石狩丸 (初代)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

石狩丸(いしかりまる)は、日本国有鉄道青函航路鉄道連絡船客載車両渡船として建造されたが、後年車両渡船に改造された。また基本構造はほぼ同型ながら新造時より旅客設備を持たない車両渡船 十勝丸(初代)・渡島丸(初代)もあり、いずれも三菱重工横浜造船所で建造された。

石狩丸は第二次世界大戦中の1945年(昭和20年)3月に起工し、戦後の1946年(昭和21年)7月に就航した。

十勝丸・渡島丸は、1946年(昭和21年)7月に運輸省 鉄道総局がGHQより許可を得て建造した青函航路用の車載客船4隻、車両渡船4隻のうちの車両渡船2隻で[1]、このうち十勝丸は洞爺丸台風で沈没し、引き揚げられ、修復、再就航している。

ここでは石狩丸のほか、十勝丸・渡島丸についても記述する。

石狩丸建造の経緯[編集]

長期化する日中戦争太平洋戦争勃発による船腹不足は、満州(現在の中国東北部)方面から日本本土への農産物や鉱物資源の海上輸送を、朝鮮半島経由の鉄道輸送へと転移させた。このため1943年(昭和18年)7月には関釜航路の補完増強の目的で、既に1942年(昭和17年)7月の関門トンネル 開通で本州の鉄道と繋がっていた博多釜山を結ぶ博釜航路が開設された。しかし当時の運輸通信省は、更に増加する貨物輸送に対応するには4,000総トン級の車両渡船による車両航送導入が必要と考え、海軍艦政本部にその建造を要請した。紆余曲折の末、1944年(昭和19年)8月に1945年(昭和20年)度分として車両渡船7隻の建造が了承された。

石狩丸の概要[編集]

この車両渡船は、W型戦時標準船とほぼ同じ設計で、博釜航路で使用できない時は青函航路への転用が可能な構造とする、という海軍側が提示した案に沿ったもので、船内軌道は狭軌とし、釜山で大陸の標準軌貨車と貨物の積替えをすることとした。博釜青函に比べ外海長距離航路のため、ボイラーは4缶から6缶へと増強され煙突も4本にはなったが、第六青函丸以降のW型戦時標準船同様過熱器は省略されており、タービンも第八青函丸以降と同様、右回り回転のものしかない甲25型衝動タービンを使用し、左右両軸とも右回転での運航となった[2]。更に凌波性向上のため、車両甲板船首部幅を狭めて船首部フレアーを小さくした[3]。このため積載車両数はW型より2両減のワム換算42両となった。これがW型戦時標準船博釜航路版で、博釜“HAKUHU”に因んで「H型戦時標準船」と呼ばれた。設計段階では船尾閉鎖装置が装備されていたが、青函航路では必要ないため装備されなかった[4][5]。新造時は単底であった。

このH型戦時標準船は、当時浦賀船渠W型戦時標準船の建造で余力がなかったため、三菱重工横浜造船所で建造されることになり、1945年(昭和20年)3月1日に第1船が起工された。しかし、同年4月には博釜航路の陸上施設建設のめどが立たなくなり、同航路での車両航送計画は消滅した。これにより、このH型第1船の青函航路への転用が確定した。同年8月15日の終戦時には船台上で建造中で、その後、一時工事中断はあったものの、ほどなく再開され、翌1946年(昭和21年)3月15日進水した。従来このクラスの車両渡船は第○青函丸と命名されていたが、本船は北海道の旧国名から石狩丸と命名され、本船建造以降に建造されたH型、W型の車両渡船もこれに倣うこととなった。

同時期竣工のW型戦時標準船 第十二青函丸と同様、船員居室の部屋割は高級船員室の一部に相部屋は残ったが、概ね第四青函丸の水準に戻り[6]、更に第四青函丸にはあった船員居室の車両甲板下への設置もなくなった。

