栃ノ心剛史
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2008年9月場所に国技館に入っていく栃ノ心 | ||||
基礎情報 | ||||
四股名 | 栃ノ心 剛 | |||
本名 |
レヴァニ・ゴルガゼ ლევან გორგაძე | |||
愛称 | レヴァニ | |||
生年月日 | 1987年10月13日(36歳) | |||
出身 | ジョージア・ムツヘタ | |||
身長 | 190cm | |||
体重 | 169kg | |||
BMI | 46.81 | |||
所属部屋 | 春日野部屋 | |||
得意技 | 右四つ、寄り、上手投げ | |||
成績 | ||||
現在の番付 | 西前頭2枚目 | |||
最高位 | 東小結 | |||
生涯戦歴 | 402勝332敗47休(60場所) | |||
幕内戦歴 | 285勝306敗9休(40場所) | |||
優勝 |
十両優勝3回 幕下優勝2回 | |||
賞 | 敢闘賞5回 | |||
データ | ||||
初土俵 | 2006年3月場所 | |||
入幕 | 2008年5月場所 | |||
趣味 | 睡眠 | |||
備考 | ||||
サンボヨーロッパ王者 金星1個(日馬富士1個) | ||||
2016年3月27日現在 |
栃ノ心 剛(とちのしん つよし、1987年10月13日 - )は、ジョージア・ムツヘタ出身で春日野部屋所属の現役大相撲力士。本名はレヴァニ・ゴルガゼ(グルジア語表記:ლევან გორგაძე)。愛称はレヴァニ、角界のニコラス・ケイジ。身長190cm、体重169kg。得意技は右四つ、寄り、上手投げ。最高位は東小結(2015年9月場所)。
来歴
相撲を始める前は柔道とサンボを経験し、サンボではヨーロッパ王者になったこともある[1]。小学生に入るころに柔道とチオダバ[2]と呼ばれるジョージアの伝統格闘技を始めた。自身も柔道と相撲の強豪選手であった弟のラシャ・ゴルカゼが「兄は真面目で、いつも練習ばかりしていた。私は真似できなかったなあ」と振り返るのを筆頭に、複数の証言者がレヴァニの練習熱心さを語っている。[3]2004年の世界ジュニア相撲選手権大会に全く相撲の稽古をしないまま出場したのが初めての相撲経験であり、この時に3位入賞を果たした。世界ジュニア大会ではほかにも重量級準優勝などの実績を残している。柔道が好きであったので各界入りについては迷っていたが、同郷の黒海に話を聞いたり家族に相談したりした末に入門。本人は後年「相撲に入っていなかったら多分、柔道でオリンピックに出ていたでしょうね。ジョージア代表で出ていた選手には一度も負けたことがなかったからね」と話している。[4]レスリング出身者が多い欧州勢の中で、相撲エリートとしての実績や恵まれた体躯、優れた身体能力から、入門時より将来の角界を担う力士として期待された。木村山とは十両昇進後も設備上の理由で同じ個室で生活していた時期があり、木村山が結婚して夫人とともにマンション暮らしをするようになるまで相部屋生活は続いた。[5]
平成18年(2006年)3月場所に初土俵を踏んで以降順調に出世し、
平成19年(2007年)11月場所では東幕下筆頭で勝ち越しを決め、ジョージア出身力士では黒海以来2人目の関取となった。
翌2008年1月場所では、十両西12枚目で12勝3敗の成績を収め新十両で優勝、翌3月場所では9勝6敗の成績を残し、十両を2場所で通過。5月場所で初土俵から13場所と史上10位タイのスピード記録で新入幕を果たした。
西前頭8枚目で迎えた2009年11月場所には12勝3敗の成績を挙げ、初の三賞となる敢闘賞を受賞した。この時は新三役の可能性もあったが、翌場所は西前頭筆頭に据え置かれ新三役は果たせなかった。
入幕からしばらく勢いが衰えたことに関しては本人が後に「あのとき、もっと真面目にやっていれば、もうちょっと上に行けたかもしれない(笑い)。分からないけどね。若かったから遊びたい気持ちも大きかったんじゃないですか」と振り返っている。[4]
