宅八郎
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宅 八郎(たく はちろう、本名:矢野守啓〈やの もりひろ〉)、1962年8月19日 - )は、「おたく評論家」[注 1]を自称する、日本のコラムニスト、エッセイスト、タレント。芸名はアニメエイトマンの主人公東八郎から。 執筆業の他にも、ホストかつアドバタイジング・ディレクター、ミュージシャン、DJ、とび職としても活動している。未婚。
目次
経歴[編集]
「宅八郎」以前[編集]
静岡県浜松市出身。浜松南高校卒業。法政大学社会学部卒業。元々漫画少年で、大学時代は「漫画研究会」に所属していた。就職活動を背広姿にバルタン星人の着ぐるみをかぶって行ってマスコミの注目を集め、報道で取り上げられたこともあるという。テレビ用広告宣伝の製作会社に就職し蚊取線香の宣伝に出演したが対人関係の問題から辞職に追い込まれ、フリーライターとなる。
1983年から、無署名で執筆者としての活動を開始し、女子高生向け雑誌の「プチセブン」などにも寄稿していた[1]。この頃には中森明夫、野々村文宏、田口賢司の「新人類三人組」に続く「新・新人類」というキャッチコピーを石丸元章、菅付雅信との3人でつけられかける(中森明夫は『「おたく」の研究』という雑誌記事の筆者で、当時宅とは親密な付き合いであった[1])。
宅八郎を称す[編集]
1989年に起こった東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の容疑者宮﨑勤[2]の逮捕によって"オタク"という概念に注目が集まる中、日本独特のオタク文化というものの発生に衝撃を受け、それまでも記事を書いていた『週刊SPA!』上で、1990年2月に「オタク評論家 宅八郎」として登場[3][4]。翌年、雑誌だけでなく森高千里のフィギュアとマジックハンドに紙袋を持つという姿で『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』や『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』などのようなテレビ番組をはじめとする各種媒体に出演し、お茶の間に宅自身とそれが演じる"オタク"に対する強烈な印象を与えた[1]。ただし、この宅が扮装した「オタク」の格好は宅自身の嗜好にもとづいて選ばれた服装ではなく、戯画的にオタクを演出するために敢えてダサイ服に着替えていたものだった[6][8]。宅は東レの研究員であったといい、服飾に関しては繊維の基礎的な知識から持ち合わせていて、ブランド物については蘊蓄を傾けることができるほど造詣が深い[9][注 2]。
1990年秋には、『月刊プレイボーイ』専属モデルの撮影を同誌編集者の宮崎幸男に妨害されたとして、謝罪を要求したが、宮崎からは拒否された。そこで、宅はその顛末を『週刊SPA!』の連載で取り上げ、宮崎の個人情報を暴露したことから、『週刊プレイボーイ』のフリーライター・小峯隆生からは、「おまえ、宮崎さんにひどいことをしたな」、「この業界で食っていけないようにしてやる」などと脅迫されたため、宅は「小峯隣人化計画」と称して小峯の自宅マンションの隣室に転居し、ベランダに広角レンズでビデオカメラを設置して小峯夫妻の私生活を仔細に観察し、観察の結果を『噂の眞相』の連載コラムで発表。このため小峯が宅を民事訴訟し、裁判所に仮処分申請を求める騒ぎに発展した。
これ以降、宅は「処刑執行人」と称し、「復讐」という名目で、論争相手の個人情報を一般雑誌の紙面で公開するほか、論争相手に対する嫌がらせを自らの連載の中で公表したり、「やっちゃえ! OK!」・「○○を殺す!」などと読者を煽ったりするようになる。また、宅が「復讐」と称する嫌がらせ行為は2017年の法律ではストーカー行為を認定されるほどのレベルにまでエスカレートすることも多く、標的の人物[注 3]から、住居侵入・強要・威力業務妨害で被害届が出されたり、宅本人や『噂の真相』編集部に警察の強制捜査が入ると噂されたりすることもあった[要出典]。