青函航路は、1945年(昭和20年)7月14日の空襲で翔鳳丸型4隻を失い、自前の旅客輸送力は皆無となっており、これを補うため、戦後まで生き残ったW型青函丸、ならびに戦後竣工のW型青函丸の各船同様、船楼甲板の本来の甲板室の前後に3等のみ定員394名の旅客用甲板室(デッキハウス)を建造中に造設し、客載車両渡船(デッキハウス船)として1946年(昭和21年)7月6日竣工した。しかし、竣工と同時に進駐軍専用船に指定されたため一般旅客の輸送力増強の目論見は失敗、この指定はサンフランシスコ講和条約発効目前の1952年(昭和27年)4月1日まで続いた。なおこの間、W型青函丸同様、ボイラーへの過熱機付加や主機換装、発電機増設工事等の改良工事が行われた。

外観的には、元設計のW型戦時標準船とは船首部の船型に差異はあったものの、煙突が4本になった以外は酷似していたが、車両甲板船尾開口部が2本の梁柱で3分割され[7][8][9]、開口部に梁柱のないW型と識別できた。

十勝丸・渡島丸建造の経緯[編集]

戦災で落ち込んだ青函航路の貨車航送能力回復のため、1946年(昭和21年)7月に運輸省 鉄道総局がGHQの許可を得て、H型戦時標準船の基本設計をほぼそのまま引き継ぎ[10]、同じ三菱重工横浜造船所で建造したのが十勝丸と渡島丸であった。

十勝丸・渡島丸の概要[編集]

この2隻は1946年(昭和21年)10月と12月に起工し、翌々年の1948年(昭和23年)4月と7月に就航した。両船ともデッキハウスを持たない車両渡船で、ボイラーも過熱器付きに戻り、戦時標準品ではないタービンを採用し、プロペラも互いに外転する通常の形に戻され、船底も二重底であった[11]。主発電機は50kVA 3台と[12][10][13]、当時の W型青函丸やH型石狩丸の新造時の50kVA 2台より増強されていたが、終戦後間もないこの時期製造の機械部品は材料、工作とも不良で、後年取り換えられたものも多かった。

なお車両積載数は、石狩丸を含め新造時は3隻ともワム換算42両であったが、その後、船内軌道長に変化はなかったにもかかわらず、1952年(昭和27年)以降はワム換算44両積載可能とされていた[14]

石狩丸難航[編集]

1947年(昭和22年)12月12日は西高東低の気圧配置で、前日より強い西風を伴う猛吹雪が続き、全船運航見合わせしていた。石狩丸船長も出港見合わせを主張したが、占領下の当時は進駐軍函館RTO(Railway Transportation Office、鉄道輸送事務所)の出港命令には逆らえず、進駐軍専用の上り1202便として、進駐軍兵士115名、貨車38両、客車3両を積載して、函館第1岸壁を11時19分出港した。11時51分穴澗岬航過後南30度西に針路をとり14時19分、航程29海里で平館灯台北側の石崎無線標識を南25度東に測定したため、針路を南40度東に転針し平館海峡へ向かった。しかし17.4~24.5mの強い西風を船尾から受け、船首が風に切れ上がって針路保持ができず[15]、猛吹雪で視界もきかず、船体動揺も最大36度にも達したため、14時50分南70度西へ転針し、三厩湾への避難を決意した。しかし視界不良で陸岸への接近もできず、15時17分より蜘躊開始した。15時30分一瞬の晴れ間に竜飛岬灯台真方位80度3海里と船位測定した。蜘躊継続中の19時23分には左舷後方近距離に陸岸を視認、予想外の圧流のため、これ以上の蜘躊は擱坐の危険を伴うと判断し、19時30分に北70度東に針路をとり青森へ向かうことにした。しかし19時33分には強い追い風で針路維持できず、車両甲板への波の打ち込みもあり、北30度西に転針後三厩錨地仮泊を決断し、21時に一時視界確保された機会に、錨を引きずりながら前進し、錨が海底に触れた後直ちに投錨、21時35分三厩灯台真方位30度0.8海里水深18m地点に錨泊できた。翌12月13日8時15分抜錨し吹雪の中、石崎無線標識を測定しつつ9時33分平館灯台航過し、11時35分青森第1岸壁に到着できた[16][17]。難航中は船上の進駐軍乗船隊長と函館RTOの間には頻繁な電報のやり取りがあり、陸奥湾に入って動揺の収まった船内では、進駐軍兵士が船橋や船員室まで押しかけ、無事を喜び、船員の労苦に感謝した。これ以降は函館RTOも船長判断を尊重するようになった[18][19]

