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松永久秀

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松永久秀
「弾正忠松永久秀」『芳年武者牙類』のうち
月岡芳年筆 明治16年(1883年
時代 戦国時代
生誕 永正7年(1510年?)
死没 天正5年10月10日1577年11月19日
改名 久秀、道意(号)
別名 霜台、松永弾正(通称
戒名 妙久寺殿祐雪大居士
墓所 奈良県王寺町達磨寺
京都府京都市下京区の妙恵会墓地
奈良県生駒郡三郷町
官位 従四位下弾正忠山城守弾正少弼
幕府 室町幕府相伴衆
主君 三好長慶義継織田信長
氏族 松永氏(自称藤原氏源氏
兄弟 久秀長頼
正室:三好長慶の娘
側室:小笠原成助の娘
久通、長女(伊勢貞良室)
養子:永種
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松永 久秀(まつなが ひさひで)は、戦国時代武将大和国戦国大名。官位を合わせた松永弾正(まつなが だんじょう)の別名でも知られている。出身地は山城国とも播磨国ともいわれる。父は不明。弟に長頼、嫡男に久通、養子に永種貞徳の父)。

初めは三好長慶に仕えたが、やがて三好家中で実力をつけ、長慶の死後は三好三人衆と共に第13代将軍足利義輝永禄の変で殺害し、畿内を支配した。しかし織田信長が義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛してくると、信長に降伏して家臣となる。その後、信長に反逆して敗れ、文献上では日本初となる爆死という方法で自害した。一説には、永禄の変や、東大寺大仏殿焼失の首謀者などとも言われる。

北条早雲斎藤道三と並んで日本三大梟雄とも評されるが、信貴山城近郊の人々からは、連歌や茶道に長けた教養人であり、領国に善政を敷いた名君として、現在でも知られている。

生涯

出自

永正7年(1510年)に生まれとされるが、前半生には不明な点が多く確証はない。出身については、阿波国・山城国西岡(現在の西京区[1]摂津国五百住の土豪出身など諸説があり、一説には学識と文化的素養の高さから祐筆として頭角を現したことから寺小姓あがりで、三好長慶の寵童であった説や、久秀と同世代の斎藤道三が同じような人生を歩んでいることから、商人出身という説もある。俗説では久秀と道三は旧知の仲だったとされる[2]

長慶の寵臣時代

三好長慶像/大徳寺・聚光院蔵

天文9年(1540年)から細川氏の被官・三好長慶右筆(書記)として仕える[3]。天文11年(1542年)には三好軍の武将として山城南部に在陣した記録があり、この頃には武将としての活動も始めていたようである[4]

天文18年(1549年)、長慶が細川晴元足利義輝らを追放して京都を支配すると、長慶に従って上洛し、三好家の家宰となり、弾正忠に任官し、弾正忠の唐名である「霜台」(そうだい)を称する(霜台を称したのは永禄3年からともされる)[5]。長慶は後に自分の娘を久秀に嫁がせている。

天文20年(1551年)には、細川晴元方の三好政勝香西元成らを攻めて打ち破っている。

その後、長慶に従い幕政に関与するようになり、長慶が畿内を平定した天文22年(1553年)に摂津滝山城主に任ぜられる[6]。同年9月には波多野晴通を攻め、波多野氏の援軍に訪れた三好政勝・香西元成の軍と再び戦っている。この頃、久秀は長慶と「相住」の関係(『厳助大僧正記』)にあり、長慶の側近として特に重用されていた[7]。弘治年間には奉行にも任命されており[8]永禄2年(1559年)8月8日、大和信貴山城に移って居城とする。なお、永禄3年(1560年)11月に四階櫓の天守閣を造営したという[9]。同年からは六角氏への対応のため、三好軍の主力を率いて、しばしば交戦している。

