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ヨイトマケの唄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「ヨイトマケの唄」
美輪明宏 の シングル
初出アルバム『ヨイトマケの唄』
B面 ふるさとの空の下で(オリジナル盤)
兄弟(ソノシート)
ラストダンスは私と(1998年盤)
いとしの銀巴里(2003年盤)
人の気も知らないで(2003年盤)
ふるさとの空の下に(2013年録音)(2013年盤)
リリース
規格 EP盤
ジャンル 歌謡曲[1]
レーベル キングレコード
朝日ソノラマ(ソノシート)
作詞・作曲 美輪明宏
美輪明宏 シングル 年表
メケ・メケ
(1957年)
ヨイトマケの唄
(1965年)
湯どうふの唄
(1966年)
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「ヨイトマケの唄」(ヨイトマケのうた)は、美輪明宏が自ら作詞作曲した1965年のヒット曲。

発表当時は美輪の旧芸名である「丸山明宏」名義だったが、本項では美輪明宏で統一し記述する。

音楽評論家・池田憲一は「吉展ちゃん事件で作られた『かえしておくれ今すぐに』と同じく、社会派歌謡曲で話題を呼んだが、散発的な試みにとどまった」と論じている[1]。

概要

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美輪が幼少時に一緒に育った友人の亡き母(父や子供のために懸命に働き続けて亡くなった)を回顧する歌である。主人公の過去には幼少時、母親の職業(地均しの日雇い労働者)がきっかけでいじめを受けた悔しさ、グレそうになりながらも高校と大学を卒業し、高度経済成長期の高度な建設機械が普及した世の中で立派なエンジニアに成長した姿なども折り込まれている。

「ヨイトマケ」とは、かつて建設機械が普及していなかった時代に、地固めをする際に、重量のある岩を縄で滑車に吊るした槌を、数人がかりで引っ張り上げて落とすときのかけ声であり、美輪によれば、滑車の綱を引っ張るときの「ヨイっと巻け」のかけ声を語源とする。

この仕事は主に日雇い労働者を動員していた。そして、楽屋のない銀巴里で出演後に客席に座っていた際に、東京大学の建築工学科に通う学生と知り合いになり、家族のために働く母と、いじめでグレそうになりながらも学びを続け、立派なエンジニアにまで上り詰める子供という一連の物語の着想元になった。

作詞作曲を開始したきっかけは、興行主の手違いで行うことになった福岡県筑豊の嘉穂劇場のコンサートである。当時きらびやかな衣装でシャンソンを歌っていた美輪は、炭鉱町でのコンサートに乗り気ではなかったのだが、炭鉱労働者たちが安い賃金をつぎ込んでチケットを求め、客席を埋め尽くしている光景を見て衝撃を受け、「これだけ私の歌が聴きたいと集まってくれているのに、私にはこの人たちに歌える歌がない」と感じて、労働者を歌う楽曲を作ると決意したという[2][3]。

初めて発表したのは1964年(昭和39年)、リサイタルにて歌唱。1965年(昭和40年)4月5日、NETテレビ『木島則夫モーニングショー』にゲスト出演した際に発表したところ、非常に大きな反響を呼び、同月27日に異例のアンコール放送となり再度ゲスト出演した[注釈 1][4][5][6]。同性愛者であることを公にしてから低迷していた美輪が、この歌がきっかけで再び脚光を浴びることになった。白のワイシャツに黒の細身のスラックス姿で登場し、戦後の復興期の貧しい少年から、高度経済成長にエンジニアへと成長した凜々しい青年を演じた美輪の姿は、多くの視聴者の胸を打った。

シングルレコード発売は1965年7月。レーベルはキングレコード。40万枚を売り上げた[7]。同年9月には、朝日ソノラマからソノシートも発売されている。この後も何度か再録音を行っており、発表当時と近年では歌い方や使用楽器など編曲が異なる(1975年録音盤(アルバム『白呪』収録)、2000年録音盤、2013年録音盤が存在する)。

歌詞が描く世界観と美輪のパフォーマンスによる評価を裏打ちするのは、楽曲自体が、伊藤久男『イヨマンテの夜』(1949年)、織井茂子『黒百合の歌』(1952年)に代表される、低音域のドラムを強調した古関裕而の土俗的オルタナティヴサウンドの系譜に位置することである。

歌詞の中に、マスメディアでは差別用語とされる「土方(どかた)」[8]、「ヨイトマケ」[要出典]が含まれており、発表後間もなくして、日本民間放送連盟により要注意歌謡曲に指定されて以降、原則として民放では放送されなくなる[9]。この制度自体は1988年に効力を失ったが、最後に改訂された1983年の時点で指定されておらず、それ以前の状況は民放連側の記録がなく不明[10][注釈 2]。しかしながら失効後もしばらくの間この制度の影響を受け続けることになる。1985年には、『夏祭りにっぽんの歌』(テレビ東京)で歌唱している。1990年には美輪が『ぴりっとタケロー』(TBS)に出演する際にこの歌を披露する予定だったが、放送局のTBSから歌のカットを求められた。出演依頼があった際、美輪は歌なしの出演を希望したが、制作会社の強い希望で本曲を歌うことになった。ところが、放送日2日前に突然「歌はやめてほしい」という申し出を受ける。一方的に二転三転する申し出に美輪は憤慨し、出演自体を取りやめた。このことがきっかけで美輪はNHK(後述)以外のテレビで最近まで歌うことを避けていた。

