十和田丸 (2代)

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十和田丸(2代目)
JR hokkaidou towadamaru.jpg
基本情報
船種 車載客船
船籍 日本の旗 日本
東京(国鉄)
函館(JR北海道)
運用者 日本国有鉄道
北海道旅客鉄道(JR北海道)
建造所 浦賀重工業浦賀工場
姉妹船 津軽丸(2代)八甲田丸
松前丸(2代)大雪丸(2代)
摩周丸(2代)羊蹄丸(2代)
信号符字 JMUK
経歴
起工 1966年(昭和41年)2月15日
進水 1966年(昭和41年)6月23日
竣工 1966年(昭和41年)10月16日
就航 1966年(昭和41年)11月1日
終航 1988年(昭和63年)3月13日(定期運航)
1988年 (昭和63年) 9月18日 (暫定運航)
最後 1990年(平成2年)にクルーズ客船「ジャパニーズドリーム」へ改装
要目 (新造時)
総トン数 8,335.25トン(5,397.59 トン[1]
全長 132.00m
垂線間長 123.00m
型幅 17.90m
型深さ 7.20m
満載喫水 5.20m
主機関 単動4サイクルトランクピストン
排気ターボ過給機付ディーゼル機関
川崎 MAN V8V 22/30mAL
8台
最大出力 13,400軸馬力[2]
定格出力 1,600制動馬力×8
最大速力 21.56ノット [2][3]
航海速力 18.20ノット
旅客定員 1,200名
乗組員 53名
車両搭載数 ワム換算48両
その他 鉄道電報略号: トワマ
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十和田丸(2代目)(とわだまる、Towada Maru)は、津軽丸型第7船として1966年(昭和41年)10月に建造された車載客船で、同年11月から1988年(昭和63年)9月まで、日本国有鉄道(国鉄)および北海道旅客鉄道(JR北海道)の青函連絡船として運航された。同連絡船廃止後は日本旅客船に売却され、ジャパニーズドリームと改名し、1990年(平成2年)3月から1992年(平成4年)1月まで横浜神戸間のクルーズ客船として運航された。

十和田丸(2代目)建造の経緯[編集]

※津軽丸型の詳細は津軽丸(2代)参照

津軽丸型6隻の建造計画は、第1船津軽丸(2代)建造中の 1963年(昭和38年)8月13日の理事会での決定事項で、1965年(昭和40年)までに津軽丸型6隻を建造し、老朽船9隻を引退させるというものであった。当時はこれで1969年 (昭和44年)の想定貨物輸送量(片道)378万トン(上り実績418万トン)までは対応可能と見込んでいたが[4]高度経済成長継続による北海道内の消費水準向上や、農業・土木の近代化に伴う化学肥料や機械・車両の入り込みもあり、下り貨物の輸送量も1965年(昭和40年)には300万トンに達し(上りは328万トン)、積車数では下りが上りを上回る事態で、その伸びは著しく[5]、早くも1966年(昭和41年)以降の貨物輸送の逼迫が予想された。旅客輸送においても、折からの北海道観光ブームでその増加は著しく、津軽丸型6隻就航により、1965年(昭和40年)10月1日ダイヤ改正からは、旅客扱い便を6往復から10往復に増発し、うち9往復が3時間50分運航便となった。しかし、洞爺丸型全船引退により共通運用の相手を失った初代十和田丸は、旅客定員は多いが船足が遅く、貨車航送能力もワム18両と少ないため、旅客扱い便としても貨物便としても使いづらく、同ダイヤ改正以後は1日1往復のみの運航なった。この初代十和田丸1966年(昭和41年)秋でいったん係船し、それまでに津軽丸型をもう1隻追加建造することを、1965年(昭和40年)10月22日の常務会で決定し[6][7]、11月15日 その建造を浦賀重工へ発注、翌1966年(昭和41年)2月15日には起工され、10月16日竣工した。これが2代目十和田丸であった[8]

概要[編集]

船楼甲板と遊歩甲板の甲板室前面が直立し、操舵室後部の甲板室が延長し、救助艇が屋根付きになり(1981年に屋根なしに交換)、船楼甲板左舷前寄りに近接した小窓二つの事務長室があり、脱出用滑り台支持ひも受け等の違いが見られた。また2等乗船口が平行四辺形となっているが、本船のほか、松前丸と羊蹄丸でもそうであった。1975年7月20日撮影

本船は津軽丸型第7船で、船体構造や一般配置は基本的に津軽丸型前6隻に準拠していた。しかしこれら6隻では、多くの新しい機器類や制御システムがほとんどぶっつけ本番で、また船により異なった仕様で導入されたりもしていた。本船起工の時点で、津軽丸(2代)竣工から1年10ヵ月、第6船の羊蹄丸(2代)竣工からでも7ヵ月経過しており、これら6隻での使用実績やその後の技術進歩も反映して改良され、これら新機軸もようやく完成品の域に達した。これに伴い、操舵室や機関室、係船機械類の配置や仕様の変化、一部船員居住区の配置換えもあって、若干の外観の変化も見られた。

津軽丸型前6隻との差異[編集]

外観の変化[編集]