洞爺丸台風[編集]

十勝丸沈没[編集]

1954年(昭和29年)9月26日53便として14時20分貨車35両を積載し青森第3岸壁を出港、18時18分葛登支航過するも、有川桟橋強風により着岸不能のため、18時50分函館港防波堤外に投錨仮泊。19時20分頃より風速増大し車両甲板への海水打ち込み増大、機関運転再開。19時50分頃から機械室の排気通風筒からの海水打ち込みが始まり、その後その他の空気口からも浸水、20時頃からはボイラー室への浸水も始まり、機械室右舷出入口周縁からも激しい浸水あり、ビルジ貯留増加。20時15分頃から適宜ヒーリングポンプを使用して右舷傾斜を矯正。20時30分頃には車両甲板上は60cmの海水滞留となった。21時頃には右舷40度左舷25度の動揺あり、21時過ぎた頃石炭取出口から海水と石炭が流出し右舷側ボイラー焚火不能、22時頃には左舷ボイラーも焚火困難となり、22時15分には蒸気圧低下のため潤滑油ポンプが2台とも停止し、22時20分両舷主機停止、22時30分発電機停止し、22時45分頃機関室から退避。その後右舷への傾斜増大し、23時41分積載車両横転、23時43分、右舷へ横転沈没。乗組員76名中59名が死亡した[20][21][22]

石狩丸と渡島丸[編集]

石狩丸は1954年(昭和29年)9月26日1201便として11時00分青森第1岸壁を出港し、15時30分函館第1岸壁着岸予定であったが、そこには洞爺丸が出港見合わせ停泊中で、第2岸壁には先船の5便大雪丸が着岸用意中のため、15時40分防波堤外に投錨待機した。17時25分の大雪丸沖出しを待って17時45分抜錨し防波堤内へ、しかしその頃から南南西の風が強くなり、第2岸壁着岸時には岸壁側から強風を受けながら補助汽船5隻で船体を押し、18時40分かろうじて着岸、通常係留索6本取るところ9本取った。しかしその後、風は更に強くなり、船体動揺激しく、旅客の下船はできたものの、貨車引き出し作業は難渋、やがて係留索が次々と切断されたため、補助汽船3隻で船体を岸壁側に押したが力およばず、20時15分 船内に貨車21両を残したまま自然離岸してしまった。直ちに機関運転開始し20時25分防波堤内第2航路上に錨泊する形となり沈没を免れた[23][24][25]

渡島丸は9月26日62便として10時55分函館有川第3岸壁を出港、12時40分、強い東風を受け船長自ら無線電話で「風速25m、波8うねり6、動揺22度、針路南東で難航中」と発信[26]、難航しながらも45分遅れで16時20分青森第1岸壁着、以後運航休止で船体損傷なし。

車両渡船沈没の原因と対策[編集]

事故後の研究により、当夜の函館湾の波は高さ6m、波周期9秒、波長約120mで、当時の青函連絡船の水線長115.5mより僅かに長く、このような条件下では、たとえ船首を風上に向けていても、縦揺れにより船尾を勢いよく波の中に突っ込んだとき、その勢いで波は車両甲板船尾のエプロン上にまくれ込んで車両甲板に流入、船尾が上がると、その海水は船首方向へ流れ込み、次に船尾が下がっても、この海水は前回と同様のメカニズムで船尾から流入する海水と衝突して流出できず、やがて車両甲板上に海水が滞留してしまうことが判明した。その量は、車両甲板全幅が車両格納所となっている十勝丸のような車両渡船では、貨車満載状態で、停泊中であれば、波高6mのとき900トンを越え、この大量の流動水は車両甲板上を傾いた側へすばやく流れるため、これだけで転覆してしまう量であったが、波周期が9秒より短くても長くても、車両甲板への海水流入量は急激に減少することも判明した[27][28]。更に、石炭焚き蒸気船では、車両甲板から機関室(機械室・ボイラー室)への開口部が多数あり、滞留海水が機関室へ流入して機関停止し、操船不能となったことも沈没の要因とされた[29]