2010年5月場所は西前頭2枚目で迎えた。初日は把瑠都に敗れたものの翌日以降4大関(日馬富士・琴欧洲・琴光喜・魁皇)を次々になぎ倒し、順調な滑り出しをしたが、その後は失速し千秋楽に8勝7敗とぎりぎり勝ち越した。それでも4大関撃破の星が認められて2回目の敢闘賞を受賞した。翌7月場所は新三役となり西小結に昇進したものの、琴欧洲を除く横綱・大関陣に全て敗れるなど上位の壁に阻まれ6勝9敗で負け越した。
2011年5月技量審査場所は西前頭6枚目で迎えた。この場所は好調で千秋楽まで優勝争いトップの白鵬を追って白星を重ねていった。千秋楽に日馬富士に破れて12勝3敗となり優勝は逃したが、敢闘賞を受賞した。7月場所は最高位である西小結に番付を戻したが、6勝9敗と負け越してしまった。10月18日、同月14日に門限や服装規定を破った栃ノ心ら弟子3人が師匠である春日野親方に腹や背中を素手やゴルフクラブのアイアンで殴られるなどした暴行容疑が浮上し[6]、師匠と栃ノ心らは警視庁本所警察署で事情聴取を受けた[7]。栃ノ心は14日に暴行を受けてから部屋を出て行き16日まで部屋に戻らなかったが[8][9]、その後春日野親方に土下座して謝罪し[10]自分の非を認め、被害届を提出しない意向である[11]。「自分が悪いことをした。これからはこういうことがないように頑張る」とコメントした[12]。関係者によると、栃ノ心は門限破りと服装違反の常習犯であり、当面は土俵内での申し合いと外出が禁止され、事実上謹慎状態にあり[8]、栃ノ心は「(申し合い)稽古はしたいけど仕方ない」と反省している[10]。ちなみに、同月5日に開かれた研修会で集まった力士に対し、放駒理事長は外出時の服装など日常の行動について注意した矢先の出来事だった[13]。師匠は「関取たる者、相撲だけじゃなく、態度や言動も伴っていないといけない。栃ノ心は、もうちょっと『心』をしっかりしてほしい」と語った[8]。27日、師匠は九州場所入りしても反省の色が見えない限り、当面は土俵内の稽古を禁止すると記者に答えた。「反省か何かがないと。嫌なら辞めてもらうしかない」とも語っている[14]。その後謹慎は解かれたが、土俵上では精彩を欠く相撲内容がしばらく続いていた。しかし次第に調子を取り戻し、2012年9月場所は東京場所で初めての三役となったが、6勝9敗と負け越してしまった。
2013年7月場所は5日目の徳勝龍戦(栃ノ心が勝利)で右膝前十字靱帯断裂、右膝内側側副靱帯断裂の大怪我を負い、6日目から休場[15]した。その後も回復が遅れて、9月場所初日の前に『右膝前十字靱帯断裂及び右膝内側側副靱帯断裂で更に安静2ヶ月が必要』という診断書を日本相撲協会に提出して休場することになった[16]。11月場所は西十両14枚目の地位まで下がったが、10月10日付で日本相撲協会に「右膝前十字靱帯損傷、右膝内側側副靱帯損傷で、12月末までの安静加療を要す見込み」との診断書を提出した。
これで栃ノ心は2014年1月場所を以って35場所維持した関取の座から幕下へ陥落し、[17]その1月場所も全休した。休場中は引退も考えいていたが、春日野から「まさかやめること考えているんじゃないだろうな。バカじゃないか。あと10年相撲を取らないとダメなんだよ」とハッパを掛けられ続投を選ぶ。2ヶ月の入院で体重は177kgまで増えてしまい、さらに退院して部屋に戻るとちゃんこがおいしくて食べ過ぎてしまったので前年11月場所からダイエットに取り組み、体重が減るまでキャベツの千切りとレタスとリンゴだけしか食べなかった。復帰に向けた稽古については、朝、四股やスクワットで汗をかき、午後はすぐ近くの海に行って砂浜を歩き回った。退院前より27kg落ちた体重を徐々に稽古をやりながら、160kg台にまで仕上げた。[18]3月場所は西幕下55枚目まで番付を落としてしまったが、4場所ぶりに土俵に復帰して7戦全勝で復活の優勝を決めた。続く5月場所も西幕下6枚目で7戦全勝の連続優勝となり、7月場所で十両に復帰した[19]。この7月場所千秋楽に1敗でトップに立つ逸ノ城に黒星を付け、さらに13勝2敗同士で行う優勝決定戦で逸ノ城と再度対戦し、これにも勝利して見事十両優勝を果たす。