プロペラ制御盤 津軽丸・八甲田丸・松前丸の新造時のものに似ていたが、推進用可変ピッチプロペラ(CPP)翼角操縦レバーの長さが短くなり、そのカマボコ型前後行程も短縮され、翼角計は直線型から、大雪丸(2代) から採用された指令翼角指針を外周に、実際翼角指針を内側に置く丸型になり、両舷のCPP操縦レバーのカマボコ型行程の間の手前側に設置されたが、これらとは別にCPP指令翼角が直観的に分かるよう、翼角操縦レバーのカマボコ型行程上にも目盛板が貼られた[9]。またカマボコ型行程上には当該翼角操縦レバーが指令権を得た時に点灯するCPP操縦場所表示灯も設置された。この二つのCPP翼角計の間の丸型メーターの中心に立つ操縦グリップがバウスラスター(BT)操縦グリップで、このメーターがBT指令翼角計を兼ね、その向うの丸型メータがBT実際翼角計で、この間にBT操縦場所表示灯があったが、この写真では隠れて見えない[10]。その両側の2個の丸型メーターの中心に立つグリップは、CPP遠隔操縦システム故障時に、翼角を機側操縦する第3補機室への指令を出す「プロペラテレグラフ」で、前6隻ではCPP操縦レバーで兼用していたが、本船から別建てとなった。なお左舷CPP操縦レバーの左側には、通常時に総括制御室への指令を出す押しボタン式の「エンジンテレグラフ」があり、その左側には通常の離着岸時に船尾係船作業場へ指令を出す丸い「ドッキングテレグラフ」が設置されていた。また、右舷CPP操縦レバーの右側には、操舵機遠隔操縦システム故障時に、機側操舵する操舵機室へ指令を出す丸い「ステアリングテレグラフ」が設置されていた。CPP翼角操縦レバー手前の小スイッチ類は、左の一群が左舷CPP関連で、左から左舷CPP操縦方法選択スイッチ(非常用第1・常用第1過負荷防止装置なし・同あり・常用第2過負荷防止装置あり・同なし・非常用第2の6ポジションからどれか一つを選択)、左舷CPP翼角中立表示灯、左舷CPP翼角非常操縦用スイッチ(非常用第1または第2を選択した時に使うノンホローアップスイッチで、翼角はこのスイッチを倒した方向へ進み続け、中立に戻すと進みが止まる)であった。その右側、中央の一群がバウスラスター(BT)関連で、左からBT油圧ポンプおよび主電動機制御スイッチで、停止・ポンプ運転(BTの可変ピッチプロペラ変節用油圧ポンプ運転)・運転(電動機が回転しプロペラが回転)の3ポジションで、BT使用時はこれを順次運転開始して使用可能状態とした。その右手前がノンホローアップのBT非常操縦スイッチ、その前方にBT翼角中立表示灯があり、その右にBT操縦方法選択スイッチ(常用・非常用の2ポジションのいずれかを選択)で、右の一群が右舷CPP関連で、左舷側と左右対称に配置されていた。向う側斜面には左端にVHF無線電話、錨鎖長および主・補助ウインチ索長指示計、左舷主軸回転数計、バウスラスター電動機電流計、右舷主軸回転数計と並び、これらメーターの間に主機稼働台数表示器の小窓があり、この写真ではともに2の表示が読みとれる。さらに右に時計と航程指示器が設置されていた。1970年7月28日撮影

津軽丸型の外観は、各船で少しずつ異なっていた。本船では、甲板室前面の船楼甲板と遊歩甲板部分で、津軽丸型前6隻にあった壁面約7度の後傾がなくなって垂直になり、操舵室前面の7度前傾のみ残された。垂直となった壁面の角窓には2個または3個ずつまとめて雨樋が設けられた。

また車両甲板下の水密隔壁の中甲板レベルに設けられた8ヵ所の電動油圧式水密辷戸(すべりど)に油圧を供給する前後2ヵ所の動力室は、前6隻では船楼甲板右舷の前後に配置されていたが、右舷からの衝突に脆弱、ということで、より安全性の高い航海甲板の船体中心線上、無線通信室後方と後部消音器室内へ移された[11]。更に、遊歩甲板前部の高級船員居室区画で個室数を増やすため、この部分の中央にあった空気調整室を航海甲板の操舵室と電気機器室の間に移したこともあり、無線通信室の入る甲板室が後方へ約3m延長された。一方、後部消音器室は大きさは変わらなかったが、後部消音器室後面中央に水密辷戸動力室への入口が設置された。また遊歩甲板高級船員居室区画の部屋割変更で、前6隻では船長室と廊下をはさんで向かい側にあった事務長室が船楼甲板左舷前方の予備室の位置へ移り、この部屋の角窓が1個から2個になったため、左舷の外観上の相違点となった[12]

また、船楼甲板両舷に計4ヵ所設けられた脱出用滑り台設置場所では、前6隻では滑り台を支えるひもが舷側に垂れていたが、十和田丸ではこのひもを収納する樋が設置された。

塗色は新造時より、外舷下部を霧でもよく見えるオレンジ色(2.5YR6/13)[13]、外舷上部を象牙色(2.5Y9/2)とし後部煙突兼マストの下部を銀色、上部を暗い灰色(N-4)とし、これで終航まで通した[14][15]

一部できなかったバウスラスター関連の改良[編集]

船首を横方向へ押すバウスラスターは、津軽丸型前6隻ではバウスラスタートンネル内でプロペラ軸を両側から3本ずつのステーで支持する6-STAY型の三菱横浜KAMEWA SP800/6Sを装備していたが、本船建造時には、同性能ながら片側3本のステーだけで支持するSP800/3Sが登場しており、本船でもこれを採用した。このSP800/3S ではバウスラスターの入った筒の長さがSP800/6S の2.61mから1.75mへ短縮されたため、船体幅のより狭い船首寄り、本船では前6隻より2.8m船首寄りへの装備が可能となり、これによる回頭時の効率向上も期待されたが、結局従来通りの位置での装備となった[16]

