江藤省三

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江藤 省三
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 熊本県熊本市
生年月日 (1942-04-29) 1942年4月29日(82歳)
身長
体重
172 cm
70 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 二塁手一塁手
プロ入り 1965年 ドラフト3位
初出場 1966年4月26日
最終出場 1976年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

江藤 省三(えとう しょうぞう、1942年4月29日 - )は、熊本県熊本市出身のプロ野球選手内野手)。プロ野球選手および監督の江藤愼一は実兄。

2014年は6月まで慶應義塾大学野球部の助監督[1]2009年から2013年まで監督を務めていた。

来歴・人物

プロ入り前

八幡製鐵の社員の息子として生まれる。5歳から宇城市で過ごし、西部中学校から熊本商業高校へ進学。その後は中京商業高校へ転校し、1961年甲子園に春夏連続出場。春の選抜は1回戦で小倉工に惜敗[2]夏の選手権は準々決勝で、この大会に優勝した浪商のエース尾崎行雄らに抑えられ、完封負けを喫する[3]。秋の秋田国体では決勝で報徳学園を下し、優勝を飾る。高校同期に山中巽相羽欣厚、1年下に林俊彦木俣達彦がいた。

卒業後は慶應義塾大学へ進学。東京六大学リーグでは3度優勝、1963年全日本大学野球選手権大会でも渡辺泰輔を擁し優勝を飾る。1965年にはマニラで開催された第6回アジア野球選手権大会(東京六大学選抜チームが日本代表)に出場、日本の優勝に貢献している。リーグ通算48試合出場、173打数45安打、打率.260、3本塁打、8打点。1964年春季リーグから4季連続ベストナイン(二塁手)。大学同期に広野功がいる。

プロ野球時代

1965年のドラフト3位で読売ジャイアンツに入団。好打好守の二塁手として期待されたが、土井正三の壁を破れず出番は少なかった。1969年中日ドラゴンズに移籍。ここにも高木守道がおりレギュラーは掴めなかったが、代打の切り札として存在感を示し、1972年には打率3割に達している。1974年のリーグ優勝に貢献。同年の日本シリーズでも、5試合に代打として起用されたが無安打に終わった。1976年限りで現役引退。

1981年、大学の先輩でもある藤田元司監督要請を受け、一軍内野守備コーチとして巨人のユニフォームに再び袖を通し、1984年退団。以降はスカウトなども歴任し、1990年から1992年にも再び藤田の下で一軍守備コーチを務めた。1995年から1996年まで千葉ロッテマリーンズの一軍守備コーチ(1996年はヘッドコーチ)を務めた。検査入院の為欠場した監督の江尻亮の監督代行を2試合務めた[4]

2003年には横浜ベイスターズのヘッドコーチに就任したが、同年成績不振の責任を取り、シーズン途中から二軍監督となり、同年限りで退団。

解説者・アマチュア野球指導者への転身後

その後はRFラジオ日本NHK・BSの大リーグ中継で野球解説、神奈川県のクラブチーム「横浜ベイブルース」の監督兼GMとして野球の普及活動を行っていた。また、東京中日スポーツ紙上で「コラム・野球教室」を担当していた。

2009年12月から、慶應義塾大学野球部に監督として復帰[5]。任期は4年で、同部の監督では初めてのプロ野球出身者であった。東京六大学野球の春季リーグ戦では、最初のシーズンであった2010年から2年連続で優勝。2011年6月11日の全日本大学野球選手権大会では、大会史上初のプロ出身監督対決になった東京国際大学(監督:古葉竹識)との準決勝を6-4で制した。

慶大監督在任中には、2012年プロ野球ドラフト会議の1巡目指名で阪神タイガースへ入団した伊藤隼太(2011年度主将)を皮切りに、3年連続で部員からプロ野球選手を輩出(2013年福谷浩司中日ドラゴンズからドラフト1位指名で入団、2014年白村明弘北海道日本ハムファイターズからドラフト6位指名で入団)。2012年には、同部史上初めての女子選手として、入部したばかりの川崎彩乃を投手で登録している。しかし、任期が満了した2013年11月に、監督の座を助監督の竹内秀夫に譲る格好でいったん退任した。