これらの浸水への対策として、車両渡船では、車両甲板面の機関室開口部の水密性向上による機関室への浸水防止の徹底と、車両甲板船尾側面への多数の放水口設置で、車両甲板上に流入した海水を迅速に船外へ流出させることができ、船尾扉装備なしで安全性の確保されることが明らかとなった[30]。このため洞爺丸台風後急遽建造開始され、1955年(昭和30年)9月に竣工した車両渡船檜山丸からこの方式が採用され、十勝丸もこの方式で修復工事が進められた。

十勝丸修復工事[編集]

十勝丸は1955年(昭和30年)9月20日引き揚げられ、11月20日に飯野重工舞鶴造船所へ入り修復工事を受けた[31]。車両甲板より上を喪失しており、これら喪失部分は全くの新造となった。車両甲板は檜山丸型に倣い、レールを薄い鋼板を介して車両甲板に溶接することで枕木を廃し、その分、軌道面を下げて車両甲板から船楼甲板までの高さを従来より20cm低い4.8mとし[32]、更に甲板室も、従来遊歩甲板にあった高級船員室の一部を船楼甲板へ下げ、重心の低下を図った[12]。また従来、車両甲板舷側上部にあった通風採光用の開口部は廃止され、船楼甲板船尾両舷の救命艇ボートダビットには、ブレーキを外すだけで救命艇が自重で舷外に振り出される重力型ボートダビットが採用された。また損傷の激しかった船尾部修復に際し、従来の1枚舵から操縦性の良い2枚舵に変更され、これを動かす操舵機も、従来の汽動式から、檜山丸型と同じ通常は2台の交流電動機で2台の油圧ポンプを駆動し、発電機故障時には蓄電池を電源とする1台の直流電動機で片方の1台の油圧ポンプを駆動する電動油圧式操舵機が採用された[33]

また、従来車両甲板までであった船首隔壁を船楼甲板まで延ばし、車両甲板下の水密区画についても、最大のボイラー室を前後に分割する水密隔壁を増設して[32]、水密区画数を10区画とし、水密隔壁には4ヵ所の水密辷戸が設置された。その開閉を手動式から電動式に改めたが、1955年(昭和30年)5月11日に発生した紫雲丸事件を受け、機械室の前後(ボイラー室と車軸室)には発電機が止まっても蓄電池で駆動できる直流電動機駆動の辷戸が設置され、残り2ヵ所は檜山丸型と同じ交流電動機駆動方式であった[34]

車両甲板の水密性向上のため、車両甲板の石炭積込口を含む機関室への開口部の敷居の高さを61cm以上に嵩上げのうえ、鋼製の防水蓋や防水扉を設置[35]、車両甲板から機関室への通風口も閉鎖して電動通風とし、発電機も250kVA 2台に増強のうえ、容易に水没しないよう機械室中段に設置された[36]。車両甲板船尾側面に放水口が設置され、船尾扉や入渠甲板の設置はなかった。また従来のH型船の特徴であった船尾開口部梁柱は設置されなかった。

操舵室を含む甲板室前面は各層とも前方に丸みを持たせ、一層ごと後退する形とし、船体塗装でも外舷上部も白く塗装されたため、檜山丸型を4本煙突にしたような印象となった。車両積載数はワム44両のままで、1956年(昭和31年)8月31日 再就航した。

石狩丸と渡島丸の改良工事[編集]

沈没を免れたこれら2隻でも、十勝丸と同様、救命艇ボートダビットの重力型への交換、車両甲板船尾側面への放水口設置、車両甲板面の水密性向上工事、発電機の250kVA 2台への増強工事等が行われたが、車両甲板全幅にわたる広い車両格納所を持ち、且つ船楼甲板上にも客室を持つ客載車両渡船(デッキハウス船)の石狩丸では、これだけでは十分な復原性を確保できないことが判明したため、 1958年(昭和33年)7月、放水口設置と同時にデッキハウスを撤去し[37]、本来の車両渡船に戻し、更に1959年(昭和34年)6月二重底化工事も施工された。なお、両船とも車両甲板舷側上部の通風採光用の開口部は、これら一連の改良工事でも閉鎖されず、終航まで残った。

函館第2岸壁の延伸[編集]