またバウスラスター駆動電源となる主軸駆動発電機は、バウスラスターを使用する港内での操船時、とりわけ入港時の減速しながらの右回頭時には、右舷の可変ピッチプロペラに後進をかけるため、左舷主軸よりも右舷主軸への負荷の方が大きいことは本船起工以前に明確になっていたが[17]、前6隻同様負荷の大きい右舷主軸に設置された[18]

第二甲板の変化[編集]

車両甲板下の船員居住区である船首第二甲板の第1船室では、前6隻では船体中央部の通路を隔て、左舷に高級船員食堂、右舷に普通船員食堂が配置されていたが、本船では高級船員食堂が右舷の普通船員食堂の船首側へ移り、この配置換えで2人用個室1室の増設が行われた。船尾の「その他の乗船者室」でも配置替えが行われた[12]

第二甲板の水密隔壁を通り抜ける水密辷戸の大きさが8ヵ所全てで、通行容易な、高さ150cm幅75cmに拡大された[19]

可変ピッチプロペラ翼角遠隔操縦システムの改良[編集]

操舵室左舷端の補助操縦スタンド 頂部の2本がCPP翼角操縦レバー、後ろ側面がBT翼角操縦レバーで、指令翼角は各レバー直結の直線ゲージで表示され、実際翼角はスタンド頂部の丸型メーターで表示された。頂部向う側の左舷CPP実際翼角計の後ろ側にBT非常停止スイッチがあり、その後ろ側、BT実際翼角計左舷側に左舷CPP操縦場所表示灯が、またBT非常停止スイッチのこちら側にBT操縦場所表示灯があり、そのこちら側には目盛板照明調整スイッチと右舷CPP操縦場所表示灯が装備されていたが[10]、この二者はこの写真では隠れて見えない。1970年7月28日撮影

扱いやすくなった翼角操縦レバー[編集]

津軽丸型前6隻では、両舷の推進用可変ピッチプロペラ(Controllable Pitch Propeller CPP)とバウスラスターの可変ピッチプロペラ(Bow Thruster BT)の翼角を操舵室から遠隔操縦する翼角操縦レバーが、操舵室中央の操舵スタンドの左に連なるプロペラ制御盤上と、船長が離着岸操船時、操舵室左舷端に立って岸壁を目視しながら直接操作できる補助スタンドの2ヵ所に設置され、そのいずれからでも操作できるよう、プロペラ制御盤上の主レバーと補助スタンドの補助レバーは機械的に連結され、どちらか一方を操作すると他方も同じように動き、その結果、主レバーに接続されたシンクロ制御変圧器が操作されて翼角指令の電気信号が出される仕組みであった[20][21][22]。しかしこの機械的連結が原因で、レバー操作が非常に重くなり[23][24]、第4船の大雪丸(2代)からはプロペラ制御盤上の推進用可変ピッチプロペラ翼角操縦レバーに微動調整用グリップを付加するなどの改良が加えられたが、操作の重さに変わりはなかった[25]

このため本船では主・補助両レバー間の機械的連結をやめ、両レバーにそれぞれ個別にシンクロ制御変圧器を接続し[26]、軽く動かせる操縦レバーを実現した。またレバー先端に拇指をかけ、グリップ部分を引き上げるとロックが解除されるが、この操作をした方のレバーの指令が優先されるシステムとしたため、特に切換スイッチを設置することなく使用でき、このグリップ部分を回すことで微動調整も可能で[27][28]、扱いやすいものとなった[24]。なおプロペラ制御盤上のバウスラスター主レバーに限り、手のひらで押すとロックが解除されるレバー付きのグリップハンドルに変更された[29]。また、前6隻では補助スタンドに推進用可変ピッチプロペラ、バウスラスターとも実際翼角計が装備されていなかったが、本船では装備された。

推進用可変ピッチプロペラ遠隔操縦システムの完全二重化[編集]

津軽丸型前6隻の推進用可変ピッチプロペラ遠隔操縦システムは、全電気式シンクロサーボ方式で、操舵室の翼角操縦レバーに接続されたシンクロ制御変圧器からの電気信号は、最終的に可変ピッチプロペラ翼角管制装置のある第3補機室に設置された交流サーボモーターを駆動し、この回転をボールスクリューで往復運動に変換し、これで可変ピッチプロペラ翼角管制装置の制御レバーを機械的に動かして可変ピッチプロペラ系の油圧回路を制御していた。このモーターは片舷に1台しかなく、これが故障すると常用の2系統だけでなく、非常用の2系統も含め、4系統全てが使えなくなる構造であった[30]。このため本船では電気制御油圧駆動方式に変更され、操舵室の翼角操縦レバーに接続されたシンクロ制御変圧器からの電気信号は、常用の2系統の各系統ごとに1台ずつ設置されたサーボバルブで油圧に変換され、この油圧が各系統1台ずつの油圧シリンダーを動かして可変ピッチプロペラ翼角管制装置の制御レバーを動かす方式に変更された。油圧シリンダーは片舷2系統各1台ずつ計2台で、ともに可変ピッチプロペラ翼角管制装置の制御レバーに常時直結であったが、2系統のいずれかを選択するため、稼働するのはどちらか1台で、他方は無負荷で引きずられる形であった[31]。これにより推進用可変ピッチプロペラ遠隔操縦システムは完全二重装備となり、以後建造される渡島丸型に継承された。

