鈴木康友 (野球)
福岡ソフトバンクホークス コーチ #83 | |
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2012年8月1日、こまちスタジアムにて | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 奈良県五條市 |
生年月日 | 1959年7月6日(64歳) |
身長 体重 |
180 cm 84 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 内野手 |
プロ入り | 1977年 ドラフト5位 |
初出場 | 1980年4月15日 |
最終出場 | 1992年10月11日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
監督・コーチ歴 | |
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この表について
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鈴木 康友(すずき やすとも、1959年7月6日 - )は、奈良県五條市出身の元プロ野球選手(内野手)。
来歴・人物
天理高等学校では春夏の甲子園に4度出場。1年生の1975年夏の甲子園には控え内野手として出場。準々決勝に進出するが新居浜商に敗れる。2年上のチームメートに猪口明宏中堅手(巨人)がいた。強打の大型遊撃手として知られ、2年生で四番打者となる。同期の福家雅明を主戦投手とした1976年の春の選抜では、2回戦で福井高に敗れ、同年夏の甲子園では3回戦で石川星稜に敗退。1977年、3年生時の春の選抜では、作新学院戦で放った中越えの大本塁打が球界関係者の注目を集めた。この大会は準々決勝に進出するが、エース山沖之彦を擁する中村高に敗退した。同年夏は、県予選準々決勝で中学時代の同級生、智辯学園の山口哲治に完封され、甲子園出場はならなかった。
1977年のドラフト会議では、当初大学進学の意志が強いと言われていたため、各球団とも上位での指名は見送ったが、5位で読売ジャイアンツが指名した。高卒5位指名ながら、当時の長嶋監督が獲得に自ら出馬して自宅まで出向いて口説き落とすなど、大いに注目され、入団時には、異例の一桁の背番号5が与えられた。しかし、当時、巨人の遊撃手のポジションには河埜和正が君臨しており、わずか1年でこれまで背番号29だった河埜に5を奪われ、二軍暮らしが続いた。なおチームでの初顔合わせで長島監督に挨拶に行った際、「おお、調子はどうだ?(同期入団の)伸良」と勘違いされたエピソードが残されている。
3年目の1980年に一軍初出場を果たし、遊撃手を中心に内野のユーティリティプレーヤーとして徐々に出場機会を増やすが、1984年オフ、鴻野淳基とのトレードで西武ライオンズに移籍。ここでは出番に恵まれず、モッカ退団後の三塁手の穴埋めに悩んだ中日ラゴンズが遊撃手鈴木を獲得し宇野を三塁にコンバートにする策に出て、1986年シーズン開幕直前に市村則紀とのトレードで中日に移籍する。同年は113試合に出場し打率.234ながら11本塁打を放ち、セ・リーグ最多の35犠打を記録して遊撃手のレギュラーに定着する。しかし翌年に移籍してきた落合博満が三塁手に入り、宇野が遊撃手に戻ったため、ポジションを失い準レギュラーに転落。1990年途中、北村照文との交換トレードで西武に復帰した。
復帰後は、主に終盤の守備固めでチームを支える。1991年の日本シリーズでは、王手をかけられた状態での第6戦、川口和久から起死回生の代打での決勝の2点タイムリーを放ち、逆転日本一を果たす原動力となった。 1992年限りで現役引退。
引退後は、1993年~2000年まで西武一軍守備・走塁コーチ、一塁ベースコーチとして三塁ベースコーチの伊原春樹とのコンビを務めた(2000年は三塁ベースコーチ)。2002年~2003年、監督に就任した原辰徳に請われ、巨人一軍守備・走塁コーチ、三塁ベースコーチ。2004年、伊原の監督就任によりオリックス・ブルーウェーブで一軍守備・走塁コーチ、一塁ベースコーチを務め、再び伊原とコンビを組んだ。
2005年~2006年はCS系テレビの野球解説者と日刊スポーツ野球評論家をしながら、茨城ゴールデンゴールズでコーチをしていた。2007年~2009年はBCリーグ・富山サンダーバーズの監督を務めた。2010年より9年ぶりに埼玉西武ライオンズの二軍守備・走塁コーチに復帰。2011年は一軍内野守備・走塁コーチ(一塁ベースコーチ)を務めた。
2012年からは東北楽天ゴールデンイーグルスの一軍内野守備・走塁コーチを務める[1]。2013年からは退団した本西厚博に代わって三塁ベースコーチを担当することになった。 2014年10月14日に来季の契約を結ばないことが発表された[2]。2014年11月8日、福岡ソフトバンクホークスの二軍内野守備・走塁コーチに就任することが発表された[3]。2015年11月3日に三軍内野守備走塁コーチに就任することが発表された[4]。
特技は手品(プロ顔負け)。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1980 | 巨人 | 39 | 23 | 20 | 2 | 2 | 0 | 0 | 2 | 8 | 2 | 0 | 0 | 1 | 0 | 2 | 0 | 0 | 12 | 0 | .100 | .182 | .400 | .582 |