永禄3年(1560年)には興福寺を破って大和一国を統一する一方、長慶の嫡男・三好義興と共に将軍・足利義輝から相伴衆に任じられ、2月4日に従四位下弾正少弼に叙位・任官[10]永禄4年(1561年)1月28日には従四位下に昇叙されると、2月4日にそれまで称していた藤原氏から源氏を称するようになった。また2月1日には、足利義輝から桐紋と塗輿の使用を許されたが、これは長慶親子と同等の待遇であり、既にこの頃には幕府から主君・長慶と拮抗する程の勢力を有する存在として見られていた事がわかる。

永禄5年(1562年)、多聞山城を築城し移り住んだ。同年5月には六角氏と京都付近で戦い(将軍地蔵山の戦い)、六角氏と結んだ河内国畠山高政を打ち破り(久米田の戦い教興寺の戦い)、紀伊国へ追放している(翌6月には六角氏と和睦)。9月、幕府政所執事の伊勢貞孝貞良父子を討伐した。永禄6年(1563年)12月14日、家督を嫡男・久通に譲ったが(厳助往年記)、隠居したというわけではなく、以後も前線で活躍する。

久秀が勢力を増加させていく一方で、主君・長慶は、弟の十河一存実休(義賢)、嫡男・義興の相次ぐ死去などの不幸が重なり、覇気を失くしていった。十河一存や義興については久秀による暗殺説もあるが、一存の死因は落馬、義興が病死とされている[11]

長慶の弟である安宅冬康の死去により[12]、三好家では久秀に並ぶ実力者は、阿波国で国主を補佐していた篠原長房のみとなる。これによって久秀は主家を凌駕する実力を持つに至った。永禄7年(1564年)に長慶が死没すると、しばらくは三好三人衆らと共に三好義継を担いで三好家を支えた。

畿内の覇権をめざして

永禄8年(1565年)、三好・松永の排除を狙う将軍・足利義輝を攻め滅ぼし(永禄の変)、さらにキリシタン宣教師を追放する[13]。 同年に弟・松永長頼が丹波国で敗死。

しかし、永禄9年(1566年)には、畿内の主導権をめぐり三好三人衆と対立するようになり、三好康長安宅信康らも三人衆側に加担し、三人衆が新たに担いだ足利義栄からも討伐令を出されるなど、三好家中で孤立してしまう。畠山高政と和して結び、根来衆とも連携するなど何とか勢力の挽回を図ろうとするも、永禄10年(1567年)には三好三人衆とその同盟者の筒井順慶と上芝で戦い(上芝の合戦)、両者の挟撃を受け松永・畠山軍は敗退。にまで落ち延び、ここも包囲されたために逃亡し、数ヶ月行方不明となり、摂津・山城の松永方の諸城は次々に落とされた。ところが、同年2月に三好三人衆のもとから三好家の当主である義継が久秀を頼って出奔してきたため、これを契機に勢力を盛り返し、信貴山城に復帰。同年10月10日、三好三人衆の陣である東大寺の奇襲に成功し、久秀は畿内の主導権を得た(東大寺大仏殿の戦い[14]。 このとき久秀が大仏殿に火を放ったとも言われるが、ルイス・フロイスの『日本史』によれば、この出火は三好方のキリシタンの放火によるものであると記述されている。

信長への臣従時代

織田信長像/神戸市立博物館蔵

永禄11年(1568年)9月、織田信長が上洛してくると、いちはやく降伏し、人質と名茶器といわれる「九十九髪茄子」を差し出して恭順の意を示したため、足利義昭の反対はあったものの、久秀の利用価値を認めた信長が義昭を説得し、幕府の直臣(名目上は信長の家臣ではなく、義昭の家臣)となり、大和一国を「切り取り次第」とされた。当時、大和国の有力国人はほとんどが筒井順慶に属していたが、次第にこれを攻略し、大和の平定を進めていく。同年12月24日には岐阜へ赴き、さらに「不動国行の刀」以下の諸名物を献上。

元亀元年(1570年)、信長の朝倉義景討伐に参加し、信長が妹婿・浅井長政の謀反で撤退を余儀なくされると、近江朽木谷領主・朽木元綱を説得して味方にし、信長の窮地を救っている(金ヶ崎の戦い)。また、同年11月から12月にかけて信長と三好三人衆の和睦交渉に当たり、久秀の娘を信長の養女とした上で人質に差し出して和睦をまとめている。