主機械等の弾性支持[編集]

操舵室 手前から、第2レーダー、船位自動測定装置(SPレーダー)、通信制御盤、操舵スタンド、プロペラ制御盤で、前方で航海士が覗いているのが第1レーダー、向うの固定型望遠鏡の前の窓下まで腰板面が室内側へ張り出しているが、これが窓下の放熱器の左端である、ジャイロパイロットによる自動操舵中のため、舵を取っている人はいない。また、プロペラ制御盤のCPP主操縦レバーと左舷端の補助スタンドのCPP補助操縦レバーは機械的連結がないため、主操縦レバーは前進指令で前傾しているが、補助操縦レバーは中立位置である。1970年7月28日撮影

騒音振動の軽減のため、主機械、主発電機、係船機械の油圧を造る動力機械の下にゴム製防振パットを敷き弾性支持とした。主機械を弾性支持することにより、船体に固定された減速機との間に変動する変位が生じ、主機械出力軸と減速機入力軸の間に軸心変位が発生するため、その間に高弾性ゴム継手を挿入してこれに対応した[32]。前6隻もディーゼル船としては静かであったが、本船は一層静かな船となった[33]

操舵室の変更[編集]

津軽丸型前6隻では操舵室左舷寄りの前面窓下に揚錨機の遠隔操縦スタンドが設置されていたが、錨鎖をロックしている制鎖器の着脱操作が現場でしかできなかったこともあり、他の係船ウインチ同様、船首の一段高くなった船首指揮台の操縦スタンドから操縦できれば十分ということで廃止された。

また、本船起工前年の1965年(昭和40年)10月1日ダイヤ改正から、津軽丸型で運航される便の大部分が3時間50分運航にスピードアップされ、また堪航性の向上で従来より荒天でも運航できるようになったこともあり、この冬の船体着氷、特に操舵室窓への着氷が問題となった[34]。前6隻では操舵室内の暖房のため前面窓下の2ヵ所に蒸気放熱器が設置されていたが、この直上の窓への着氷は少なく、内面の結露も少なかったため、本船ではこの放熱器を操舵室両翼部分の窓二つずつ分を除く前面窓下に広げるとともに、操舵室前面窓下外側の手摺部分に温水管を設置し、各窓の下方からノズルで温水をガラス面に斜めに噴射して着氷を融かず装置を装備した。この温水ノズル方式は極めて有効で[35]、その後直ちに他船にも装備されたが、放熱器増設は後年行われた。

係船機械の適正化[編集]

船楼甲板左舷中央部の普通(2等)出入口広間 同広間左舷前方の遊歩甲板へ上がる階段から後方を見た写真。通常時の乗下船は写真右側の乗船口から行われた。左側のシャッターの閉じているのが売店、食堂入口につながる廊下を隔て、各船共通デザインの北海道・東北地図のレリーフがあり、その後ろの扉の開いた入口を入ると、車両甲板プラットホームへ降りる階段のある“隠し部屋”で、航路外周遊での乗下船にはここが使われた。留萌港停泊中1983年8月16日撮影

津軽丸型前6隻では、船尾左舷ウインチは2ドラム型で、そのうち船尾を可動橋に引き寄せる左舷アフターラインとそのブレーキとなる船尾スプリングラインが同時作業となるため、両ドラムを同時に油圧モーターで動かせない、という問題が浮上した。このため、本船では、左舷ウインチを左舷アフターライン専用の1ドラム型にし、船尾スプリングライン作業と作業時間の重ならない右舷アフターライン作業を船尾右舷ウインチにまとめ、これを2ドラム型とし、船尾スプリングラインを船尾船楼甲板上を左舷からローラーを介して右舷ウインチまで導き巻き込む形とした。これにより、船尾スプリングラインは従来の摩擦ブレーキから、きめ細かな運転のできる油圧回生ブレーキをかけながらの、左舷アフターライン巻き込み作業が可能となり、この形が以後の標準となった[36]

停泊中も係船索を一定の張力で引っ張り続ける“自動係船運転”と称するオートテンション機能は、前6隻のうち津軽丸(2代)を除く5隻で、船首ブレストラインを巻き込む補助ウインチ(右舷)と船首スプリングラインを巻き込むスプリングウインチ、左舷アフターラインを巻き込む船尾左舷ウインチの左舷アフターライン用ドラム、右舷アフターラインを巻き込む船尾右舷ウインチの4台が“自動係船運転”可能であったが、1955年(昭和30年)建造の檜山丸(初代)以降の青函連絡船では、船体幅を拡大したため、岸壁係留位置では、船体中心線が可動橋中心線に対し14.8‰の角度で岸壁とは反対方向に振れており、左舷側で岸壁に接舷しているのは全長132mのうち、船尾側から約40%の52m付近までで、それより船首側は岸壁と隙間をあけて係留していた。このため、船首部をブレストラインで岸壁に引き寄せ過ぎると、船尾の可動橋との接続部分に無理がかかることが判明し、本船からはブレストラインを巻き込む補助ウインチの“自動係船運転”は省略され、船首スプリングウインチ、船尾左舷ウインチ、船尾右舷ウインチの右舷アフターライン用ドラムの3台となった[37]

車両甲板への階段 船楼甲板の出入口広間に面した“隠し部屋”から、前方に向かって車両甲板の前部機関室囲壁後方の短いプラットホームへ降りる階段があり、航路外寄港の乗下船時には、更にプラットホームから車両甲板への補助階段も仮設された。留萌港停泊中1983年8月16日撮影

