諏訪藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。ZéroBot (会話 | 投稿記録) による 2012年1月1日 (日) 06:38個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (r2.7.1) (ロボットによる 追加: fr:Domaine de Suwa)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

諏訪藩(すわはん)は、高島藩(たかしまはん)とも呼ばれる。信濃国諏訪郡周辺を領有した。藩庁は高島城長野県諏訪市)。

藩歴

戦国時代、諏訪の地は諏訪神社大祝(おおほうり)である名門・諏訪氏の支配下にあった。しかし天文11年(1542年)、武田信玄(晴信)の侵攻を受けて諏訪頼重は切腹となり、諏訪氏の宗家は滅亡した。しかし頼重の従兄弟に当たる諏訪頼忠は、武田氏支配下の中で神官として生き残り、1582年武田勝頼織田信長徳川家康の連合軍によって滅ぼされ、さらに同年6月、信長が本能寺の変で横死すると、頼忠は自立して諏訪氏を再興する。その後、信濃に侵攻してきた家康軍と戦ったが、やがて家康と和睦し、その家臣となった。天正18年(1590年)、徳川氏が関東に移封されると、頼忠も家康に従って諏訪を離れ、武蔵国奈良梨(のち、上野国那波郡惣社へ移封)に所領を与えられた。

代わって日根野弘就の子・高吉が諏訪氏の移った同年に入封する。そして高吉の子・吉明が家督を継いだが、慶長6年(1601年下野壬生藩に移封(一説には減封)される。

同年、諏訪頼忠の子・諏訪頼水が旧領・高島に復帰した。所領は当初は2万7,000石、のち大坂の陣に参陣した第2代藩主・忠恒はその功績により元和4年(1618年)に5,000石を加増され、3万2,000石となる。第3代藩主・忠晴の時代に忠恒の遺言により忠晴の弟の頼蔭頼久にそれぞれ1,000石を分知して3万石となった。以後、諏訪氏の支配で明治時代に至った。明治元年(1868年)の戊辰戦争では新政府軍に与し、甲州勝沼の戦い北越戦争会津戦争に参戦した。

明治4年(1871年)の廃藩置県により高島県となる。その後、筑摩県を経て長野県に編入された。なお、諏訪氏は明治17年(1884年子爵となり華族に列せられた。

歴代藩主

日根野(ひねの)家

外様 3万石 (1590年~1601年) 

  1. 高吉(たかよし)〔従五位下、織部正〕日根野弘就の子
  2. 吉明(よしあき)〔従五位下、織部正〕日根野高吉の子

諏訪(すわ)家

譜代 2万7000石→3万2000石→3万石 (1601年~1871年)

  1. 頼水(よりみず)〔従五位下、因幡守〕諏訪頼忠の長男 
  2. 忠恒(ただつね)〔従五位下、出雲守〕諏訪頼水の長男 加増により3万2000石
  3. 忠晴(ただはる)〔従五位下、因幡守〕諏訪忠恒の長男 分知により3万石
  4. 忠虎(ただとら)〔従五位下、安芸守〕諏訪忠晴の子
  5. 忠林(ただとき)〔従五位下、因幡守〕分家の諏訪頼篤(美濃守)の次男
  6. 忠厚(ただあつ)〔従五位下、安芸守〕諏訪忠林の次男
  7. 忠粛(ただたか)〔従五位下、伊勢守〕諏訪忠厚の長男
  8. 忠恕(ただみち)〔従五位下、伊勢守〕諏訪忠粛の長男
  9. 忠誠(ただまさ)〔従三位、因幡守・侍従 老中〕諏訪忠恕の長男
  10. 忠礼(ただあや)〔従五位下、伊勢守〕一門の諏訪頼威左源太の次男

幕末の領地

関連項目

参考文献

先代
信濃国
行政区の変遷
1590年 - 1871年
(高島藩→高島県)
次代
筑摩県