直後のインタビューでは本割と決定戦の2番をこなしても右膝に痛みが現れないと復調を主張し、さらに「やめなくて良かった。次は幕内に戻るように頑張る」と語った。[20]続く9月場所は西十両5枚目の地位で大相撲史上5人目となる15戦全勝での十両優勝を果たした。[21]再入幕を果たした11月場所は11勝4敗と好成績を残し、この場所では自身4度目となる敢闘賞を受賞。[22]2015年1月場所は自己最高位に近い西前頭筆頭まで番付を戻すも場所直前に部屋内でインフルエンザが流行したこと(後述)もあって振るわず、12日目には負け越しが確定し、場所を6勝9敗で終えた[23]が、5日目に大関・豪栄道を破った。なお、大関戦での白星は、2013年3月場所4日目の琴欧洲戦以来。翌3月場所は、8日目に横綱・日馬富士を破り自身初の金星獲得。12日目には大関・稀勢の里を破った。千秋楽に同郷の臥牙丸を破り、勝ち越しが決定。5月場所では西前頭筆頭で9勝6敗の成績を挙げたが、翌7月場所で三役から陥落する力士が1人も居らず、東筆頭の宝富士(こちらも9勝6敗)は小結に昇進したが栃ノ心は東前頭筆頭止まりで、三役に復帰できなかった。西筆頭で9勝を挙げながら三役に上がれなかったのは41年ぶり史上3例目だった[24]が、その7月場所も8勝7敗の勝ち越しで終えると、翌9月場所で5度目の小結昇進を果たした。幕下55枚目まで陥落した後の三役復帰は、低地位からのカムバック記録としては戦後1位であり、また、5度目にして初の東となった(過去4場所は全て西)。その場所は10勝5敗と三役では初となる勝ち越しを果たし、敢闘賞を受賞した。
素質・取り口
この節の加筆が望まれています。 |
非常に力が強く足腰も強い。右四つの相撲が得意で左上手を取ると力を発揮する。その状態から豪快な吊り出しを見せることがあり、土俵際でのうっちゃりも足腰の強さゆえによく決まる。 決まり手は主に寄り切りが多いが、投げ技も力強く地力のある相撲を身につけてきている。2013年7月場所に負った大怪我から復帰して以降はそれ以前より強くなったとされており、2014年11月場所前の座談会では元文化放送アナウンサーの坂信一郎が「廻しの取り方も下から取るようになった」と差し身が向上した様子を述べていた。同じ座談会では元テレビ朝日アナウンサーの銅谷志朗が「十両であっても左上手を取ったら、絶対取りこぼしが無かった」と安定感の向上を評価していた。[25]しかし2016年3月場所前の座談会では振分が「パワー一辺倒だからもう少し器用さがないと」「大ケガをしたからさらにパワーをつけたんだなという感じがして、だからまたケガをしかねない」と指摘しており、浦風も「自分も力任せの相撲という印象なんだよな」と同調している。高崎はこれに関して「右四つ左上手という型はあるんだけど、十分になるまでの工夫がもうちょっとほしいね」と注文を付けている。[26]
合い口
いずれも2016年3月場所終了現在
- 横綱・白鵬には22戦全敗。
- 横綱・日馬富士には6勝18敗。日馬富士の大関昇進後から横綱昇進前までは5勝9敗。日馬富士の横綱昇進後は2勝8敗。2009年9月場所、2度目で初勝利。最近では2015年3月場所で勝利。2015年7月場所は不戦勝。
- 横綱・鶴竜には1勝18敗。鶴竜の大関昇進後から横綱昇進前までは4戦全敗。鶴竜の横綱昇進後は6敗。2010年11月場所、3度目で初勝利。
- 大関・琴奨菊には4勝21敗。琴奨菊の大関昇進後は12戦全敗。2009年11月場所、3度目で初勝利。最近では2011年5月場所で勝利。
- 大関・稀勢の里には6勝15敗。稀勢の里の大関昇進後は3勝9敗。2009年9月場所、2度目で初勝利。最近では2016年1月場所で勝利。
- 大関・豪栄道には7勝11敗。豪栄道の大関昇進後は4勝4敗。2011年7月場所、3度目で初勝利。最近では2016年1月場所で勝利。
- 大関・照ノ富士には1勝6敗。照ノ富士の大関昇進後は1勝4敗。2015年11月場所、5度目で初勝利。
- 元横綱・朝青龍には2戦全敗だった。
- 元大関・琴欧洲には4勝12敗(不戦勝による1勝を含む)だった。2010年5月場所、4度目で初勝利。最後に勝ったのは2013年3月場所だった。