江藤は、2014年1月20日付で日本学生野球連盟から(プロ野球経験者による高校生への指導に必要な)学生指導資格の回復を認められたため、同年春からは慶應義塾各高校の野球部を統括する「総監督」として高校球児を指導する予定だった。しかし、竹内は大学監督への就任直後から、内臓疾患で長期にわたって入院。現場復帰の目途が立たないことから、大学では2014年2月28日に、江藤が同年の東京六大学野球の春季リーグ戦期間中に再び大学の野球部を指揮することを発表した。ただし、竹内が現場への復帰を前提に監督職へとどまったため、東京六大学野球連盟には竹内の代理扱いで江藤を「助監督」として登録。春季リーグ戦が終了する6月末までの指導で[1]、そのリーグ戦では、チームを6季ぶり・通算34度目の優勝に導いた[6]。江藤の後任の助監督には高多倫正が就任した[7](なお、竹内は現場復帰が叶わず、監督退任後の2015年8月5日に死去)。

2015年より社団法人若葉ゴールド・ベースボール・アカデミーの総監督として、千葉市の青少年に真正ベースボール指導を通した進学指導を行っている。

人物

激しい気性で知られた兄・愼一とは反対に、温厚な人柄。ゴルフの腕前はプロ級とのこと。

2010年には、2008年に逝去した愼一の野球殿堂入り(エキスパート部門での選出)が決まったため、7月23日のオールスター第1戦福岡Yahoo!JAPANドーム)試合前の野球殿堂入り表彰式に省三が出席している。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1966 巨人 14 23 23 0 3 0 0 0 3 1 0 0 0 0 0 0 0 2 1 .130 .130 .130 .261
1967 2 2 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000 .000 .000 .000
1968 1 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000 .000 .000 .000
1969 中日 34 30 28 6 7 0 0 2 13 7 0 2 0 0 2 0 0 5 2 .250 .300 .464 .764
1970 34 74 65 10 18 2 0 1 23 3 2 1 6 0 3 0 0 10 3 .277 .309 .354 .663
1971 58 98 84 5 23 4 1 1 32 4 2 1 7 0 7 0 0 8 2 .274 .330 .381 .711
1972 77 125 108 7 33 4 0 2 43 16 0 0 2 2 12 2 1 11 2 .306 .374 .398 .772
1973 84 139 127 6 35 5 0 3 49 19 0 0 3 0 7 0 2 16 7 .276 .324 .386 .709
1974 78 78 69 1 18 1 0 1 22 9 0 0 3 0 6 0 0 6 5 .261 .320 .319 .639
1975 70 72 61 4 17 1 0 2 24 6 0 0 2 1 8 1 0 8 0 .279 .357 .393 .751
1976 12 11 9 1 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 1 0 0 1 0 .000 .100 .000 .100
通算:11年 464 653 577 40 154 17 1 12 209 65 4 4 24 3 46 3 3 67 22 .267 .323 .362 .685

背番号

  • 22 (1966年 - 1967年)
  • 33 (1968年)
  • 28 (1969年 - 1976年)
  • 83 (1995年 - 1996年)
  • 82 (2003年)

関連情報

出演

脚注

  1. ^ a b 高校生指導の予定が…慶大 江藤氏「代行監督」を発表”. スポーツニッポン (2014年2月28日). 2014年8月14日閲覧。
  2. ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
  3. ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
  4. ^ 日本プロ野球平成の名将 - 1989-2012、2012年、ベースボール・マガジン社、P101
  5. ^ 慶大・江藤新監督ヤル気満々 (『スポーツニッポン』2009年11月11日付記事)[リンク切れ]
  6. ^ 慶大V江藤助監督、竹内監督へ「恩返し」”. 日刊スポーツ (2014年6月2日). 2014年8月14日閲覧。
  7. ^ 春優勝の慶大、秋は高多倫正氏が監督代行”. 日刊スポーツ (2014年8月2日). 2014年8月14日閲覧。

関連項目

外部リンク