その後も、信長家臣として石山本願寺攻めに参加するが、次第に信長包囲網が形成されてゆくにつれて、将軍・足利義昭に通じたと見られる [15]

元亀3年(1572年)、ついに久秀は信長に対する叛意を明らかにし、三好義継らと組んで信長に謀反を起こした。しかし12月末に信長に降伏。1月には岐阜に来て信長に謁見している。以後、久秀は対石山本願寺戦の指揮官である佐久間信盛の与力とされたが、目立った動きは無い。

元亀4年(1573年)4月、包囲網の有力な一角である甲斐国の武田信玄が、西上作戦中に病死し、武田氏は撤兵[16]。信長包囲網は瓦解した。

最期

天正5年(1577年)に上杉謙信毛利輝元、石山本願寺などの反信長勢力と呼応して、本願寺攻めから勝手に離脱。信長の命令に背き、大和信貴山城に立て籠もり再び対決姿勢を明確に表した。信長は松井友閑を派遣し、理由を問い質そうとしたが、使者には会おうともしなかったという(信長公記)。

信長は、嫡男・織田信忠を総大将、筒井勢を主力とした大軍を送り込み、10月には信貴山城を包囲させ、所有していた名器・平蜘蛛茶釜を差し出せば助命すると命ずるが、久秀は拒絶した。このため、信長のもとに差し出していた2人の孫は京都六条河原で処刑された。織田軍の総攻撃が始まると、平蜘蛛を天守で叩き割り(一説には茶釜に爆薬を仕込んでの自爆)、10月10日に爆死した。享年68。

奇しくも10年前に東大寺大仏殿が焼き払われた日と同月同日であった。

官歴

※日付=旧暦

  • 年月日不詳、弾正少忠に任官。 
  • 年月日不詳、従五位下に叙す。
  • 永禄3年(1560年)2月4日、弾正少弼に転任。
  • 永禄4年(1561年)2月4日、従四位下に昇叙。弾正少弼如元。
  • 永禄12年(1569年
    • 3月28日、『言継卿記』に山城守の記事あり。
    • 4月3日、『多聞院日記』では、松少(松永弾正少弼の略)の記事あり。
    • 8月20日、『多聞院日記』では、松城州(松永城州=松永山城守)の記事あり。

人物・逸話

松永久秀像

三好家臣時代

  • 三好三人衆らと争っていた永禄9年(1566年)、日本で最初に降誕祭(クリスマス)を理由に休戦を命じた(あるいは応じた)という珍しい記録も残っている。
  • 多聞山城にいた頃、かつて三好長慶織田信長などの歴代の権力者を幻術で手玉に取った仙人果心居士を招き、「自分は戦場でも一度も恐怖を味わった事がない、そなたの術でわしを恐怖させてみよ」と豪語した。果心居士はこれに応じ、部屋の明かりを消し、人払いをさせた後、自身の姿を一人の女人の幽霊に姿を変えて久秀に近づいたという。外ではにわかに稲妻が走り、雷雨が落ちると久秀の顔も恐怖のあまり蒼白し、「分かった、もうやめよ」と声をあげた。実は、この女人の幽霊は(既にこの世を去っていた)妻であり、幽霊が消えたあとも、久秀の震えは止まらなかったという。
  • 天守を中心とした城郭建築の第一人者であり、天守および多聞作りを創始した人物とされている。城門と櫓を一体化させ防御力を向上させるという発想は、当時は非常に革新的であった。天守については近年、伊丹城に天守に相当する櫓が存在したことが判明し[17]、創始者が久秀であったことは否定されているが、外観上も威風堂々たる天守の創始者として伝えられた可能性がある。
  • ルイス・フロイスの『日本史』では永禄4年の久秀の権勢を「天下の最高の支配権を我が手に奪ってほしいままに天下を支配し、五畿内では彼が命令したこと以外に何事も行なわれないので、高貴な貴人たちが多数彼に仕えていた」と評している[18]
  • 久秀は三好家重臣として莫大な富を築いたが、その富は朝廷への献金など己の出世のために使ったという[19]。また永禄7年(1564年)3月16日には朝廷に対して改元を迫ったが、2日後の18日になっても返答が無く無視されたという[20]。なおその富で当時名器といわれた茶器を多数所持し、後の織田信長時代にも信長のもとで生き延びるために茶器を献上したという逸話もある[21]