函館第2岸壁は全長110.28mの翔鳳丸型がちょうど収まるよう全長108mで建設されていた。しかし、その後建造された船はどんどん長くなり、全長118.00mの石狩丸が船首を突き出して同岸壁に停泊中、洞爺丸台風の強風で係留索が切られ自然離岸してしまったことから、余裕をもって停泊できるよう、1959年沖側へ40m延伸して148mとした[38]

貨車海中投棄試験と蒸気タービン船の終焉[編集]

津軽丸型当初計画の6隻の就航を見届けた1965年(昭和40年)8月31日と9月30日に渡島丸と石狩丸が順次終航した。この前年の12月3日の第八青函丸終航直後の試験に引き続き、やはり終航直後の渡島丸を使い、1965年(昭和40年)9月4日、水中傘使用による貨車海中投棄試験が実施された[39]。この試験の成功により、既に就航していた船も含め、車両甲板船尾端、エプロン甲板との段差部分に、貨車引き出し投棄用の水中傘を格納するようになった。

十勝丸は1970年(昭和45年)3月31日、2代目日高丸就航を前に国鉄連絡船最後の蒸気タービン船として勇退した。

沿革[編集]

石狩丸[編集]

  • 1945年(昭和20年)3月1日 - 起工(三菱重工横浜造船所)
  • 1946年(昭和21年)7月6日 - 竣工
  • 1946年(昭和21年)7月23日 - 就航、進駐軍専用船指定
  • 1947年(昭和22年)12月12日 –【石狩丸難航】吹雪を伴う強い西風の中 進駐軍函館RTO の命令で11時19分函館を出港、難航のすえ三厩湾錨泊後、翌日青森着
  • 1949年(昭和24年)3月 - 主機換装(三菱神戸式1段減速歯車付衝動反動タービン2,250軸馬力2台)、発電機増設50kVA2台から3台へ(三菱重工横浜造船所)[40]
  • 1952年(昭和27年) 4月1日-サンフランシスコ講和条約発効による占領終了を前に、進駐軍専用船指定解除。
  • 1954年(昭和29年)9月26日 -洞爺丸台風来襲の日、1201便として、強風の中18時40分函館第2岸壁へ着岸した。しかし更に強まった風で係留索が切断され、20時15分自然離岸し、20時25分防波堤内第2航路上に錨泊する形となり沈没を免れた[23][41]
    • 9月28日 –変80便(函館第1岸壁16時40分発 青森第1岸壁21時50分着)から復帰[42]
  • 1957年(昭和32年)2月 - ボートダビット取替(函館ドック[43]
  • 1958年(昭和33年)7月 - デッキハウス撤去、車両甲板放水口設置、客載車両渡船から車両渡船に改造、総トン数2,913.1トンとなる(函館ドック[37][44]
  • 1959年(昭和34年)6月 - ストーカー装備[45]、二重底化改造(函館ドック[46]
  • 1965年(昭和40年)9月30日 – 211便(青森第3岸壁定刻57分遅れの16時57分発 函館定刻20時30分着のところ有川桟橋うねり強く沖待ちの後 函館第3岸壁10月1日8時01分着)にて終航[47]
  • 1965年(昭和40年)11月27日 - 三菱商事に売却[48]

十勝丸[編集]

