鎌田光夫

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鎌田 光夫
名前
カタカナ カマタ ミツオ
ラテン文字 KAMATA Mitsuo
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1937-12-16) 1937年12月16日(86歳)
出身地 茨城県
身長 177cm
体重 68kg
選手情報
ポジション DF
ユース
1953-1955 茨城県立日立第一高等学校
1956-1959 中央大学
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1960-1973 古河電気工業 106 (6)
代表歴
1958-1969[1] 日本の旗 日本 44 (2)
監督歴
1975  日本ユース代表
1976 日本の旗 全日本大学選抜
1977 日本の旗 日本B代表
1976-1978 古河電気工業
1981-1989 大協石油四日市/コスモ大協/コスモ石油
獲得メダル
男子 サッカー
オリンピック
1968 サッカー
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

鎌田 光夫(かまた みつお、1937年12月16日 - )は、茨城県出身の元サッカー選手DF)・サッカー監督

経歴

日立市立多賀中学校を経て進学した日立一高では3年次の1955年神奈川国体・高校の部に出場して3位入賞を果たした。高校卒業後の1956年中央大学へ進学し、2年次の1957年からはレギュラーとなる。同年には天皇杯に中大クラブ(学生・OBの混合チーム)のMFとして出場し、決勝で実業団の強豪・東洋工業を破って優勝。3年次の1958年1月に開催された大学選手権でも優勝し、同年12月には川淵三郎宮本征勝らと共に日本代表デビュー。香港戦で初出場を果して以来、的確で冷静な判断力とカバーリングを武器に代表守備陣の中枢を成した。4年時の1959年8月にはムルデカ大会に初出場し、主将として出場した同年の大学選手権では2連覇を飾った。大学卒業後の1960年4月からは古河電気工業に入社し、長沼健監督の下で3度の天皇杯制覇(1960年, 1961年, 1965年)と全日本実業団選手権2連覇(1961年, 1962年)に貢献。天皇杯は1960年が実業団チームとして初制覇、1961年が母校・中大を3-2で退けての2連覇、1965年八幡製鉄と大会史上唯一の両者優勝であった。全日本実業団選手権も1962年に東洋工業と引き分けての両チーム優勝であった。代表ではローマ五輪予選(1960年)、FIFAワールドカップ・チリ大会アジア予選(1961年)、第4回アジア競技大会(1962年)での経験を経て、1962年9月のムルデカ大会第3戦・ビルマ戦でAマッチ出場を25試合に伸ばす。1963年10月の「東京国際スポーツ大会」では初戦の南ベトナム海関・陸軍連合戦で先制ゴールを挙げて勝利に導いたほか、1964年8月のチェコ1部リーグ選抜戦(プラハ)で代表通算75試合出場を達成し、10月東京五輪では全試合にフル出場してベスト8入りに貢献。1966年11月6日の東洋工業戦ではスイーパーとして出場し、守備重視の作戦で相手の圧倒的な攻撃力を封じて目の前での胴上げを阻止。1967年6月に行われたブラジルの名門・SEパルメイラスとの3連戦では、相手のFW4人を封じるため、日本代表の5人目のDF(スイーパー)として出場。同年から1969年にかけて3年連続でJSL年間優秀11人賞を受賞。1968年メキシコシティ五輪では全6戦にスイーパーとして出場し、最も危険なエリアをカバーして代表の銅メダル獲得に貢献。初戦のナイジェリア戦では序盤に相手との競り合いから右肘関節脱臼するアクシデントがあったが、ハーフタイムに痛み止めの注射を打って最後までプレー。1970年サウサンプトンFC戦(平和台)を最後に代表を引退し、1974年には現役を引退。