1998年に村上“ポンタ”秀一のアルバム『Welcome To My Life』に収録され、泉谷しげるが歌ったカバーバージョンが『ニュースJAPAN』(フジテレビ)で流れたことで久々に民放の電波に乗り、さらに2000年には桑田佳祐が自身の番組『桑田佳祐の音楽寅さん 〜MUSIC TIGER〜』(フジテレビ、同年10月13日放送)でこの曲を歌ったことにより大きな反響を得る。この際、テロップで「この唄は、俗に放送禁止用語と呼称される実体のない呪縛により長い間、封印されてきた。今回のチョイスは桑田佳祐自身によるものであり、このテイクはテレビ業界初の試みである」との説明が付されていた[3] が、以降多くの歌手がテレビでも歌うきっかけとなった。なお、桑田は1993年のあるイベントにソロで出演した際や、翌1994年のソロコンサートツアーでも本曲をセットリストに入れている。当時、桑田は本曲の持つ力に感銘を受け「ギター一本でこたつの向こうの友達に歌う、その時の説得力を久しぶりに思い出した」と語っており、これが本曲の風向きが変わった出来事とされている[3]。

一方、NHKでは発表当時から一貫して放送自粛の措置はとられておらず、美輪本人による歌唱はもとより、さまざまな歌手によるカバーも放送されていた。放送される際、オンエアで「NHKでは放送禁止にされていませんから」と司会陣が歌手に話すことすらあった。デビュー60年を迎えた2012年には美輪が『第63回NHK紅白歌合戦』に初出場、本曲をほぼフルコーラスで披露した(楽曲はやや短くアレンジされた[11])。発売から半世紀も経っていたが、SNS上でも若年層を中心に大きな反響を呼んだ。美輪本人は「この歌がヒットした50年前にも紅白出演のオファーがあったが、歌唱時間の問題で辞退した」と回想している。当時の紅白では歌手1人につき3分以内という時間制限が設けられており、6分近くあるこの歌も大幅に歌詞を省略して歌うことをNHKから求められたが、美輪は“歌詞の省略はできない”と頑なに主張し、当時のオファーを辞退せざるを得なかったという[12]。

収録曲

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1965年オリジナル盤

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全編曲:川上英一

1965年ソノシート盤

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  • Side A ヨイトマケの唄
  • Side B 兄弟

1998年盤

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  1. ヨイトマケの唄
  2. ラストダンスは私と

2003年盤

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  1. ヨイトマケの唄
  2. いとしの銀巴里
  3. 人の気も知らないで

2013年盤

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  1. ヨイトマケの唄
  2. ふるさとの空の下に

メディア

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カバー

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坂本九、なぎら健壱、新井英一、桑田佳祐、Breath Mark、泉谷しげる、酒井俊、米良美一、新結成時のザ・フォーク・クルセダーズ、大竹しのぶ、大西ユカリと新世界、ガガガSP、槇原敬之などによりカバーされている。特に米良は母が自分の治療費を稼ぐ為に工事現場で働いていた事からテレビでの美輪の歌唱を聞き、主人公と自分が重なると思い、持ち歌にしたエピソードを持つ。

演歌系では上述の島津亜矢の他に中村美律子がリサイタルで歌った。

在日コリアン歌手の趙博は、朝鮮なまりでカバーしている。

美輪と同じ長崎県出身である蛭子能収もイベント等でよく歌っている。

収録作品

放送などの逸話

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  • 母に捧げるバラード - 歌詞の一部はヨイトマケの唄を模倣して制作[要出典]された。美輪いわく、武田鉄矢自身がのちに謝罪に来たという[15]。
  • 世界の料理ショー - 「パンプキンパイ~マイアミ風~」の回でグラハム・カーがヨイトマケの唄の一節を歌う場面がある[注釈 5]。
  • シャボン玉ホリデー - 1964年4月19日放送の「コーラスばんざいピーナッツ」(第151回)で、ロシア風の合唱団が「ヴォルガの舟歌」を歌っていると、印半纏を着た植木等が現れてヨイトマケの唄を歌うという、「お呼びでない」コントがあった(ここで取り上げられている「ヨイトマケの唄」は同題の美輪明宏の歌曲ではなく、労働歌としての「ヨイトマケの唄」の方である。このコントでは合唱団が「エイ、コーラ」と「ヴォルガの舟歌」を歌っていると、植木等が「おかちゃんのためなら」と音頭取りをし、それにつられて合唱団が「エンヤ、コーラ」と歌ってしまうというギャグであって、この項で取り上げられている曲と直接の関係はない)[注釈 6]。
  • 星のカービィ (アニメ) - 第32話「歯なしにならないハナシ」でこの歌のパロディーが登場する。
  • 笑点 - レギュラー大喜利で林家たい平が「ヨイトマケ流」に回答。