  • 1946年(昭和21年)10月1日 - 起工(三菱重工横浜造船所)
  • 1948年(昭和23年)3月15日 - 竣工
  • 1948年(昭和23年)4月7日 - 就航
    • 9月17日-アイオン台風による風水害で岩手県内の山田線が全線にわたり寸断され、復旧のめども立たず、宮古付近に数多くの機関車や貨車が取り残された。
    • 11月9日-検査工事のため三菱重工横浜造船所への回航途中、宮古港で接岸試験施行。
  • 1949年(昭和24年)2月14日23時 –函館出港(第1次航海)
    • 2月15日12時20分-宮古港着、
    • 2月16日-0時45分~0時50分-低潮時に仮設可動橋を用い貨車20両積込みに成功、20時-宮古港発
    • 2月17日13時10分-青森着
    • 2月18日14時55分-青森発(第2次航海)
    • 2月19日6時30分-宮古港外着、18時-着岸
    • 2月20日5時30分~10時09分-機関車4両積込み、18時-宮古港発
    • 2月21日10時30分-青森着
    • 2月22日13時55分-青森発(第3次航海)
    • 2月23日6時30分-宮古港外着、8時10分-着岸、10時~10時25分-機関車4両積込み、20時55分-宮古港発
    • 2月24日-青森着
    • 2月26日14時55分-青森発(第4次航海)
    • 2月27日7時25分-宮古港着、9時50分~10時08分-貨車22両積込み、11時10分-港外錨泊、荒天のため出港見合わせ
    • 3月2日5時-宮古港発、20時-青森着
    • 3月4日14時-青森発(第5次航海)
    • 3月5日7時-宮古港外着、10時45分~10時53分-貨車13両積込み、16時-港外錨泊、
    • 3月6日13時-宮古港発
    • 3月7日5時30分-青森着 以上5回の航海で機関車8両、貨車55両を搬出した[49]
  • 1950年(昭和25年)9月15日 -キジア台風来襲時、59便として4時10分函館有川第3岸壁着岸、東南東の風7mで波もなく貨車積卸し作業中、4時30分頃より15~18mの突風が吹き始め、5時頃には南南西25m、突風33mとなり波も出てきたため船体動揺激しく、5時40分、貨車積み作業中止し2線分の貨車積載で急遽離岸、波高く港内外とも錨泊不能と判断し、以後約3時間防波堤外で蜘躊、船体ローリング34~35度にも達したが、機関室への浸水はなくボイラー焚火も継続でき、8時33分港内へ戻り投錨した[50][51]
  • 1954年(昭和29年)9月26日 –洞爺丸台風来襲の日、53便として青森を出港、有川桟橋強風により着岸不能のため、18時50分函館港防波堤外に錨泊し、船首を風に立てて船位維持に努めたが、19時20分頃か始まった激しい縦揺れによる車両甲板船尾開口部からの海水浸入が、やがてボイラー室、機械室へも流れ込み22時20分には主機停止し23時43分右舷へ転覆沈没した[20]
    • 11月10日 - 船体浮揚作業開始[52]
  • 1955年(昭和30年)9月20日 - 船体浮揚[53]
  • 1956年(昭和31年)8月21日 - 修復工事完工、車両甲板より上部を新造、舵を2枚舵とした 総トン数3048.4トン 車両積載数 ワム44両
  • 1956年(昭和31年)8月31日 - 再就航
  • 1958年(昭和33年)9月 - ストーカー装備(函館ドック)[54]
  • 1970年(昭和45年)3月31日 - 67便(青森第3岸壁定刻20時10分のところ20時26分発 函館第3岸壁定刻4月1日0時40分着のところ1時05分着)にて終航、これにより青函連絡船から蒸気タービン船が姿を消した。
    • 4月1日 -23時43分室蘭港へ向け出港、
    • 4月2日 -8時25分室蘭港着岸 係船[55][56]
    • 8月28日 - 佐野安商事に売却[57]
    • 9月7日 - 室蘭港から大阪に向け曳航されて出港[58][59]

渡島丸[編集]

  • 1946年(昭和21年)12月10日 - 起工(三菱重工横浜造船所)
  • 1948年(昭和23年)7月10日 - 竣工
  • 1948年(昭和23年)7月26日 - 就航
  • 1950年(昭和25年)9月 - 日本の商船で初めてレーダー装備、ストーカー装備(東日本重工横浜造船所)[60][61]
  • 1954年(昭和29年)9月26日- 62便として函館有川桟橋を出港し、強風高波の中難航しながら45分遅れの16時20分青森到着、以後停泊で難を免れた。
    • 9月27日- 洞爺丸台風後の再開第2便として、遅れ61便(青森第1岸壁8時30分発 函館第1岸壁14時10分着)で運航再開[62]
  • 1956年(昭和31年)2月 -ボートダビット取替え(函館ドック)[43]
  • 1956年(昭和31年)10月 -車両甲板放水口設置(函館ドック)
  • 1965年(昭和40年)8月31日 – 111便(青森第3岸壁21時10分発 函館第4岸壁9月1日1時40分着)にて終航[63]
  • 1965年(昭和40年)9月4日 - 貨車海中投棄試験[64]
  • 1965年(昭和40年)11月19日 - 久保忠義に売却[57]

