ザ・テンプターズ

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ザ・テンプターズ
出身地 日本の旗 日本
ジャンル ロック
ポップス
ブルース・ロック
職業 グループ・サウンズ
活動期間 1966年 - 1970年
レーベル フィリップス・レコード
事務所 スパイダクション(現:田辺エージェンシー
メンバー
萩原健一:ボーカル、ハーモニカ
ローリング・ストーンズ
アニマルズ
キンクス

ザ・テンプターズ(The Tempters)は、日本グループ・サウンズ

1967年10月にフィリップス・レコードよりシングル「忘れ得ぬ君」でレコードデビューした後「神様お願い!」「エメラルドの伝説」「おかあさん」「純愛」以上4曲のTOP10ヒットを生み、ザ・タイガースとともにグループ・サウンズの最盛期を支えたバンドの一つ。1970年に解散。

メンバー[編集]

来歴[編集]

1966年に埼玉県大宮市(現:さいたま市)で結成された同名のアマチュア・バンドが前身。グループ名の由来は、バンドテーマ曲に用いていた、映画『太陽の誘惑』のサウンド・トラックに因んで付けられた。リーダーは最初期を田中俊夫、その後音楽上の主導権から松崎由治に交代した。

1965年、当時のバンドは女性がボーカルを務めていた。ある日、東京朝鮮中高級学校の番長が仕切るパーティーに呼ばれ、演奏する予定だったが、当日、その女性が体調を崩した為出演することが出来ず、バンドだけで出演し、歌抜きの演奏をしていた所、会場からブーイングが起こった為、番長がその時パーティーを任されていた最年少の中学生の少年を指名し、ボーカルの代わりをするよう頼んだ。

その中学生の少年が後のショーケンこと萩原健一だった。

今までにきちんとした歌の練習などをした経験がなく、また大勢の人を前にして歌ったことがなかった萩原は、突然のことだった為とまどったが、番長からの指名を断るわけにはいかず、とりあえず引き受け、ビートルズの「マネー」とアニマルズの「悲しき願い」を歌った。会場には萩原の友人が多く、最年少だった萩原がいきなりステージに上がって歌ったものだから、それだけでウケまくり、拍手と歓声をあびた。

演奏を終えた後、ギターリストの松崎由治が萩原を誘い、萩原は前出の女性に代わりそのままボーカルとしてメンバーに加わることになった。その後、弟バンドである「ジュニア・テンプターズ」からドラムスの大口が参加し、1967年春頃にデビューメンバーが揃う。萩原によれば、バンドはもともとは「クライング・ベガーズ」というブルース・ロック・バンドだったが、いつごろテンプターズに改名したかは、不明である。

恵比寿の中川三郎ディスコティークや渋谷のリキ・スポーツパレスに出演していた1967年5月にザ・スパイダース田邊昭知ホリプロ内の片隅を間借りする形で設立したスパイダクション(Spi Duction、現:田辺エージェンシー)にスカウトされ、「ザ・スパイダースの弟分バンド」として売り出しが図られる。6月にヤング720でテレビ初出演、8月には第33回日劇ウエスタンカーニバルに初出場し新人賞を獲得、10月に松崎が作詞・作曲したシングル「忘れ得ぬ君」でレコードデビューする。萩原健一の著書によれば、萩原は67年にモンタレー[1]、69年にはウッドストック[2][3]の2つのフェスティバルを見ていた。これは日本人としてはきわめて珍しい音楽体験の持主であることを実証している。また萩原の証言によると、彼の母は庄屋の娘で、被差別の人々を助ける運動をしていたとのことである[4]

1968年3月5日に発売された2枚目のシングル「神様お願い!」も松崎が作詞・作曲し、オリコンで2位を獲得した。これによって、ザ・タイガースに次ぐ人気グループ・サウンズ(GS)へと登り詰めた。続く6月に発売された「エメラルドの伝説」はオリコン1位を獲得したこと(ザ・テンプターズとしても最大のヒット曲)でその人気は頂点に達し、同月には「ザ・テンプターズ・ファースト・アルバム」も発表された。

1968年9月発売の「おかあさん」はオリコン4位、1968年12月発売の「純愛」もオリコン8位と次々にヒット。翌1969年2月25日には、全曲オリジナル曲で固められたセカンドアルバム「5-1=0 ザ・テンプターズの世界」が発売、3月には初の主演映画「涙のあとに微笑みを」も公開された。

だが、グループ・サウンズブームの衰退とともにセールスが低下(1969年3月発売「雨よふらないで」はオリコン21位、1969年7月発売の「帰らなかったケーン」はオリコン31位)、ザ・タイガースを除いた他多くのGSと同様に、ザ・テンプターズの人気も下降線をたどり始めた。

1969年7月には、同年4月20日に東京厚生年金会館大ホールで行われたコンサートを収録したアルバム「ザ・テンプターズ・オン・ステージ」、12月には日本人アーティスト初のメンフィス録音となった「ザ・テンプターズ・イン・メンフィス」が発表されたがこれは萩原のみ渡米しメンバーは録音にほとんど参加していない、実質的には萩原のソロ・アルバムだった。