織田家臣時代

  • 織田信長は通説では家臣に対して厳しい人物と言われるが、久秀への対応は甘かった。3度目の反逆でも茶釜「平蜘蛛」と引き換えに助命を考えていた節があり、信長が一目置く武将であったとの見方もある。また、前述の信長が語った久秀の「三悪事」に対し、信長自身も、主君に当たる織田大和守家の当主であった信友を暗殺し、将軍であった足利義昭を追放し、比叡山を焼き討ちにする等、久秀とまったく同じような所業を成している為、似た者同士、親近感を抱いていたのではないかという説もある[22]
  • 中風の予防のため、毎日時刻を決めて頭のてっぺんに灸をすえていた。自害の直前でさえ、灸の用意を命じ、部下から「この期に及んで養生もないでしょう」と言われたが、「いざ腹を切る時に、中風のせいで失敗したら(腹を切るに及んで)臆したと思われる。今までの武名が一時に廃れるではないか」と言って灸を据えさせた後、自害したという。

性格

  • ルイス・フロイスは『日本史』において「(久秀は)偉大なまた稀有な天びんをもち、博識と辣腕をもち、腕利きであるが、狡猾である」と評している[23]
  • 武将としての力量は当時高く評価され、宿敵・筒井氏の家老であった島清興関ヶ原の戦いの際に、「今時の諸侯は明智光秀や松永久秀のような果断にかけている」とぼやいたといわれる。
  • 領国では善政を敷いたとされる一方、年貢未進などの百姓を処罰するにあたっては、蓑を着せ、火を放ち、もがき苦しんで死ぬ様を「蓑虫踊り」と称して、楽しんで見物したとも伝えられ、彼の死を領内の民は、農具を売って酒にかえ、大いに祝ったとも口伝えられている [24]
  • 久秀は吝嗇(けち)な性質であったと、『足利季世記』にある。「松永は分別才覚、人にすぐれ、武勇は無双なり、諸人これを用ゆるといへども、天性やぶさかに生れついて、大欲深し」
  • 久秀は性技指南書を著しているが、医師の曲直瀬道三と親交が深かったため、閨房術の師が曲直瀬だったと言われている。

茶人としての松永久秀

子孫

  • 俳人の松永貞徳は久秀の孫という。儒学者の松永尺五は彼の曾孫に当たる。
  • 松永貞市-帝国海軍中将(太平洋戦争初期、マレー沖海戦で英東洋艦隊を壊滅させた航空隊指揮官)とその孫松永真理(NTTドコモのiモードの生みの親)は久秀の嫡男久通の子で筑前博多にて質屋を開業し豪商となったという松永彦兵衛(一丸)が先祖との事。
  • 爆笑問題太田光の妻、太田光代(旧姓 松永光代)も末裔である。[要出典]