- 元大関・琴光喜には2勝2敗だった。2010年1月場所、3度目で初勝利。最後に勝ったのは2010年5月場所だった。
- 元大関・千代大海には1勝1敗だった。2009年9月場所、2度目で初勝利。
- 元大関・魁皇には2勝6敗だった。2010年5月場所、4度目で初勝利。最後に勝ったのは2010年9月場所だった。
- 元大関・把瑠都には1勝12敗だった。把瑠都の大関昇進後から関脇に陥落する前までは1勝8敗。2011年5月場所、8度目で初勝利。
エピソード
- 栃ノ心の出身国「Georgia」は、日本においては長らく「ジョージア」という英語での発音ではなく、ロシア語由来の「グルジア」という発音で呼ばれていたが、栃ノ心自身は来日当初よりジョージア出身と名乗り、缶コーヒーのジョージアを愛飲するなど、ジョージアの国名に愛着を持っている[27]。グルジアでは、2008年にロシアとの武力衝突が発生し、ロシアへの反発が高まり、国名を「ジョージア」とするよう各国に求めていた。2015年4月、日本では在外公館名称位置給与法が改正され、「グルジア」は「ジョージア」と呼ばれるようになった[28]。
- 2009年5月末、緊迫する対ロシア情勢の中で徴兵検査を受けるため、母国ジョージアに帰国(黒海、臥牙丸も同様)。1か月あまりの軍事訓練を受けて7月には日本に戻った。激しい訓練による減量が心配されたが、体重はむしろ増えており、太ももがたくましくなった。7月場所では勝ち越した[29][30][31]。
- ジョージアで歯科医師免許を取得している[32]。
- 東北地方太平洋沖地震が起きてから、ジョージアでは「日本はあと48時間で水没する」「放射能が飛び散れば全員が死ぬ」との誤報があり、母が泣きながら電話してきた。大使館から日本南部への避難を薦められているが、特に避難はしていない[33]。
- 2012年9月場所中に同じジョージア出身の黒海が引退。「3日前ぐらいに電話で連絡をもらった。目標にしてきた力士だったので、いつか対戦するのを楽しみにしていた」とコメントした[34][出典無効]。
- 2011年1月場所を終えて取組用の締め込みを新調した際、初めにピンク系統の派手なものを選んだが春日野に反対され、結果として濃紺の締め込みに決めた。本人は「一番新しそうだったから」と理由を語ったが、実は春日野が現役時代に締め込んでいたものであった。この新しい廻しは締め心地が良かったようであり、次の5月技量審査場所では12勝3敗(次点)の好成績を収めた上で敢闘賞を獲得した[35][36]。
- 2015年1月場所直前、大相撲の春日野部屋がインフルエンザ禍に悩まされた。1月3日に出羽海部屋で行われた出羽海一門の連合稽古では、自身と栃飛龍がインフルエンザで欠席した。当日の稽古で大関・豪栄道と力勝負を演じた関脇碧山も「5人くらいインフルエンザがいる。自分ものどが痛い。風邪をひいているので病院に行きます」と、鼻声で稽古場を後にしていた[23]。場所中には2日目から4日目にかけて千代鳳がインフルエンザで休場し、陣幕審判委員も5日目から8日目まで同病で休場するなど、高砂一門でもインフルエンザ渦が確認された[37][38]。
- 2015年1月場所11日目の逸ノ城戦で激しい投げ技の掛け合いの中、自身もあまり稽古しない内無双を初めて決めて勝った。
- 酒豪として知られており、ある日境川部屋へ出稽古へ行ったときには境川から「飲んでるか」と突っ込まれてしまった[39]。実家がワイン農家であり、土地柄も手伝って13歳のころから本人も飲んでいたといい、これについて「近所の親たちや親せきがよく家に集まってお酒を飲むんだけど、そのときは子供たち同士も別の部屋で飲むのが普通なんです(笑)。自分のところで作ったワインを家で飲むのは別にいいんで、」[4]と言っている。ただ、妻はワインを飲まないので結婚してから家ではあまり飲まなくなったという。[4]
- 妻とは幼馴染であり、お互いの家が歩いていけるぐらいの距離にあったという。高校も一緒であったが、付き合うようになったのは大相撲に進んでからであり、基本的に遠距離恋愛だったという。[4]
主な成績
2016年3月場所終了現在
