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小笠原貞頼

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小笠原 貞頼(おがさわら さだより、生年不詳 - 寛永2年(1625年[1])は、安土桃山時代武士通称は、彦七郎[2]・又七郎[2]、民部少輔。信濃国守護小笠原長時の曾孫で小笠原諸島の発見者とする伝説がある[3]。ただ、小笠原貞頼の実在性については諸説ある[4]

出自

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大槻文彦『小笠原島新誌』にある「史記」の記述によれば、小笠原長時の曾孫で、祖父は長隆、父は長元であるとし[5]、父とともに織田信長豊臣秀吉徳川家康に仕えたという[5][6]。ただし、父を長之とする文献もある[2]。また、大槻文彦『小笠原島新誌』では小笠原長時の曾孫としつつ、長時の子とする説や孫とする説もあるとしている[5]

『中富町誌』には天正10年(1582年)7月に天正壬午の乱で甲州入りした徳川家康が市川に逗留中、大聖寺(身延町)へ「小笠原貞頼」を代参させ戦勝祈願したという記述が発見されている[7]

『小笠原島新誌』などの記述によれば、朝鮮出兵では軍検使だったが、家康から貞頼は小田原の戦いから軍功を立てているにもかかわらず、禄に不足があるので、もし島を発見して所望するのであればこれを領することを秀吉に進言すると伝えられた[2][5]。貞頼は家康に従って東国に向かい、(一説には伊豆奉行となり[6])南への航海で文禄2年(1593年)に三島を発見したという[5][6]。しかし、確かな史料では確認ができないとされる[6]

また、そもそも小笠原貞頼の名について『小笠原家譜』や『寛政重修諸家譜』などには記載されていない[6]。小笠原貞頼の実在性については諸説ある[4]

伝承

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小笠原諸島の発見

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『小笠原民部記』によれば永禄7年(1564年)に同族の幡豆小笠原氏を頼って三河国に移住した後、宗家に比べて早い段階で徳川家康に臣従した。文禄2年(1593年)、文禄・慶長の役の帰陣に際して、「貞頼は小田原の陣以来数度の戦功にもかかわらずいまだ本地に帰らず、家臣も不足しているであろうから、しかるべき島山があれば見つけ次第取らすであろう」との証文を家康から得て、南海探検に船出した。この探検によって貞頼は3つの無人島を発見し、豊臣秀吉から所領として安堵されたとされている[8]

貞頼発見説は具体的には『巽無人島記』という享保年間(1716年 - 1735年)に書かれた筆者不明の書物を根拠にしている[9]。同書では家康が「小笠原島」を命名したとするが、小笠原諸島で延宝3年(1675年)に嶋谷市左衛門が巡検を行ったときには未だ無人島と称されており、後述の小笠原貞任が幕府から渡海願を得るための偽古文書とする説がある[9]。また、貞頼が小笠原諸島を巡検した記録も発見されておらず貞頼発見説の真相は明らかでない[9]

『小笠原島新誌』によると以後も貞頼の子の長直なる人物が渡海していたが、病により上野国館林に在住し、海路が遠く険悪であったことなどから渡海を取りやめたとする[5]。一説には貞頼の子の長直なる人物の代となった寛永2年(1625年)に上野国館林に転封されたことなどから通航を絶つに至ったとしている[2]

なお、小笠原村父島字扇浦には、貞頼を祀る小笠原神社がある。

伝承と渡海願

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延宝3年(1675年)に嶋谷市左衛門が小笠原の島々を巡検して帰還したが、この年に貞頼の子孫を称する小笠原長直が次回無人島の巡検の際には自らも行かせてほしいとの渡海願を幕府に提出した[10]。長直は派遣されれば島の様子や父からの伝承を申し上げると述べたが、幕府は特に沙汰をしなかった[10]

元禄15年(1702年)には長直の子を称する長啓(ながのり)が同様の訴えを幕府に願い出たが、幕府は思いとどまるよう沙汰をしている[10]

享保12年(1727年)、貞頼の子孫(長啓の子)を自称する浪人の小笠原貞任が[10]、『巽無人島記』の記述をもとに貞頼の探検事実の確認と島の領有権を求め、江戸幕府に「辰巳無人島訴状幷口上留書」を提出して訴え出た[8]。「辰巳無人島訴状幷口上留書」には父島母島兄島などの島名が記されており、各島の島名の由来となった。またこれらの島々が小笠原貞頼にちなんで小笠原島と呼ばれるのはこれ以降のことである[11]。貞任の訴えにより幕府は翌享保13年(1728年)に一度渡航を許可した[10]。これをもとに貞任は甥の式部長晃(ながあき)を先発として島に派遣した[6][10]。ところが小倉藩の小笠原宗家から貞頼や貞任は一族ではないとの異議申し立てが出された[6]。奉行所が再度調査した結果、貞任は享保20年(1735年)に身分詐称による追放処分を受けた[12](小笠原貞任一件[6])。先発の長晃は重追放になったとも漂流して消息不明になったともいう[6][10]

脚注

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  1. ^ 『信濃人物志』文正社、1922年、160頁
  2. ^ a b c d e 信濃史談会『信濃之人』求光閣書店、1914年https://dl.ndl.go.jp/pid/952123/1/148 
  3. ^ 小笠原諸島返還50周年記念誌 原色 小笠原の魂”. 小笠原諸島返還50周年記念事業実行委員会. p. 14. 2026年1月1日閲覧。
  4. ^ a b 官谷幸利. “小笠原の文化と星空 - VERA小笠原観測局から -”. 天文月報 2006年2月. 2026年1月2日閲覧。
  5. ^ a b c d e f 大槻文彦『小笠原島新誌』須原屋伊八、1876年https://dl.ndl.go.jp/pid/763679/1/22 
  6. ^ a b c d e f g h i コラム 小笠氏が発見したから小笠原諸島か”. 「国宝松本城を世界遺産に」推進実行委員会. 2026年1月1日閲覧。
  7. ^ 中富町誌 (PDF)
  8. ^ a b 田中 pp9-10
  9. ^ a b c 「嶋谷市左衛門」小笠原諸島巡検 350周年記念事業 ◎小笠原貞頼が小笠原の島々を発見したというのは本当?”. 小笠原村. 2026年1月1日閲覧。
  10. ^ a b c d e f g 「嶋谷市左衛門」小笠原諸島巡検 350周年記念事業 ◎小笠原村の由来となった小笠原貞頼が歴史上に登場した経緯は?”. 小笠原村. 2026年1月1日閲覧。
  11. ^ 田中 p15
  12. ^ 山口 2005, p. 24.

参考文献

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  • 田中弘之『幕末の小笠原--欧米の捕鯨船で栄えた緑の島』中央公論新社中公新書〉、1997年。ISBN 4121013883 
  • 山口遼子『小笠原クロニクル 国境の揺れた島』中央公論新社〈中公新書ラクレ 185〉、2005年。ISBN 978-4-12-150185-1 
  • 中島次太郎『小笠原氏の虚像と実像』