引退後は日本ユース代表監督(1975年)を経て、1976年には全日本大学選抜の監督を務め、世界大学選手権でベスト8に導く。同年8月から1978年までは古河の監督を務め、1977年には日本リーグJSLカップ、天皇杯と当時の三冠を制覇。鎌田は1974年のW杯を川淵前監督と共に視察し、ポーランドオランダのサッカーをイメージして「スピードと激しさ」を掲げた[2]。同年には古河主体で編成された日本B代表も率いて、マラハリムカップ(インドネシアの旗 インドネシア)で準優勝となる。台北香港シンガポールに一泊した翌日に開催地のメダンへ到着し、競技場は、独特のタバコの匂いと煙に加え、ナイター照明が暗くてグランドが見えにくいという環境であった[3]。宿泊した国民宿舎にはクーラーしかなく、早朝から町中に響く回教徒の祈りの声がマイクで聞こえてきた[3]1981年より大協石油四日市→コスモ大協→コスモ石油の監督に就任し、東海社会人リーグでは3連覇を含む4度の優勝(1981年-1983年, 1985年)を決めた。1986年にJSL2部へ昇格し、1989年の退任後は総監督となる。1994年より三重県サッカー協会に出向して理事長に就任。2002年には副会長となり、現在は顧問。この間にJFA理事(1996年 - 1998年)、名古屋WESTフットボールクラブ総監督[4]を務めた。2007年日本サッカー殿堂に選出[5]

所属クラブ

  • 1953年 - 1956年 : 茨城県立日立第一高等学校[5]
  • 1956年 - 1959年 : 中央大学[5]
  • 1960年 - 1974年 : 古河電工[5]

個人成績

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 JSL杯 天皇杯 期間通算
1965 古河 JSL 14 2 -
1966 14 0 - 1
1967 14 1 -
1968 13 0 -
1969 14 1 -
1970 13 1 -
1971 14 1 -
1972 JSL1部 7 0 -
1973 3 0
1974 0 0 -
通算 日本 JSL1部 106 6
総通算 106 6

指導歴

監督成績

年度 所属 クラブ リーグ戦 カップ戦
順位 試合 勝点 勝利 引分 敗戦 JSL杯 天皇杯
1976 JSL1部 古河 優勝 18 26 11 4 3 ベスト4 優勝
1977 6位 18 36 8 2PK勝 0PK敗 8 優勝 ベスト4
1978 10位 18 15 3 1PK勝 1PK敗 13 ベスト8 ベスト4
1981 東海 大協石油 優勝 - 予選敗退
1982 優勝 - 1回戦
1983 優勝 - 1回戦
1984 コスモ大協 準優勝 - 予選敗退
1985 優勝 - 1回戦
1986 JSL2部・東 コスモ石油 8位 14 14 5 4 5 2回戦 予選敗退
JSL2部・上位 14 10 3 4 7
1987 JSL2部・西 7位 14 18 7 4 3 1回戦 1回戦
JSL2部・上位 14 5 2 1 11
1988-89 JSL2部・下位/東 11位 20 17 6 5 9 1回戦 2回戦

代表歴

出場大会

試合数

  • 国際Aマッチ 44試合 2得点(1958-1969)[1]


日本代表国際Aマッチ その他期間通算
出場得点 出場得点出場得点
1958 2 0 1 0 3 0
1959 10 0 10 1 20 1
1960 0 0 0 0 0 0
1961 7 1 4 1 11 2
1962 7 1 5 0 12 1
1963 4 0 11 2 15 2
1964 2 0 16 0 18 0
1965 3 0 3 0 6 0
1966 0 0 4 0 4 0
1967 2 0 16 0 18 0
1968 3 0 11 0 14 0
1969 4 0 16 0 20 0
1970 0 0 3 0 3 0
通算 44 2 100 4 144 6

得点数

# 年月日 開催地 対戦国 スコア 結果 試合概要
1 1961年8月10日 マラヤ連邦クアラルンプール ベトナム共和国の旗 南ベトナム 2-3 敗戦 ムルデカ大会
2 1962年9月21日 シンガポール シンガポールの旗 シンガポール 1-2 敗戦 親善試合

出典

外部リンク