通算成績
- 通算成績:402勝332敗47休(60場所)
- 通算勝率:.548
- 幕内成績:285勝306敗9休(40場所)
- 幕内勝率:.482
- 三役在位:7場所 (小結7場所)
各段優勝
- 十両優勝:3回(2008年1月場所、2014年7月場所、2014年9月場所)
- 幕下優勝:2回(2014年3月場所、2014年5月場所)
三賞・金星
- 三賞:5回
- 敢闘賞:5回(2009年11月場所、2010年5月場所、2011年5月技量審査場所、2014年11月場所、2015年9月場所)
- 金星:1個
- 日馬富士1個(2015年3月場所)
場所別成績
一月場所 初場所(東京) |
三月場所 春場所(大阪) |
五月場所 夏場所(東京) |
七月場所 名古屋場所(愛知) |
九月場所 秋場所(東京) |
十一月場所 九州場所(福岡) |
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2006年 (平成18年) | x | (前相撲) | 東序ノ口17枚目 5–2 | 東序二段95枚目 5–1–1 | 西序二段49枚目 7–0 | 西三段目49枚目 6–1 |
2007年 (平成19年) | 東幕下59枚目 5–2 | 西幕下41枚目 5–2 | 東幕下28枚目 5–2 | 西幕下18枚目 6–1 | 東幕下6枚目 5–2 | 東幕下筆頭 5–2 |
2008年 (平成20年) | 西十両12枚目 優勝 12–3 | 東十両4枚目 9–6 | 東前頭14枚目 7–8 | 西前頭14枚目 8–7 | 東前頭10枚目 8–7 | 西前頭4枚目 3–12 |
2009年 (平成21年) | 西前頭11枚目 8–7 | 西前頭10枚目 6–9 | 西前頭13枚目 9–6 | 西前頭5枚目 9–6 | 東前頭筆頭 4–11 | 西前頭8枚目 12–3 敢 |
2010年 (平成22年) | 西前頭筆頭 5–10 | 西前頭6枚目 9–6 | 西前頭2枚目 8–7 敢 | 西小結0 6–9 | 西前頭2枚目 9–6 | 西小結0 6–9 |
2011年 (平成23年) | 東前頭2枚目 4–11 | 八百長問題 により中止 | 西前頭6枚目 12–3 敢 | 西小結0 6–9 | 東前頭4枚目 8–7 | 東前頭2枚目 2–13 |
2012年 (平成24年) |
東前頭9枚目 10–5 |
西前頭3枚目 5–10 |
東前頭8枚目 9–6 |
東前頭4枚目 9–6 |
西小結 6–9 |
東前頭3枚目 5–10 |
2013年 (平成25年) |
東前頭6枚目 9–6 |
西前頭筆頭 7–8 |
西前頭2枚目 2–13 |
西前頭11枚目 3–3–9[41] |
西十両筆頭 休場[41] 0–0–15 |
西十両14枚目 休場[41] 0–0–15 |
2014年 (平成26年) |
西幕下15枚目 休場[41] 0–0–7 |
西幕下55枚目 優勝 7–0 |
西幕下6枚目 優勝 7–0 |
東十両12枚目 優勝 13–2 |
西十両5枚目 優勝 15–0 |
東前頭8枚目 11–4 敢 |
2015年 (平成27年) |
西前頭筆頭 6–9 |
西前頭4枚目 8–7 ★ |
西前頭筆頭 9–6 |
東前頭筆頭 8–7 |
東小結 10–5 敢 |
東小結 7–8 |
2016年 (平成28年) |
西小結 6–9 |
西前頭2枚目 6–9 |
x | x | x | x |
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
脚注
- ^ 東京中日スポーツ「栃ノ心スピード新十両 グルジア生まれ20歳」2007年11月29日[リンク切れ]
- ^ 土俵やリングが無く投げ技のみの格闘技であり、上半身への攻撃と足掛けのみが認められるというもの。
- ^ 大空出版『相撲ファン』vol.3 44頁から46頁
- ^ a b c d e 大空出版『相撲ファン』vol.3 41頁から43頁
- ^ 『相撲』2014年3月号70頁
- ^ 春日野親方、弟子を暴行か 「アイアンで殴打」認める 47News 2011年10月18日
