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令子内親王

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令子内親王(れいしないしんのう、承暦2年5月18日[1]1078年6月30日) - 天養元年3月21日[2]1144年5月25日))は、平安時代後期の皇女賀茂斎院である。白河天皇の第3皇女。母は中宮藤原賢子(六条右大臣源顕房の娘、関白藤原師実養女)。同腹の姉に、郁芳門院媞子内親王、弟に堀河天皇二条大宮二条太皇太后とも呼ばれた。

上醍醐陵(醍醐寺上醍醐境内)

経歴

承暦3年(1079年)4月、内親王宣下応徳元年(1084年)9月に生母・賢子を亡くし、養祖父母の藤原師実・麗子に養育される[3][4]。 同年11月、准三后。

寛治3年(1089年)6月28日、堀河天皇の斎院に卜定。承徳3年(1099年)、病を理由に退下。五条坊門東洞院家に居住。康和4年(1102年)11月以降は、宮中弘徽殿に移る[5]嘉承元年(1106年)3月、二条堀河亭(前斎院御所)が落成[6]し、居住をはじめる。

嘉承2年(1107年)、甥である鳥羽天皇の准母となり[7]、その即位に伴って皇后(尊称皇后)となる[8][* 1]大治5年(1130年)7月に出家。長承3年(1134年)、太皇太后となる[* 2]

天養元年(1144年)崩ずると、左大文字山近くの「石陰」(いわかげ)と呼ばれた葬送地[* 3]に埋葬された。参列する者数百名と記録されている[2]。陵墓は上醍醐陵。

逸話

  • 永久元年(1113年)表面化した永久の変鳥羽天皇暗殺計画があったとされる事件)は、何者かが令子内親王の御所に落書を投げ込み、その内容が内親王から白河院に通報されたことが発端となった。

去る三日 皇后御方に落書あり 件の書に云ふ 主上を犯し奉らんと構ふる人あり 件の事は或る人の 醍醐座主勝覚許に千手丸と云ふ童あり 件の童をすかして構へたる事なり と書くなり 件の書を皇后宮より院に奉らしめ給ふなり

— 『殿暦』[* 4] 永久元年十月五日条
  • 令子内親王自身には歌人としての活躍は見られないが、その周辺には、金葉和歌集を中心に多数の歌人を輩出し、歌壇のオーナー的役割を果たしていたと言える。内親王に出仕していた女房から、金葉和歌集に入集しているのは、以下の通り。
    • 皇后宮肥後(前斎院肥後とも):家集『肥後集』(宮内庁書陵部)
    • 皇后宮摂津:家集『前斎院摂津集』(宮内庁書陵部)
    • 皇后宮式部
    • 皇后宮美濃(上西門院讃岐とも)
    • 皇后宮右衛門佐
    • 皇后宮女別当
    • 皇后宮少将
    • 皇后宮大弐(斎院の大弐とも):家集『二条太皇太后宮大弐集』(宮内庁書陵部)
    • 前斎院尾張
    • 前斎院六条(後の待賢門院堀河

脚注

注釈

  1. ^ 即位時5歳の天皇を抱いて高御座に上がる等、儀式の介添を勤める。
  2. ^ 皇后から直に太皇太后となるのはこれが初例。
  3. ^ 一条天皇三条天皇の火葬塚のある衣笠鏡石町付近。
  4. ^ 関白藤原忠実の日記。

出典

  1. ^ 扶桑略記
  2. ^ a b 藤原頼長台記』 天養元年四月廿六日条
  3. ^ 藤原宗忠中右記』 永久二年四月五日条
  4. ^ 栄花物語』 巻第三十九 布引の滝
  5. ^ 『中右記』 康和四年四月五日条
  6. ^ 『中右記』 嘉承元年三月二日条
  7. ^ 『中右記』 嘉承二年十月廿六日条
  8. ^ 『中右記』 嘉承二年十一月廿九日条

参考文献

関連項目