昌慶丸
| 昌慶丸 | ||
|---|---|---|
| 概歴 | ||
| 建造 | 1923年2月 | |
| 解体 | 1957年10月 | |
| 要目 | ||
| 船種 | 客船 | |
| 総トン数 | 3,619t | |
| 全長 | 114.3m | |
| 全幅 | 14.2m | |
| 機関 | ||
| 出力 | 9,163hp | |
| 航続距離 | ||
| 速力 | 20.5kt | |
| 乗客定員 | 878名 | |
| 貨物積載量 | ||
| 姉妹船 | 景福丸 徳寿丸 | |
昌慶丸(しょうけいまる Shokei maru)は鉄道省の関釜航路・青函航路の鉄道連絡船。景福丸型の第3船である。姉妹船には景福丸、徳寿丸がある。
命名の由来[編集]
航跡[編集]
就航[編集]
関釜連絡船には、1913年に高麗丸と新羅丸が就航していたが、同年に関釜連絡船、朝鮮鉄道、南満洲鉄道経由で日中連絡運輸が開始されると旅客は日々増加し輸送改善が必要となってきた。そのため、1920年に旅客船3隻(景福丸型)の新造が計画された。昌慶丸はその第3船として、1923年三菱重工業神戸造船所で建造され、同年就航した。速力は20ノット以上であり、景福丸型では最も性能が良かった。
景福丸型が3隻就航したことにより、下関と釜山間は昼8時間、夜9時間に短縮された。
関釜航路[編集]
関釜航路に就航後、1942年に釜山港で座礁し、約1ヶ月離脱する。1943年からは博釜航路で運用されていたが、博多湾が機雷封鎖で使用できなくなってしまった。博多湾から無事脱出後の1945年6月からは須佐湾(山口県)を基点として中国大陸との航路で活躍する。
1945年7月30日、退避中の宮津港でアメリカ軍空軍機の空襲に遭遇し、至近弾を受け浸水し擱座。そのまま放置され終戦を迎えた。
青函航路[編集]
終戦後もしばらく放置されていたが、青函連絡船の不足を補うため1946年に引き揚げられ、1947年8月に修理が完了。同年9月23日より青函航路に就航する。1947年より洞爺丸型が順次就航すると、1948年10月10日に終航する。
1952年1月から4月まではアメリカ軍に徴用され、朝鮮戦争の人員・物資の運搬に従事する。
1954年9月26日、洞爺丸台風により洞爺丸などが沈没(洞爺丸事故)すると、船員の訓練の必要があがり、昌慶丸は1955年12月18日に訓練船となり、函館港有川岸壁に繋留される。1957年10月まで訓練船として使われ、1961年に売却、解体された。
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