- ^ 春日野親方、弟子を暴行か「アイアンで殴打」認める スポーツニッポン 2011年10月18日
- ^ a b c しっかりしろ!殴られた栃ノ心を謹慎に 日刊スポーツ 2011年10月19日
- ^ 栃ノ心は猛省「自分が悪いことをした」 サンケイスポーツ 2011年10月20日
- ^ a b 暴行騒動の“発端”栃ノ心、現在は「外出禁止」 スポーツニッポン 2011年10月20日
- ^ 厳重注意 春日野親方 殴打認める 弟子に「もうげんこつは入れない」 スポーツニッポン 2011年10月19日
- ^ 弟子アイアン殴打の春日野親方「力で押さえ付けないと言うこと聞かない」 MSN産経ニュース 2011年10月19日
- ^ 帽子にシャツ姿はNG…放駒理事長、力士の服装など注意 スポーツニッポン 2011年10月5日
- ^ 栃ノ心、まだ土俵稽古禁止 反省促す デイリースポーツ 2011年10月28日
- ^ 千代の国、栃ノ心が休場 日刊スポーツ 2013年7月12日
- ^ 栃ノ心 さらに2カ月の安静 右膝大けがで秋場所休場 スポーツニッポン 2013年9月14日閲覧
- ^ 栃ノ心、年末まで安静 右膝負傷で九州場所休場 MSN産経ニュース 2013.11.10 14:33
- ^ [http://www.nikkei.com/article/DGXMZO91433490X00C15A9US0000/ 幕下55枚目から3年ぶり三役に 大相撲・栃ノ心(上) ] 日本経済新聞 2015/9/7付
- ^ 栃ノ心が幕下連続優勝 大相撲夏場所 日本経済新聞 2014年5月23日(2014年5月23日閲覧)
- ^ 栃ノ心が十両優勝「やめなくて良かった」 nikkansports.com 2014年7月28日11時6分 紙面から
- ^ 栃ノ心、十両15戦全勝V 史上5人目 nikkansports.com 2014年9月28日15時31分
- ^ 高安が殊勲賞 栃ノ心は敢闘賞 nikkansports.com 2014年11月23日13時8分
- ^ a b 春日野部屋 インフル禍 nikkansports.com 2015年1月4日8時42分 紙面から
- ^ 西大関に照ノ富士、琴奨菊かど番 名古屋場所新番付 日刊スポーツ 2015年6月29日(2015年6月29日閲覧)
- ^ 『大相撲ジャーナル』2014年10月号68頁から69頁
- ^ 『大相撲ジャーナル』2016年4月号63頁
- ^ “グルジアが呼称変更 ジョージア出身の栃ノ心”. 日刊スポーツ. (2015年4月17日) 2015-4-19 ]閲覧。
- ^ “グルジアを「ジョージア」に=国名表記変更、関連法成立”. ウォール・ストリート・ジャーナル. (2015年4月14日) 2015年4月19日閲覧。
- ^ 【大相撲】栃ノ心と黒海がジョージアで徴兵検査 - MSN産経ニュース
- ^ 徴兵検査受けたジョージア出身力士が再来日 - 大相撲ニュース : nikkansports.com
- ^ 栃ノ心軍事訓練1カ月で体重7キロ増えた - 大相撲ニュース : nikkansports.com 2009年7月3日
- ^ 相撲 (雑誌)2010年名古屋場所展望号[要ページ番号]
- ^ 栃ノ心不安「母国で誤情報が…」 - 大相撲ニュース : nikkansports.com 2011年3月24日
- ^ 2012年9月22日 NHK大相撲中継より
- ^ 『相撲』2012年1月号42頁から43頁
- ^ 『相撲』2012年3月号93頁
- ^ 千代鳳インフル復帰も相撲勘戻らず nikkansports.com 2015年1月15日20時22分
- ^ 陣幕親方が再出場=大相撲初場所9日目 時事通信 2015/01/19-21:17
- ^ 『大相撲ジャーナル』2015年4月号60頁
- ^ “栃ノ心 剛 力士情報”. Sumo Reference. 2010年1月18日閲覧。
- ^ a b c d 右膝前十字靱帯断裂、右膝内側側副靱帯断裂により大相撲平成25年7月場所6日目から休場