1994年11月2日には、同年7月22日に宅の自家用車で駐車場を出る際、隣の車をこすったにも関わらずそのまま走り去ったとして、道路交通法違反(当て逃げ)の容疑で警視庁代々木警察署に逮捕された[注 4]が、宅本人は上記「週刊ポスト」担当デスクの事件による別件逮捕と主張している。「噂の眞相」では、『断筆宣言』を発表して連載を降りた筒井康隆に代わって田中康夫に連載執筆を依頼したところ、当て逃げ容疑での逮捕も重なり、宅の連載が一時休載することになった[注 5]。その後、宅がこの一件について田中を攻撃したが、田中から連載上で反論されて激昂し、田中の車や家の一部を破壊したり、白紙のファクシミリを送り続けたりするなどの嫌がらせを繰り返し、田中の自宅前で騒ぐ宅を怖がった近隣住人から警察に通報されるなどの騒ぎとなった。その後安部譲二の仲介もあって一度は和解したものの、両者の間で板ばさみ状態になった編集長の岡留安則は胃潰瘍になった[要出典]。
これらの騒動も重なり『噂の眞相』の連載も遂に打ち切られるが、扶桑社の『SPA!』に移籍し、新たな連載の仕事を得た。
小林よしのりとの対立[編集]
1995年に地下鉄サリン事件が起こるとオウム真理教の扱いを巡って性急な犯人視報道を批判したため、同じ『SPA!』の連載陣であった小林よしのりと対立する[注 6]。そこで、宅は小林との公開討論を要求したが、小林は自身の連載の影響力の面から論争を通じての売名行為だとして応じず、当時の編集長・つる師一彦にも反発した末に、連載を引き揚げるに至った。
その後は、小林への配慮もあって一時期は批判的な言及を控えてはいたが、1996年に、小林とは交流があった切通理作と対立して、自身のコラムや文章の中で、切通の自宅の電話番号を何度も公表したり、彼の妻も誹謗中傷するなどしたため、最終的に小林が紹介した弁護士を通じて、切通から抗議が寄せられたことで一旦連載が中断となり、つる師は打ち切りに最後まで反対したものの、小林の離脱に伴う雑誌の売上率低下なども重なり、解任された[10]。宅とつる師はこれらの顛末については、小林の圧力があったことを主張しているが、小林は「オウムと同じ陰謀論か。結構だ。切通に弁護士を紹介したが何か悪いのか?」と移籍先の『SAPIO』掲載分にて反論している[10]。なお、『SPA!』上の連載では休載扱いとされていたが、1998年に「再開即最終回」という形で1回限りの復帰掲載で公式に終了した。
執筆以外での活動[編集]
- 2004年3月から初代ホストグランプリ王者の鶴見一沙も在籍していた歌舞伎町のホストクラブ「club G」でホストとして勤務。その仕事ぶりが、テレビ番組『メレンゲの気持ち』『オオカミ少年』などで紹介されたことがある。現在[いつ?]も同店に在籍しているものの、2006年2月より自由出勤(予約指名があったときだけ出勤)という勤務形態となっている。本人曰く、仕事上酒を大量に飲むことが多くなりそれで体調に異変が生じたとのことらしい。また『オオカミ少年』に出演した際、「デビュー当時より、体重が10kg増加した」と語っている。
- 2006年4月に明日のスターを応援するピュアライムの学院長に就任する。2006年6月から「うにプロジェクト」のアドバタイジング・ディレクターとして活動、アキバ系撮影会や催しに携わる。同時に、宅八郎プロデュース「COS de Live コスドライブ等身大(vol.1)」を開催。
渋谷区長選挙出馬[編集]
2007年4月15日告示、22日投票の渋谷区長選挙に宅は出馬の届け出をした。出馬表明をしたのは告示日前日の14日という電撃出馬だった。宅の出馬は一般紙・スポーツ紙で大きく報じられ、抱負を「渋谷を『萌える街』にしたい」と語った。他に出馬を届け出たのは現職の桑原敏武、自由民主党所属で区議6年、都議19年務めた矢部一、渋谷区役所に30年以上勤務した前リサイクル清掃部長で民主党・日本共産党の区議団や一部無所属の区議が推す坂井正市など。市民団体「オンブズマン渋谷行革110番」が宅を公認した。
宅の選挙特設サイトでは、決意表明や「19の改革宣言」から成る宅のマニフェストが掲載されている。宅は15日12時30分、渋谷駅ハチ公前で大挙した取材陣を前にメイド姿のコスプレに身を包んだボランティアのギャル3人をひきつれ第一声を行った。演説で宅は「渋谷は秋葉原に負けている。メイド喫茶を増やし、アキバよりおしゃれな『渋谷系オタク』を確立する」と述べ、「渋谷の萌えタウン化」を公約した。
メイド姿のコスプレに身を包んだ複数の女性が選挙ボランティアとして手伝うなど、「萌え」をスローガンにした独自の選挙運動を行った。宅の運動は記者が同行取材することが多く、第一声や最終日の演説などは日刊スポーツなど複数のスポーツ紙で大きく扱われた。
