益生 連絡船のメモ(下巻)p79 船舶技術協会1977
  56. ^ 古川達郎 続連絡船ドックp340 船舶技術協会1971
  57. ^ 各船一般配置図 JNR図番104
  58. ^ 古川達郎 鉄道連絡船細見p148、149 JTBパブリッシング2008
  59. ^ 八甲田丸、大雪丸、摩周丸、羊蹄丸は、4対のボイドスペースまたはバラストタンク。タンク配置には津軽丸型各船で差異があった:青函連絡船津軽丸型のタンク配置図 第6回青函連絡船講演会での展示 船の科学館2015.4.18.
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  110. ^ 荒天時の増し掛けに、フック掛けのない位置でも使用でき、通常は上下逆さ、即ち、重いハサミ部分を下にしてハサミの片方を甲板の緊締用レールの穴に引っ掛け、フックを車両のフック掛けに掛けて使用した
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外部リンク[編集]