1981 | 11 | 5 | 5 | 0 | 1 | 1 | 0 | 0 | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | .200 | .200 | .400 | .600 | |
1982 | 45 | 63 | 52 | 13 | 10 | 1 | 0 | 1 | 14 | 3 | 0 | 1 | 6 | 0 | 4 | 0 | 1 | 19 | 0 | .192 | .263 | .269 | .532 | |
1983 | 77 | 170 | 149 | 15 | 41 | 3 | 0 | 5 | 59 | 18 | 0 | 0 | 5 | 1 | 14 | 4 | 1 | 29 | 2 | .275 | .339 | .396 | .735 | |
1984 | 85 | 146 | 126 | 16 | 24 | 8 | 0 | 3 | 41 | 9 | 3 | 1 | 8 | 0 | 10 | 0 | 2 | 24 | 0 | .190 | .261 | .325 | .586 | |
1985 | 西武 | 13 | 16 | 14 | 1 | 4 | 1 | 0 | 0 | 5 | 1 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 2 | 0 | .286 | .375 | .357 | .732 |
1986 | 中日 | 119 | 429 | 368 | 31 | 86 | 16 | 1 | 11 | 137 | 30 | 3 | 2 | 35 | 3 | 18 | 0 | 5 | 76 | 4 | .234 | .277 | .372 | .649 |
1987 | 79 | 110 | 97 | 10 | 18 | 6 | 0 | 0 | 24 | 6 | 3 | 0 | 6 | 1 | 6 | 0 | 0 | 24 | 1 | .186 | .231 | .247 | .478 | |
1988 | 15 | 31 | 26 | 4 | 6 | 3 | 0 | 1 | 12 | 2 | 1 | 1 | 1 | 0 | 4 | 0 | 0 | 3 | 0 | .231 | .333 | .462 | .795 | |
1989 | 80 | 119 | 100 | 15 | 22 | 4 | 0 | 0 | 26 | 9 | 3 | 3 | 10 | 2 | 7 | 0 | 0 | 23 | 0 | .220 | .266 | .260 | .526 | |
1990 | 西武 | 65 | 101 | 83 | 7 | 18 | 2 | 1 | 1 | 25 | 7 | 0 | 2 | 8 | 0 | 10 | 0 | 0 | 11 | 2 | .217 | .301 | .301 | .602 |
1991 | 27 | 22 | 19 | 2 | 4 | 2 | 0 | 0 | 6 | 1 | 2 | 1 | 1 | 0 | 1 | 0 | 1 | 2 | 2 | .211 | .286 | .316 | .602 | |
1992 | 33 | 26 | 23 | 1 | 8 | 2 | 0 | 0 | 10 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 2 | 4 | 0 | .348 | .423 | .435 | .858 | |
通算:13年 | 688 | 1261 | 1082 | 117 | 244 | 49 | 2 | 24 | 369 | 91 | 17 | 11 | 81 | 7 | 79 | 4 | 12 | 230 | 11 | .226 | .284 | .341 | .625 |
- 各年度の太字はリーグ最高
記録
- 初出場:1980年4月15日、対中日ドラゴンズ1回戦(ナゴヤ球場)、8回裏に河埜和正に代わり遊撃手として出場
- 初安打・初本塁打・初打点:1980年7月15日、対中日ドラゴンズ13回戦(後楽園球場)、8回裏に三沢淳からソロ
- 初先発出場:1980年8月10日、対横浜大洋ホエールズ19回戦(横浜スタジアム)、8番・遊撃手として先発出場
背番号
- 5 (1978年)
- 43 (1979年 - 1981年)
- 25 (1982年 - 1984年)
- 38 (1985年 - 1986年途中)
- 37 (1986年途中 - 1990年途中)
- 12 (1990年途中 - 1992年)
- 90 (1993年 - 2000年)
- 82 (2002年 - 2003年)
- 76 (2004年)
- 81 (2007年 - 2009年)
- 72 (2010年 - 2011年)
- 73 (2012年 - 2014年)
- 83 (2015年 - )
脚注
- ^ “新任コーチに関して”. 東北楽天ゴールデンイーグルス (2011年11月15日). 2011年11月15日閲覧。
- ^ 来季のコーチ契約に関して楽天球団公式サイト2014年10月14日配信
- ^ “ソフトB来季コーチングスタッフを発表”. 日刊スポーツ (2014年11月8日). 2014年11月8日閲覧。
- ^ “2016年 コーチングスタッフについて”. 福岡ソフトバンクホークス (2015年11月3日). 2015年11月3日閲覧。
関連項目
- 奈良県出身の人物一覧
- 読売ジャイアンツの選手一覧
- 埼玉西武ライオンズの選手一覧
- 中日ドラゴンズの選手一覧
- 高原兄 - 応援歌を手掛ける。