実現しなかった寝台車航送-周遊船で活用された準備工事[編集]

本船を含む摩周丸(2代)以降建造の3隻では、洞爺丸事件以前の一時期行われていた寝台車航送の復活を目指し、その準備工事として、車両甲板の船2番線と船3番線の間の前部機関室囲壁の船尾側に短いプラットホームと、そこから船楼甲板の2等出入口広間につながる旅客用階段を設置していたが、旅客を寝かせたまま寝台車航送をしたいという 国鉄に対し、運輸省は安全上旅客は船室へ移動させるべき、としてその許可を与えず、結局寝台車航送は実現できなかった[38]。しかし、この階段を使用することで、喫水線上約2mと低く、岸壁との間に容易にタラップを架けることのできる車両甲板中央部の舷門からの旅客の乗下船が可能となり、専用設備のない港でも旅客扱いができたため、これら3隻は、青函航路外への周遊船や、鉄道不通時の代行旅客輸送船としても使用され、特に本船は後述のフィンスタビライザーを装備したこともあり、はるか千島列島ウルップ水道越えの北海道一周航海や東京へ周遊航海を行っている。

フィンスタビライザーの装備[編集]

フィンスタビライザー装備に伴い、プロペラ制御盤の左側に隣接してフィンスタビライザー制御盤が増設された。留萌港停泊中1983年8月16日撮影

本船は1981年(昭和56年)6月、横揺れを80%減少できるフィンスタビライザー青函連絡船として初めて装備した[39][40][41]。もともと船底両舷の湾曲部に、船の長さの半分程度にわたり鋼鉄製の揺れ止めのヒレであるビルジキールが装着されていたが、これの中ほどの一部を撤去し、飛行機の主翼状で補助翼も付いた翼長3.66m翼幅1.83mのフィンが下反角を付けて左右に船体から突出させる形で取り付けられた。第1補機室中段に設置されたメインコントロールユニットのジャイロセンサーと線形加速度計が横揺れを素早く検知し、フィンの迎角を横揺れを抑える方向に揚力が発生するよう電動油圧で制御した[42]。本体設置場所は総括制御室直下を含む第1主機室船首側両舷で、舷側タンクの第4ボイドスペースとその船首側に隣接する第1ヒーリングタンクの船尾側約1/3を一体化してスタビライザー室とし、残った第1ヒーリングタンクとその船首側に隣接する第3ボイドスペースを連結してヒーリングタンク容量を維持した。このスタビライザー室には油圧装置を含む機械本体を設置したが、一部収まりきらないため、総括制御室直下部分のみ縦水密隔壁を若干内側へ移動させた。なお、スタビイザー室と第1主機室の間は水密隔壁で隔離されているため、この部分の船体二重構造は維持されていた[43][12]

操舵室ではプロペラ制御盤左側に隣接して、発停用スイッチやフィン迎角とその揚力の表示装置のあるフィンスタビライザー制御盤が設置された。スタビライザーの消費電力は90kWで、これを使用するのは沖合の高速航行時のため、電源には主軸駆動発電機が用いられた[44]。なお、スタビライザーを使用していない時は、フィンは仰角ゼロで後方へ90度回転して船体に埋め込まれたフィン格納用スリットへ格納され、船体抵抗増加と着岸時の障害を回避できる構造であった。

青函連絡船終航と暫定復活運航[編集]

1988年(昭和63年)3月13日の青函連絡船終航に伴い、函館第1岸壁15時00分発、青森第2岸壁18時55分着の上り20便として運航され、本来の青函連絡船としては終航した[45]

同年6月3日から9月18日までの108日間、青函博覧会世界食の祭典に協賛し、羊蹄丸(2代)と共に1日2往復の暫定復活運航が行われた。本船は青森を基点に、青森第2岸壁9時30分発、函館第1岸壁13時20分着の1便、函館14時15分発、青森第2岸壁18時05分着の4便の1日1往復の運航で、旅客定員は1,140名、車両航送や自動車航送は行われなかった。7月9日から9月18日までの72日間、停泊中の19時30分から翌朝8時まで海上ホテルとしても営業し、宿泊料金は一般用2,500円、寝台室は部屋単位の発売で4人用個室16,000円であった[46][47]。暫定運航終了翌日の9月19日、青森 12時00分発、函館16時00分着の5011便として回航され、これが津軽海峡を自力で渡る最後の青函連絡船となった(航路自体も同日付で廃止)。青函博覧会青森会場で公開されていた八甲田丸と幾度も汽笛の交換をしながら津軽海峡へ出て行った。

ジャパニーズドリーム[編集]

ジャパニーズドリーム
MS JAPANESE DREAM.jpg
基本情報
船種 クルーズ客船
船籍 日本の旗 日本
神戸
所有者 日本旅客船株式会社
信号符字 JMUK
経歴
起工 1989年(平成1年)1月17日 [48]
竣工 1990年(平成2年)2月28日 [48]
就航 1990年 (平成2年)3月24日 [48]
終航 1992年 (平成4年)1月6日
最後 2008年 (平成20年)解体
その後 1995年(平成7年)フィリピンへ売却[49]
要目
総トン数 9,318トン[50]
全長 132.00m[50]
垂線間長 123.00m
型幅 17.90m[50]
型深さ 7.20m[50]
喫水 5.498m[50]
主機関 単動4サイクルトランクピストン
排気ターボ過給機付ディーゼル機関
川崎MAN V8V 22/30mAL
8台
出力 12,800馬力[50]
速力 18.75ノット
(19.14ノット) [51]
旅客定員 548名[51]
乗組員 114名(運航24名 サービス90名)[51]
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暫定復活運航中の1988年(昭和63年)7月、日本旅客船株式会社が約1億8500万円で購入し[52]三菱重工横浜製作所で作成された基本設計に基づき、佐世保重工業クルーズ客船への改造工事が行われ、ジャパニーズドリームと改名されたが、従来からの信号符字「JMUK」はそのまま引き継がれた。なお、船体の所有は日本旅客船であったが、運航の実務はマリンエンジニアリング社に委託されていた。