石狩丸型一覧表[編集]

石狩丸 十勝丸 渡島丸
Insert image here.svg Insert image here.svg Insert image here.svg
概歴
建造所 三菱重工横浜造船所
起工 1945年(昭和20年)3月1日 1946年(昭和21年)10月1日 1946年(昭和21年)12月10日
進水 1946年(昭和21年)3月15日 1947年(昭和22年)3月22日 1947年(昭和22年)7月30日
竣工 1946年(昭和21年)7月6日 1948年(昭和23年)3月15日 1948年(昭和23年)7月10日
就航 1946年(昭和21年)7月23日 1948年(昭和23年)4月7日 1948年(昭和23年)7月26日
終航 1965年(昭和40年)9月30日 1970年(昭和45年)3月31日 1965年(昭和40年)8月31日
要目(新造時)
船種 客載車両渡船 車両渡船
総トン数 3,146.32トン 2,911.77トン 2,911.81トン
全長 118.00m
垂線間長 113.20m
幅(型) 15.85m
深さ(型) 6.80m
満載喫水 5.00m
ボイラー (台数) 乾燃式円缶( 過熱器なし)(6) 乾燃式円缶(6)
主機械 (台数) 日立製作所製2段減速歯車付戦時標準甲25型衝動タービン(2) 三菱神戸式1段減速歯車付衝動反動タービン(2) 石川島式2段減速歯車付衝動タービン(2)
公試最大出力 4,645軸馬力 5,445軸馬力 5,665軸馬力
定格出力 2,000軸馬力×2 2,250軸馬力×2
公試最大速力 16.91ノット 17.09ノット 17.17ノット
航海速力 14.5ノット
旅客定員 394名
貨車積載数 ワム換算42両
船名符字 JWSZ(JIZE)[65] JGUD JDSQ
石狩丸 十勝丸 渡島丸

脚注[編集]