家臣

墓所

達磨寺にある松永久秀の墓
  • 京都市下京区の妙恵会総墓地
  • 奈良県北葛城郡王寺町本町の片岡山達磨寺
  • 奈良県生駒郡三郷町に供養塔

注釈

  1. ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉212頁。
  2. ^ 道三も西岡出身で、天文年間に道三が守護代から土岐氏を乗っ取ったのが久秀の食指を動かしたのではないかとされる。『三好長慶』〈人物叢書〉212頁。
  3. ^ 年度に関しては長慶が家督を継いだ天文2年(1533年)か天文3年(1534年)とも。『三好長慶』〈人物叢書〉212頁。
  4. ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉213頁。
  5. ^ 言継卿記』では「内者弾正忠」と記され、『天文日記』では証如が久秀の存在を認めていた旨が記されている。『三好長慶』〈人物叢書〉213頁。
  6. ^ 滝山城主になったのは弘治2年(1556年)7月ともされる。『三好長慶』〈人物叢書〉214頁。
  7. ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉213頁。
  8. ^ 高台寺日記
  9. ^ (『多聞院日記』)『三好長慶』〈人物叢書〉214頁。
  10. ^ 歴名土台』『御湯殿上日記
  11. ^ 義興に関しては久秀の毒殺説もあるが(『足利季世記』)、一方で当時の史料である『続応仁後記』では「雑説」として否定されている。『三好長慶』〈人物叢書〉226頁。
  12. ^ 冬康の死に関しては久秀が病で半ば狂乱していた長慶に讒言して殺害に追い込んだとする説がある。『三好長慶』〈人物叢書〉229頁。
  13. ^ 理由は内裏から追放の詔勅が出たからだが、そう働きかけたのは久秀だった(フロイス日本史・25章より)。理由は、法華宗の「六条」という僧院(=おそらく本圀寺)の僧侶たちが、久秀にそう頼んで多額の金を送ったためである(同・32章)。後に織田信長によって宣教師が京に呼び戻された時には、「かの呪うべき教えが行き渡る所、国も町もただちに崩壊し滅亡するに至る事は、身共が明らかに味わった事である」と進言したが、信長に一蹴されている(同・34章)。ただし義輝がいた頃は久秀も布教の許可状を出していた事、六条の僧侶たちは始め「京にいる2人の宣教師を殺させようとして」いた事(どちらも32章)、当時の法華宗は京でかなり大きな力を持っていた事などから、久秀が個人的にキリシタンを嫌っていたのかは不明である。
  14. ^ しかし、この時点で松永勢に味方したのは根来衆や箸尾高春ら一部の勢力だけで、四国に強い地盤を持つ三好勢とは大きな勢力の開きがあり、この後に信長の後援を得るまでは、終始三好三人衆との戦いは劣勢であった。
  15. ^ 元亀2年(1571年)の時点で武田信玄から書状が送られており、この時点で既に信長に対する不穏な動きが見て取れる
  16. ^ なお、甲斐武田氏と松永氏の外交は元亀4年段階で確認され、武田氏では親族衆の一条信龍取次を務めており、大和国衆の岡氏を通じて交渉が行われている。
  17. ^ (『細川両家記』)『三好長慶』〈人物叢書〉214頁。
  18. ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉216頁。
  19. ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉217頁。
  20. ^ (『御湯殿上日記』)『三好長慶』〈人物叢書〉219頁。
  21. ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉219頁。
  22. ^ 信長は義昭を擁して上洛した際、義昭は兄の義輝暗殺の首謀者として誅殺するように命じたが信長は久秀を庇って助命に持ち込んだ。武田信玄の西上作戦で反逆した際も信長は所領の没収だけで許した。信長が反逆して許しているのは家督相続時に離反した柴田勝家(ただし勝家は1度)の他は久秀だけしかおらず、しかも久秀のように2度も許して3度目も許そうと使者を送った例は他に無い。
  23. ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉216頁。
  24. ^ 大和国を武家政権で支配しようとした久秀は長らく大和を支配してきた寺社勢力から非常に嫌悪されていたため、多聞院日記などに過分に悪人として描かれている部分も考慮する必要がある

参考文献

関連作品

小説
主役のもの
中心人物であるもの
関連書籍
  • 藤岡周三『戦国ドキュメント 松永久秀の真実』
  • 神坂次郎「ドンジョンのある風景」(『おかしな大名たち』)
  • 南条範夫桑田忠親「松永弾正久秀」(『日本史探訪 第15集』)
  • 海音寺潮五郎『悪人列伝 近世篇』
  • 谷晃「松永久秀の多門山城茶会」(『仮想茶会潜入記 時空を超えた茶人の彷徨』)
  • 会田雄次「松永久秀」(『歴史の京都6 悪党と奇人』)
歌舞伎
  • 『祇園祭礼信仰記』(悪役・松永大膳のモデル)
映画

関連項目

外部リンク