選挙戦最終日には夕方から、最後を飾る催しとして「きよたまらんど in 渋谷」をハチ公前にて開催した。「宅八郎」の文字が大書された選挙運動車をハチ公広場前につけ、歩道に木の箱を置き壇上にした。テレビ局のカメラがかけつけ新聞紙の記者がカメラをかまえるなど、報道陣で辺りはごった返した。聴衆が500人ほど足をとめる中、宅がプロデュースしている歌手・井万里きよあがアイドル風の衣装に身を包んで登場し「好きになっちゃいました」などの持ち歌を数曲披露した。その後、宅が登場して数分間、演説した。そして角川春樹の娘で元アイドルの鬼畜ライター・Kei-Teeが友人を代表して、「宅さんとは鬼畜仲間です。鬼畜にやさしい町づくりをしてくれる宅さんをよろしくお願いします」と応援演説した。
なお、宅は投票日前夜の4月21日夜に大阪のクラブイベントでDJをする事になっていた。これは数ヶ月前に予約がされており、宅の選挙出馬以前に決定していた。この事に対し宅は大阪でのDJを取りやめず21日の選挙演説期限ギリギリまで選挙活動を行い、その後、新幹線で大阪に向かい徹夜でDJを行って、翌朝、東京に戻っている。この様子の一部はテレビで放送された。
投票は22日に行われ即日開票された。結果は一期目の桑原敏武・区長が2万7044票(41.1%)を獲得して再選、矢部一が2万0729票(31.5%)、坂井正市が1万2424票(18.9%)、宅八郎が5605票(8.5%)獲得した。
供託金没収にあたる10%を下回る得票数のため、100万円は区に没収となった。宅は日刊スポーツの取材で「正直これほど票を入れていただき、ありがたい。こういう機会が与えられることがあれば、チャレンジしたい」と語った。
殺害予告による書類送検[編集]
2009年3月、音楽評論家の四方宏明に、ソーシャルネットワークサイト(SNS)mixiにおいて殺害をほのめかす書き込みを行い、同年10月23日に兵庫県警東灘警察署に書類送検されたが[11]、2010年3月31日付で起訴猶予処分となった[12]。
人物[編集]
特技は韓国語。習熟度はソウル方言と釜山方言の違いが分かるレベルであり、韓国で開かれた日本人韓国語弁論大会で優勝した経験を持つという[13]。1994年末にはすべてのテレビ番組を降板して1995年春に北京経由でピョンヤンを訪問、その後も北朝鮮には何度か取材で訪れているという[13]。強引な取材を行なったためスパイ容疑をかけられ、平壌順安国際空港の特別室で数時間の尋問にあったこともあるという[13]。
思想[編集]
宅自身の言によると、その「復讐」・「処刑」を題目に行われる活動に根底にあるものは「責任」で、自分の責任も他者の責任もどこまでも追求していく性質であるという。その際には、自身が「復讐」・「処刑」を行う資格があるか、相手がそうされても仕方ないかを考えるという[3]。また、自身を「知能指数が高い気狂い」、「自己の論理に忠実な気狂い」と語ったこともある[3]。
逸話[編集]
- 西村知美と西村個人に関するTVクイズで対決し、完全勝利したことがある。
- 岡留は「噂の眞相」後期、特に「噂眞」休刊後は徹底して宅をこき下ろし続けた。ただし宅が「SPA!」休載に追い込まれたとき、宅の反論原稿を掲載したのも「噂眞」だった(ただし、宅も後に「BUBKA」(ブブカ)の連載等で岡留を批判している)。ちなみに宅と岡留は法政大学のOBで、同じ学部で同じ中野収ゼミの先輩後輩でもある。
- 学生時代には本名や本名の変名で雑誌に連載を持っていたことがあるが、後の印象と異なり、当時の宅は現在のような風貌ではなく、短髪で眼鏡もかけていなかった[5]。中野収の指導を受けた事もあって当初は広告会社を就職希望先にいれていたという。
評価[編集]
宅の「処刑」活動については、特にそれが書籍化された『処刑宣告』を、大泉実成が「巨大出版社の傲慢な体質を暴き出し」「TVメディアの本当に腐った部分を見せてくれた」と評価している[3]。
著書[編集]
単著[編集]
- 『イカす!おたく天国』 太田出版、1991年 ISBN 4872330374
- 『処刑宣告』 太田出版、1995年 ISBN 4872332040
共著[編集]
- 『教科書が教えない小林よしのり』(つる師一彦、松沢呉一、すが秀実、鈴木邦夫、西岡昌紀、玄田生との共著)発行:ロフトブックス・発売:星雲社、 1997年 ISBN 4795200696
- 『オウム大論争』 ISBN 4846300838
- 『マンガ狂い咲き』 ISBN 4877341633