この改造での変貌は著しく、操舵室から前部消音器室の前までの航海甲板には、全幅にわたる2層の甲板室が造設され、上層のコンパス甲板はラウンジデッキと称し、2等ツイン個室29室のほか、前部には操舵室の屋根越に前方展望可能な展望ラウンジが設置された。下層の航海甲板はトップデッキと称し、2等ツイン個室31室が配置された[51][53]

その下、遊歩甲板はファーストデッキと称し、舷側まで甲板室を拡張し、船首寄りの特別室14室とその他2〜8人室を38室を設け、後部の露天部は両舷に風防を設け、木甲板としオープンカフェやヨーロピアンガーデンとした。船楼甲板はグランドデッキと称し、出入口広間やフロントのほか、特別室2室と個室63室を設け、船尾露天部にはサウナ付きプールも設置された。車両甲板はアベニューデッキと称し、船首側から250名収容のメインダイニング、グルメ街、ブチック、バー、ディスコ等が設置された[51]

これら旅客施設の拡張による電力需要増大に対応するため主発電機を従来の700kVA 3台から5台に、非常用発電機も70kVAから150 kVAに増強された[51]

日本ではジャパニーズドリームが運航開始する前年4月におせあにっくぐれいす(現クリッパーオデッセイ)という小型のクルーズ客船が就航し、豪華客船の旅が緒につこうとしてるかに見えた。横浜と神戸という日本有数の港を結ぶ定期航路というのも魅力的ではあったが、当時は新幹線で3時間あまりで行ける所に20時間もかけて豪華にのんびりと船旅を楽しもうとする旅客はまだ多くはなかった。

本船は定期運航の合間を縫ってチャータークルーズや日本一周クルーズ、また、かつての母港である函館港への里帰りクルーズも行った。

しかし、9,000総トン程度の船舶に548名の定員は多すぎて豪華客船というには中途半端であったこと、連絡船当時の車両甲板を改造してステージレストランを作ったが、改造に際して豪華さを出すために大理石を多く使用したことなどで重量が増大し、燃費が多くかかったことが赤字増大の原因となったことなど、様々な要因が重なりわずか2年足らずで運航終了となった。

船内[編集]

客室(カッコ内は定員)
  • 特一等室「ロイヤルルーム」(2名)
  • 一等室「ファーストルーム」(2名)
  • 特二等室
    • スイートルーム(3名)
    • ファミリールーム(4名)
  • 二等室
    • キャビンA(2名)
    • キャビンB(5名)
    • キャビンC(8名)
設備
  • レストラン
    • メインダイニング
    • 寿司処「はせ川」
    • うどん「稲庭亭」
  • メンバーズバー「ストラスアイラ」
  • ブティック「シルキィコットン」
  • ショップ「マッチボックス」「JDプラザ」
  • カジノルーム「ハッピィポケット」
  • ディスコ「ビッグスマイル」
  • パーティースペース「ザ・パレス」
  • マルチルーム「ルーカス」
  • アクアルーム(ジャグジー・サウナ)
  • フォトサロン「JD」
  • ベビーシッタールーム
  • ゲームコーナー「エンジェルスポット」
  • オープンカフェ
  • ロイヤルラウンジ
  • メディカルセンター
  • イベント広場
  • ベビーシッタールーム

その後[編集]

運航終了後、しばらく佐世保港に係留されていたが、1995年(平成7年)5月アメリカのリゾート開発会社に購入され、フィリピンに向けて自力航行で旅立っていった。フィリピンに到着後は船名も「フィリピンドリーム(Fhilippine Dream)」と改名され、セブ島に付属するマクタン島に係留の上、カジノ・ホテルシップとして数年間使用されていた[54][55]

その後は税金の滞納等で当局に差し押さえられ営業も休止し、マクタン島沖合で放置状態となっていたようだが、2008年8月頃に、バングラデシュチッタゴンにある船舶解体場へ移送され、解体された。

沿革[編集]

