昌慶丸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
昌慶丸
Shokei Maru at Busan.jpg
概歴
建造 1923年2月
解体 1957年10月
要目
船種 客船
総トン数 3,619t
全長 114.3m
全幅 14.2m
機関
出力 9,163hp
航続距離
速力 20.5kt
乗客定員 878名
貨物積載量
姉妹船 景福丸 徳寿丸
下関鉄道桟橋の昌慶丸

昌慶丸(しょうけいまる Shokei maru)は鉄道省関釜航路青函航路鉄道連絡船。景福丸型の第3船である。姉妹船には景福丸徳寿丸がある。

命名の由来[編集]

旧朝鮮時代の王宮昌慶宮の名をとり命名される。

航跡[編集]

就航[編集]

関釜連絡船には、1913年高麗丸新羅丸が就航していたが、同年に関釜連絡船、朝鮮鉄道南満洲鉄道経由で日中連絡運輸が開始されると旅客は日々増加し輸送改善が必要となってきた。そのため、1920年に旅客船3隻(景福丸型)の新造が計画された。昌慶丸はその第3船として、1923年三菱重工業神戸造船所で建造され、同年就航した。速力は20ノット以上であり、景福丸型では最も性能が良かった。

景福丸型が3隻就航したことにより、下関釜山間は昼8時間、夜9時間に短縮された。

関釜航路[編集]

関釜航路に就航後、1942年釜山港で座礁し、約1ヶ月離脱する。1943年からは博釜航路で運用されていたが、博多湾機雷封鎖で使用できなくなってしまった。博多湾から無事脱出後の1945年6月からは須佐湾山口県)を基点として中国大陸との航路で活躍する。

1945年7月30日、退避中の宮津港アメリカ軍空軍機の空襲に遭遇し、至近弾を受け浸水し擱座。そのまま放置され終戦を迎えた。

青函航路[編集]

終戦後もしばらく放置されていたが、青函連絡船の不足を補うため1946年に引き揚げられ、1947年8月に修理が完了。同年9月23日より青函航路に就航する。1947年より洞爺丸型が順次就航すると、1948年10月10日に終航する。

1952年1月から4月まではアメリカ軍に徴用され、朝鮮戦争の人員・物資の運搬に従事する。

1954年9月26日、洞爺丸台風により洞爺丸などが沈没(洞爺丸事故)すると、船員の訓練の必要があがり、昌慶丸は1955年12月18日に訓練船となり、函館港有川岸壁に繋留される。1957年10月まで訓練船として使われ、1961年に売却、解体された。