連載[編集]
テレビ出演[編集]
映画出演[編集]
いずれもVシネマ
- ダ・ダーン(1992年)
- ゲッ!! 死ぬまであと24時間(1992年)
- 新・うれしはずかし物語3 天使のキスマーク(1992年)
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 元々は自分のためだけに考案した肩書きで、生涯現役と書いている(大津市いじめ自殺事件とネットと宅八郎自身: 宅八郎の処刑日記)。
- ^ 『ザ・追跡スクープ劇場』第一回でも全身ブランド物で登場。
- ^ 宅の告発記事を掲載していた『週刊ポスト』の担当デスクなど。
- ^ なお、宅は自分がこすったことを認め、示談案を提示したが成立しなかった[要出典]。
- ^ 宅は、「自分が攻撃、批判している人物との同一媒体への寄稿を控えたいという意志を通せなくなるために、編集部との話し合いがこじれて休載になった」と語っている[要出典]。
- ^ 元々小林は、当初よりオウムに対して批判的であり、実際に殺害(ポア)の対象とされていた。また、同じく連載陣の松沢呉一、鈴木邦男も宅に近い見解を持っていたため、小林は編集部と彼らが同調しているとも主張していた。
出典[編集]
- ^ a b c d 宅八郎『中森明夫エピソード2 - サブカルダメA級戦犯、中森明夫の生き様!!』(マイウェイ出版刊『日本列島ウラ情報Vol.4』掲載原稿『日本をダメにしたA級戦犯はコイツだ!』を改稿したもの)。
- ^ ちなみに宅と宮崎の生年月日は2日違いである。
- ^ a b c d 大泉実成 「宅八郎インタビュー 復讐山脈」
- ^ 「あくまでも「宅八郎」のデビューは90年春、『週刊SPA!』誌上だ。」[1]
- ^ a b 「すぺしゃる対談 宅八郎×ひろゆき」 p.193
- ^ 宅:宅キャラの話に戻ると、ボクが自分自身をキャラクター設定しようとしたのは確か。そんな中で、ボクが唯一自分が天才的だと思ったのはマジックハンドを持ち出した事なんですよ。〜略〜なぜかったら、後にも先にもマジックハンドを持ったオタクなんて居ないもん(笑)。〜略〜コミケ行っても秋葉原行っても何処行っても、そんなヤツ居ない。あのキャラ設定は我ながら天才的だと思うよ(笑)。[5]
- ^ 金曜7時はザ・追跡スクープ劇場|2012/02/12(日)放送 | TVでた蔵
- ^ 初出は日本テレビ放映の『ザ・追跡スクープ劇場』第一回 (2011年8月5日)内。『金曜7時はザ・追跡スクープ劇場』2012/02/12(日)放送との情報もある[7]が同じ番組内容と思われる 。該当番組を撮影して引用した記事※FC2がblacklistの為、fcの後に2を挿入。
- ^ 秋葉系・渋谷系・そしてアキシブ系とか!(4)|宅八郎の処刑日記
- ^ a b 『新・ゴーマニズム宣言』第1巻「第7章・80年代の生き残り・オウム的おたくの終焉」
- ^ 評論家の宅八郎氏を書類送検デイリースポーツ 2009年10月23日
- ^ ミクシィに「ブッ殺します」宅八郎氏、起訴猶予読売新聞社 2010年4月1日
- ^ a b c 2010年12月19日 【同窓会記念会誌】宅八郎氏 アンケート全文特別掲載 - Heart Color…波濤から(浜松南高校 16期生 同窓会ブログ。
参考文献[編集]
- 大泉実成 「宅八郎インタビュー 復讐山脈!!」 別冊宝島編集部 『隣のサイコさん―電波系からアングラ精神病院まで!』 <別冊宝島281> 宝島社 1996年11月 ISBN 978-4796692816, 212-222頁
- 「すぺしゃる対談 宅八郎×ひろゆき」 2ちゃんねる(監修) 『2ちゃんねるのウラオモテ超入門』 マイウェイ出版 2003年2月20日 pp.188-193
関連項目[編集]
- つる師一彦
- 森高千里
- 田中康夫 - 政治的考えの違いから宅が公衆の場で突撃公開質問を行った。
- 小林よしのり
- 小峯隆生
- 中森明夫
- 切通理作
- 横森理香
- 岡田斗司夫
- 荒木飛呂彦 - 友人であり、対談などを行っている。
- 新宿ロフトプラスワン - 新宿区・歌舞伎町にあるトーク居酒屋。宅はここで何度かイベントを開催した。
外部リンク[編集]
- 宅八郎の復讐山脈INDEX at the Wayback Machine (archived 2019-01-03)
- 宅八郎の処刑日記
- 宅八郎の処刑日記