  1. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p114 成山堂書店1988
  2. ^ 山本煕 車両航送巻末表30 日本鉄道技術協会1960
  3. ^ 山本煕 車両航送p259 日本鉄道技術協会1960
  4. ^ 鉄道技術発達史 第6篇(船舶)p25 日本国有鉄道1958
  5. ^ 青函連絡船栄光の航跡p63 北海道旅客鉄道株式会社1988
  6. ^ 青函連絡船史p159 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  7. ^ 青函連絡船50年史p163 国鉄青函船舶鉄道管理局1957
  8. ^ 青函連絡船史p215 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  9. ^ 金丸大作 写真集青函連絡船p27 朝日イブニングニュース社1984
  10. ^ a b 青函連絡船史p160 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  11. ^ 山本煕 車両航送p253 日本鉄道技術協会1960
  12. ^ a b 洞爺丸台風海難誌p252 国鉄青函船舶鉄道管理局1965
  13. ^ 主発電機95kVA 2台との記載もある:青函連絡船史 巻末附表p20、21 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  14. ^ 汽船現在表昭和27年3月 日本国有鉄道営業局1952
  15. ^ 2軸1枚舵の連絡船は船速の4倍弱以上の風を真横から受けると“風に切れ上がって”風下に回頭できなかった: 古川達郎 連絡船ドックp34 船舶技術協会1966
  16. ^ 青函連絡船50年史p177、178 国鉄青函船舶鉄道管理局1957
  17. ^ 青函連絡船史p462~464 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  18. ^ 航跡p211~214 国鉄青函船舶鉄道管理局1978
  19. ^ 坂本幸四郎 青函連絡船p98~100 朝日イブニングニュース社1983
  20. ^ a b 洞爺丸台風海難誌p79、80国鉄青函船舶鉄道管理局1965
  21. ^ 台風との斗いp12、13 特定非営利活動法人語りつぐ青函連絡船の会2011
  22. ^ 復刻・台風との斗いp101~107 特定非営利活動法人語りつぐ青函連絡船の会2011
  23. ^ a b 洞爺丸台風海難誌p70~72 国鉄青函船舶鉄道管理局1965
  24. ^ 坂本幸四郎 青函連絡船p128~133 朝日イブニングニュース社1983
  25. ^ 台風との斗いp18 特定非営利活動法人語りつぐ青函連絡船の会2011
  26. ^ 田中正吾 青函連絡船洞爺丸転覆の謎p51 成山堂書店1997
  27. ^ 山本煕 車両航送p302 p307 日本鉄道技術協会1960
  28. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p317 成山堂書店1988
  29. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p319 成山堂書店1988
  30. ^ 山本煕 車両航送p306、307 日本鉄道技術協会1960
  31. ^ 青函連絡船洞爺丸等の遭難経過とその後の浮揚作業の概要について 船の科学9巻9号p80 1956
  32. ^ a b 洞爺丸台風海難誌p251 国鉄青函船舶鉄道管理局1965
  33. ^ 2台の油圧ポンプは1つの油圧回路に並列に接続されており、1台運転でも力量が半分となるだけで舵は2枚とも動いた:泉益生 連絡船のメモ(上巻)p22、23 船舶技術協会1972
  34. ^ 泉益生 連絡船のメモ(中巻)p198 船舶技術協会1975
  35. ^ 山本煕 車両航送p292 日本鉄道技術協会1960
  36. ^ 青函連絡船史p162 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  37. ^ a b 古川達郎 連絡船ドックp69 船舶技術協会1966
  38. ^ 青函連絡船栄光の航跡p96 北海道旅客鉄道株式会社1988
  39. ^ 古川達郎 続連絡船ドックp177 船舶技術協会1971
  40. ^ 青函連絡船史p157国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  41. ^ 台風との斗いp18 特定非営利活動法人語りつぐ青函連絡船の会2011
  42. ^ 函館市青函連絡船記念館摩周丸 青函連絡船運航ダイヤ実績表 昭和29年9月28日 国鉄青函鉄道管理局1954
  43. ^ a b 航跡p313 国鉄青函船舶鉄道管理局1978
  44. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p322 成山堂書店1988
  45. ^ 航跡p26 国鉄青函船舶鉄道管理局1978
  46. ^ 古川達郎 連絡船ドックp126 船舶技術協会1966
  47. ^ 函館市青函連絡船記念館摩周丸 青函連絡船運航ダイヤ実績表 昭和40年9月30日10月1日 国鉄青函船舶鉄道管理局1965
  48. ^ 青函連絡船栄光の航跡p369 北海道旅客鉄道株式会社1988
  49. ^ 青函連絡船史p273~276 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  50. ^ 青函連絡船50年史p180 国鉄青函船舶鉄道管理局1957
  51. ^ 青函連絡船史p465 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  52. ^ 洞爺丸台風海難誌p224国鉄青函船舶鉄道管理局1965
  53. ^ 洞爺丸台風海難誌p225国鉄青函船舶鉄道管理局1965
  54. ^ 青函連絡船史p217p479国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  55. ^ 青函連絡船史 巻末年表p14 青函船舶鉄道管理局1970
  56. ^ 函館市青函連絡船記念館摩周丸 青函連絡船運航ダイヤ実績表 昭和45年3月31日~4月2日 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  57. ^ a b 青函連絡船栄光の航跡p370 北海道旅客鉄道株式会社1988
  58. ^ “こだま”北海道新聞 1970.8.29.
  59. ^ 函館市青函連絡船記念館摩周丸 青函連絡船運航ダイヤ実績表 昭和45年9月7日 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  60. ^ 古川達郎 連絡船ドックp50 船舶技術協会1966
  61. ^ 青函連絡船史p216p479国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  62. ^ 函館市青函連絡船記念館摩周丸 青函連絡船運航ダイヤ実績表 昭和29年9月27日 国鉄青函鉄道管理局1954
  63. ^ 函館市青函連絡船記念館摩周丸 青函連絡船運航ダイヤ実績表 昭和40年8月31日9月1日 国鉄青函船舶鉄道管理局1965
  64. ^ 函館市青函連絡船記念館摩周丸 青函連絡船運航ダイヤ実績表 昭和40年9月4日 国鉄青函船舶鉄道管理局1965
  65. ^ 1949年1月から( )内の符字へ変更:古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p260 成山堂書店1988