脚注

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注釈

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  1. ↑ 美輪の出演は「今週の歌」のコーナーではなく、単発のゲスト出演である。これを証明する文献として、アサヒグラフ(朝日新聞社 刊)1965年5月26日号 記事「〝霊界から来た〟歌手・丸山明宏」(3~10ページ)内の項目『歌は圧縮された人生です』(8ページ)の文面には、同番組でこの歌を歌った際の初出演日と後のアンコール出演日が共に具体的に記載されており、それを裏付けるのとして、読売新聞「ヨミダス歴史館」にて、読売新聞の1965年1~5月の各日のテレビ欄番組表で同番組を調べた処、「丸山明宏」(新聞表記のまま記載)がゲストとして4月5日(月曜日)と同月27日(火曜日)に明記されており、又、同年4月5日には同時に「(歌)園まり」とも明記されており、これは今週の歌が園まりであることを示す。
  2. ↑ 吉野健三『歌謡曲 流行らせのメカニズム』晩聲社 (ヤゲンブラ選書) 、1978年、244-246頁にある1978年9月5日時点(同書113頁)の「要注意歌謡曲一覧表」には本曲は記載されていない。
  3. ↑ ただし、番組中では『ふるさとの空の下に』と表記されている。
  4. ↑ 特別加盟局のinterfmを除く。
  5. ↑ もちろんグラハム本人が歌っている訳ではなく、吹き替えを担当した黒沢良のアドリブである。
  6. ↑ このコントには「後日談」が有り、1965年11月28日放送の「世界の音楽ピーナッツ」(第235回)で、やはりロシア風の合唱団が「ヴォルガの舟歌」を歌っているところへ植木等が現れるが、今度は合唱団がヨイトマケの唄を歌うというオチ。

出典

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  1. 1 2 池田憲一『昭和流行歌の軌跡』白馬出版、1985年。ISBN 9784826601351。
  2. ↑ “「敗戦」から80年、丸山明宏(美輪明宏)の「ヨイトマケの唄」は、いつまでも歌い続けなければならない、日本を復興させた〝底力〟の歌”. コモレバWEB (2024年1月11日). 2026年6月28日閲覧。
  3. 1 2 3 “長年放送禁止だった美輪明宏さんの「ヨイトマケの唄」桑田佳祐が“呪縛”解放…紅白実現”. 日刊スポーツ (2026年6月28日). 2026年6月28日閲覧。
  4. ↑ アサヒグラフ(朝日新聞社 刊)1965年5月26日号 記事「〝霊界から来た〟歌手・丸山明宏」(3~10ページ)内の項目『歌は圧縮された人生です』(8ページ)の文面に記載。
  5. ↑ 湘南逍遥 2026年6月30日付「30歳の美輪明宏」(「アサヒグラフ」1965年5月26日号「〝霊界から来た〟歌手・丸山明宏」8ページに及ぶ特集を全文を書き起こし、同誌記事の画像も全ページ併せて掲載)(2026年7月6日閲覧)
  6. ↑ 読売新聞 1965年4月5日・27日 共に朝刊P.11 テレビ欄(読売新聞「ヨミダス歴史館」にて閲覧)
  7. ↑ 『日めくりタイムトラベル 昭和40年』(NHK BS2、2009年4月11日放送)
  8. ↑ 時事通信社 編『最新 用字用語ブック』(8版)時事通信社、2023年4月20日、1086頁。ISBN 978-4-7887-1867-8。
  9. ↑ 森達也『放送禁止歌』光文社知恵の森文庫、2003年 26頁 ISBN 9784334782252
  10. ↑ 森達也『放送禁止歌』68、70頁
  11. ↑ “美輪明宏:紅白2年連続出場 「ヨイトマケの唄」の感動再び”. 毎日新聞. 2013年11月25日. 2021年7月19日閲覧.
  12. ↑ ““61年目の新人”美輪明宏「衣装はヌード」”. サンケイスポーツ. 2012年11月26日. 2012年11月27日閲覧.
  13. ↑ 紅白歌合戦:SMAPなど8組がメドレー 曲目発表 毎日.jp、2012年12月18日
  14. ↑ “TOKYO FM開局55周年×「桑田佳祐のやさしい夜遊び」放送30周年九段下フォーク・フォークフェスティバル′25開催!特別番組 放送決定!”. PRTIMES (2025年10月12日). 2025年10月13日閲覧。
  15. ↑ 2011年10月18日放送分の「中居正広の怪しい噂の集まる図書館」テレビ朝日より

外部リンク

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関連項目

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