  • 1966年(昭和41年)2月15日 - 起工
  • 1970年(昭和45年)2月25日 - 船舶積量測度法改正規則(1967.8.1.)による改測登録で5,397.59 トンに減トン[56]
  • 1973年(昭和48年)12月28日 - 旅客定員 通年1,330名[57]
  • 1975年(昭和50年)8月27日 - 台風6号による8月24日からの函館本線桂川 - 野田生間不通のため、函館 - 室蘭間に摩周丸(2代)と十和田丸(2代)の2隻により8月31日までの5日間、旅客代行輸送を毎日2往復運航[58][59]
  • 1977年(昭和52年)
    • 3月7日 - 青函航路開設70年目を記念し各船の「シンボルマーク」を発表。十和田丸(2代)は「湖面輝く十和田湖」[60]
    • 7月-遊歩甲板室後壁に鋼板製シンボルマーク取り付け[60]
  • 1978年(昭和53年)
    • 1月 - 船楼甲板室両舷に鋼板製シンボルマーク取り付け[60]
    • 2月9日 - 喫茶室「サロン海峡」開設、旅客定員1,286名[61]
  • 1981年(昭和56年)6月 - 函館ドックにてフィンスタビライザーを装備
  • 1986年(昭和61年)8月11日 - 17日 - 「北海道一周の旅」函館出港後、苫小牧、釧路に寄港し、ウルップ島シンシル島の間のウルップ水道を通過した後、紋別、稚内、小樽に寄港して函館に戻った[62]
  • 1987年(昭和62年)
    • 4月1日 - 国鉄分割民営化に伴い、JR北海道に継承。船籍港も東京から函館に変更。
    • 7月27日 - 8月2日 - 「北海道一周の旅」コースは前年と同じ[63]
    • 9月 - 北海道物産フェアに協賛し、函館〜東京の周遊便を運航、東京港の晴海埠頭で展示された[64]
  • 1988年(昭和63年)
  • 1990年(平成2年)3月24日 - ジャパニーズドリームとして再出発。当初の予定としては運航は週に2往復、所要時間は片道19時間とするはずであった。
  • 1992年(平成4年)1月6日 - ジャパニーズドリーム終航

その他[編集]

  • ジャパニーズドリーム号として運航を開始した頃にはテレビでCMが放映されていたが、そのCMには田村正和が出演していた。田村独特の口調の「その船の名は」というセリフを覚えている人もいることだろう。
  • テレビ朝日系で放送されたテレビドラマ「土曜ワイド劇場」の「高橋英樹の船長シリーズ」中、第1話で青函連絡船十和田丸、第4話でジャパニーズドリーム号として登場した。
  • 荒巻義雄架空戦記十和田要塞1991」では、津軽海峡に浮かぶ「一号海峡要塞」として登場した。

注釈[編集]