GSブーム終焉でニュー・ロックフォーク・ブームの時代に入った翌1970年、レコードセールスはおろか人気も危うく、日本全国のジャズ喫茶ゴーゴークラブ回りが活動の中心となり、GSブームのころと比べ格段にギャラの低い扱いとなってしまう。同年12月27日に東京大手町サンケイホール内にある小ホールでの公演にて解散した(1971年1月に行われた第43回日劇ウエスタンカーニバルはザ・テンプターズとしての出演が予定されていたが、実際に出演したのは萩原だけだった。この時萩原はザ・スパイダースをバックに歌っている)。

解散後[編集]

萩原健一と大口広司は、1971年1月にザ・スパイダースの井上堯之大野克夫、ザ・タイガースの岸部一徳(当時は岸部修三)、沢田研二とロックバンド「PYG」を結成。PYG解散後、萩原は「太陽に吠えろ」「傷だらけの天使」「約束」「もどり川」などに出演。「もどり川」では原田美枝子、樋口可南子らと共演した。大口広司は真行寺君枝と結婚。だが、大口は2009年1月に肝臓癌で亡くなった。

松崎由治は、高久昇と共に東京キッドブラザースの専属バンド「高久昇とエクソダス」や音楽担当として「南総里見八犬伝」や「THE STORY OF EIGHT DOGS」などの楽曲制作に携わった後、1972年に引退し地元の大宮で飲食店経営を手掛けた。

高久昇は、松崎由治と共に東京キッドブラザースの専属バンド「高久昇とエクソダス」を経て、インテリアデザイナーに転身した。長らく音楽業界から身を引いていたが、2011年よりベーシストとしての活動を再開し、首都圏のライブハウスにて不定期にライブを行っている。

田中俊夫も飲食店経営を手掛けるが、1997年白血病で亡くなっている。大宮市で執り行われた田中俊夫の葬儀には、萩原、高久昇、大口広司の3人が揃って参列した。

1981年1月の「さよなら日劇ウエスタン・カーニバル」の際、ザ・スパイダースやザ・タイガースら他の人気GSが再結成して出演することが決まると、当然テンプターズにも再結成依頼があった。それを受けて、この時メンバー全員が解散以来初めて集結、話し合いの場を設けている。しかし萩原、大口以外のメンバーは一般人として仕事をしており、再結成はされないことになった。代わりに萩原が自身のバンド「Donjuan Rock'N'Roll Band」(ドラムスは大口)を率いて出演した。萩原はのちにTV番組で「本当は僕もテンプターズで参加したかった」と発言している。2世紀に出た「ザ・テンプターズ・コンプリート・シングルス」は全シングルの両面をリマスターで収録し「ザ・テンプターズベスト・トラックス」はシングルに「オン・ステージ」の洋楽カバーやアルバム曲を収録したものである。「コンプリート・シングルス」のみ配信サイトで配信されている。

特徴[編集]

ローリング・ストーンズなど「黒っぽい」ロックのカヴァーを得意とした。また、松崎由治が手掛けたオリジナル曲多数を発表できる機会に恵まれた。これは外部から楽曲を提供される場合が多かった「アイドル」として高人気なグループ・サウンズ期のバンドに於いて珍しい存在であった。またバンドの演奏安定感には定評があり、松崎の演奏技術の高さと特徴あるギターの音色は、他に代わる者はないと絶賛された。

ディスコグラフィ[編集]

シングル[編集]

  1. 忘れ得ぬ君(1967.10.25)
  2. 神様お願い!(1968.3.5)
    • 作詞・作曲:松崎由治
  3. エメラルドの伝説(1968.6.15)
  4. おかあさん(1968.9.25)
    • 作詞:松岡弘子・松崎由治(補作詞)/作曲:松崎由治
  5. 純愛(1968.12.14)
    • 作詞:なかにし礼/作曲:村井邦彦
  6. 雨よふらないで(1969.3.25)
  7. 帰らなかったケーン(1969.7.15)
  8. エブリバディ・ニーズ・サムバディ(1969.11.25)
    • 作詞:Bob Mcdill・松崎由治【訳詞】/作曲:Bob Mcdill
  9. 愛の終り(1969.12.20)
    • 作詞・作曲:松崎由治
  10. 復活(1970.3.25)
    • 作詞:なかにし礼/作曲・編曲:川口真
  11. 出来るかい?出来るかい?(1970.6.25)
    • 作詞:なかにし礼/作曲・編曲:川口真
  12. 若者よ愛を忘れるな(1970.10.25)
    • 作詞・作曲:松崎由治

アルバム[編集]

  1. ザ・テンプターズ・ファースト・アルバム(1968.6.25)
  2. 5-1=0 ザ・テンプターズの世界(1969.2.25)
  3. ザ・テンプターズ・オン・ステージ(1969.7.25)
  4. ザ・テンプターズ・イン・メンフィス(1969.12.20)
  5. テンプターズ・ゴールデン・アルバム(1970.6.15)
  6. ザ・テンプターズ・アンコール(1971.1)

出演映画[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 日本映画「監督・俳優」論、168ページ
  2. ^ 日本映画「監督・俳優」論、165ページ
  3. ^ http://www.history.com/topics/1960s/woodstock
  4. ^ 日本映画「監督・俳優」論、175ページ