  1. ^ 船舶積量測度法改正規則(1967.8.1.)による改測登録(1970.2.25.)後の総トン数:古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p162 成山堂書店1988
  2. ^ a b 航跡p329 国鉄青函船舶鉄道管理局1978
  3. ^ 青函連絡船栄光の航跡p371青函連絡船要目表 国鉄青函船舶鉄道管理局1978
  4. ^ 青函連絡船史p75 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  5. ^ 青函連絡船史p241〜243 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  6. ^ 青函連絡船史p207〜209 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  7. ^ 青函連絡船史p78 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  8. ^ 古川達郎 続連絡船ドックp12 船舶技術協会1971
  9. ^ 泉益生 連絡船のメモ(上巻)p164 船舶技術協会1972
  10. ^ a b 泉益生 連絡船のメモ(上巻)p151 船舶技術協会1972
  11. ^ 泉益生 連絡船のメモ(中巻)p231 船舶技術協会1975
  12. ^ a b c 大野達也 青函連絡船乗組員たちの証言 巻末十和田丸一般配置図1981 イカロス出版株式会社2017
  13. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p230 成山堂書店1988
  14. ^ 古川達郎 続連絡船ドックp296 船舶技術協会1971
  15. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p235 成山堂書店1988
  16. ^ 泉益生 連絡船のメモ(上巻)p39、40 船舶技術協会1972
  17. ^ 大神隆 青函連絡船物語p49 交通新聞社2014
  18. ^ 泉益生 連絡船のメモ(上巻)p52 船舶技術協会1972
  19. ^ 第1船室と第2船室間の第1水密辷戸は前6隻でも高さ150cm幅75cm、発電機室と総括制御室(第1主機室水密区画)間の第3水密辷戸は八甲田丸以降の5隻で高さ150cm幅75cm、第1主機室と第2主機室間の第4水密辷戸は津軽丸(2代)松前丸(2代)以降の計5隻で高さ150cm幅75cmであったが、それ以外は全て高さ90cm幅60cmの狭いものであった:泉益生 連絡船のメモ(中巻)p211 船舶技術協会1975
  20. ^ 泉益生 連絡船のメモ(上巻)p56 p70 p118、119 船舶技術協会1972
  21. ^ CPPではシステムの冗長性確保のため翼角操縦レバーを用いる常用系統は2系統あり、そのため主レバー1本に2台のシンクロ制御変圧器が接続されていたが、プロペラ制御盤上の操縦方法選択スイッチで、常用第1・第2のいずれか一方を選択するため、同時に2台稼働することはなかった。なお過負荷防止装置が付加された八甲田丸以降の5隻では、過負荷防止装置の回路は1系統だけであったが、この回路は常用第1・第2のいずれの回路にも挿入できたため、操縦方法選択スイッチでは非常用も含め6通りの選択ができた。BTは常用1系統のためシンクロ制御変圧器も1台であった:泉益生 連絡船のメモ(上巻)p76 p153 船舶技術協会1972
  22. ^ CPPの非常用は2系統、BTの非常用は1系統で、いずれもノンホローアップのため、翼角操縦レバーやシンクロ制御変圧器を介さない回路が使われた:泉益生 連絡船のメモ(上巻)p57 p121 船舶技術協会1972
  23. ^ 泉益生 連絡船のメモ(上巻)p73 船舶技術協会1972
  24. ^ a b 泉益生 連絡船のメモ(上巻)p156 船舶技術協会1972
  25. ^ 泉益生 連絡船のメモ(上巻)p158、159 船舶技術協会1972
  26. ^ CPPでは主・補助レバーともレバー1本につき常用第1と常用第2の2台のシンクロ制御変圧器が接続されていたが、プロペラ制御盤上の操縦方法選択スイッチで、常用第1・第2のいずれかを選択するため、主・補助とも選択された同じナンバーのシンクロ制御変圧器のみ稼働した。過負荷防止装置の回路は前5隻同様1系統だけであったが、常用第1・第2のいずれの回路にも挿入できたため、操縦方法選択スイッチでは非常用も含め6通りの選択ができた。BTは常用1系統のため、主・補助レバーともシンクロ制御変圧器は1台ずつであった:泉益生 連絡船のメモ(上巻)p70 p122 船舶技術協会1972
  27. ^ 泉益生 連絡船のメモ(上巻)p142、143 船舶技術協会1972
  28. ^ ロック解除により指令権を得たレバーの「操縦場所表示灯」が点灯:泉益生 連絡船のメモ(上巻)p156 船舶技術協会1972
  29. ^ 泉益生 連絡船のメモ(上巻)p70 p72 船舶技術協会1972
  30. ^ このほかに第1・第2系統でヒューズ共用個所もあった:泉益生 連絡船のメモ(上巻)p121 船舶技術協会1972
  31. ^ モーターの回転運動をボールスクリューで往復運動に変換していた従来の方式では、無負荷引きずられは困難であった:泉益生 連絡船のメモ(上巻)p121、122 船舶技術協会1972
  32. ^ 古川達郎 続連絡船のドックp114、115 船舶技術協会1971
  33. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p165 成山堂書店1988
  34. ^ 古川達郎 続連絡船のドックp264、265 船舶技術協会1971
  35. ^ 古川達郎 続連絡船のドックp266〜268 船舶技術協会1971
  36. ^ 泉益生 連絡船のメモ(下巻)p80 船舶技術協会1977
  37. ^ 泉益生 連絡船のメモ(下巻)p151 船舶技術協会1977
  38. ^ 古川達郎 鉄道連絡船細見p148、149 JTBパブリッシング2008
  39. ^ 船務部船体課補佐 大野馨 十和田丸スタビライザーについて 海技No.2 p16〜20 青函船舶鉄道管理局1981
  40. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p211 成山堂書店1988
  41. ^ スペリー・3R型:大神隆 青函連絡船物語p54、55 交通新聞社2014
  42. ^ 船務部船体課補佐 大野馨 十和田丸スタビライザーについて 海技No.2 p17、18 青函船舶鉄道管理局1981
  43. ^ 船務部船体課補佐 大野馨 十和田丸スタビライザーについて 海技No.2 p19 青函船舶鉄道管理局1981
  44. ^ 通常高速航行時は主発電機1台運転のため、スタビライザー消費電力90kWが加わると、船内総電力需要は500kW以上となり、主発電機1台の出力700kVA(力率80%で560kW)に迫り、電力安定供給のため2台運転の必要性が出てくる。一方主軸駆動発電機出力は900kVAで高速航行時は通常は無負荷、主発電機故障による主要推進補機へのバックアップ給電時でも150kWで十分余裕がある。625kWのバウスラスターは出入港時使用のためスタビライザーの使用と重なることはない:船務部船体課補佐 大野馨 十和田丸スタビライザーについて 海技No.2 p19 青函船舶鉄道管理局1981
  45. ^ その後青森19時50分発、函館第1岸壁23時45分着5001便で回航:古川達郎 鉄道連絡船のその後p5 成山堂書店2002
  46. ^ 青函連絡船栄光の航跡p284 北海道旅客鉄道株式会社1988
  47. ^ 道内時刻表29巻8号p17 弘済出版社1988
  48. ^ a b c 豪華客船“ジャパニーズドリーム”就航 船の科学43巻6号p71 1990
  49. ^ 古川達郎 鉄道連絡船のその後p28 成山堂書店2002
  50. ^ a b c d e f 日本旅客船 (PDF). ジャパニーズ・ドリーム (ロマンチッククルーズ) (<特集>グルメ船) (Report). 日本船舶海洋工学会. http://ci.nii.ac.jp/els/110003875355.pdf?id=ART0005200132&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1484057042&cp= 2017年1月10日閲覧。. 
  51. ^ a b c d e f 豪華客船“ジャパニーズドリーム”就航 船の科学43巻5号p35 1990
  52. ^ 鉄道ジャーナルNo.266
  53. ^ 古川達郎 鉄道連絡船のその後p27 成山堂書店2002
  54. ^ 「ニュース・フラッシュ フィリピンでホテルシップになった元「ジャパニーズドリーム」」 『世界の艦船』第537集(1998年4月号) 海人社 p118
  55. ^ 古川達郎 鉄道連絡船のその後p28、29 成山堂書店2002
  56. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p162 成山堂書店1988
  57. ^ 航跡p345 国鉄青函船舶鉄道管理局1978
  58. ^ 8月のメモ帳 鉄道ピクトリアル25巻11号p90 1975
  59. ^ 青函連絡船栄光の航跡p177,178 北海道旅客鉄道株式会社1988
  60. ^ a b c 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p250 成山堂書店1988
  61. ^ 航跡p347 国鉄青函船舶鉄道管理局1978
  62. ^ 青函連絡船栄光の航跡p175,176 北海道旅客鉄道株式会社1988
  63. ^ トピックフォト 鉄道ピクトリアル37巻11号p89 1987
  64. ^ 大神隆 青函連絡船物語p123 交通新聞社2014

関連項目[編集]